yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

古い手記から

                  一   

 

平成十年の夏、私は先祖代々住んできた萩市を後にして山口市に居を移した。その時古い桐箱を持ってきた。箱はすっかり変色して黒ずんでいた。箱蓋の右上に紙が貼ってあり、「梅屋七兵衛 毛利家御用にて長崎下向ノ一件書類 願書併勤功書」と墨書してある。「長崎下向ノ一件」とは曾祖父が慶應二年から三年にかけて、武器を調達するために長崎へ、さらに上海へまで行った事に関連したものである。箱にはこれとは関係の無い書簡など雑然と混じっていた。私はこれらの中から関係書類ではない一通の手紙(手記)を見つけて読んで見た。今回それについて少し書いてみようと思う。

 

「手記」は、大賀幾介(幾助とも綴る 号は大眉)という人物を中心に、彼と関係のある人たちが、維新前後に活躍した様子についてである。多くの人には何の興味もないかも知れない。しかし子供の頃から聞かされた話でもあって私は興味を覚えた。この手記を残した人は山本マサといって大賀大眉の二女である。

 

父は大谷(大屋)に生まれ本家の熊谷町の大賀家へ養子に行かれ長男市介が生まれましたが、養家に納まって居る人でなく、子の有る中を出て大谷に帰り、浜崎の村田家から私たちの母が嫁いで来られたのです。

大谷の大賀家は代々酒造家で父の両親がやって居られた。父の母は三浦観樹将軍の母堂の姉でしたが、中々しっかりしたお祖母さんでした。父は真面目に酒造などして居る人でなく、国中に奔走するため小畑の泉流山に行かれたらしいです。

其所(泉流山の屋敷)はつまり同志の密会所で折々深夜に御客様があり、其の座敷へは何人も入ることを許さず、お給仕は次の間まで母が運んで居たそうで、そして又深更皆様の御帰りに父も同行で、そのお出かけには、此れ限り帰宅出来ぬかも知れぬ故、その覚悟で居る様にと申しては出たそうです。何でも小畑の浦から小船で何所かへ行かれるらしい、そんな事が何回もあったと母から聞かされたことがあります。

三浦さんは私の小さい時お常姉の養子に来て居られ大賀松次郎と名乗って奇兵隊で糸鞘の長い刀を差して居られ私等は松兄さん松兄さんと甘えたものです。其後三浦家の本人が病気のために姉と一緒に実家へ帰られたが、三浦家は安藤と云ってやはり小畑でした。

泉流山には陶器窯があり職人も絵書きも沢山居たようですし父も茶碗等に絵や都々逸等を自分で書いたりして楽しみにして居ました。

 

先ず大賀幾介(号大眉)についてであるが、萩博物館が発行している萩市出身の有名人を紹介したパンフレットが役に立つ。小さな縦長の紙片(薄色の紙で縦21センチ、横約10センチ)であるが、さしあたり是が便利なので借用させてもらうことにする。薄い空色の縦長の紙の表面に、横書きで次のように記載されていた。

 

経済・産業 幕末にパンづくりを試みた商人 大賀(おおが)大眉(たいび)

その下に彼の肖像、(写真参照 この肖像画は私の父が画いたもの)

【生没年】1827~1884(文政10~明治17)【享年】58

 【誕生地】長門国萩大屋(萩市椿)【墓】萩市北古萩(梅蔵院)

裏面に人物紹介が要領よく簡潔に書かれてある。

酒造業を営む大賀家に生まれ、名は幾(いく)介(すけ)、春(はる)哉(や)とも称し、大眉と号した。31歳の安政4年(1857)松下村塾に入り、增(まし)野(の)徳(とく)民(みん)や吉田(よしだ)稔(とし)麿(まろ)らとともに『孟子』の会に参加した。翌年、吉田松陰から情報収集を託され、岩国方面へ赴く。また大原(おおはら)三位(さんみ)下向(げこう)策(さく)など松陰の一連の政治的画策では兵糧米担当を予定された。

元治(げんじ)元年(1864)奇兵隊の屯所に出入りし、慶応元年(1865)下関の桜山招魂(さくらやましょうこん)場(じょう)(現在の桜山神社)の建設に尽力。萩前小畑(はぎまえおばた)の泉流山窯(せんりゅうざんがま)(文政9年〈1826〉開窯)の古窯を復興し、自ら絵付けして磁器を焼くかたわら、志士の集会所としても場所を提供した。また奇兵隊に対しては、資金的な後方支援も行った。慶応2年、長州戦争(四境(しきよう)戦(せん)争(そう))の直前に兵糧用のパンの製造が許可され、藩から補助金が支給された。

明治3年(1870)諸隊の脱隊騒動のさい武器や弾薬の買い入れに奔走した功を賞される。その後、脱隊騒動を鎮圧し木戸(きど)孝(こう)允(いん)の使者として下関を出航し、大阪に出て鎮台出入りの御用商人となった。また、砂糖会社や製靴工場などを経営したともいわれている。

