yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

漱石と弓の句

 

 

 人との出会い、事物との触れあいが多いほど、人生は豊かになると言えよう。漱石は50年足らずの生涯で、多くの良き友人や弟子に恵まれている。また数多くの事物に興味を抱き、真剣に取り組んでもいる。中でも俳句は正岡子規と知り合いになり、その後イギリスに留学するまで、また弓道はそれより前の一時期真剣に打ち込んでいる。 明治27年2月、東京帝国大学大学院に在籍中、漱石は友人に誘われて弓道を習い始めた。同年5月31日の書簡には、「朝夕両度に百本位は毎日稽古致居候」(菊池謙二郎宛)と書いている。また学生時代の友人たちの証言によっても、熱心に弓の稽古をしていたことは明らかである。さらにまた『草枕』や『虞美人草』など初期の作品からも、弓道に関心があったことが十分に窺える。この事について筆者は『風響樹』第二十五号に、『漱石と弓と俳句』と題した小文をはじめて寄せた。その後さらに『漱石と弓』と題して発表した拙稿(注1)の間違いを弓道の専門家から指摘され、また他に、自分でも誤った解釈だと気づいた点がある事が分かった。そこで多少重複する点もあるが、今回は『漱石と弓の句』と題して考察することにした。識者の御教示を仰ぎたい。 漱石は明治22年1月頃から正岡子規と親しくなり、文学的影響を受けるようになる。彼らは共に東京大学予備門であった第一高等中学校に通っていた。『漱石全集』を見ると、第1信からの30通はすべて子規宛のものである。漱石は子規の影響によって、俳句に興味を覚え、句作を始めている。明治22年5月13日、子規宛の最初の書信に2句書き添えている。これを句作の始めとして、翌明治23年には5句、24年には30句と次第に多くなる。  しかし25年には僅かに2句で、26年には皆無、そして27年には13句を数える。この中に弓矢に関するものが4句、はじめて出てくる。

 

(1)大弓やひらりひらりと梅の花

(2)矢響の只聞ゆなり梅の中          

(3)弦音にほたりと落る椿かな

 (4)弦音になれて来て鳴く小鳥かな

 

 上記4句の中の(2)を「弦音の只聞ゆなり梅の中」と改めた句があるが、数えないでおく。 筆者は『漱石と弓』の中で、「弦音にほたりと落る椿かな」を取り上げ、漱石が弓を引いたという事実の傍証とした。今回は上記4句については触れず、異なる角度から検討してみたい。 

 明治28年4月9日、彼は愛媛県立尋常中学校に赴任した。同年8月27日に子規が漱石の下宿に居候を決め込むや、作句数は俄然増加し、464句を数えるほどになる。この中で弓矢に関するものと思われるのを選び出してみると、下記の4句がある。

 

   (5)凩や弦のきれたる弓のそり  

   (6)時鳥物其物には候はず      

   (7)時鳥弓杖ついて源三位      

   (8)月に射ん的は栴檀弦走り    

  

  漱石は明治29年4月、熊本の第五高等学校に転勤した後も句作を続けている。松山に居たときの句作241を加えて、この年には、522もの多数の句を詠んでいる。それこそ毎日句作に没頭していると言える。しかし弓矢に関するものは次の3句だけである。

 

   (9)日は永し三十三間堂長し

 (10)屋の棟や春風鳴って白羽の矢

 (11)梓弓岩を砕けば春の水  

 

  第五高等学校では、漱石は本来の英語の授業と研究に専念しながらも句作を続け、明治30年には288句作っている。その中に次の句がある。

 

 (12)よき敵ぞ梅の指物するは誰           

 (13)五月雨の弓張らんとすればくるひたる 

  

  明治31年には句作数は103あるが、関係の句は見あたらない。

 明治32年には350句、この中に次の2句が関連したものとして見出される。

 

  (14)南無弓矢八幡殿に御慶かな   

  (15)梅散るや源太の箙はなやかに  

 

