yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

漢字の読み、その他

 

 吉川英治の『宮本武蔵』を読んでいたらこんな文章があった。

 

 「深夜である。深山である。真っ暗な風の中を、驀(まつ)しぐらに駆けてゆく白い足と、うしろの流れる髪の毛とは、魔性(ましょう)の猫族(びょうぞく)でなくて何であろう。」

 

 私が気がついたのは、「深夜(しんや)」と「深山(みやま)」の読み方である。これにはふりがなが付けてない。と言うことは誰でも正しく読めると言うことだろう。これに「深緑(ふかみどり)」とか「深井(ふかい)」を加えたらこの三つの熟語の「深」は皆読み方が異なる。と言うことは、日本語の文章中の重要な部分である漢字の読み方が如何に難しいかということである。漱石の『三四郎』に次のような文章があった。

 

  「机の上を見ると、落第という字が見事に彫ってある。余程閑(ひま)に任せて仕上げたものと見えて、堅い樫の板を綺麗に切り込んだ手際は素人とは思われない。深刻(しんこく)の出来である。」

 

私はおやっと思って『広辞苑』を引いてみた。次のように説明してあった。

  

しんこく【深刻】

  • きわめて残忍なこと。
  • ㋐胸を打ち心に深くきざみつけられるさま「深刻な悩み」

㋑表現などが念入りに工夫されているさま「深刻な描写」

㋒切実で重大なさま「深刻な事態」

 

以上から見るとこの場合、漱石は「深刻」㋑と、実際に彫ってある、の両方を上手くこの熟語で表している。流石だと私は思った。

 

実は最近私はこの『宮本武蔵』と漱石の作品を読んでいるが、特に漱石は適当な漢字を持ってきて、これに相応しいふりがなを付けている。漢字だけでとてもそうとは読めないのが多くある。少し例をあげてみよう。

 

稜(ぴら)錐塔(みっど)  獅(すふ)身女(ひんくす)  該撒(しいざあ)  安圖(あんと)尼(にい)  

 

跪(かし)座(こま)る  胡座(あぐら)  繪畫(にしきえ)  倦怠(けだる)い  赤児(ねんね)  混雑紛(どさくさまぎれ)  駑癡(どぢ)

 

鬼灯(ほおずき)  軽侮(あなどり)  嘲弄(あざけり)  悪口(あくたい)  野卑(ぞんざい)  蜷局(とぐろ)  繽紛絡繹(ひんぷんらくえき)

 

明海(あかるみ)へ出る  躄(ひ)痕(び)が入る  御草臥(おくたびれ)なすった  豁達(はきはき)せぬ  逡巡(しりごみ)をする  辟易(ひる)む

 

漱石にしても英治にしても「ふりがな」をつけたように、読者に読んで欲しいのだと思う。その点英語など外国語は発音の仕方が難しくても辞書にあるとおりに読めばいい。この事を考えただけでも日本語は難しいと思う。然しこうしたことに興味を持って読めば日本語は面白いのでなかろうか。

ところが現在は、やたらにカタカナ文字が増えた。これには聊か閉口する。若い人は理解できるのだろうか。老人には無理だ。こんなのが出て果たして意味が分かるかと思う。

 

コンセンサスを得た (合意した)      アジェンダ (行動計画)

エビデンス (証拠)            スキーム (枠組み)

ペンデイング (保留)           キャパ  (能力)

 

以上の駄文を書いたのが2日前の7月18日である。そうすると今日は20が三つ並ぶ日だと思った。すなわち2020年7月20日だからだ。続けて書くと「2020720」となる。今日の午後十時二十分二十秒は、「2020・7・20・20・20・20」となる。このような日は滅多にない。

 

昨日次男の車で萩へ墓参りに行き、ついでに数カ所立ち寄った。その内の一ヵ所は、高校時代の友人の家である。彼は今年満九十歳で亡くなった。葬儀に出席出来なかったのでお悔やみかたがた焼香に行った。中学校に勤めていて真面目な男で、指月山の麓の運河の直ぐ側に住んでいた。十年以上にもなると思うが、ある日彼を訪ねたら一羽の青鷺が飛来して彼の家の庭にいた。彼の奥さんが小さな生魚を投げてやられたら、長い細い脚を動かしてつかつかとやってきて、長い首を地面に伸ばして、くくっと丸呑みした。

 

「あの鷺は最近よく来ます。私が鰺(あじ)を指月橋の上で釣っていると、貰おうと思って近づくのです。だんだん慣れてきて、今では私の手からで直接咥(くわ)えます。」

 

このように云って居られた。然し奥さんと私の友人以外は警戒して一定の距離を保って、決して間近までは来ない。いつぞや珍しいからとテレビで紹介されたと聞く。

 

昨日この青鷺が来ていて久し振りにその姿を見た。可なり年取った風に見えた。長い首の周りは以前はふさふさと白い毛で覆われていたと思うが、大部抜け落ちて窶(やつ)れた感じだった。それでも奥さんには餌を貰おうとして近づいていった。

 

「主人が亡くなって人が早々したので一週間ばかり姿を見せませんでしたが、それからまた来ます。一人になって淋しいですが、鷺が来てくれてありがたいです」

 

こう云って鷺の方に向かって「ごんちゃん。おいで」と言われると、近づくのであった。

「ごんちゃん」は奥さんが名づけた呼び名である。私も「ごんちゃん、おいで」と云って、提げていたカメラを向けた。奥さんと鷺が向き合った良い写真が撮れた。

 

生きとし生けるもの皆気持ちが通ずると私は思う。たとえ小さな小鳥でも懐(なつ)くのだ。このような割と大きい鳥となると、人の気持ちが分かるのだろう。だから動物の虐待はしてはいけない。例えば魚釣りでも単なるレジャーで行うのはどうかと思う。

私が教師になったころだからもう六十年以上も前だが、アフリカの原始林で黒人の患者の救済に生涯を捧げたシュバイツアーが、自分の思想を纏めて『生への畏敬』という本を出版された。私はそれを読んで生徒達によく話した。私はその後『THE WORLD OF ALBERT  SCHWEITZER』とうい写真集を買って見てみた。エリカ・アンダーソンというアメリカの女性の写真家が撮ったもので、中々立派な本だった。

久し振りに本棚から取りだして見てみると、シュバイツアー博士のクリスマスのメッセージの写真があった。博士が病院の職員や患者並びにその家族たちに向かって話して居られる手前に、二羽のペリカンが謹聴して居る写真である。アンダーソン女史は次のように書いている。

「シュバイツアー博士のクリスマス・メッセージは、人々のみならず鳥たちからも尊敬の念を以て耳を傾けられた。」

外に、病院のある近くの船着き場に大きな椰子の木があり、その側に白いヘルメットをかぶった博士が立っていて、近くの水際に数羽のペリカンが首を伸ばして、水中に嘴を突っ込んでいる写真があった。原始林では人間を始めとして全ての生き物が共存して居るように思える良い写真だ。もう一枚は博士が仕事机に向かって何か読んで居られるその机の上に、可愛い子猫がその読み物をのぞき込んでいるような写真である。

まだ外にも、博士の腕の上に小さな蜥蜴のようなものがいたり、博士が足首に包帯を巻いた子鹿をいたわっておられる写真など。これらの写真の説明として次の言葉があった。

 

「それは私には全く不可解な事でした。―これは私が学校へ行き始める前でした―

何故私の夕べの祈りで、人間に対してのみ祈らなければならないのか。そこで母が私と一緒にお祈りを終えてお休みのキスを私にしてくれた後、私は全ての生き物にたいして、私自身が創作したお祈りを静かに付け加えました。それはこのようなものです:

『おお、天なる父よ。命ある全てのものを保護し祝福してください。全ての悪から彼らを守り彼らを安らかに憩わせて下さい。』」

 

また博士がこんなことを言って居られたのを読んだ覚えがある。

 

「私は腕に止まった蚊でも叩きつぶさないでそっと逃がしてやる」

 

さすがに「密林の聖者」と言われ、ノーベル賞を受賞されるに値する偉大な人物だったとつくづく思うのである。しかし今はシュバイツアーと誰も言わなくなった。何故なら彼の「白人は兄、黒人は弟。兄である白人は未熟な黒人の世話をする立場にある」という言葉を、「上からの目線で、黒人を蔑視している。人類は全く平等であるべきだ」という左翼共産主義的な考えが主流となった現在では、過去の人として葬り去られたように思う。

たしかに時代の流れと共に考えは変わっていくが、シュバイツアーの時代だけではなく、今でも彼の人類愛の精神は受け継がれるべきだと思う。

最近「ブラック ライヴズ マター」といって、アフリカ系アメリカ人に対する警察の虐待行為に抗議して、非暴力的な市民的不服従を唱える組織的な運動がアメリカで広がっているが、シュバイツアーの人類愛の精神は、こう言った運動の対象には決してならないと私は思う。彼らはチベットウイグル地区での非人道的な暴虐行為には目を向けようとはしない。これは誰が考えても納得できないことである。真の意味での人類平等の考えに基づいて行動したら、彼らの行動は始めて多くの人の認めるところとなるであろう。

 

                         2020・7・20 記す

 

古い手記から

                  一   

 

平成十年の夏、私は先祖代々住んできた萩市を後にして山口市に居を移した。その時古い桐箱を持ってきた。箱はすっかり変色して黒ずんでいた。箱蓋の右上に紙が貼ってあり、「梅屋七兵衛 毛利家御用にて長崎下向ノ一件書類 願書併勤功書」と墨書してある。「長崎下向ノ一件」とは曾祖父が慶應二年から三年にかけて、武器を調達するために長崎へ、さらに上海へまで行った事に関連したものである。箱にはこれとは関係の無い書簡など雑然と混じっていた。私はこれらの中から関係書類ではない一通の手紙(手記)を見つけて読んで見た。今回それについて少し書いてみようと思う。

 

「手記」は、大賀幾介(幾助とも綴る 号は大眉)という人物を中心に、彼と関係のある人たちが、維新前後に活躍した様子についてである。多くの人には何の興味もないかも知れない。しかし子供の頃から聞かされた話でもあって私は興味を覚えた。この手記を残した人は山本マサといって大賀大眉の二女である。

 

父は大谷(大屋)に生まれ本家の熊谷町の大賀家へ養子に行かれ長男市介が生まれましたが、養家に納まって居る人でなく、子の有る中を出て大谷に帰り、浜崎の村田家から私たちの母が嫁いで来られたのです。

大谷の大賀家は代々酒造家で父の両親がやって居られた。父の母は三浦観樹将軍の母堂の姉でしたが、中々しっかりしたお祖母さんでした。父は真面目に酒造などして居る人でなく、国中に奔走するため小畑の泉流山に行かれたらしいです。

其所(泉流山の屋敷)はつまり同志の密会所で折々深夜に御客様があり、其の座敷へは何人も入ることを許さず、お給仕は次の間まで母が運んで居たそうで、そして又深更皆様の御帰りに父も同行で、そのお出かけには、此れ限り帰宅出来ぬかも知れぬ故、その覚悟で居る様にと申しては出たそうです。何でも小畑の浦から小船で何所かへ行かれるらしい、そんな事が何回もあったと母から聞かされたことがあります。

三浦さんは私の小さい時お常姉の養子に来て居られ大賀松次郎と名乗って奇兵隊で糸鞘の長い刀を差して居られ私等は松兄さん松兄さんと甘えたものです。其後三浦家の本人が病気のために姉と一緒に実家へ帰られたが、三浦家は安藤と云ってやはり小畑でした。

泉流山には陶器窯があり職人も絵書きも沢山居たようですし父も茶碗等に絵や都々逸等を自分で書いたりして楽しみにして居ました。

 

先ず大賀幾介(号大眉)についてであるが、萩博物館が発行している萩市出身の有名人を紹介したパンフレットが役に立つ。小さな縦長の紙片(薄色の紙で縦21センチ、横約10センチ)であるが、さしあたり是が便利なので借用させてもらうことにする。薄い空色の縦長の紙の表面に、横書きで次のように記載されていた。

 

経済・産業 幕末にパンづくりを試みた商人 大賀(おおが)大眉(たいび)

その下に彼の肖像、(写真参照 この肖像画は私の父が画いたもの)

【生没年】1827~1884(文政10~明治17)【享年】58

 【誕生地】長門国萩大屋(萩市椿)【墓】萩市北古萩(梅蔵院)

裏面に人物紹介が要領よく簡潔に書かれてある。

酒造業を営む大賀家に生まれ、名は幾(いく)介(すけ)、春(はる)哉(や)とも称し、大眉と号した。31歳の安政4年(1857)松下村塾に入り、增(まし)野(の)徳(とく)民(みん)や吉田(よしだ)稔(とし)麿(まろ)らとともに『孟子』の会に参加した。翌年、吉田松陰から情報収集を託され、岩国方面へ赴く。また大原(おおはら)三位(さんみ)下向(げこう)策(さく)など松陰の一連の政治的画策では兵糧米担当を予定された。