 

以上がパンフレットに見る幾介の略歴であるが、ここで私の手元にある『大賀家系図抜粋』を見てみると、大谷(おおや)の大賀家は分家で、「手記」にあるように幾介は本家の大賀家の養子となり一子が出来たが、彼の兄が十七・八歳のとき亡くなっていたので、生家に戻って家を継いでいる。その後結婚して生まれた次女(マサ)がこの「手記」を語り伝えたのである。

幾介の従弟にあたる三浦梧楼(号観樹)についても、例の紹介文を利用させてもらうが、こちらも同じ規格の淡い桃色の紙片である。

 

政治・軍事 脱藩閥を目指した陸軍中将 三浦梧楼(みうらごろう)、との見出し下に肖像写真、さらにその下に【生没年】1846~1926(弘化3~昭和元)【享年】81【誕生地】長門国萩中津江(萩市椿東)【墓】東京都港区(青山霊園

 

裏面に略歴が記載されている。

下級武士五十部(いそべ)家に生まれ、のちに三浦と改称する。藩校明倫館に学んだあと、奇兵隊に入り、慶応2年(1866)四境戦争(幕長戦争)に従軍。明治元年(1868)戊辰(ぼしん)戦争では鳥羽・伏見、北越など各地を転戦した。

明治2年(1869)、奇兵隊ほか諸隊が起こした脱隊騒動の鎮定に尽力し、翌年、兵部省に入る。明治4年、陸軍少将、東京鎮台司令官、明治8年、元老院議官を歴任。明治9年、広島鎮台司令官となり、萩の乱を平定した。明治10年の西南戦争時、第三旅団司令官として出征し、翌年、陸軍中将、西部監軍部長に昇進した

明治14年、鳥尾(とりお)小弥(こや)太(た)らとともに北海道開拓使の官有物払い下げに反対したため、陸軍士官学校長に左遷される。さらに陸軍改革を主張したため山県(やまがた)有(あり)朋(とも)らと対立し、明治19年に免職となった。その後、学習院長、貴族院議員を歴任。明治28年、朝鮮国駐在特命全権公使となり、朝鮮における日本勢力の回復を図って閔妃殺害事件を主導したため、広島で一時拘禁された。明治43年、枢密顧問官に就任。大正政変後は政党勢力を重視し、党首会談を仲介した。

 

観樹について詳しく知るには、『観樹将軍回顧録』(中公文庫)がある。鷗外がドイツ留学の際、初めて将軍に会ったときの印象を『獨独日記』に書いている。鴎外は明治十七年十月十一日にベルリンに着いた。

 

十九日。三浦中将の旅宿Zimmerstrasse96を訪ふ。色白く髭少く、これと語るに、その口吻儒林中の人の如くなりき。われ橋本氏の語を告げて、制度上の事を知る機會或は少からむといひしに、眼だにあらば、いかなる地位にありても、見らるるものぞといはれぬ。

 

鷗外に托された「制度上の事を知る」とは、西南の役コレラが蔓延し頭を抱えた新政府軍つまり日本陸軍にとって、ドイツの衛生制度の研究調査に基づく衛生学の確立は至上の急務だったようで、鷗外は此の制度研究を立派に成し遂げ日露戦争では伝染病の予防など衛生面では大いに貢献した。この事が勝利の一因とさえ云われているが、何と言っても脚気の問題では彼に責任があると思われる。

しかし鷗外は衛生制度の研究だけに専念したのではなく、よく学びよく遊んでもいる。とくにドイツを含む西欧の文学・哲学の理解にその才能を発揮した事は、帰朝後間もなくして書いた『舞姫』『うたかたの記』『文づかい』の留学三部作や、後年の『妄想』などから窺える。

 

上記の日記に、観樹が「口吻儒林中の人の如く」と鷗外は書いているが、その時の観樹は三十八歳に過ぎない。儒学者の仲間の一人のような印象を鷗外に与えたとしたら、漢学の素養が相当あったものと思われる。

全く同じ印象を私の伯母が語っている。大正三年に阿武郡立実家高等女学校を卒業した翌年、父親に連れられて上京し、遠州流の宗家小堀宗忠師に師事したのであるが、上京すると直ぐに三浦観樹のところへ挨拶に行っている。「観樹将軍は儒学者のようだった」と云っているが、その時観樹は六十九歳であったので、そのように伯母は強く感じたのであろう。祖父は彼が書いた一幅の掛け軸をもらって帰った。私は毎年雨季になるとこれを床に掛ける。書かれているのは漢詩である。読み下してみると下記のようになる。

 

鬱々(うつうつ)黄梅(おおばい)の雨 鳴(めい)蛙(あ)友を呼ぶこと頻(しき)りなり 

素(そ)門(もん)人遠しと雖(いえど)も 松竹自ずから隣(となり)を為す

 