  漱石は明治33年9月、34歳のときイギリスへ留学するが、これ以後50歳で亡くなるまでの句には、弓矢に関するものは見あたらない。結局、23歳で句作を始めて、27年間に2500句を超える句を詠んでいるが、この数多くの句の中で弓矢に関するものは、彼が実際に弓を引いた大学院時代から、熊本へ移ったばかりの6年間で、上記15句を数えるだけである。しかし数少ないこれらの句とはいえ、漱石の弓矢に対する思い入れの程を窺うことができる。

 

                                           二

 

   ここでこの漱石の弓矢に関する俳句を、あらまし2グループに大別してみたい。彼が自ら弓を引いた時の様子を詠んだものと、弓矢に関する文書(戦記物など)を読んで、そこに述べてある情景を詠ったものとである。

 前者に属するものは、漱石が学生時代に自ら弓を引いたときの情景を詠んだもので、初期の俳句、(1)から(4)までの4句が先ず挙げられる。 これらの中で代表的な句、「弦音にほたりと落る椿かな」を、『漱石と弓』で取り上げたことは前述の通りである。

これらの句から共通して感じ取ることの出来るのは、早春の梅が清香を放ち、椿が鮮やかな色に咲き、小鳥の囀りがどこからともなく聞こえてくる大学のキャンパスで、冴えた弦音を響かせて、熱心に稽古を続ける若き漱石自身の清新な姿である。

(5)「凩や弦のきれたる弓のそり」と(12)「五月雨の弓張らんとすればくるひたる」も漱石自らの体験を詠んだものと考えて差し支えなかろう。(12)について、「長雨つづきで、弓の弦もすっかり湿っけをふくんでうまく張れない、という意である」と、『漱石俳句を愉しむ』(PHP新書)に解説してあるが、むしろ湿気で弓の方がくるったと考えるべきだろう。

(9)を弓の句として選んだのは、「三十三間堂通し矢」の故事を漱石が念頭に入れた上での句作と見たからである。弓を引いた経験のあるものなら誰でも、江戸時代、諸藩をあげて競ったこの大きな催しの事は知っている。「三十三間」と言っても、柱と柱の間が33あるためにそのように言われているので、実際は66間で、1間は180㎝だから、約120mもの長さである。この距離を一昼夜24時間内に何本射通すことができるかを、藩の名誉をかけて競ったのである。

  歴史に残る名射手の星野勘左右衛門、そして彼が、紀州の若き射手和佐大八を密かに助けて、空前絶後の大記録(通矢8133本、惣矢13053本)を樹立させたという美談を、漱石も伝え聞いていたであろう。この大八の「通し矢」は想像を絶する偉業である。従って漱石はこの事を思いつつ、「日は永し」「堂長し」と、同じ意味の言葉を意識的に重ねて使ったのではなかろうか。

  ちなみに、この句の前後に、彼は「永き日」を詠み込んだ次の2句を作っている。

 

    永き日や韋陀を講ずる博士あり

   永き日を順禮渡る瀬田の橋

 

  前の句は、東京大学井上哲次郎博士が、ヴェーダの哲学を悠長に講ずる姿を詠み、後の句は終日とぼとぼと順礼の旅に出た信者が、たまたま瀬田の唐橋を渡る様子を想像しての句作であろう。以上3句の中では、「三十三間堂通し矢」の歴史を踏まえた句が、最も優れているように思われる。

 

(10)は、さりげない風景描写であるが、やはりそこには漱石の弓矢との関わりを読み取ることができる。この句は森鴎外が創刊した『めさまし草』三月号に掲載されたものである。端午の節句にはまだ早いが、長い竿の先に取り付けられた白羽の矢が、棟高き屋根越しに、春風に鳴っている光景として見たとき、在りし日、白羽の矢を白木の弓につがえて、真剣に稽古したことを、ふと思い出して詠ったのかも知らない。

 明治28年正月2日、漱石宇佐八幡宮に参詣した。この時の作が(14)の句である。八幡宮といえば、弓矢の神として崇められている。熊本へ転勤したばかりの漱石には、暇をみて弓を引こうという気がまだ十分あったと思われる。現に彼は熊本への転勤に際し、弓をわざわざ持って行くのを知人に見られてもいる。従って「弓矢八幡殿へ御慶」、つまり宇佐八幡宮へ参詣したとき、立派な弓が引けるようにと祈ったかもしれない。しかしこれら2句は別に検討に値する句ではない。