元治(げんじ)元年(1864)奇兵隊の屯所に出入りし、慶応元年(1865)下関の桜山招魂(さくらやましょうこん)場(じょう)(現在の桜山神社)の建設に尽力。萩前小畑(はぎまえおばた)の泉流山窯(せんりゅうざんがま)(文政9年〈1826〉開窯)の古窯を復興し、自ら絵付けして磁器を焼くかたわら、志士の集会所としても場所を提供した。また奇兵隊に対しては、資金的な後方支援も行った。慶応2年、長州戦争(四境(しきよう)戦(せん)争(そう))の直前に兵糧用のパンの製造が許可され、藩から補助金が支給された。

明治3年(1870)諸隊の脱隊騒動のさい武器や弾薬の買い入れに奔走した功を賞される。その後、脱隊騒動を鎮圧し木戸(きど)孝(こう)允(いん)の使者として下関を出航し、大阪に出て鎮台出入りの御用商人となった。また、砂糖会社や製靴工場などを経営したともいわれている。

 

以上がパンフレットに見る幾介の略歴であるが、ここで私の手元にある『大賀家系図抜粋』を見てみると、大谷(おおや)の大賀家は分家で、「手記」にあるように幾介は本家の大賀家の養子となり一子が出来たが、彼の兄が十七・八歳のとき亡くなっていたので、生家に戻って家を継いでいる。その後結婚して生まれた次女(マサ)がこの「手記」を語り伝えたのである。

幾介の従弟にあたる三浦梧楼(号観樹)についても、例の紹介文を利用させてもらうが、こちらも同じ規格の淡い桃色の紙片である。

 

政治・軍事 脱藩閥を目指した陸軍中将 三浦梧楼(みうらごろう)、との見出し下に肖像写真、さらにその下に【生没年】1846~1926(弘化3~昭和元)【享年】81【誕生地】長門国萩中津江(萩市椿東)【墓】東京都港区(青山霊園

 

裏面に略歴が記載されている。

下級武士五十部(いそべ)家に生まれ、のちに三浦と改称する。藩校明倫館に学んだあと、奇兵隊に入り、慶応2年(1866)四境戦争(幕長戦争)に従軍。明治元年(1868)戊辰(ぼしん)戦争では鳥羽・伏見、北越など各地を転戦した。

明治2年(1869)、奇兵隊ほか諸隊が起こした脱隊騒動の鎮定に尽力し、翌年、兵部省に入る。明治4年、陸軍少将、東京鎮台司令官、明治8年、元老院議官を歴任。明治9年、広島鎮台司令官となり、萩の乱を平定した。明治10年の西南戦争時、第三旅団司令官として出征し、翌年、陸軍中将、西部監軍部長に昇進した

明治14年、鳥尾(とりお)小弥(こや)太(た)らとともに北海道開拓使の官有物払い下げに反対したため、陸軍士官学校長に左遷される。さらに陸軍改革を主張したため山県(やまがた)有(あり)朋(とも)らと対立し、明治19年に免職となった。その後、学習院長、貴族院議員を歴任。明治28年、朝鮮国駐在特命全権公使となり、朝鮮における日本勢力の回復を図って閔妃殺害事件を主導したため、広島で一時拘禁された。明治43年、枢密顧問官に就任。大正政変後は政党勢力を重視し、党首会談を仲介した。

 

観樹について詳しく知るには、『観樹将軍回顧録』(中公文庫)がある。鷗外がドイツ留学の際、初めて将軍に会ったときの印象を『獨独日記』に書いている。鴎外は明治十七年十月十一日にベルリンに着いた。

 

十九日。三浦中将の旅宿Zimmerstrasse96を訪ふ。色白く髭少く、これと語るに、その口吻儒林中の人の如くなりき。われ橋本氏の語を告げて、制度上の事を知る機會或は少からむといひしに、眼だにあらば、いかなる地位にありても、見らるるものぞといはれぬ。

 

鷗外に托された「制度上の事を知る」とは、西南の役コレラが蔓延し頭を抱えた新政府軍つまり日本陸軍にとって、ドイツの衛生制度の研究調査に基づく衛生学の確立は至上の急務だったようで、鷗外は此の制度研究を立派に成し遂げ日露戦争では伝染病の予防など衛生面では大いに貢献した。この事が勝利の一因とさえ云われているが、何と言っても脚気の問題では彼に責任があると思われる。

しかし鷗外は衛生制度の研究だけに専念したのではなく、よく学びよく遊んでもいる。とくにドイツを含む西欧の文学・哲学の理解にその才能を発揮した事は、帰朝後間もなくして書いた『舞姫』『うたかたの記』『文づかい』の留学三部作や、後年の『妄想』などから窺える。

 

上記の日記に、観樹が「口吻儒林中の人の如く」と鷗外は書いているが、その時の観樹は三十八歳に過ぎない。儒学者の仲間の一人のような印象を鷗外に与えたとしたら、漢学の素養が相当あったものと思われる。

全く同じ印象を私の伯母が語っている。大正三年に阿武郡立実家高等女学校を卒業した翌年、父親に連れられて上京し、遠州流の宗家小堀宗忠師に師事したのであるが、上京すると直ぐに三浦観樹のところへ挨拶に行っている。「観樹将軍は儒学者のようだった」と云っているが、その時観樹は六十九歳であったので、そのように伯母は強く感じたのであろう。祖父は彼が書いた一幅の掛け軸をもらって帰った。私は毎年雨季になるとこれを床に掛ける。書かれているのは漢詩である。読み下してみると下記のようになる。

 

鬱々(うつうつ)黄梅(おおばい)の雨 鳴(めい)蛙(あ)友を呼ぶこと頻(しき)りなり 

素(そ)門(もん)人遠しと雖(いえど)も 松竹自ずから隣(となり)を為す

 

これは隠者の風を慕う所懐のようである。上記の『回顧録』に観樹が少年時代に學問を志した記述がある。

 

「昔は十五になれば、皆元服したものである。其折り、何と云ふこともなく、不圖學問を仕たいと云ふ気が起って、今までの悪戯友達と離れ、土屋蕭(つちやしょう)海(かい)と云ふ漢學者の塾に入って、勉學することとなった。是れが我輩の學問を志した初めであった。

それから萩に明倫館と云ふ藩黌(はんこう)がある。此の明倫館に入るには、夫れぞれ資格があって、小祿のものは、這入ることが出来ぬ。陪臣の如きは、如何に大祿でも絶対に許されぬ規則があった。我輩も其れに入る資格がない。ソコデ三浦道庵と云ふ人の附籍となって、入黌の資格を作ったもので、此附籍の事を「はぼくみ」と称へた。「はぼくみ」とは「はぐくみ」と云ふことで、育と云ふ字を書く。我輩が三浦の姓を冒したには、全く斯う云ふ事情からである」。また「文事あるものは武備ありと云ふが、我輩は軍務に服しても、學事を忘れず、毎日の日課として、司馬温公の資治通鑑を、二巻づつ必ず讀むと云ふことに定めて居ったのである」。

 

此の後、『回顧録』の記述は観樹の刃傷沙汰や奇兵隊始末記、高杉晋作木戸孝允との情誼、反対に山縣有朋との確執、閔(みん)妃(ぴ)殺害事件、晩年政界の黒幕として政府・政党間の調停画策などへと続く。この『回顧録』は観樹のすぐれた記憶力による会話のやりとりなどがふんだんにあって、全巻五百七十頁にも及ぶ浩瀚なものであるが、自慢話ながら結構面白いものである。

 

                 二

 

いささか脱線したのでマサの「手記」に戻ろう。

 

 明治になってから大阪でとても鳴らしたものだそうです。堂島のタミノ橋北詰に大きな屋敷があり、此の時代が一番盛んでした。離れ座敷には何時も食客が二三人、多い時は五六人も居りました。御飯炊きにはお相撲の取(とり)的(てき)(ふんどしかつぎ)が来てゐると云ふ調子でした。

此の食客の中に加島と云ふ油絵の画家が居り、その人が今残って居る父の肖像画を絵いたのです。その頃陸軍少将か中将に三好と云ふ方があり、その奥さんは仙台の旅館の娘で、父の養女にして三好家へ嫁がれました。

石碑を建てる心配は今の朝日新聞社上野精一氏のお父さんで上野理一さんと云ふ方が主になって建てて下さったのです。

父は何でも事業の組み立てをすることが上手で関係もよいので、何んな事でも許可が付ます、けれどそれを自分でいつまでもやって居る人でなく、人に譲ってやらせるのが好きでした。

藤田傳三郎さん等も萩から出て来て何か仕事をさせて頂き度いと云ふので、大賀にだいぶ長く居られたことがあり、それではと云ふので、自分がやりかけて居た陸軍納入靴の製造を譲ったのです。其れが発展の緒になってあんなに大成功せられたのですから長い間毎月藤田家から大賀家へ仕送りがあり、大賀幾太(熊谷町大賀市助の長男)の帝大卒業までの学資も此の金を充てたので、相当に大きい金だったように思います。

 

砂川幸雄著『藤田伝三郎 雄渾なる生涯』(草思社)という本がある。九十冊以上もの参考文献・引用資料に基づいて、「歴史の霧のなかから一代の英雄・藤田伝三郎を掘り起こし、その虚像をことごとく取り払い、等身大で真実の姿を明らかにしたのがこの本である」と、表紙の裏に記載してある。またここで、萩市出身の有名人紹介のパンフレットを借用させてもらうことにする。

 

経済・産業  藤田組を興した関西財界のリーダー   藤田伝(ふじたでん)三郎(さぶろう)

【生没年】1841~1912年 (天保12~大正元) 【享年】72

【誕生地】長門国萩南片河町(萩市) 【墓】京都市東山区知恩院

 

酒造家藤田半(はん)右(え)衛門(もん)の4男として生まれる。萩では醤油醸造業を営むかたわら、多くの志士と交わり尊皇(そんのう)攘夷(じょうい)運動を支援した。

  明治2年(1869)商工業発展に尽力することを決意して大阪に出て、軍の御用(ごよう)達(たし)

に従事。明治14年に藤田組を創設、京都・大阪間鉄道建設や琵琶湖疎水工事を請け負い、秋田県の小坂(こさか)鉱山、大森鉱山(石見銀山)などや、岡山県の児島湾干拓によるわが国初の機械化農場を経営。わが国初の私鉄阪(はん)堺(かい)鉄道(現、南海電鉄)設立や大阪紡績会社(現、東洋紡)操業、宇治川電気(現、関西電力)創立にも関わった。

 社会文化事業では、明治11年(1878)大阪商法会議所(現、大阪商工会議所)を創設し、2代頭取に就任。大阪日報(現、毎日新聞)の再興や、秋田鉱山専門学校(現、秋田大学)・大阪商業講習所(現、大阪市立大学)の設立に寄与。古美術品の収集に力を注ぎ、その収集品は藤田コレクションとして名声が高い。郷里萩にも多額の寄付をした。日本水産創業者の田村市郎、日立(ひたち)鉱山を創業し日立製作所の基礎を築いた久原房之(くはらふさの)助(すけ)は甥。

 

 華々しい経歴である。藤田伝三郎に関しては、噓の伝記や偽の講談本など多く出回っていたそうで、何と言っても一番信用できるのは大正十二年発刊の岩下清周著・発行『藤田翁言行録』(以下『言行録』)のようである。砂川氏はこれを第一の参考文献として挙げており、これに拠って筆を進めたと思われる。しかし私にはどうも腑に落ちない点がある。それは傳三郎が明治二年に大阪へ出て、早速靴の製作を始め、それが端緒となって成功への道を上り詰めたと云う記述と、「手記」に書いてある内容がどうも日時の点で符合しない。

大眉が大阪へ行ったのは、「手記」に拠れば明治三年より早くはないようである。一方傳三郎は明治二年に行ったとある。しかも「手記」を見ると、彼は当分仕事がないので大眉の世話になっている。年齢から行っても十四歳も違うので、大眉が世話をした事は肯ける。もう一つ不審に思うのは、大眉がやりかけていた靴の製造を傳三郎に譲ったことについて、傳三郎は殆ど言及していない事である。もっとも『言行録』には明記されていないが、恩を感じていたことは、大眉の孫の学費など全面的に援助している。この点は見上げたものだと言える。『言行録』に次のような記事がある事から両者の関係は以前からあったと思われる。

 

もともと私は、同郷の大賀幾助氏(文政十年生まれ。傳三郎より十四歳ほど年上)の養子になる約束だったので、直接大賀氏に会い、右の理由を詳しく説明した。すると同氏は私の行動に大いに賛成してくれ、養子縁組の破約を快く承諾してくれた。このような事情のもとに私は分家を再興したのである。

 

『言行録』の序文に三井財閥の大番頭であった益田孝が下記の文章を寄せている。傳三郎の一面をうかがわせるから、摘記してみよう。

 