これは隠者の風を慕う所懐のようである。上記の『回顧録』に観樹が少年時代に學問を志した記述がある。

 

「昔は十五になれば、皆元服したものである。其折り、何と云ふこともなく、不圖學問を仕たいと云ふ気が起って、今までの悪戯友達と離れ、土屋蕭(つちやしょう)海(かい)と云ふ漢學者の塾に入って、勉學することとなった。是れが我輩の學問を志した初めであった。

それから萩に明倫館と云ふ藩黌(はんこう)がある。此の明倫館に入るには、夫れぞれ資格があって、小祿のものは、這入ることが出来ぬ。陪臣の如きは、如何に大祿でも絶対に許されぬ規則があった。我輩も其れに入る資格がない。ソコデ三浦道庵と云ふ人の附籍となって、入黌の資格を作ったもので、此附籍の事を「はぼくみ」と称へた。「はぼくみ」とは「はぐくみ」と云ふことで、育と云ふ字を書く。我輩が三浦の姓を冒したには、全く斯う云ふ事情からである」。また「文事あるものは武備ありと云ふが、我輩は軍務に服しても、學事を忘れず、毎日の日課として、司馬温公の資治通鑑を、二巻づつ必ず讀むと云ふことに定めて居ったのである」。

 

此の後、『回顧録』の記述は観樹の刃傷沙汰や奇兵隊始末記、高杉晋作木戸孝允との情誼、反対に山縣有朋との確執、閔(みん)妃(ぴ)殺害事件、晩年政界の黒幕として政府・政党間の調停画策などへと続く。この『回顧録』は観樹のすぐれた記憶力による会話のやりとりなどがふんだんにあって、全巻五百七十頁にも及ぶ浩瀚なものであるが、自慢話ながら結構面白いものである。

 

                 二

 

いささか脱線したのでマサの「手記」に戻ろう。

 

 明治になってから大阪でとても鳴らしたものだそうです。堂島のタミノ橋北詰に大きな屋敷があり、此の時代が一番盛んでした。離れ座敷には何時も食客が二三人、多い時は五六人も居りました。御飯炊きにはお相撲の取(とり)的(てき)(ふんどしかつぎ)が来てゐると云ふ調子でした。

此の食客の中に加島と云ふ油絵の画家が居り、その人が今残って居る父の肖像画を絵いたのです。その頃陸軍少将か中将に三好と云ふ方があり、その奥さんは仙台の旅館の娘で、父の養女にして三好家へ嫁がれました。

石碑を建てる心配は今の朝日新聞社上野精一氏のお父さんで上野理一さんと云ふ方が主になって建てて下さったのです。

父は何でも事業の組み立てをすることが上手で関係もよいので、何んな事でも許可が付ます、けれどそれを自分でいつまでもやって居る人でなく、人に譲ってやらせるのが好きでした。

藤田傳三郎さん等も萩から出て来て何か仕事をさせて頂き度いと云ふので、大賀にだいぶ長く居られたことがあり、それではと云ふので、自分がやりかけて居た陸軍納入靴の製造を譲ったのです。其れが発展の緒になってあんなに大成功せられたのですから長い間毎月藤田家から大賀家へ仕送りがあり、大賀幾太(熊谷町大賀市助の長男)の帝大卒業までの学資も此の金を充てたので、相当に大きい金だったように思います。

 

砂川幸雄著『藤田伝三郎 雄渾なる生涯』(草思社)という本がある。九十冊以上もの参考文献・引用資料に基づいて、「歴史の霧のなかから一代の英雄・藤田伝三郎を掘り起こし、その虚像をことごとく取り払い、等身大で真実の姿を明らかにしたのがこの本である」と、表紙の裏に記載してある。またここで、萩市出身の有名人紹介のパンフレットを借用させてもらうことにする。

 

経済・産業  藤田組を興した関西財界のリーダー   藤田伝(ふじたでん)三郎(さぶろう)

【生没年】1841~1912年 (天保12~大正元) 【享年】72

【誕生地】長門国萩南片河町(萩市) 【墓】京都市東山区知恩院

 

酒造家藤田半(はん)右(え)衛門(もん)の4男として生まれる。萩では醤油醸造業を営むかたわら、多くの志士と交わり尊皇(そんのう)攘夷(じょうい)運動を支援した。

  明治2年(1869)商工業発展に尽力することを決意して大阪に出て、軍の御用(ごよう)達(たし)

に従事。明治14年に藤田組を創設、京都・大阪間鉄道建設や琵琶湖疎水工事を請け負い、秋田県の小坂(こさか)鉱山、大森鉱山(石見銀山)などや、岡山県の児島湾干拓によるわが国初の機械化農場を経営。わが国初の私鉄阪(はん)堺(かい)鉄道(現、南海電鉄)設立や大阪紡績会社(現、東洋紡)操業、宇治川電気(現、関西電力)創立にも関わった。