 

                                        三

 

 さて、今回は残りの句について考察してみたい。最初の句(6)の「時鳥物其物には候はず」はひとまずおいて、(7)の「時鳥弓杖ついて源三位」から取り上げることにする。筆者は『漱石と弓』で、「独断的な解釈を試みる」と断った上で、この句について次のように述べた。これは「独断的」というか、誤った解釈であった。

  

 此の句は歌人としても有名な源頼政(源三位入道)が、仁以王を奉じ平氏打倒の兵を挙げ、宇治川の橋合戦で、刀折れ、矢尽き、「弓手のひざ口を射させ、いたでなれば」、つまり左の膝に重傷を負い、「心しずかに自害せんとて、平等院の門の内へひき退て」と、『平家物語』に書いてあることと、親友子規が病苦を押して俳句革新という運動に、文字通り身命を賭していることを考え合わせて句作したものである。 

 実はこれより前、明治25年7月19日、前日試験場に行ったが受験せずに帰った子規に宛てて漱石は、追試験を勧める手紙を書いて次の句を添えている。

 

 鳴くならば満月になけほととぎす

 

  この「独断的な解釈」は『平家物語巻第四』の「橋合戦」を読み、子規といえば時鳥と早合点した結果で、同じ第四巻にある「鵺」の記述と比較したとき、明らかに間違いであることが分かった。問題の箇所を原文を交えて要約すると、

  

 頼政が50歳前後でまだ謀反を起こす前、宮中に仕えていたときのことである。宮中紫宸殿に「黒雲一村立ち来たって、御殿の上にたなびき、頼政きっと見上げたれば、雲の中にあやしき物の姿」あり、そのため天皇は毎夜悩まれた。頼政矢をふたつたばさみ、「変化の物つかまつらんずる仁は、頼政ぞ候」とまかり出て、「これを射損ずる物ならば、世にあるべしとは思わず」、つまり射損じたら生きてはいられないと思い、「南無八幡大菩薩」と心のうちに祈念して、よく引いてひょうと射ると、「てごたえしてはたとあたる」。

  見てみると、頭は猿、胴体は狸、尾は蛇、手足は虎の姿をしていて、なく声は鵺に似て、恐ろしいなどというどころではなかった。天皇は感じいられて、左大臣藤原頼長を通して、獅子王という御剣を頼政にくださった。

「比は卯月十日あまりの事なれば、雲井に郭公、二声三声音づれてぞ通りける。其時左大臣殿、 

 ほととぎす名をも雲井にあぐるかな 

 

 とおほせられかけたりければ、頼政右の膝をつき、左の袖をひろげ、月をすこしそぼめにかけつつ(横目に見ながら)、

      

 弓はり月のいるにまかせて

   

  と下の句を補って、御剣を頂戴した。「弓矢をとってならびなきのみならず、歌道もすぐれたりけり」と天皇も家臣も感動した。

 

 左大臣の歌は、「ほととぎすが空高く鳴き声を立てているが、それと同様にそなたも宮中に武名をあげたことよ」との意味である。これに対して頼政は「弓を射るにまかせて、偶然にしとめただけです」(注3)と謙虚に応えた。

 ここには武骨一辺の荒武者ではなく、詩歌の道の心得があり、その上自己を持するに毅然たる武士頼政の姿を見て取ることができる。漱石は此の情景に共感を覚えて前掲の句、

 

 時鳥弓杖ついて源三位

 

 を詠んだものだと筆者は察し、前回の解釈を改めることとした。

 なお『彼岸過迄』の中に、登場人物の1人である敬太郎が、浅草観音の本堂に上がって、

 

 「魚河岸の大提灯と頼政の鵺を退治ている額だけ見てすぐ雷門を出た。」とある。

 

 漱石が子供の当時、浅草寺頼政の鵺を退治ている額があり、落款に「天明七年丁未夏五月穀旦(筆者注 吉日) 屠竜翁高嵩谷 藤原一雄敬画」とあったと、『漱石全集』の注にあるので、幼少の時から利発で、多くの事に興味を示していたと思われる漱石のことだから、きっとこの額を見ていたであろう。従ってこの句を作るに当たって、この額に描かれた絵が頭に浮かんだのではなかろうか。 