次に予が翁に敬服したるは、好んで他人の説を傾聴せられたるにあり、各種の人々が翁に向かって説く所、必ずしも名論卓説に非ず、或は翁自身も心中には、無益の口と思はれたこと多かるべし、然れども翁は決して粗略の態度を示し、倦怠の色を現はされたる如きことなかりき、左れば翁に対しては、何人も云んと欲する所を云ひ尽くし得たり、この事は実に学び難き翁の美徳なり、何人も自己を信ずること篤ければ篤き程、自己の勢力大なれば大なる程、他人の説に耳を貸すこと吝(やぶさか)なり、況んや有用ならざる言に対しておや、翁の如き自信に篤き偉大な人物が、好んで他人の説を傾聴せられたるは益々以てその偉大を証するに足る、而も翁は徒(いたずら)に他人を喜ばすが為に、貴重な時間を割かれたるにあらず、其言取るべきものは、必ず之を脳中に蓄へて、他日の用に供せられたるべく、且つ席上に於ても、対手の眼球を刺すが如き、直截明快の言を挿(はさ)み、説者をして驚嘆せしむること屡々なりき、故に人々皆翁が、真に自己の諸説を洞知せられたるものとして悦服せり、翁に一種の強大なる引力ありて、政治家にもあれ、軍人にもあれ、商人にもあれ、大阪を過ぎるものの足、必ず網島に向かひたる所以(ゆえん)のものは、此特長によりて然ること少なからざるを信ず。

 

傳三郎はこのように実業家として大成功を収めているが、その端緒となったのは大眉のお陰だと思われる。

「手記」に「石碑を建てる」という話がでている。石碑建立が実現したのは、大眉が亡くなった三年後の明治二十一年十月である。発起人の上野理一は朝日新聞社の創業者で、同じく創業者の一人であったのが村山龍平で、漱石は村山氏が社長の時東大を辞めて朝日新聞社に入社している。顕彰碑を山県有朋が書いているがが、実際に文を撰したのは別人だろう。原文は漢文で書かれてある。

   

大賀大眉君墓銘    陸軍中将従二位勲一等伯爵 山縣有朋題碣

萩城外大谷邨(おおやむら)に大賀大眉なる者有り。家業醸にして而して君学を好んで自立す。性豪爽にして洒落(しゃらく)、市井の間にて面目を作さず。好んで士大夫と交遊す。萩城の士大夫にして大眉生なる者を識らざる者無し。尊攘の事起こるに及んで君明治中興に最も尽力す。後家落、徒(うつ)って大阪に居す。君素(もと)より雅にして書生の如きと雖も、然かも廃居之術(はいきょのすべ)に於いて頗る権数(けんすう)有り。屡々(しばしば)人の為に画策し以て利を謀(はか)るに多く、中を取る有るのみ。則ち粛然として一貧(いちひん)以て意と為さず。為人(ひととなり)談諧(だんかい)を好み、音吐(おんと)朗(ろう)然(ぜん)四座(しざ)を驚かすに足る。善く國雅を作る、尤も俚歌に工(たくみ)なり。所謂都々一調(どどいつのしらべう)は其の作る所なり。殊に哀艶にして人心の竅(きょう)に入る。一篇出る毎(ごと)に梨園(りえん)争って之を傳唱す。君を亦栩々(くく)然(ぜん)として以て自負(じふ)す。

君の名は幾助、大眉は其の号なり。明治十七年八月二十二日病んで大阪に没す。年五十八、超泉寺に葬る。天下君を知る者、相臣勲将、文士巨(きょ)賈(か)、方外(ほうがい)の妓(ぎ)流(りゅう)皆流涕(りゅうてい)せざるは莫(な)し。金を率(つの)りて以て碑を建て余之が為に銘す。銘して曰く。

賈にして士、士にして儒、儒にして文士、文士にして壮夫なるかな。龐(ほう)然(ぜん)として其の面(かんばせ)蓬然、其の眉吁嗟(ああ)大眉なり。

 

「廃居之術に於いて頗る権数有り」の文中にある「廃居」とは「物価の安い時に買いたくわえて、価格の上がるのを待つこと」の意で、「権数」とは「権謀術数」のこと。また「屡々画策し以て利を謀るに多く、中を取る有るのみ。則ち粛然として一貧以て意と為さず」とあることから、彼は人の為には謀っても、自らは金銭に恬淡としていたようである。これは「手記」の記述と一致する。したがって傳三郎に製靴の仕事を譲ったのは事実と思われる。

彼は「洒落(しゃらく)」であって「洒落(しゃれ)」ではなく、物事にあまり頓着せずさっぱりした性格で、しかも性豪爽だとある。私が父から聞いた話に、維新前後、長州藩は正義派と俗論派が相争っていたある夜、大眉は俗論派の頭目の一人、椋(むく)梨(なし)藤(とう)太(た)の家の門前に「大糞を垂れ」、悠々と帰宅したとか。

大眉は梨園つまり遊里において相当持てたようで、私は紀伊國屋文左衛門や山科に蟄居中の大石良雄を思い浮かべた。

大眉は確かに大きな眉の持ち主で、彼の肖像画を見れば一目瞭然。そのために「大眉」を自分の号にしたのである。「龐(ほう)眉(び)皓(こう)髪(はつ)」と云う言葉があるが、それは「太い眉と白い髪」で老人を意味すると、辞書にある。

三善貞司編『大阪人物辞典』(清文堂)を見ると「大賀大眉」の事項がある。

 

奇人、世捨て人。文政十年(一八二七)萩の生まれ。名は幾助、生家は当地では知られた醸造元。侠気に富み青年時代は尊皇攘夷の思想が強く、故郷を飛び出して国事に奔走、勤王派の志士に混じって働くが、明治維新の世情一変に適合できず、体制派となったかっての仲間からも離れ、大阪へ閑居した。大眉は策略を用いて人のために利を計るのが好きで、知友の危機を救うが自分は貧者の暮らしに甘んじて、世俗を超越した。晩年の彼は俚歌が巧みで、特に都々逸に長じ、「一篇出るごとに南北の梨園争ひ伝て唱ふ」といわれるほど、新地などにも流行したようだ。冗談が大好き、四囲をよく驚かしたとも伝えるから、かなり自己韜晦型だったようだ。明治十七年(一八八四)八月五七歳没。

 

晩年の「世俗を超越した」大眉の人柄が判って面白い。今は彼の若い頃の一事に目を向けてみる。

「尊攘の事起こるに及んで君明治中興に最も尽力す」とあるが、大眉は若いとき町人の身でありながら志士と交わり、身を挺して彼等と行動を共にした。『伝記』にパン製造の許可を得てパンを作り四境戦争に役立ったとある。

実はこのパンの製造法を最初に紹介したのは中島治平という蘭学者である。治平は同時に通詞でもあり、長崎へ行って勉強し、医学をはじめ、製鉄やガラスの製法も学んでいるが、他にも色々と西洋の文物を研究し紹介している。私は彼が作ったという小型の蒸気機関車の模型を以前萩博物館で見た。彼は発明の才もあり時代に先んじた人物だったと思われる。大眉は治平からパン製造法を教わったのである。

私が生まれ育った萩市の同じ町内に治平の旧家がある。門前に「中島治平𦾔宅地」の石碑が立っている。名前は忘れたが小学時代に中島という姓の同級生がいた。治平の子孫だとは後で知ったのだが、彼の家へ遊びに行ったことがある。門を入って細長い路地を通り、家の中へ一歩入るとなんだか薄暗かったように記憶する。彼は痩せてひょろ長い体つきで、色白の温和しい性格であった。早世したのかもしれない。旧制萩中学校では見かけなかった。

中島治平については昭和二年に発行された『山口縣阿武郡志』にやや詳しく載っているのでその一部を紹介しよう。

 

當時西洋の學術を修むるもの少きを以て聿徳(筆者注:治平は通称)の如きは醫家、兵家、工藝家、本草家等の諸流に関係し、常に多忙にして客門に絶えず、夜は諸生に洋書を授け諄淳として倦まず、教授して鶏鳴に及ぶことあり。青木周蔵、増野順吉は當時の門生なり。小野為八寫眞術を究む、亦聿徳に學べりと云ふ。しかして彼の攘夷説を唱ふるものは多く洋學を忌み、聿徳の如きは固より猜忌する所となり、往往危難に瀕せしことあり。之を顧みずして専心その學術に盡したるは尋常の人に非ずといふべし。

 

大村益次郎(旧称 村田蔵六)と言えば知らない人はなかろうが、治平は「國内諸處の鐵鐄調査の為北条源蔵、村田蔵六と各地に出て探検を為し、製鉄の事を研究し、又火薬バトロン製造銃砲鋳造を研究す」とあるように、西洋の各種学術を学び、慶応二年に藩の舎(せい)密局(みきょく)頭取に就任した。今なら理化学研究所所長と云った地位、もしくはそれ以上の存在かもしれない。しかし惜しくも彼はその年に四十四歳で亡くなった。もっと長生きしていたら、大村益次郎のように名をなしていたかもしれない。

ついでながら、大眉の記念碑は超泉寺といって大阪天満にあったようだが、先の空襲で壊滅し今は跡形もないとのこと。

 

 

                    三

 

「手記」の最後までを見てみよう。

 

それから私達子供は弟姉妹十八人で、私は二女。第十八人目が山口十八(子爵山口素臣の養子)で、直兄(十八のすぐ上の兄)が石本祥吉(元陸軍大臣を勤めし陸軍大将男爵石本新六)の兄石本綱の養子となり存命中。綱は姫路藩の家老に次ぐ家柄に生れ維新の際には藩主に召し出され一戸を賜はりたる英物らしく、国事に奔走し、その機会に長藩の志士とも交り父大眉と親交となりしものと思はる。

綱と新六(陸軍大臣大将たりし)とは兄弟にて綱が陸軍省に在勤中の当時は中佐にて弟新六は大尉の時綱は没したるものにて、新六は日露戦争の功によりて男爵を授けられた。

十八は陸大卒業後フランスへ留学し、その帰りには彼方で御逝去遊ばした宮様(北白川宮様であったかと思ひます)の御遺骸の御伴をして帰った寺内寿一さんとも同期でした。(十八は先年少将の時に死亡)

この寺内さんや石本祥吉、山口十八が少尉時代の事ですが、伊藤博文公が朝鮮から李王殿下を御連れしてお帰りになった時伊藤公の官邸に三人に伴われて参り,伊藤公にお目にかかりました。十八さんの紹介で私が大眉の娘であると云ふので父大眉の話が出ました。大分御心安かったらしいなと思ひました。

泉流山の裏山続きに澤様(七卿の澤三位様)の御妾宅があり御姫様が御誕生になり其の初雛を拝見に行き御菓子を頂いたことを覚へて居りますが、其れは何れも夢のような気がします。何分七、八十年も昔のことでせうから。澤様は長く大賀家で御匿くまい申して居りました。

それから明治十年でしたか萩の前原騒動の時には官軍の本陣もしました。私は九才頃まで泉流山の家に居ましたが山荘と云った様な家で茶室の水屋には山水が掛け樋で常に来て居りました。泉流山と云ふ名は翁が付けられた名称ではなかったかと思ひます。大眉翁の前の持主が誰れであったか判らぬのは残念です。父は泉流山には七十三年前に居ました。 それから翁は大阪の『つりがね町』で死去された時五十八歳でした。

 

大眉に子供が十八人も居たのには驚く。山口十八はそれこそ十八番目に生まれたから「十八」と名付けられたそうだが、彼が書いた『大賀家系図抜粋』を見まると、大眉は生涯に三人の妻を娶っている。子沢山でかなり甲斐性があったものと思われる。石本新六と云う名前を見て私はまた鷗外を思い出した。

明治四十二年七月二十八日以降の『日記』に下記の記入がある。

 

 昴(すばる)第七號發賣を禁止せらる。Vita sexualis を載せたるがためならむと傳へらる。

八月一日 諸雜誌にVita sexualisの評囂(かまびす)し。

八月六日 内務省警保局長陸軍省に来て、Vita sexualis の事を談じたりとて、石本次官新六予を戒飭(かいちょく)す。

 

石本新六の兄の養子に大眉の息子の一人がなっているが、新六は兄同様、筋金入りの軍人で、後に男爵陸軍大臣になっている。付言すれば、名著『石光真清の手記 四部作』と関係のある石光真人著『ある明治人の記録』を読むと、会津人でありながら陸軍大将になった柴五郎と新六は陸軍幼年学校同期である。

新六の部下であった鷗外が、雑誌『昴』などにたびたび文学作品を載せるのを苦々しく思って居たに違いない。それがこともあろうに鷗外が、自分の性(セックス)の歴史を発表した事は、軍人として許しがたい行為に思えたのだろう。鷗外は新六に「戒飭」つまり「戒め慎む」ように云われその後しばらくの間筆を擱(お)いている。これは鷗外の生涯でかなり重大な事件で、幾人かの批評家が指摘している。大眉とは直接関係のない事件だが私にとっては新事実。「澤様」は、文久三年(1863)に起きた公武合体のクーデターと深い関係がある。このとき、長州藩は京都堺町御門警衛の任を解かれ、三条実美ら七卿も罷免され、長州に走ったいわゆる「七卿都落ち」のメンバーの一人が澤宣嘉である。大眉が泉山流の自邸に澤を匿(かくま)い家族で面倒をみたことが「手記」から分かる。澤は尊攘派公卿として活躍し、明治元年(1868)に帰京すると、明治政府の参与・長崎府知事、さらに翌年には外国官知事・外務卿を歴任し、明治初年の外交を担当した。明治六年(1873)ロシア公使に内定し着任前に病死している。その翌年榎本武揚特命全権公使としてロシアに駐在した。澤は柔(やわ)な公卿ではなく、有能で行動的な公卿であったことが分かる。(『角川日本史辞典』)