 社会文化事業では、明治11年(1878)大阪商法会議所(現、大阪商工会議所)を創設し、2代頭取に就任。大阪日報(現、毎日新聞)の再興や、秋田鉱山専門学校(現、秋田大学)・大阪商業講習所(現、大阪市立大学)の設立に寄与。古美術品の収集に力を注ぎ、その収集品は藤田コレクションとして名声が高い。郷里萩にも多額の寄付をした。日本水産創業者の田村市郎、日立(ひたち)鉱山を創業し日立製作所の基礎を築いた久原房之(くはらふさの)助(すけ)は甥。

 

 華々しい経歴である。藤田伝三郎に関しては、噓の伝記や偽の講談本など多く出回っていたそうで、何と言っても一番信用できるのは大正十二年発刊の岩下清周著・発行『藤田翁言行録』(以下『言行録』)のようである。砂川氏はこれを第一の参考文献として挙げており、これに拠って筆を進めたと思われる。しかし私にはどうも腑に落ちない点がある。それは傳三郎が明治二年に大阪へ出て、早速靴の製作を始め、それが端緒となって成功への道を上り詰めたと云う記述と、「手記」に書いてある内容がどうも日時の点で符合しない。

大眉が大阪へ行ったのは、「手記」に拠れば明治三年より早くはないようである。一方傳三郎は明治二年に行ったとある。しかも「手記」を見ると、彼は当分仕事がないので大眉の世話になっている。年齢から行っても十四歳も違うので、大眉が世話をした事は肯ける。もう一つ不審に思うのは、大眉がやりかけていた靴の製造を傳三郎に譲ったことについて、傳三郎は殆ど言及していない事である。もっとも『言行録』には明記されていないが、恩を感じていたことは、大眉の孫の学費など全面的に援助している。この点は見上げたものだと言える。『言行録』に次のような記事がある事から両者の関係は以前からあったと思われる。

 

もともと私は、同郷の大賀幾助氏(文政十年生まれ。傳三郎より十四歳ほど年上)の養子になる約束だったので、直接大賀氏に会い、右の理由を詳しく説明した。すると同氏は私の行動に大いに賛成してくれ、養子縁組の破約を快く承諾してくれた。このような事情のもとに私は分家を再興したのである。

 

『言行録』の序文に三井財閥の大番頭であった益田孝が下記の文章を寄せている。傳三郎の一面をうかがわせるから、摘記してみよう。

 

次に予が翁に敬服したるは、好んで他人の説を傾聴せられたるにあり、各種の人々が翁に向かって説く所、必ずしも名論卓説に非ず、或は翁自身も心中には、無益の口と思はれたこと多かるべし、然れども翁は決して粗略の態度を示し、倦怠の色を現はされたる如きことなかりき、左れば翁に対しては、何人も云んと欲する所を云ひ尽くし得たり、この事は実に学び難き翁の美徳なり、何人も自己を信ずること篤ければ篤き程、自己の勢力大なれば大なる程、他人の説に耳を貸すこと吝(やぶさか)なり、況んや有用ならざる言に対しておや、翁の如き自信に篤き偉大な人物が、好んで他人の説を傾聴せられたるは益々以てその偉大を証するに足る、而も翁は徒(いたずら)に他人を喜ばすが為に、貴重な時間を割かれたるにあらず、其言取るべきものは、必ず之を脳中に蓄へて、他日の用に供せられたるべく、且つ席上に於ても、対手の眼球を刺すが如き、直截明快の言を挿(はさ)み、説者をして驚嘆せしむること屡々なりき、故に人々皆翁が、真に自己の諸説を洞知せられたるものとして悦服せり、翁に一種の強大なる引力ありて、政治家にもあれ、軍人にもあれ、商人にもあれ、大阪を過ぎるものの足、必ず網島に向かひたる所以(ゆえん)のものは、此特長によりて然ること少なからざるを信ず。

 

傳三郎はこのように実業家として大成功を収めているが、その端緒となったのは大眉のお陰だと思われる。

「手記」に「石碑を建てる」という話がでている。石碑建立が実現したのは、大眉が亡くなった三年後の明治二十一年十月である。発起人の上野理一は朝日新聞社の創業者で、同じく創業者の一人であったのが村山龍平で、漱石は村山氏が社長の時東大を辞めて朝日新聞社に入社している。顕彰碑を山県有朋が書いているがが、実際に文を撰したのは別人だろう。原文は漢文で書かれてある。

   