 

 次に(6)「時鳥物其物には候はず」の句について考えてみよう。『平家物語』で人口に膾炙した場面の一つに、「敦盛最後」がある。

 

 源氏の武将熊谷次郎直実が、「あれは大将軍とこそ見まいらせ候へ。まさなうも(卑怯にも)敵にうしろを見せさせたまうものかな。かえさせ給へ」と、扇をあげて招き寄せ、むずと組んで取って抑え、頸を斬ろうと甲を押しのけてみると、「年十六七ばかりなるが、うす化粧して、かねぐろ(元服した貴族がお歯黒で歯を黒く染めている)也。我子の小次郎がよはひ程にて、容顔まことに美麗也ければ」、斬りつけることも出来ず、「抑いかなる人にてましまし候ぞ。名のらせ給へ、たすけまいらせん」と言うと、「汝はたそ」と逆に名を訊かれ、「物、そのもので候はねども(物の数に入るほどの者ではありませんが)、武蔵国住人、熊谷次郎直実」と名乗る。

  この後直実は状況やむを得ず、敦盛の頸を掻き切り、「あはれ、弓矢とる身ほど口惜かりけるものはなし。武芸の家に生れずば、何とてかかる憂き目をば見るべき。なさけなうも討ちたてまつるものかな」と、さめざめと泣いた。そして出家することになる。

 

  漱石の句との関係について考えたとき、「物、そのもので候はねども」という言葉が、(6)「時鳥物其物には候ず」にそのまま使われている。従って『漱石全集』の注にも、この句は「敦盛最後」を詠ったものだと解釈している。確かにその通りかも知れない。しかしこの句を弓矢に関する物として取り上げてみたいのは、「時鳥」という言葉がどうも納得しかねるからである。もっとも「ほととぎす」という語句は俳句では割と自由に使われるそうであるが、この句は前に挙げた「時鳥弓杖ついて源三位」と同時に漱石が詠んだ句であるので、源三位頼政の弓矢を執った時の気持ちを詠ったもの、と考えることも可能ではなかろうか。

 付言すれば、頼政が「鵺」を退治しようとして、「これを射損ずる物ならば、世にあるべしと思はざりけり」と言って弓を構えたとき、彼は射損じたら死を覚悟しての決意であった。しかし彼は武士としての矜持を身につけている。そこで漱石は直実の口にしたという「物、そのもので候はねども」の言葉を借りてきて、頼政の故事を空往く時鳥を点景としてこの俳句を詠んだ、と解釈してみてはどうかということである。

 

 次に(8)「月に射ん的は栴檀弦走り」の句は、『保元物語-中』にある鎮西八郎源為朝の記述をふまえたものである。弓矢を執れば天下無双の若武者為朝が、敵とはいえ射向かう相手は実の兄義朝である。一の矢をわざと外し、「真向内冑は恐れも候ふ。障子の板か。栴檀弦走り(注3)か胸板の真中。矢壺を慥に承って仕らん」(注4)と言って、余裕と自信をみせ、かつまた兄の命を愛おしむ場面は、修羅の合戦の場ではあるが、武士の情け掬すべき所がある。漱石はやはりこの点に注目し、「月に射ん」という詩的詠い出しをもって、この句を作ったと考えられる。

 (9)の「梓弓岩を砕けば春の水」については、戦記物を手がかりとしたのではない。従ってこのグループには入らない。しかし、例えば為朝が、8尺5寸の剛弓(並の弓は7尺3寸)を、満々と引き絞り放てば、矢は岩をも砕いて水が湧き出る。これは単に誇張的想像に過ぎないが、そこに弓を「張る」と「春」の懸詞の妙、「岩を砕く」力強さと、「春の水」の優しさといったものが描き出されて、剛毅な中にも、何だかほのぼのとしたものを感じ取ることが出来る。