 

前原騒動(明治九年)の事にも触れてある。これは周知の前原一誠等による「萩の乱」のことである。大眉の山荘が官軍の本陣になったとあり、その時の官軍の司令官が大眉の従弟の三浦梧楼(号観樹)だった。

梧楼はその時私の祖父に「大丈夫、心配することはない」と云ったとか。

これより少し前の事だと思われるが、祖父が二十歳(はたち)前の頃、前原一誠実弟の佐世一清に斬られかけたことがある。

佐世は「お前は梅屋七兵衛の息子だろう」と云ってむずと襟もとを右手で掴んだ。その時彼は負傷していた左手を懐手(ふところで)にして隠していた。刀を抜こうとして掴んでいた右手を一端離した隙に、祖父は一目散に逃げて柏村という親戚の家に駆け込み、大きな長櫃(ながびつ)の中に身を潜めて無事に難を逃れたようである。

七兵衛は大眉の義兄として彼と同じく町人ながら勤王の志を抱いて志士と交わり、慶応三年に上海から鉄砲を買って帰り、新政府側に援助の手をさしのべたりしている。

今から思えば、一連の反政府騒動は、明治新政府ができて明治六年の「徴兵令」が布告されて間もなくの事件である。明治七年には「佐賀の乱」、さらに明治九年には「熊本神風連の乱」とこの「萩の乱」、そして翌年には「西南の役」と立て続けに事件が起きた。まかり間違えば、わが国の歴史は大きく変わっていたことだろう。

松陰神社の社殿に向って左片隅に小さな細長くて四角い御影石の墓標が建っている。「明治九年萩の變 七烈士殉難の地」と正面に刻まれ、側面に前原一誠、佐世一清等七人の名前が読み取れる。多くの参拝者が神社を訪れても、ここに足を留めて彼等に思いを寄せる者は殆どいないのではなかろうか。

ここで上記のことに関連したことがあるので、一つ紹介しよう。私が山口市に居を移してしばらくして、市内の平川地区に住んでおられる一人の女性と知り合いになった。

ある日彼女が『みんしゅうの神様 隊中様』という絵本を持ってこられた。これは藤山佐(すけ)熊(くま)という「明治維新を成し遂げるうえで大きな力となった奇兵隊・諸隊のひとつである振武隊の隊士」について地元に伝わっている話を彼女が絵本にされたのである。

 

奇兵隊」や「諸隊」には百姓や町人、神官や僧侶、力士、少年たちも喜んで参加した。農民兵の多くは武士よりも勇敢に命をかけて戦い、若者の多くが犠牲になったが、その人たちはみんな尊敬されて「隊中様」と呼ばれた。山口市の郊外に「隊中様」と云われる墓がいくつもある。中でも平川地区の「隊中様」といえば藤山佐熊の墓で、毎年二月九日に祭りが行われてきた。

 

私は先年彼女の案内で祭りの当日(今は寒さを避けて四月九日に行われる)お墓参りに出かけた。平川の小出地域から鋳銭司に向かう山道をしばらく登った所に少し開けた場所があり、「藤山佐熊源正道神霊」と刻まれた墓が立っていた。今は人通りが全くない山道だが、以前は大村益次郎なども通った鋳銭司から山口への近道である。地区の人たちが多く集まって厳かに神事が行われた。この絵本は上手に画かれた絵に添えて、文章も判りやすく書かれてある。

 

「隊中様」のお墓に手厚く葬られている藤山佐熊は、阿武郡嘉(か)年(ね)村(現・山口市阿東町嘉年)で薬草なども栽培していた農民の息子(せがれ)でした。長州藩奇兵隊のひとつである振武隊に入隊して、世直しをねがう農民をはじめ庶民のために戦いました。また戊辰戦争でも越後(今の新潟県)あたりで戦い勝って山口へかえってきました。そのあと、命をかけて戦った兵士や、民衆のためにならない藩政府のやりかたを正そうとする「反乱」諸隊に加わっています。そして明治三年(一八七〇年)二月九日、平川の鎧(よろい)ガ垰で戦死した二十二歳の若者でありました。

 

最後に一言。私がこの「手記」を読んで感じたのは、まず「時代は人を生み、人は時代を作る」ということである。

大河ドラマ『花燃ゆ』は、当時の若者達の滾(たぎ)り立つ熱気を伝えようとしたが今一つ人気がなかった。多くの志士や名もなき兵士達が若くして命を落とした。しかし彼等は真剣に生きたのではないだろうか。ここに挙げた大眉、観樹、傳三郎たちも波瀾万丈の人生を送っている。青春時、彼等も砲煙弾雨の中、命を賭して戦い運良く生き延び、功なり名遂げるまでに至った幸運児と言えよう。

彼等がこうした人生を送れたのは、やはり戊申戦争に勝った長州閥の恩恵を受けたからであろう。関ヶ原の戦いに破れ、その後長州藩が辿った長い隠忍自重の歴史は今は脇に置くが、朝敵とされた会津藩のことを思えば、確かにその意味では運が良かったと言える。だが、彼等が本当に幸せであったかどうか何とも言えない。ただ彼等が真剣に生き努力した結果だということは、これまで見て来たことから窺える。従っておのが人生に満足し、ある程度達観して死を迎えたように思われることで、幸運であったのではないかと私は思うのである。しかし今、彼等のことを幾人の人が知っているだろうか。ましてや、先に紹介した「隊中様」のことなど。史上に残るような人でも、また優れたと思われる事業も、その多くは流れに浮かぶ泡沫(うたかた)の如く消えて逝く。

県立図書館で平岡敏夫著『佐幕派の文学「漱石の気骨」から詩篇まで』という本を見つけて読んでみた。漱石の博士号辞退問題から初期のいくつかの作品は、佐幕的反骨精神に裏付けられていて、薩長藩閥政府を徹底的に憎んだ内容だと書かれてあった。なるほどそういえば充分肯(うなず)ける。だがしかし問題は、漱石が何時までもそうした考えを持ち続けたかということだ。漱石は死を目前にして自分の心境を漢詩に托している。

眞蹤(しんしょう)寂寞(せきばく) 杳(よう)として尋ね難し

虚懐を抱いて 古今を歩まんと欲す

碧水碧山 何ぞ我(が)あらんや

蓋(がい)天蓋地(てんがいち) 是れ無心

依(い)稀(き)たる暮色 月 草を離れ

錯落(さくらく)たる秋声 風 林に在り

眼(げん)耳(に)双つながら忘じて 身(しん)亦た失し

空中に独り唱う 白雲の吟    (『漱石詩集全釈』二松学舎大学出版部)

著者の佐古純一郎氏は次のような【通釈】を書いておられる。

森羅万象の真実の相は、ひっそりとして静寂であり、まことに深遠で容易に知ることはできない。自分はなんとかして私心を去って真理を得ようと東西古今の道を探ねて生きてきたことである。一体、この大自然にはちっぽけな「我」などないし仰ぎみる天や俯してみる地は、ただ無心そのものである。

自分の人生の終わりを象徴するかのように暮れようとする黄昏どき、無心の月が草原を照らし、吹きわたる秋風が林の中を通りぬけていく。此の人生の最期に立って、もはや自分は小さい我の欲望や感覚を越え、自らの存在すらも無にひとしいように感じるのだが、そのような心境で空を飛ぶ純白のあの雲のような自由さに想をよせて、自分の「白雲の吟」を唱うのである。

佐古氏の次の言葉も、漢詩同様に「手記」とは関係ないが、書き添えて拙稿の結びとする。

この詩を作った翌々日の十一月二十日に、漱石胃潰瘍の発作で病床に臥し、それが死の床となった。それゆえにこの詩が文字どおり、漱石の最後の作品となったわけである。漱石が晩年に志向した「則天去私」のイメージがまことに鮮明に表現されて、漱石文学の精髄といってもけっして誇張ではないと思う。

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

床(ゆか)しい

 

数日前から読んでいる漱石の『門』を今日で読み終わろうと思って、目が醒めたのが四時半だったが、洗顔の後直ぐに机に向かった。主人公の宗助が鎌倉の禅寺へ行ったときの様子が書いてある。これは漱石自身の若いときの体験が基になっているようだ。こんな描写があった。

 

「大変御静な様ですが、今日はどなたも御留守なんですか」

「いえ、今日に限らず、何時も私一人です。だから用のあるときは構はず明け放しにして出ます。今も一寸下迄行って用を足して参りました。それがために折角御出の所失礼致しました」

宜(ぎ)道(どう)は此時改めて遠来の人に対して自分の不在を詫びた。此大きな庵を、たった一人預かってゐるのさへ、相応の骨が折れるのに、其上に厄介が増したら嘸(さぞ)迷惑だらうと、宗助は少し気の毒な色を外に動かした。すると宜道は、

「いえ、些(ちっ)とも御遠慮には及びません。道の為で御座いますから」と床(ゆか)しいことを言った。

 

この文章の少し後にこんな文章がある。

 

宗助は一見こだわりの無ささうな是等の人の月日と、自分の内面にある今の生活を比べて、其懸隔(けんかく)の甚だしいのに驚いた。そんな気楽な身分だから坐禅が出来るのか、或は坐禅をした結果さういふ気楽な心になれるのか迷った。

 「気楽では不可(いけ)ません。道楽に出来るものなら、二十年も三十年も雲水をして苦しむものはありません」と宜道は云った。

 

まず始めの引用文の最後にある「床しい」という言葉に、私は何かしら引かれるものを感じた。近来「心ゆかしい」、「奥ゆかしい」、或いは同意語の「雅(みやび)やか」「淑(しと)やか」「典雅な」「窈窕(ようちょう)たる」と云った言葉を全く耳にしない。およそこの言葉の反対を意味するような言葉で充満している。即ち、「がさつな」「慎みがない」「出しゃばる」「はしゃぎ回る」。これに加えて金(かね)、金(かね)、金(かね)といった言葉と、何でも早ければいいと言うスピード狂を反映する人間の欲望をあらわす言葉や事物で、現社会は狂わんばかりである。金も社会的地位も或いは時勢に遅れないと言うこともある程度は必要だが、いったん病気、それも認知症のような自己の喪失、自らを律することができなくなったら、こうしたものは何の役にも立たない。このようなもののみを生涯にわたって求め続け、本当の人間性、品位のある人格、奥ゆかしい心を全く無視して一生を送るとなると淋しいものだと思う。

 

山路来て何やらゆかしすみれ草      芭蕉

 

この句の中にある「ゆかし」が「すみれ草」の姿を象徴する言葉として相応しいと芭蕉は見て取ったのではなかろうか。松尾芭蕉は一六九四年に五十歳で亡くなった。それから七十六年後の一七七〇年に、日本をはるか離れたイングランドの北西部湖水地方の一角で、ウイリアム・ワーズワスが生まれた。私は今から十年ばかり前に、一人の友人と彼の誕生の地を訪ねたことがある。友人は北朝鮮清津(現在のチョンジン)に住んでいて、終戦と同時にロシア兵が侵入してきて、命からがら船で脱出したといったような話を旅行中語ってくれたが、数年前に亡くなった。旅は道連れというが実に良い友だった。その彼と「イギリスの田園巡り」のツアーに参加したときである。ワーズワスの生活していた所は、水と緑豊かな清閑の地といった印象を受けた。観光客もいるにはいたが、わんさと押しかけてはいないで、むしろ閑散としていた。ただ彼が住んでいた街並みで目に付いたのは、家毎に薔薇を植えていて、それが道行く人の目を楽しませてくれた。外の花には気づかなかった。私は朝早く起きて友人と二人でホテルのすぐ前の湖水まで行ってみた。白鳥が静かに湖面に浮かんでいた。

 

ワーズワスに『ルーシー詩編』というのがある。その中に次のような詩がある。

 

 その女(ひと)は人里離れて暮らした  

  鳩という名の流れの水源に近く。

 その女(ひと)を褒めそやす人はなく 

  愛する人とても数少なく。

 

 苔むす岩かげの菫のごとく

人の目につくこともなく。

    ―星のごとくに麗しく、ただ一つ

     輝く星のごとくに。

 

    人知れず暮らし、知る人ぞ知る。

ルーシーが逝ったのはいつ。

    地下に眠るルーシー、ああ、

     かけがえのないルーシー。

                  『ワーズワス詩集』(岩波文庫

    二番目の詩の原文の載せてみよう。

A  violet by a mossy stone

Half hidden from the eye!

Fair as a star, when only one

Is shining in the sky.