大賀大眉君墓銘    陸軍中将従二位勲一等伯爵 山縣有朋題碣

萩城外大谷邨(おおやむら)に大賀大眉なる者有り。家業醸にして而して君学を好んで自立す。性豪爽にして洒落(しゃらく)、市井の間にて面目を作さず。好んで士大夫と交遊す。萩城の士大夫にして大眉生なる者を識らざる者無し。尊攘の事起こるに及んで君明治中興に最も尽力す。後家落、徒(うつ)って大阪に居す。君素(もと)より雅にして書生の如きと雖も、然かも廃居之術(はいきょのすべ)に於いて頗る権数(けんすう)有り。屡々(しばしば)人の為に画策し以て利を謀(はか)るに多く、中を取る有るのみ。則ち粛然として一貧(いちひん)以て意と為さず。為人(ひととなり)談諧(だんかい)を好み、音吐(おんと)朗(ろう)然(ぜん)四座(しざ)を驚かすに足る。善く國雅を作る、尤も俚歌に工(たくみ)なり。所謂都々一調(どどいつのしらべう)は其の作る所なり。殊に哀艶にして人心の竅(きょう)に入る。一篇出る毎(ごと)に梨園(りえん)争って之を傳唱す。君を亦栩々(くく)然(ぜん)として以て自負(じふ)す。

君の名は幾助、大眉は其の号なり。明治十七年八月二十二日病んで大阪に没す。年五十八、超泉寺に葬る。天下君を知る者、相臣勲将、文士巨(きょ)賈(か)、方外(ほうがい)の妓(ぎ)流(りゅう)皆流涕(りゅうてい)せざるは莫(な)し。金を率(つの)りて以て碑を建て余之が為に銘す。銘して曰く。

賈にして士、士にして儒、儒にして文士、文士にして壮夫なるかな。龐(ほう)然(ぜん)として其の面(かんばせ)蓬然、其の眉吁嗟(ああ)大眉なり。

 

「廃居之術に於いて頗る権数有り」の文中にある「廃居」とは「物価の安い時に買いたくわえて、価格の上がるのを待つこと」の意で、「権数」とは「権謀術数」のこと。また「屡々画策し以て利を謀るに多く、中を取る有るのみ。則ち粛然として一貧以て意と為さず」とあることから、彼は人の為には謀っても、自らは金銭に恬淡としていたようである。これは「手記」の記述と一致する。したがって傳三郎に製靴の仕事を譲ったのは事実と思われる。

彼は「洒落(しゃらく)」であって「洒落(しゃれ)」ではなく、物事にあまり頓着せずさっぱりした性格で、しかも性豪爽だとある。私が父から聞いた話に、維新前後、長州藩は正義派と俗論派が相争っていたある夜、大眉は俗論派の頭目の一人、椋(むく)梨(なし)藤(とう)太(た)の家の門前に「大糞を垂れ」、悠々と帰宅したとか。

大眉は梨園つまり遊里において相当持てたようで、私は紀伊國屋文左衛門や山科に蟄居中の大石良雄を思い浮かべた。

大眉は確かに大きな眉の持ち主で、彼の肖像画を見れば一目瞭然。そのために「大眉」を自分の号にしたのである。「龐(ほう)眉(び)皓(こう)髪(はつ)」と云う言葉があるが、それは「太い眉と白い髪」で老人を意味すると、辞書にある。

三善貞司編『大阪人物辞典』(清文堂)を見ると「大賀大眉」の事項がある。

 

奇人、世捨て人。文政十年(一八二七)萩の生まれ。名は幾助、生家は当地では知られた醸造元。侠気に富み青年時代は尊皇攘夷の思想が強く、故郷を飛び出して国事に奔走、勤王派の志士に混じって働くが、明治維新の世情一変に適合できず、体制派となったかっての仲間からも離れ、大阪へ閑居した。大眉は策略を用いて人のために利を計るのが好きで、知友の危機を救うが自分は貧者の暮らしに甘んじて、世俗を超越した。晩年の彼は俚歌が巧みで、特に都々逸に長じ、「一篇出るごとに南北の梨園争ひ伝て唱ふ」といわれるほど、新地などにも流行したようだ。冗談が大好き、四囲をよく驚かしたとも伝えるから、かなり自己韜晦型だったようだ。明治十七年(一八八四)八月五七歳没。

 

晩年の「世俗を超越した」大眉の人柄が判って面白い。今は彼の若い頃の一事に目を向けてみる。

「尊攘の事起こるに及んで君明治中興に最も尽力す」とあるが、大眉は若いとき町人の身でありながら志士と交わり、身を挺して彼等と行動を共にした。『伝記』にパン製造の許可を得てパンを作り四境戦争に役立ったとある。

実はこのパンの製造法を最初に紹介したのは中島治平という蘭学者である。治平は同時に通詞でもあり、長崎へ行って勉強し、医学をはじめ、製鉄やガラスの製法も学んでいるが、他にも色々と西洋の文物を研究し紹介している。私は彼が作ったという小型の蒸気機関車の模型を以前萩博物館で見た。彼は発明の才もあり時代に先んじた人物だったと思われる。大眉は治平からパン製造法を教わったのである。