 残りの2句、(11)「よき敵ぞ梅の指物するは誰」と(14)「梅散るや源太の箙はなやかに」は、『源平盛衰記』の「箙の梅」を念頭に置いての句作と考えられる。

 さて、「箙の梅」は、『広辞苑』にも一事項として記載してあるように、「生田の森の源平の戦で、梶原源太景季が、箙に梅の枝を挿して奮戦した故事」である。漱石はこの有名な故事をふまえてこれらの句を作ったことは間違いない。源義経の家来、若き剛勇なる武将梶原景季が、手折った梅の枝を箙に挿して、先駆けの功名を立てようとする勇み心と、かれの美意識に共感を覚えた漱石が、思わず詠んだのであろう。正確にはこれはむしろ「箙」あるいは「梅」を詠ったものである。しかし矢を入れる「箙」ということで、弓矢に関係した句として選んでみた。

 

 余談ながら、今年5月、筆者は神戸市で開催された高校の同期会に出席した。卒業以来半世紀以上を経てはじめて会った同級生もいて、懐旧の念をあらたにした。折角此の地まできたので、翌日三の宮駅近くにある生田神社に詣で、社頭にある「箙の梅」の生木とその側にある「謡曲『箙』と梶原景季」の立て札をカメラに収めて帰った。その立て札には次の古歌が書かれてあった。 

 

 吹く風を何いといけむ梅の花 散り来る時ぞ香はまさりけり

 

「箙」という字を印刷物以外で見ることは稀であろう。蛇足としてもう1つ書き加えると、著者が萩市から山口市に居を移したとき、茶席の床柱だけは記念になると思って大工に頼んで動かした。すると天井裏に大きな欅の一枚板が見つかった。下ろしてよく見ると、縦50㎝、横90㎝、厚さが2㎝の黒ずんだ板一杯に、「箙」の一字が大きく浮き彫りされており、半ば剥げ落ちてはいたが、金箔まで塗られたものであった。金箔は剥げてはいたが、なかなか貫禄のある達筆であった。

 実は明治になる前、我が家は酒造業を萩で営んでおり、曾祖父は天神様を信奉していた。天神と言えば梅である。彼は梅屋の屋号をつけ、酒銘を「箙」としていたと話には聞いていた。従って彼は「箙の梅」なる故事を知っての上で命名したと思う。話の実証となるものを目にしたときは、時が逆行した感じでいささか驚いた。

 以上見てきたように、漱石は弓矢に関する俳句をいくつか詠んでいる。そこには彼自身の体験に基づくものの他に、『平家物語』、『保元物語』そして『源平盛衰記』など軍記物を読み、そこに描かれた武士たちの潔さ、武士としての矜持、敵とはいえ相手をいたわる情け心、さらにものの哀れを感じて、歌にすることさへ出来る教養の高さ、こういったものに共感して句作したと思われるものが数えられる。

 最後に一言。漱石が第五高等学校に転勤して間もなく、「俳句とは一体どんなものですか」という寺田寅彦の質問に答えて、「秋風や白木の弓に弦張らんと云ったような句は佳い句です」と言って、向井去来の句を紹介しているが、漱石も時として、去来と同じ心境になって、「よし、爽やかな秋になった。一つ引いてみるか」と、弓に弦を張ったこともあるだろう。このように考えると、「月に射ん的は栴檀弦走り」も、単に為朝の雄姿を客観的に詠んだだけではなくて、「月影は良し、栴檀の板であろうと、弦走りであろうと、お望みの箇所何処でも射抜いて差し上げよう」と言って、きっと弓を構えた為朝の立場に自らを置いた漱石の、感情移入の句として見ることも、一つの解釈ではあるまいか。

   

(注1)『図書』2002年4月号、『弓道』2003年1月号

(注2)『平家物語』(新日本古典文学大系 岩波書店

(注3)栴檀の板は鎧の具で、胸板の左右の間隙防御の板で、狭義には右の札仕立(さねじた    て)をいう。弦走りは鎧の胴の正面から左脇にかけての部分。

                                            『日本国語大辞典』(小学館

(注4)『保元物語』(中根淑注釈 明治二十四年 金港堂)

 

 参考文献 『漱石全集』(岩波書店1996年版) 坪内稔典著『俳人漱石』(岩波新書