 

ここに訳出されている「菫」も芭蕉の歌った「すみれ草」もどことなく感じが似ている。ということは洋の東西を問わず、ワーズワスも「もののあわれ」を感じ取ったと思うのである。彼はこの慎ましく生きて寂しく死んだ田舎娘に密かに思いを寄せていたのかもしれない。

ここで私は「床し」という字に疑問を抱いた。何故「ゆかし」に「床」の字があててあるのかと。そこで『広辞苑』で「ゆかし」を引いてみたら次のような説明があった。

 

ゆかし・い【床しい・懐かしい】ゆか・し(動詞「行く」から。「床し」は当て字)

 

そこで私は「行く」という動詞を又辞書で引いてみた。非常に詳しい説明が載っていたので肝腎な個所だけ書き写してみる。先ずこう書いてあった。

(奈良・平安時代から「ゆく」と併存。平安・鎌倉時代の漢文訓読では、ほとんど「ゆく」を使い、「いく」の例は極めて稀。

 是だけではまだ分からないので、今度は『漢和辞典』で「行」の字を調べて見ることにした。そうするとこれまた多くの意味があることを知った。ずーっと見てみたらこのような意味が書いてあった。

 

《名》おこない。 ふるまい、身持ち、また佛に仕える者のつとめ。品行 修行

 

  これでどうやら「床しい」に「床」の字が当てて有るのが分かったような気がした。

 言葉とか漢字は、意味もだが読み方も結構難しい。鷗外や漱石の作品を読む時は、辞書を手元に置いていなければ、正確な意味を把握出来ないのではなかろうか。

 『門』には坐禅の事が書いてある。私は山口市に来て瑠璃光寺の参禅会の末席に一時名を連ね、坐禅の真似事をしたので、この名作を非常に興味深く読んだ。この事については後日気が向いたら書いて見よう。

                         2020・8・18 記す

川と海

 

私がほとんど毎日散歩する小道に沿って、清らかな水の流れている1メートル幅の細い溝がある。山口市には大きい川はないが三方面を山で囲まれているために、蛍で有名な「一の坂川」や、私が今住んでいる吉敷の地区を流れる「吉敷川」といった、やや大きい川の外に、今挙げたような清い水の流れる溝が各所にあるのに気が付いた。こちらに来て散歩をし始めたお蔭である。

濁って淀んだ川、その上悪臭でも立ち籠めていたら気分が悪くなる。しかし反対に清水がさらさらと流れているのを見ると、僅か1メートル、いや30センチ幅の小さな溝でも、そこに透き通った水が流れ、その上に日が射して小さな光の縞模様が輝いているのを見ると、たったそれだけでも爽やかな気持ちになる。散歩の途中でこういった流れを目にしないことはない。

我が家を出て広い自動車道路に沿った歩道を左へ、つまり南の方角へ500メートルばかり行った所に一軒の料亭がある。其処の駐車場の位置で、今歩いて来た道路の半分の幅の道が右手に枝分かれしてやや斜めに付いている。小道と言っても、車はかつがつ離合出来る道幅である。詩人中原中也の親戚の工学博士が当時の住民の便利のためにと建設したそうで、昔「中原道路」と呼ばれていたこの道の側に大きな記念の石碑が建っている。石に何か刻んであるが判読しかねる。私が歩くのは此の道ではなくて、さらにその道から分かれた、先に述べたような田圃道で、これは「道」というよりは「径」と書くべきだろう。

論語』に「行(ゆ)くに径(こみち)に由(よ)らず」という言葉がある。孔子より39歳も年少のある男が、醜男(ぶおとこ)であったが公明潔白で、往来を歩くにも近道や抜け道をせず、公用でなければ上司の部屋へ決して入らなかったとある。

 

私が今歩くのは「径」でも不適で、「畦道」と書くべきか。先日の夕方、その畦道の路上に薄緑の毬のようなものが五つ六つ転がっているのが離れた所から目に入った。近づいて見たら前夜の風で落ちたのであろう栗の実であった。その畦道に沿った溝川の向こう側は畑で、大きな栗の木が溝にかぶさるように枝を伸ばしていて、青々と繁った葉の中によく見たら薄緑色の栗が沢山なっていた。一種の保護色の様な感じだから,恐らく相当の数がなっているのだろうと思った。私は身を屈めて路上に落ちていたその美しい姿を見て、普通に目にする褐色の栗とは違う色に、何だか別のものを見ているような気がした。

 

私が昭和19年に県立萩中学校に入学した時、始めて英語を習った。筆記体の英習字の授業も最初の経験だった。今は塾とか何とか云って小学校に入る前から英語を学ぶ子供がいる。私の孫も今小学6年生だが、英語検定試験を受けたとか言っていた。隔世の感がある。最初の英語の教科書に次の文章があったのを今でも覚えている。

 

Bananas are yellow.

Chestnuts are brown.

 

1年1学期の中間考査の英語の試験は、殆どの生徒が満点に近い成績を取ったのではなかろうか。英語なんてやさしいものだと思った途端に、その後は冠詞やら単複数の違い、さらに関係代名詞や関係副詞などが出てくるともうお手上げである。家に帰って勉強するのは次の英語の授業に出てくる単語をコンサイスの英和辞書で調べるだけだった。

 

栗がこのような目も醒めるような薄緑のイガで覆われたものかと改めて知って、カメラを持ってくれば良かったと思った。2日後に同じ場所へ行って見たら、そのまま栗は同じ場所に同じ数だけ落ちていたが、濁ったような薄い褐色に変色していた。そこで私は木になっている栗をカメラに撮って家に帰り拡大して見てみた。全く予想もしない自然の妙と言うか先の尖った無数のイガが、まさに緑の針の山のように四方八方にその切っ先を向けて乱雑に生えている。一見ぐちゃぐちゃではあるが静かな感じにも見えた。私はその美しさに目を見張る思いがした。此の美しい緑の色は何かに似ているなと思った。

「そうだ、私が毎日一人で点てて喫する抹茶「又(ゆう)玄(げん)」の色に似ている」と思った。「又玄」とは「さらに玄妙」という意味らしい。

妻が生きている時もそうだったが、私は毎日この「又玄」を、父にお茶を習いに来ておられた有名な萩焼作家が作った茶碗で点てて喫する。私はこの茶碗以外は滅多に使わない。何時もこの私が一番気に入っている茶碗だけを利用する。大きさ、重さ、厚み、何とも言えない肌色の釉薬。そして細かなひび割れのような線。これは「貫入(かんにゅう)」というものだろう。又来客にも抹茶を呈することにしている。趙州(じょうしゅう)和尚の「喫茶去(きっさこ)」ではないが、外面だけは似た行動である。「まあ、お茶でも飲んでゆっくりしなさい」という意味か。父がそうしていたから私も踏襲しているだけの話である。

 

少し話を変えよう。私はこちらに来るまで海の近くにいて、夕陽が指月山の山陰に沈み、水平線上の西の空が夕焼けに染まっているのを見ながら海辺をよく一人で歩いていた。また海から吹き寄せる潮の香を感ずるのは常日頃のことだった。したがって平成10年の夏の盛りに、生まれた時からの住み家からこちらに移った当分の間は、海が懐かしく感じられた。そこで時々車を走らせて山口市の南の郊外とも言うべき秋穂の海を見に行った。

山口市で一番大きくて瀬戸内海に注いでいる川は椹(ふし)野川(のがわ)である。「椹」は「さわら」というヒノキ科の常緑高木で、「ジン」とか「シン」と訓読みするが、何故「フシ」と読むのか分からない。だから私は山口に来たときこの川の呼び方が直ぐには覚えられなかった。それはさておき、この川に沿って河口の方に行ったところに秋穂(あいお)と云う部落がある。実は妻の従弟がしばらくの間、この河口の先端近くに住んでいたので、我々は何度か彼の家を訪ねた。また従弟の細君が家の近くの丘の上に別荘を建てていたので、其処へもよく行った。海面から30メートルばかりの髙台にあって、静かな湾内とも言える河口と、湾外の瀬戸内海に浮かぶ小さな島も遠望出来て見晴らしの良い所である。湾の向こう側の山の中腹に「あいお荘」という温泉のあるホテルが見える。この宿へも数回行った。又従弟の家からさらに岬の先端近くまで行くと「きららのドーム」が、海の向こうに巨大な白鳥か亀の姿に見える。

従弟の奥さんは別荘の駐車場の周りにバラ園を作っていたので、シーズンには色とりどりの花が咲いて素晴らしい雰囲気だった。

 

今日たまたまネットを開いたら、劇作家で文化勲章受賞者の山崎正和氏の死を知らせていた。年齢を見ると86歳である。私より2歳年下である。柔和で上品な顔をしていたが、若い時から大いに活躍していたようである。私は以前鷗外の作品を好んで読んでいたので、『鷗外 闘う家長』という彼の本を読んで、優れた評伝だと思った覚えがある。彼は下関市にある東亜大学の学長にもなっている。それが今や帰らぬ人となった。実は先に言った妻の従弟の奥さんも今入院して居る。気の毒なことにコロナで主人にも会えないようで、非常に可哀想だと従弟が言っていた。

人間は皆必ず死ぬ。コロナで死ぬ高齢者の平均年齢よりも、これ以外の病気で亡くなる高齢者の方がやや若いようである。コロナ、コロナといってこれが最大の死亡原因であるかの如く、マスコミが煽(あお)るのは如何かと思った。

 

                      2020・8・21 記す

 

庭の掃除

 

 今朝目が醒めたのは5時10分前だった。私はいつも9時を過ぎたら床に入るが、起きるのはやや不規則で、目が醒めた時点で床を出ることにしている。3時過ぎに起きることも時にはあるが、4時半前後に目が醒める事が多い。6時まで寝ていることはまずない。

 台風が過ぎて多少朝夕が涼しくなった。猛暑が続いた時、起きて居間の寒暖計を見たら30度を示していることもあったが、今朝は26度だったのでクーラーは付けなかった。いつものように漱石の『行人』を読んだ。今日でやっと読み終えた。小宮豊隆の「解説」に面白い事が書いてあった。

 漱石が『門』を書いて誰も褒めもしなければ言及もしないとき、阿部次郎が手紙を呉れたのが余程嬉しかったのだろう、次のように彼に返事を出している。

 

「『門』の一部分が貴方に読まれさうして貴方を動かしたといふ事を貴方の口から聞くと嬉しい満足が湧いて出ます。(中略)『彼岸過迄』がまだ二三部残ってゐます。若し読んで下さるなら一部小包で送って上げます。夫れとも忙しくて夫所でなければ差控ます。虚に乗じて君の同情を貪るやうな我儘を起して今度の作物の上にも『門』同様の鑑賞を強ひる故意とらしき行為を避けるためわざと伺ふのです」

 

私はこの手紙を読んで、内心忸怩たるものがあった。拙著『硫黄島の奇跡』をある人に差し上げ、その人から多少の褒め言葉を貰ったとき、「この本の基になる『杏林の坂道』を書いています。ネットで読めますから出来たら読んで下さい」と言ったことである。このような自己宣伝は恥ずべきではなかろうかという気がした。

話が逸れたが、7時前になったので、今日は燃えるゴミの収集日なので、昨日途中で止めていた庭の除草を始めた。盆前にお客があると思って庭の掃除をしてから、その後猛暑とヤブ蚊の為に掃除をしなかったので、思い立って支度をして庭に出た。略1ヶ月経っているので雑草がかなり繁茂していた。この炎天下、雑草の伸びは逞しい。小さな草を引き抜くと針のような白い根が10センチも伸びているのがあった。

昨日の分と今日の分で大きなビニール袋に2つ入るほどあった。まだすべての除草が済んだ訳ではないが、ちょっと足腰が疲れたのでまた気が向いたとき行うことにして今日は止めた。

私は庭の草取りを小学生の時からさせられている。萩に居たとき、我が家の敷地は200坪ばかりあり、その約3分の2の面積が庭であった。小さな築山や燈篭、また数本の松や紅白の山茶花(さざんか)など幾種類もの草木があった。しかしこの庭でまず目につくのは樹齢200年を越える大きなタブの木である。この常緑樹は直径が50センチは優にあるような太い枝を七八本も四方に伸ばしていて、絶えず枯れ葉と、時節になると新芽を落としていた。

私は一人息子である。しかし宇田郷村で医者だった伯父の3人の息子たちが県立萩中学校に入ると同時に、我が家に下宿して通学した。従兄たちは3人いて全員が我が家に揃った時、上から5年、4年、3年と連続し、一番下の私が1年生であった。

その時は昭和19年で太平洋戦争が終わる前年だった。我々は朝起きたら食事前にそれぞれ割り当てられた場所を掃除しなければならなかった。父がその様に決めていて、我々は実行していた。門から玄関までの通路の掃除、廊下の拭き掃除などそれぞれ分担があった。私の持ち場は茶席の蹲(つくばい)、つまり手水鉢があってその周りに小石が沢山あり、さらにそれを囲むようにして躑躅の様な灌木がある場所だった。また茶席から蹲まで大小の飛石が据えられていたので其処も掃除した。

先に書いた大きなタブの木が、この茶席の庭の上に太い枝を延ばしていたから、毎朝木の葉が多く落ちていた。この蹲の中に落ちている枯れ葉を除去するのが一番手間がかかった。大風でも吹いた翌日には、炭俵一杯くらい拾い集める事もあった。我が家の庭だから私が一番手間のかかる場所をするように父は決めたのである。こうした毎日の食前の作業の外に、私にとっては是とは別の経験が今以て忘れられないものとして記憶にある。

 

私の家では維新後に、曾祖父と祖父が一時大阪へ出て商売をしていた。萩では曾祖母が酒造業の店を仕切っていたと思われる。元々彼女の家が萩の大屋という所で酒造業を営んでいたから要領が分かっていたからだろう。祖母はしっかり者だったと息子の友一郎が書いている。大阪に出た父と子は商売の傍ら、茶道や俳句など文化的な教養を学んで居たようである。具体的には小堀遠州流の師匠青木宗鳳についてお茶を学んでいた。しかし米相場で大きな損失をして萩に帰った後は商売を止めて、専ら茶華道を教えるなどして生活していたようである。