私が生まれ育った萩市の同じ町内に治平の旧家がある。門前に「中島治平𦾔宅地」の石碑が立っている。名前は忘れたが小学時代に中島という姓の同級生がいた。治平の子孫だとは後で知ったのだが、彼の家へ遊びに行ったことがある。門を入って細長い路地を通り、家の中へ一歩入るとなんだか薄暗かったように記憶する。彼は痩せてひょろ長い体つきで、色白の温和しい性格であった。早世したのかもしれない。旧制萩中学校では見かけなかった。

中島治平については昭和二年に発行された『山口縣阿武郡志』にやや詳しく載っているのでその一部を紹介しよう。

 

當時西洋の學術を修むるもの少きを以て聿徳(筆者注:治平は通称)の如きは醫家、兵家、工藝家、本草家等の諸流に関係し、常に多忙にして客門に絶えず、夜は諸生に洋書を授け諄淳として倦まず、教授して鶏鳴に及ぶことあり。青木周蔵、増野順吉は當時の門生なり。小野為八寫眞術を究む、亦聿徳に學べりと云ふ。しかして彼の攘夷説を唱ふるものは多く洋學を忌み、聿徳の如きは固より猜忌する所となり、往往危難に瀕せしことあり。之を顧みずして専心その學術に盡したるは尋常の人に非ずといふべし。

 

大村益次郎(旧称 村田蔵六)と言えば知らない人はなかろうが、治平は「國内諸處の鐵鐄調査の為北条源蔵、村田蔵六と各地に出て探検を為し、製鉄の事を研究し、又火薬バトロン製造銃砲鋳造を研究す」とあるように、西洋の各種学術を学び、慶応二年に藩の舎(せい)密局(みきょく)頭取に就任した。今なら理化学研究所所長と云った地位、もしくはそれ以上の存在かもしれない。しかし惜しくも彼はその年に四十四歳で亡くなった。もっと長生きしていたら、大村益次郎のように名をなしていたかもしれない。

ついでながら、大眉の記念碑は超泉寺といって大阪天満にあったようだが、先の空襲で壊滅し今は跡形もないとのこと。

 

 

                    三

 

「手記」の最後までを見てみよう。

 

それから私達子供は弟姉妹十八人で、私は二女。第十八人目が山口十八(子爵山口素臣の養子)で、直兄(十八のすぐ上の兄)が石本祥吉(元陸軍大臣を勤めし陸軍大将男爵石本新六)の兄石本綱の養子となり存命中。綱は姫路藩の家老に次ぐ家柄に生れ維新の際には藩主に召し出され一戸を賜はりたる英物らしく、国事に奔走し、その機会に長藩の志士とも交り父大眉と親交となりしものと思はる。

綱と新六(陸軍大臣大将たりし)とは兄弟にて綱が陸軍省に在勤中の当時は中佐にて弟新六は大尉の時綱は没したるものにて、新六は日露戦争の功によりて男爵を授けられた。

十八は陸大卒業後フランスへ留学し、その帰りには彼方で御逝去遊ばした宮様(北白川宮様であったかと思ひます)の御遺骸の御伴をして帰った寺内寿一さんとも同期でした。(十八は先年少将の時に死亡)

この寺内さんや石本祥吉、山口十八が少尉時代の事ですが、伊藤博文公が朝鮮から李王殿下を御連れしてお帰りになった時伊藤公の官邸に三人に伴われて参り,伊藤公にお目にかかりました。十八さんの紹介で私が大眉の娘であると云ふので父大眉の話が出ました。大分御心安かったらしいなと思ひました。

泉流山の裏山続きに澤様(七卿の澤三位様)の御妾宅があり御姫様が御誕生になり其の初雛を拝見に行き御菓子を頂いたことを覚へて居りますが、其れは何れも夢のような気がします。何分七、八十年も昔のことでせうから。澤様は長く大賀家で御匿くまい申して居りました。

それから明治十年でしたか萩の前原騒動の時には官軍の本陣もしました。私は九才頃まで泉流山の家に居ましたが山荘と云った様な家で茶室の水屋には山水が掛け樋で常に来て居りました。泉流山と云ふ名は翁が付けられた名称ではなかったかと思ひます。大眉翁の前の持主が誰れであったか判らぬのは残念です。父は泉流山には七十三年前に居ました。 それから翁は大阪の『つりがね町』で死去された時五十八歳でした。

 

大眉に子供が十八人も居たのには驚く。山口十八はそれこそ十八番目に生まれたから「十八」と名付けられたそうだが、彼が書いた『大賀家系図抜粋』を見まると、大眉は生涯に三人の妻を娶っている。子沢山でかなり甲斐性があったものと思われる。石本新六と云う名前を見て私はまた鷗外を思い出した。

明治四十二年七月二十八日以降の『日記』に下記の記入がある。

 

 昴(すばる)第七號發賣を禁止せらる。Vita sexualis を載せたるがためならむと傳へらる。

八月一日 諸雜誌にVita sexualisの評囂(かまびす)し。

八月六日 内務省警保局長陸軍省に来て、Vita sexualis の事を談じたりとて、石本次官新六予を戒飭(かいちょく)す。

 

石本新六の兄の養子に大眉の息子の一人がなっているが、新六は兄同様、筋金入りの軍人で、後に男爵陸軍大臣になっている。付言すれば、名著『石光真清の手記 四部作』と関係のある石光真人著『ある明治人の記録』を読むと、会津人でありながら陸軍大将になった柴五郎と新六は陸軍幼年学校同期である。

新六の部下であった鷗外が、雑誌『昴』などにたびたび文学作品を載せるのを苦々しく思って居たに違いない。それがこともあろうに鷗外が、自分の性(セックス)の歴史を発表した事は、軍人として許しがたい行為に思えたのだろう。鷗外は新六に「戒飭」つまり「戒め慎む」ように云われその後しばらくの間筆を擱(お)いている。これは鷗外の生涯でかなり重大な事件で、幾人かの批評家が指摘している。大眉とは直接関係のない事件だが私にとっては新事実。「澤様」は、文久三年(1863)に起きた公武合体のクーデターと深い関係がある。このとき、長州藩は京都堺町御門警衛の任を解かれ、三条実美ら七卿も罷免され、長州に走ったいわゆる「七卿都落ち」のメンバーの一人が澤宣嘉である。大眉が泉山流の自邸に澤を匿(かくま)い家族で面倒をみたことが「手記」から分かる。澤は尊攘派公卿として活躍し、明治元年(1868)に帰京すると、明治政府の参与・長崎府知事、さらに翌年には外国官知事・外務卿を歴任し、明治初年の外交を担当した。明治六年(1873)ロシア公使に内定し着任前に病死している。その翌年榎本武揚特命全権公使としてロシアに駐在した。澤は柔(やわ)な公卿ではなく、有能で行動的な公卿であったことが分かる。(『角川日本史辞典』)

 

前原騒動(明治九年)の事にも触れてある。これは周知の前原一誠等による「萩の乱」のことである。大眉の山荘が官軍の本陣になったとあり、その時の官軍の司令官が大眉の従弟の三浦梧楼(号観樹)だった。

梧楼はその時私の祖父に「大丈夫、心配することはない」と云ったとか。

これより少し前の事だと思われるが、祖父が二十歳(はたち)前の頃、前原一誠実弟の佐世一清に斬られかけたことがある。

佐世は「お前は梅屋七兵衛の息子だろう」と云ってむずと襟もとを右手で掴んだ。その時彼は負傷していた左手を懐手(ふところで)にして隠していた。刀を抜こうとして掴んでいた右手を一端離した隙に、祖父は一目散に逃げて柏村という親戚の家に駆け込み、大きな長櫃(ながびつ)の中に身を潜めて無事に難を逃れたようである。

七兵衛は大眉の義兄として彼と同じく町人ながら勤王の志を抱いて志士と交わり、慶応三年に上海から鉄砲を買って帰り、新政府側に援助の手をさしのべたりしている。

今から思えば、一連の反政府騒動は、明治新政府ができて明治六年の「徴兵令」が布告されて間もなくの事件である。明治七年には「佐賀の乱」、さらに明治九年には「熊本神風連の乱」とこの「萩の乱」、そして翌年には「西南の役」と立て続けに事件が起きた。まかり間違えば、わが国の歴史は大きく変わっていたことだろう。

松陰神社の社殿に向って左片隅に小さな細長くて四角い御影石の墓標が建っている。「明治九年萩の變 七烈士殉難の地」と正面に刻まれ、側面に前原一誠、佐世一清等七人の名前が読み取れる。多くの参拝者が神社を訪れても、ここに足を留めて彼等に思いを寄せる者は殆どいないのではなかろうか。

ここで上記のことに関連したことがあるので、一つ紹介しよう。私が山口市に居を移してしばらくして、市内の平川地区に住んでおられる一人の女性と知り合いになった。

ある日彼女が『みんしゅうの神様 隊中様』という絵本を持ってこられた。これは藤山佐(すけ)熊(くま)という「明治維新を成し遂げるうえで大きな力となった奇兵隊・諸隊のひとつである振武隊の隊士」について地元に伝わっている話を彼女が絵本にされたのである。

 

奇兵隊」や「諸隊」には百姓や町人、神官や僧侶、力士、少年たちも喜んで参加した。農民兵の多くは武士よりも勇敢に命をかけて戦い、若者の多くが犠牲になったが、その人たちはみんな尊敬されて「隊中様」と呼ばれた。山口市の郊外に「隊中様」と云われる墓がいくつもある。中でも平川地区の「隊中様」といえば藤山佐熊の墓で、毎年二月九日に祭りが行われてきた。

 