先頃小堀遠州流15世家元・小堀宗通氏著『続松籟随筆』(村松書館)を読んでいたら、宗通氏の祖父の小堀宗舟師が初めて萩に来られて、我が家の菩提寺である俊光寺で当時の商家の謂わば檀那連中に熱心に茶道を伝授した事が述べられている。

 

「宗舟が萩に滞在したのは、明治三十二年七月六日から八月八日までの、一か月余で、その間の行動は、須子英二氏の曾祖父に当たられる清九郎氏の克明な日記により、逐一明らかであるが、連日の“強暑”の中を猛練習のさまが窺われ、九月四日附けの宗舟の山本友一郎(宗信)氏―孝夫氏の祖父―宛の書翰によって対照してみると、更にその行動が明らかになり、興味深いものがある。

 

恐らくこの際主として世話をしたのが私の祖父の友一郎だったと思う。これ以上のことは省くが、上記のような事から、我が家では大阪での事業に大失敗して萩に帰ってからは、酒造業も止めてそれこそ借金生活だったようである。従って曾祖父は既に隠退し、祖父は大阪にいるとき取得した茶道と華道の教師として、それまでとは全く違って細々とした生き方をするようになった。しかし一応の対面だけは保たなければならなかったかと思う。そのために、私の父は萩中学校を卒業後、現在の関西学院大学まで行かせ、父の姉も萩高等女学校を卒業するとすぐに東京の小堀遠州流の家元で茶道を、更に京都の池坊家で華道を習わせている。父の妹も姉と同じように茶華道の稽古をしている。

このような訳で私がもの心のついてからは、お茶とは縁が切れなかった。父は萩商業に勤務していたが退職してからは茶道に専念していた。私の記憶にあるのはそれより前の事である。父は茶道仲間や萩商業の先生達をよく招待して釜を掛けて茶会を開いていた。それを「お懐石(かいせき)」といっていた。この「お懐石」のある日には特別念入りに庭の掃除をさせられた。私はこれがいやだったが従うほかは無かった。

 私が結婚して、妻も初めてお茶を父から習った。正月に「初釜」といって多くのお弟子さん達を招く茶事があるが、その為の準備で年末から当日までは朝から晩までこの事に関して家中のものが立ち働いた。従って正月に温泉などへ行ってゆっくり楽しむと言うことは我が家では全く無かった。妻はこのような環境に良く耐えたと思う。そして師範にまでなった。父が亡くなりしばらくの間、妻は父の弟子だった人達としばらくお茶の稽古を結構楽しんでいたようである。しかし萩から山口に移ってからは膝が痛いと言って一切お茶とは手を切った。私も全くお茶はしない。唯毎日お茶を点て飲む事だけは欠かさない。

さて、庭の掃除について書くと、我が家には茶室が二つあった。仏間を兼ねた四疊半の茶室と三疊の小さな茶室で、それぞれに蹲が付属していた。

先に書いた「お懐石」の日に、私は枯れ葉をすべて掃き集めて、掃除が終わったと父に言ったら、父はこう言った。

「お前は和敬清寂という言葉を知って居るか。此れは茶の精神を表したものだ。この中の清は心を浄めると言う事だ。心を清々しくするにはまず自分の環境を清く整えなければいけない。明窓浄机という言葉もあるが、自分の環境を綺麗にする事によって自分の心も清くなる。お前は掃除を嫌々にしてはいけない。利休が茶会を前にして次男の少庵(しょうあん)に庭の掃除を命じた。掃除が終わったと利休に言ったら、利休がそれを見てまだ十分ではないと云った。少庵はもう一度徹底的に掃除して、塵一つ落ちていない状態にした。その時利休は茶席の庭にある紅葉の木の枝を揺すって数枚の葉を散らした。“掃除というものは唯塵一つないように舐めたように綺麗にするだけではない。綺麗にした上で更にその上に自然の趣が出ているようにして初めて完璧な掃除というものだ”。このように利休が息子に諭したと聞いている。掃除一つとっても茶道の精神は奥深いものだ。」 

妻が亡くなって書き残していた日記を見ると、「私は子供の頃よく母に掃除など言いつけられたが素直に従わなかった。しかし今は庭に出て草を取るのが何だか楽しい」

このように書いていた。人間の考えは年と共に変わる。名もなき草でも皆生きている。こうした草花と話をしながらと言った気持ちで草取りをしたのかも知れない。妻は絶えず腰痛を訴えていたが、痛みが薄らいだ時よく庭に出て除草していた。私は「無理をするな」と言ったが、年を取ってこうした事が次第に楽しみとなったのだろう。

 2020・9・15 記す

易水寒し

 今年一月二十七日、未明に目が覚めた。洗顔の後R・Hブライス教授の『HAIKU』(北星堂書店)をしばらく読む。夜も明けたようなので窓を開けると、戸外の冷たい空気が肌を刺した。夜間音もなく降った雪が家々の屋根に深々と積もっている。純白、清浄、静まりかえっている。全く目を疑うような光景だ。盆地を囲む遠くの山々も白雪に覆われ、小雪がしきりに舞っている。

この珍しい雪景色を目にした数日後、わたしは蕪村のつぎの句に出くわした。ブライス教授はこの句の英訳に添えて、「易水は有名な中国の川である」と簡単にコメントしていた。

 

 易水にねぶか流るる寒かな

  Down  the River  Ekisui

  Floats  a leek,-

   The cold!        Buson

 

 ブライス氏の英訳はいずれも簡潔で的確、実に上手いと思った。彼のこの著作『HAIKU』は全四巻本で、第二巻には、上記の英訳だけが載っていたが、第四巻に初唐の詩人、駱賓王の漢詩を紹介していたので、今はこれと蕪村のこの句の別の英訳だけ載せてみよう。

 

   A leek,

  Floating  down  the  Kkisui,

    Ah, the cold!       Buson

 

 

駱賓王は初唐の詩人である。

 

  此地別燕丹、 壮士髪衝冠

  昔時人已没、 今日水猶寒 

 

「ここは昔、荊軻が燕の太子丹に別れたところ。その時、壮士荊軻は慷慨のあまり、髪の毛が逆立て冠をつくほどであったという。昔の人は、すでにこの地上から消え去ってあとかたもないが、易水の流れは今なお寒く流れている。」(目加田誠著『唐詩選』)

 

 

わたしはブライス教授がコメントした「有名な川」について、もっと知ろうと思い『日本古典文学全集』(筑摩書房)の「與謝蕪村集」を開いて見てみた。栗山理一氏は次のように評釈している。

 

「易水」は中国河北省の西部にある川。戦国時代、燕(えん)の荊軻(けいか)が、太子丹(たん)のために秦の始皇帝を刺そうとして旅立つにあたり、易水のほとりで壮行の宴がひらかれた。その折りに吟じた詩に、「風蕭々兮(として)易水寒。壮士一(ひとたび)去兮不復還(またかえらず)。」(『史記』刺客列伝)というのがある。この易水の故事を踏まえると共に、芭蕉の「葱白く洗ひたてたるさむさかな」(『韻(いん)塞(ふたぎ)』)の感覚的把握をこれに結びつけたのが、この句である。

「昔、『風蕭々兮易水寒』と壮士荊軻が吟じた易水は、今も流れをとどめない。ふと水面に目をやると、誰か洗いこぼしたのであろう、白いねぶか(ねぎ)が浮き沈みしながら流れていく。『壮士一去兮不復還』という詩意も思い合わされ、この流れ去る葱の行方を見つめていると、ひとしお川風の寒さが身にしみるようだ。」との句意。

舞台は例のシナ趣味であるが、悲壮な歴史をはらむ場面に卑近な庶民生活の素材を配した機知は、まぎれもなく俳諧的骨法を踏まえたものである。しかも単なる戯画に終らず、悲傷清冽の詩情を止め得たのは、鋭い感性に裏づけられた奔放な想像力によるものといえよう。

 

適切な解説で、句意は十分理解できた。ついでに芭蕉の「葱白く」の句についての加藤楸邨氏の評釈を見てみよう。(『古典日本文学全集』「松尾芭蕉集」)

 

葱白く洗ひたてたる寒さかな

元禄四年、美濃垂井の規外の許での作。葱は垂井のあたりの名産であったといわれる。

「洗ひたてたる」には白い上にもしろじろと洗いあげた、その勢を含んだ気持ちが出ている。「葱」は冬季であるが、ここは「寒さ」がつよくはたらく。

「畠から抜いてきた葱をどんどん真白に洗いあげてゆくのが見ていると心のひきしまるような寒さを感ずる」というのである。余計な装飾をすてて、事象の真の中核に感合してゆく態度が生きている。黄金をうちのべる如きゆき方。

 

寒い川辺で真っ白になるまで葱を洗っているという描写を通して、たしかに「心のひきしまるような寒さ」が感じられる。さて、蕪村の「易水にねぶか流るる寒さかな」の句に戻ると、この句においては、「淀川」でも「鴨川」でも意味をなさない。「易水」だからこそ俳諧味がよく出ている。
 藤田真一氏は『蕪村』(岩波新書)で、同じ句について実に簡潔に要領よく解説している。

 

まずは、行くすべもない唐土に思いをはせた一句。これは『史記』に見える史伝を下にふんでいる。秦の始皇帝の暗殺を企てた荊軻は、「風蕭蕭として易水寒し、壮士ひとたび去りてまた還らず」と吟じて決意をのべたとされる話である。ぴんと張りつめた緊張感と、冬の厳しい寒さが照りあっている。おもしろいのは、「葱」である。緊張の場におよそ似つかわしくない、葱がぷかぷか浮かぶ間の抜けた景色、これこそ俳諧という文芸の魅力といってよい。

 

わたしはこの背景をさらに詳しく知ろうと思って、書架から『史記』を取り出して、「刺客列伝第二十六」を読んでみることにした。概略を記してみよう。

 

  中国は戦国時代、紀元前三世紀の初期である。荊軻は衛の人。後に燕に行って、燕では荊(けい)卿(けい)と呼ばれた。 荊軻は人となりは深妙沈着で読書を好み、遊歴した諸侯の国々では、いずれもその地の賢人・豪傑・長者と交わり、燕に行っても、処士(引用者注:教養がありながら官に仕えない者)の田(でん)光(こう)先生がまたよく彼を待遇した。ほどへて、秦に人質になっていた燕の太子丹(たん)が、燕に逃げ帰った事件があった。

丹は秦の人質になったのであるが、秦の待遇がよくなかったので、恨んで逃げ帰ったのである。帰ってからも誰か秦王に報復する者をと探していたが、國が小さく力が及ばなかった。その後、秦は日々山東に出兵して斎・楚・三晋を伐ち暫時諸侯の地を蚕食して、まさに燕に迫ろうとした。 

丹は太傳(たいふ)の鞠(きく)武(ぶ)に復讐の事を謀ると、鞠武は「秦の領土は天下にあまねく、その威力は韓・魏・趙三氏を脅かしています。民は多く士は勇ましく兵器甲冑にも余裕があります。だから秦が外征しようとさえ思えば、長城以南、易水以北の地は今後どうなってゆくか、はかりがたいのです。どうして冷遇されただけの恨みで、秦の逆鱗に触れようとなされますか」

その後、まもなく秦の将軍樊於期(はんおき)が秦王に罪を得て、燕に亡命してくると、太子はこれを受け入れて官舎においた。鞠武はこれを恐れ強く諫めた。そこで太子は何か良いはかりごとはないかと問うと、「燕に田光先生という人がいます。その人は知恵深く沈勇、ともに謀るにたる人物であります。」と云い、太子の許可を得て頼みに行くと、田光は自ら太子のもとまで出掛け次のように云った。

「『騏驥(きき)の壮んなときは日に千里を駆けるが、老衰すれば駑馬(どば)にも先んじられる』といいますが、太子はわたしの壮んな頃のことを聞いて、精力の衰えた今のわたしをご存知ないのです。さりながらわたしはそれを理由に国事をすてようとは思いません。わたしの親友に荊卿というのがおり、これこそお役に立ちましょう」。

「願わくは先生の紹介で、荊卿に会いたいものですが、いかがでしょう」と云うと、田光は承知しましたと云って太子を門まで見送った。そのとき太子は「わたしの話した事も先生の云ったことも國の大事だから、おもらしにならぬように」と念を押した。田光は身をかがめて、笑って承諾し、老いの身を曲げながら、荊卿のもとに行って次のように云った。

 

わたしはこの先の文章を読んで心身の引き締まる思いをした。司馬遷はこう書いている。

 

「わたしときみとの親交は、燕では誰知らぬものはない。いま太子はわたしの壮んな時のことを聞いて、昔に及ばぬ今の衰えを知らず、かたじけなくもわたしに、『燕・秦二国は両立しない、願わくは先生の御配慮を頂きたい』と言われた。わたしはひそかにあなたのことを思い、太子に推薦した。どうか太子の宮殿に伺候してほしい」。

荊軻が、「敬(つつし)んで仰せに従いましょう」と言うと、田光は、「『長者がおこないをなすに、人を疑わしめず』ということがあるが、太子はわたしに、『語りあったことは國の大事である。先生にはおもらしになさらぬように』と言われた。事をはかって人に疑わせるのは気節義侠とはいえない」と言い、自殺して荊卿を励まそうと、「願わくはあなたには、急いで太子のもとにいたり、わたしはすでに死んだと言上し、國の大事がもれないことを明らかにしてほしい」と言って、自らくびをはねて死んだ。

荊軻は太子に謁見し、田光がすでに死んだことを言い、光のことばを伝えると、太子は再拝してひざまづき、膝行(ひざずり)して涙を流した。しばらくして、「わたしが田先生に、他言せぬように申したのは、大事のはかりごとを成し遂げたいばかりからであった。田先生が死んで他言せぬことを明らかにせられたのは、何とわたしの本意であろか」と言った。

 

 「刎頸(ふんけい)の交(まじわり)」という言葉がある。わたしはこの言葉の意味するものを、上に書かれた史実で具体的に知ることが出来た。頸(くび)を刎(は)ねるということはもちろん死を意味する。これまで生きてきた生涯を自ら断つことである。前途は無になる。常人の容易に出来ることではない。死を覚悟で友人との信義を重んずるというこの行為には深甚な重みがある。この後もう少し続けてみよう。司馬遷は同じ事を再度書いている。

 

この後荊軻はしばらく太子のもとで厚遇を得ていた。そして太子の説得でようやく刺客となって秦王を殺そうと決意するのである。この間秦は趙を破り趙王を虜にしてことごとく趙の地を奪い、燕の南境に迫った。今や秦兵が易水を渡らんとしていた。荊軻は太子にこう言った。

 「いま秦に行っても、信用がなければ、秦王に親近することはできません。ところで、かの樊将軍の首には、秦王から金千斤と一万戸の食邑(引用者注:その人の治めている領地)が懸けられています。もし樊将軍の首と燕の地図を持参して秦王に献上するなら、秦王には必ず喜んでわたしを引見いたしましょう。そのときこそわたしは太子に報いる事が出来ましょう」

これに対して太子は、「樊将軍は困窮のはてわたしに身を寄せたもの、わたしは私利のために長者の意を損なうには忍びません。なんとか他の考慮が願えないでしょうか。」

 荊軻は太子がとうてい樊将軍を殺さないことを知り、ひそかに樊於期に会って言った。「秦のあなたに対する仕打ちは、まことに深刻といわねばなりません。父母をはじめ宗族をすべて殺戮し、いまや将軍の首に金千斤と万戸の食邑を懸けていますとか。将軍はいったいどうなさるおつもりですか。」

樊於期が天を仰いで嘆息し、涙を流して、「わたしはそれを思うごとに苦痛が骨髄に徹します。しかし、どうすればよいのか、わたしにもわからないのです」と言うと、「いま一言で燕国の憂えを解き、将軍の仇を報いる策があります。将軍はそれを何と思われますか。」

於期が進み出て、「それはどうするのか」と問うと、荊軻が言った。「あなたのお首を頂いて、秦王に献ずるのです。秦王はかならず喜んでわたしを引見しましょう。そのとき、わたしは左手に秦王の袖をとり、右手でその胸を刺すのです。しからば将軍の仇は報いられ、辱しめられた燕の恥もすすがれましょう。あなたに御異存がございましょうか。」

すると樊於期は片肌をぬぎ、腕を握って進み出で、「これこそわたしが日夜歯を食いしばり、胸を打って悶えたところ、今こそ教えを承ることができた」と言い、ついにみずから首をはねて死んだ。

 

こうして荊軻は二度に及ぶ「刎頸の交」を、身をもって体験し、ついに意を決して秦王刺殺に向かう。もちろん彼自身死を覚悟した上での行為。だから別れに臨んで彼が吟じた「易水寒し」の言葉が生きてくるのだとわたしは思う。その場面を司馬遷は次のように書いている。

 

太子や賓客で事情を知っているものは、いずれも白い装束(注:喪服)を着て見送った。易水のほとりまで来ると、このとき高漸離(こうぜんり)(引用者注:荊軻の友人で琴に似た楽器である筑(ちく)の名手)は筑を撃ち荊軻はこれに和して歌った。見送りの面々はいずれも髪を垂れてすすり泣いた。荊軻はなお進み出て歌った。

 

風は蕭蕭として易水寒し

壮士一去って復還らず

 

さらに羽声(うせい)(注:激しい調子)で慷慨すると、聴くものはみな目を怒らし、髪はことごとく逆立って冠をつくばかり。かくて荊軻は車に乗って去り、ついにうしろを振り向かなかった。この後荊軻は秦王の宮廷で決行に及ぶ、しかし・・・。

 

 古今東西、歴史に残る暗殺行為、今で言うテロとか斬首作戦は、数多くあったろう。たとえば、「ブルータス お前もか」の言葉で有名なシーザーの刺殺、大化の改新のもととなる蘇我入鹿の殺害、近年ではリンカーンガンジーの暗殺、ごく最近ではビンラディンの暗殺など。これらは皆目的を達成している。しかし荊軻は秦王刺殺に失敗した。それでも青史に残っているのは何故か。『史記』を読むと荊軻は秦王刺殺にはかなり逡巡している様子が窺える。彼は二人の友の「刎頸(ふんけい)」に促されて意を決したように読み取れる。無理もない。たとえ成功しても生きては帰れないことは重々承知だからだ。荊軻は詩を吟じて我が身を奮い立たせたのである。何故司馬遷はこの史実を書き残したか。やはり「刎頸の交」と「易水での荊軻の詩」があったからであろう。

非常に長々と『史記』から引用したが、ここで蕪村の句に戻って考えてみることにする。

  

易水にねぶか流るる寒さかな

 

この句については過去から現代に至るまで、詩人や批評家たちの多くが解説している。くどいようだが、詩人・萩原朔太郎は『郷愁の詩人與謝蕪村』で、この句を取り上げて以下のように評している。 

 

易水に根深流るる寒さ哉

「根深」は葱の異名。「易水」は支那の河の名前で、例の「風蕭蕭として易水寒し。壮者一度去ってまた帰らず。」の易水である。しかし作者の意味では、さうした故事や固有名詞と関係なく、単にこの易水といふ文字の寒々とした感じを取って、冬の川の表象に利用したまでであらう。後にも例解する如く、蕪村は支那の故事や漢語を取って、原意と全く無関係に、自己流の詩的技巧で駆使してゐる。

この句の詩情してゐるものは、やはり「葱買て」と同じである。即ち冬の寒い日に、葱などの流れて居る裏町の小川を表象して、そこに人生の沁々とした侘びを感じて居るのである。一般に詩や俳句の目的は、或る自然の風物情景(対象)を叙することによって、作者の主観する人生観(侘び、詩情)を詠嘆することにある。単に対象を観照して、客観的に描写するといふだけでは詩にならない。つまり言へば、その心に「詩」を所有してゐる真の詩人が、対象を客観的に叙景する時にのみ、初めて俳句や詩が出来るのである。それ故にまた、すべての純粋の詩は、本質的に「抒情詩」に属するのである。

 

ついでに朔太郎が名句として挙げている「葱買て」で始まる蕪村の句について、彼の解説を読んでみよう。

 

 葱買て枯木の中を帰りけり

枯木の中を通りながら、郊外の家へ帰って行く人。そこには葱の煮える生活がある。貧苦、借金、女房、子供、小さな借家。冬空に凍える壁、洋燈、寂しい人生。しかしまた何といふ沁々とした人生だろう。古く、懐かしく、物の臭ひの染み混んだ家。赤い火の燃える爐邊。臺所に働く妻。父の帰りを待つ子供。そして葱の煮える生活。

この句の語る一つの詩情は、かうした人間生活の「侘び」を高調して居る。それは人生を悲しく寂しみながら、同時にまた懐かしく愛して居るのである。芭蕉の句にも「侘び」がある。だが蕪村のポエジイするものは、一層人間生活の中に直接實感した侘びであり、特にこの句の如きはその代表的な名句である。

 

文学作品の鑑賞となると、多分に主観的であることがこれで分かる。詩人の空想力はまさにそうだ。わたしの勝手な妄評を加えさせてもらおう。

わたしは先に「易水」であって「淀川」でも「鴨川」でも意味をなさないと言った。ましてや「裏町の小川」ではいけない。先に述べたように、司馬遷の「刺客列伝」を最後まで読むと、荊軻は暗殺未遂に終わっている。しかし著者がこの未遂に終わった事績をあえて筆にしたのは、前にも指摘したように、第一に「刎頸の交」という事実に感動を覚えたがためではないかと思う。さらに言えばあの有名な詩である。易水のほとりに立って別れの詩を吟じた時の荊軻の心情は、悲壮にして心胆を寒むからしむものと推察される。だから「易水寒し」の言葉が生きてくる。

 

子規の句に、「柳ちり菜屑流るる小川かな」というのがある。ここにも自然と庶民の生活が詠われている。しかしこの句には歴史的背景も何もない平凡な春の情景描写のように思われる。彼には「涼しさや平家滅びし水の音」という句もある。子規が夕涼みがてら壇ノ浦のほとりにやってきたときの句であろう。涼風が吹いている。眼前の関門海峡は流れが速く、泡立ちながら音を立てて流れ行く。この「水の音」は何を象徴しているか。幾百年も昔の平家没落の大事件。無念の死を遂げた平家の武士たちの嘆きの声か、それとも彼らの苦悶を和らげようとする仏の声か。あるいは諸行無常、時の流れの象徴か。蕪村は「寒さ」を、子規は「涼しさ」を詠っているが、両者とも過去の事蹟に思いを寄せて季節感を句にしたのであろう。

もう少し蕪村の句について考えてみると、易水は永遠に流れる。荊軻が易水で決別の詩を吟じたのはほんの一時である。永遠と束の間の事象。しかしこの別れは永遠に語り継がれている。

このことを念頭に置いて、蕪村は、「永遠と瞬時」、「歴史的事蹟と些細なる庶民生活の一齣」という対立的なテーマを俳諧的に取り上げて、この名句を作ったのではなかろうか。

滔々として寒く渦巻きながら流れる易水はまさに人間の歴史を表象している。そこにどこからともなく浮かび流れ来た白いねぶか。濁流に浮かぶねぶかの白さは鮮明である。あの昔、易水のほとりで、「太子をはじめ事情を知るものはいずれも白い装束を着て見送った」とある。白色は清浄だが死をも意味する。この純白のねぶかが歴史に刻まれたあの事績の象徴として考えられないだろうか。

 

蕪村に「釣り人の情のこはさよ夕しぐれ」という句がある。「しぐれ」どころか、天候が急変しても釣りに夢中のあまり、足を滑らして大川に落ちて流に呑み込まれ、後日数十キロも離れた場所で発見されるという傷ましい事件を時々耳にする。今かりにその川の名前を淀川として、

「淀川に 釣り人流る 寒さかな」

と詠えば、事情を知っている人には意味が分かるだろうが、こんなのは全くの駄句である。その点、ここに取り上げた蕪村の句は歴史的背景を知ることで始めて面白く理解できる。蕪村の句にはこうした歴史的背景を持つものがいくつもあると評されている。次にあげるのは一見違う蕪村の句である。

 

冬川や佛の花の流れ来る

 

佛に供えた花や床に活けた花が枯れると、茶人はねんごろにそれを川に流してやる、と天心が『茶の木』に書いているが、この句にはあまり寒さが感じられない。もちろん歴史も念頭になく平凡な冬景色を詠ったものである。しかし花に色が感じられる。

蕪村に「手燭して色失へる黄菊かな」という一句がある。ブライス教授は「人工的な光がものの色を取り去ってしまうという不思議な事実は科学的には説明できる。しかし、それでも詩的心は常にそれを不思議に思うだろう。蕪村の場合のように、色彩やものの形に強く関心があるものなら特にそうである。」と、述べて数句を載せている。そのうちの二句を英訳と一緒に転写してみよう。

 

野路の梅白くも赤くもあらぬかな

 The path through  the field;

The plum  flowers are  hardly  white,

 Nor  are they  red.   

 

若葉して水白く麦黄みたり

   Among  the  green  leaves,

 Water  is  white,

   The barley  yellowing.