私は先年彼女の案内で祭りの当日(今は寒さを避けて四月九日に行われる)お墓参りに出かけた。平川の小出地域から鋳銭司に向かう山道をしばらく登った所に少し開けた場所があり、「藤山佐熊源正道神霊」と刻まれた墓が立っていた。今は人通りが全くない山道だが、以前は大村益次郎なども通った鋳銭司から山口への近道である。地区の人たちが多く集まって厳かに神事が行われた。この絵本は上手に画かれた絵に添えて、文章も判りやすく書かれてある。

 

「隊中様」のお墓に手厚く葬られている藤山佐熊は、阿武郡嘉(か)年(ね)村(現・山口市阿東町嘉年)で薬草なども栽培していた農民の息子(せがれ)でした。長州藩奇兵隊のひとつである振武隊に入隊して、世直しをねがう農民をはじめ庶民のために戦いました。また戊辰戦争でも越後(今の新潟県)あたりで戦い勝って山口へかえってきました。そのあと、命をかけて戦った兵士や、民衆のためにならない藩政府のやりかたを正そうとする「反乱」諸隊に加わっています。そして明治三年(一八七〇年)二月九日、平川の鎧(よろい)ガ垰で戦死した二十二歳の若者でありました。

 

最後に一言。私がこの「手記」を読んで感じたのは、まず「時代は人を生み、人は時代を作る」ということである。

大河ドラマ『花燃ゆ』は、当時の若者達の滾(たぎ)り立つ熱気を伝えようとしたが今一つ人気がなかった。多くの志士や名もなき兵士達が若くして命を落とした。しかし彼等は真剣に生きたのではないだろうか。ここに挙げた大眉、観樹、傳三郎たちも波瀾万丈の人生を送っている。青春時、彼等も砲煙弾雨の中、命を賭して戦い運良く生き延び、功なり名遂げるまでに至った幸運児と言えよう。

彼等がこうした人生を送れたのは、やはり戊申戦争に勝った長州閥の恩恵を受けたからであろう。関ヶ原の戦いに破れ、その後長州藩が辿った長い隠忍自重の歴史は今は脇に置くが、朝敵とされた会津藩のことを思えば、確かにその意味では運が良かったと言える。だが、彼等が本当に幸せであったかどうか何とも言えない。ただ彼等が真剣に生き努力した結果だということは、これまで見て来たことから窺える。従っておのが人生に満足し、ある程度達観して死を迎えたように思われることで、幸運であったのではないかと私は思うのである。しかし今、彼等のことを幾人の人が知っているだろうか。ましてや、先に紹介した「隊中様」のことなど。史上に残るような人でも、また優れたと思われる事業も、その多くは流れに浮かぶ泡沫(うたかた)の如く消えて逝く。

県立図書館で平岡敏夫著『佐幕派の文学「漱石の気骨」から詩篇まで』という本を見つけて読んでみた。漱石の博士号辞退問題から初期のいくつかの作品は、佐幕的反骨精神に裏付けられていて、薩長藩閥政府を徹底的に憎んだ内容だと書かれてあった。なるほどそういえば充分肯(うなず)ける。だがしかし問題は、漱石が何時までもそうした考えを持ち続けたかということだ。漱石は死を目前にして自分の心境を漢詩に托している。

眞蹤(しんしょう)寂寞(せきばく) 杳(よう)として尋ね難し

虚懐を抱いて 古今を歩まんと欲す

碧水碧山 何ぞ我(が)あらんや

蓋(がい)天蓋地(てんがいち) 是れ無心

依(い)稀(き)たる暮色 月 草を離れ

錯落(さくらく)たる秋声 風 林に在り

眼(げん)耳(に)双つながら忘じて 身(しん)亦た失し

空中に独り唱う 白雲の吟    (『漱石詩集全釈』二松学舎大学出版部)

著者の佐古純一郎氏は次のような【通釈】を書いておられる。

森羅万象の真実の相は、ひっそりとして静寂であり、まことに深遠で容易に知ることはできない。自分はなんとかして私心を去って真理を得ようと東西古今の道を探ねて生きてきたことである。一体、この大自然にはちっぽけな「我」などないし仰ぎみる天や俯してみる地は、ただ無心そのものである。

自分の人生の終わりを象徴するかのように暮れようとする黄昏どき、無心の月が草原を照らし、吹きわたる秋風が林の中を通りぬけていく。此の人生の最期に立って、もはや自分は小さい我の欲望や感覚を越え、自らの存在すらも無にひとしいように感じるのだが、そのような心境で空を飛ぶ純白のあの雲のような自由さに想をよせて、自分の「白雲の吟」を唱うのである。

佐古氏の次の言葉も、漢詩同様に「手記」とは関係ないが、書き添えて拙稿の結びとする。

この詩を作った翌々日の十一月二十日に、漱石胃潰瘍の発作で病床に臥し、それが死の床となった。それゆえにこの詩が文字どおり、漱石の最後の作品となったわけである。漱石が晩年に志向した「則天去私」のイメージがまことに鮮明に表現されて、漱石文学の精髄といってもけっして誇張ではないと思う。