 

もう一度蕪村の句に戻ると、寒々とした易水の広漠たる流れに浮かぶたった一本の真っ白なねぶか。これは実に鮮明な印象を与える。蕪村は色彩感覚に優れ、対象を見つめて具体的に描く名手で、これはやはり画家としての天稟の表れであろう。

『蕪村余響』の中で、著者の藤田真一氏は次のようにいっている。

「蕪村は、芭蕉流の俳諧を継承しつつ、元禄の世にはなかったような芳醇な香りを俳諧世界に吹き込んだ。時空をこえた想念や、揺らめくような情操など、大きく広がる想像の世界へと解き放ってくれた。もしもこの世界が芭蕉流だけだったとしたら、俳諧は、枯淡閑寂のモノトーンなもの、と言う呪縛を引きずって逝く運命をたどったかもしれない。ごく単純化すると、そこへ明るく、カラフルな開放感をもちこんだのが、蕪村だった。」

 

「易水寒し」の句一つみてもこの言葉はうなずける。まさにこの句は藤田氏の言う如く、「古今の書物や和漢の詩歌を詩囊に収めて、想像の翼を羽ばたかせた」名句だといえる。最後に冬川を詠った対照的な句をもって拙稿を終わります。

 

冬川や誰が引きすてし赤蕪    蕪村

 

冬枯や芥しづまる川の底     移竹

 

 

 

                          

 

 

梅と杏と桜

寒梅という言葉がある。馥郁たる芳香を放ち、寒い冬空に凜として立つ梅の木は美しい。特に古木となると中々趣のある姿を呈する。「臥(が)龍(りよう)梅(ばい)」という梅の品種もあるようだ。まさに大きな龍が体を捻らせて横臥して居るようである。

 

「春入千林處々鶯」とか「千里鶯啼緑映紅」といった言葉には当然梅林が想像される。

梅のことを「羅(ら)浮(ふ)」と言うことを私は中学生の時知った。実は嘉永年間に私の曾祖父が天神様を夢に見て、それから彼は天神様の信者になったと伝え聞いている。天神様といえば梅である。彼はその後、萩市の郊外の地を開墾して数百本の梅を植樹して梅林を造成し、そこに「裸婦邸」ならぬ「羅浮亭」という扁額を掲げた小さな家を建てた。そこは梅屋敷と呼ばれていた。今ここは造成されて住宅地となっているが、その片隅に、「夢想 天満る薫をここに梅花  佳兆」という句碑だけが残っている。同じような句碑が防府天満宮の境内にもある。

「佳兆」は曾祖父の俳号で、句碑の裏に「嘉永中墾此地栽梅焉 長門阿武御民山本七兵衛源信行」と刻まれている。「焉」は「えん」と訓じ、「語調を整えるために添える助辞」だと初めて知った。文政五年(1822)に生まれた曾祖父が梅林を造ったのが嘉永二年(1849)だから二十七歳の時である。だから「焉」の助辞を付けて意気込みを見せたのかと私は思うのである。聞くところによると松陰先生もこの屋敷に立ち寄られたとか。尚此の地は今は「大屋」と書くが「鶯(おう)谷(や)」とも言って居たようである。

 

「羅浮」を辞書でみると「山名。広東省増城県の東にある。東晋の葛(かつ)洪(こう)が仙術を修得した所と伝える。山麓は梅の名所として有名」とある。関連して「羅浮之夢」とか「羅浮少女」という言葉もある。後者の説明として「羅浮の梅の精が美人の姿で現れた故事。転じて美人をいう」とあるから、この少女は「裸婦」を連想させる。まあそれは冗談として、梅は花も実も賞味される。

 

梅が寒中に咲くとしたら、少し暖かくなって似たような花をほころばせるのは桃と杏であろう。ここでは杏を取り上げる。

杏は三月が見頃である。山口市の維新記念公園には杏が数本植えてある。そのそばに友好都市の中国の青島から贈られた「孔子杏壇講学像」という群像がある。中央に座した孔子の左右に顔回子路、子貢などの弟子達五人の像が皆孔子の方を向いていて、孔子が講義をするのを謹聴して居る様子を彷彿させるものである。

なぜ「杏壇」とあるのか。これも辞書を引いてみると、「孔子が学問を教えた所の跡にある壇の名。周囲に杏が植えてある。転じて学問を講ずる所」とあった。先日この公園を訪れたとき茶褐色の新しい枝に薄桃色の美しい花が咲いていた。

 

「杏林」という言葉もある。これは医者を意味する。これも中国の故事にまつわる話がある。辞書には次のように出ている。

「医者の美称。三国時代、呉の董奉(とうほう)という人が病人を治療した礼に、重病人には五本、軽症者には一本のあんずを植えさせ、これを董仙の杏林といった故事」(『廣漢和辞典』)

 

私は萩にいた頃事情があって八年間「青木周弼之旧宅」に管理人として住んでいた。その頃門を入って左側に板塀があり、その塀の内側に数多くの梅の木があったが、大きな杏の木が一本だけあった。春になると美しい花が咲いていたがかなり古木であったのでその内切り倒された。青木周弼は毛利敬親の侍医であったからこの杏の木を植えていたのと思う。

周弼は徳川将軍の御殿医にと頼まれたが、断ったので代わりに緖方洪庵がやむなくその職に就いた。しかし洪庵は江戸に出て程なくして病死した。周弼の弟は研蔵という。彼は明治天皇の侍医であったが不慮の災難で亡くなった。研蔵の養子が青木周蔵である。彼は医者を志して今のドイツへ留学したが、現地で医学に代えて政治学を学び、後に外務大臣になっている。

森鴎外がドイツへ留学したときドイツ公使だった周蔵に挨拶に行っている。その時の様子を『独逸日記』に書いている。また『大発見』という短編にも書いている。私は青木周弼の旧宅に住むことになったお陰でこうしたことを知った。有りがたい奇縁だと思っている。

 

三月下旬に萩の友人が美味しいネーブルを持ってきてくれた。彼は高校の教員を辞めた後、専ら百姓仕事に従事している。彼は米作の傍ら各種の果樹を栽培している。その時こう言った。

「家の周りに杏を十数本植えていて、今は花盛りで非常に美しい」

彼の姓は林という。

「それではまさに杏林だね。その内お宅には医者が誕生するでしょう」と私は笑って語った。

 

杏の花も今や散りもうすぐ四月になる。四月の花と言えば何と云っても桜である。昼間に眺められる桜花爛漫たる姿を好まない日本人は居ないだろう。蘇東坡の『春夜』は有名な詩である。最初の文句に「春宵一刻直千金 花有清香月有陰」とあるが、この花は、やはり桜ではないかと私は思う。宵闇に篝火に映し出された桜はまた違った情趣のあるものと思われる。

 

「敷島の大和心を人問はば朝日に匂う山桜花」と本居宣長は詠っているが、「願はくは花のもとにて春死なむそのきさらぎの望月のころ」と詠った西行は、彼の願い通りに死んだと言うからさぞかし満足の一生だったろう。

先の戦場で若き兵士が花と散った。「花に嵐」というが、「いさぎよく散る桜のイメージを胸に抱いて、いや彼らの多くは、将来の平和な日本を夢見て死んでいったのであろう。

実に傷ましい事である。今の我が国の現状を見たらどう思うだろうか。

 

話は卑近になるが、昭和十九年に私は県立萩中学校に入った。七十五年も昔になる。その当時のことで一つ覚えていることがある。一年生全員が体育館に入った時、母校出身の山県という体育の教師が、「お前達は此の度見事この萩中学校に入学した。しかしよう言っておくが、丁度年頃だから色気が出る頃だ。桜が咲き陽気な気持ちになって、女のことが気になるようでは駄目だぞ。しっかり勉強するのだぞ。櫻という字は木偏に貝という字が二つ、その下に女と書く。だから‘二階の女が木にかかる’と覚えたらいい。しかし二階の女が気に掛かるようでは駄目だぞ。」

下らんことを覚えているものである。我々の学年までは男女共学ではなかった。今ならさしづめ問題発言だととらえられるかも知れない。

桜は詩や歌に良く詠われているが、全く別の意味がある。それはどうも感心しない。

馬肉のことを「さくら」と言う。馬の肉が桜色だからである。

「彼奴はどうもさくらのようだ」と言えば、「露天などで客を装って買うふりをして、外の客の購買心をおさせる人」という意味である。

このように言葉には色々な意味があるから、面白いと言えば面白い。

以上三種の花に桃や李を加えるべきかも知れないが、次の文句だけ書き加えて拙文を擱くことにしよう。

 

「桃李不言下自成蹊」(桃李言ハザレドモ下自ズカラ蹊ヲ成ス)

 

立派な人のもとにしぜんと人々が慕い集まる、という意味だが、実に良い言葉である。

研究社の『和英大辞典』をみると次のように訳してあった。簡潔な訳だと思った。

 

A  man  of  virtue  will naturally  attract admirers.

(有徳の士は自ずから崇拝者をひきつける)

  平成三十一年三月三十日 記す

 

風に聞け何れか先に散る木の葉

 

昭和四十一年に岩波書店から『漱石全集 全十八巻』が発刊されたとき、私は直ぐに注文して手に入れた。あれからもう五十年以上時が経った。各巻はずっしりと重い。しかし活字が大きいので老人になった今は読みやすい。妻も漱石を愛読していて、軽くて便利だと云って『講談社文庫』を読んでいた。確かにこの方が手軽である。しかし送り仮名や当用漢字など、読みやすく現代風に書き換えてあるので、私は意味だけを知るのならともかく、漱石の書いたままの言葉遣いを知る上においては、やはり『十八巻本』の方をよしとする。

 

本は読むときのその人の年齢、つまり人生体験の大小有無によって、理解や関心の度合いが非常に違ってくると思う。大学で曲がりなりにも英文科に籍を置いた以上は漱石だけは読むべきだと思って、就職して安月給ながら全集を買った。当時としては高価(各巻共千弐百円)な買い物だった。私はこの全集を時折書架から取り出す。又買い集めた漱石に関連した多くの研究書も時と場合によって手にすることもある。

昨年妻が亡くなって私はまた漱石の作品を読みたくなったので、『行人』から読み始めて、『こころ』さらに『道草』を読んだ。この後は当然『明暗』を読むべきだが、私はその頃彼が同時に書いていた『思ひ出す事など』や『硝子戸の中』などが集録されている『第八巻 小品集』を先に読もうと思った。

私は漱石の小説はもとより、英文の引用が多くて難解な『文学論』と『文学評伝』なども何とか読んだが、この『第八巻 小品集』の中にあるもの全ては読んでいなかった。この度読んでピンと来るというか非常に面白く感じた。これは先にも云ったように、妻が急死して思いも掛けず一人暮らしになった事が多分に影響しているからだろう。此の事はやはり貴重な人生体験である。

 

この巻の中には長短いろいろな文章が載っている。私は『思ひ出す事など』をまず読むことにした。この中に漱石の俳句〈風に聞け何れか先に散る木の葉〉が出て来た。

私は佳い俳句だと思ってこれを書き写したとき、「何れか」とあって、「何れが」でないことに気が付いた。単に「か」と「が」の違いに過ぎないが意味は大きく違うと思った。

例えば「誰か来たか?」と「誰が来たか?」、「何かあったか?」と「何があったか?」あるいは、「何処か痛むか?」と「何処が痛むか?」といったように、「か」より「が」のほうが一層特定のものを訊ねている。そこで上の俳句であるが、その前に漱石がどのような境遇また心境の下で、この三十一(みそひと)文字(もじ)を詠んだかについて述べておこう。

 

漱石は上に兄四人、姉三人の末っ子で、生まれても歓迎されない存在だったので、生まれた翌年に養子に出されている。その後兄達が次々に肺疾患などで亡くなったので、養家から引き戻されて夏目家を継いでいる。彼は父親に疎(うと)まれ嫌われた存在だった。幼児期彼を愛してくれた母は早く亡くなっている。この幼い時の正常でない生活がトラウマとなって、金銭感覚や人間の心理、特に男女の心理の機微について誠に敏感になって居ると私は思う。彼は特に人間の誠実さ、真面目と云うことに人一倍鋭敏で神経を尖らせている。こういったことのために精神的に悩みが深く、神経衰弱に度々なって居る。

彼がイギリス留学から帰国して、一高、東大で教鞭を執っているとき、昔の養父母が縒(よ)りを戻そうとして、しつこく現れて彼を悩ます状況を『道草』に書いている。彼は大学で講義をするために実に真面目に勉強して、講義内容を夜遅くまで作成している。実際はこうした事から解放されて好きな文学に没頭したかったのである。そうした時、たまたま『猫』を書いたことが契機となって、彼は外にもいろいろと作品を発表した。これらの作品が朝日新聞社の幹部の目にとまった。その結果彼は好条件で入社することになり、教職の道を振り切って作家の道を選んだ。

しかし好きな道を選んだと云っても、月々年々新聞紙上に作品を発表しなければならない。此の事は責任感の強い漱石にとってはこれまた違った面で重圧だった。彼は少しでも読者を楽しませ、読者の目を引く作品をと考えたのである。多くの批評家や研究者の評しているように、漱石の作品はたえず進化発展している。所謂マンネリで読者をうんざりさせるものは一作もない。

私が学生の時、一般教養で「法学」の授業を受講したが、その時の先生は毎年同じノートを持ってきて坐って読むだけだった。毎年学生が入れ替わるから良いようなものの、漱石の態度とは雲泥の差である。

 

さて、こういった精神的に非常なプレッシャーが肉体にも影響を及ぼして彼は胃潰瘍になったと思われる。このような状況下で、先に挙げた〈風に聞けいずれか先に散る木の葉〉を作って日記に書いている。場所は伊豆の修善寺の菊屋という旅館においてである。

明治四十三年の夏のことで、彼は胃潰瘍のため長與胃腸病院に入院して居たが、転地療養のために修善寺の旅館に逗留して居たのである。この俳句を作った後、彼は大吐血を起こし人事不省に陥る。彼は三十分間意識を失ってその間の事は全く記憶にない。しかしこうした大病を患いながらもその時の事を覚えていて克明に書いているのには驚く。

漱石がベッドに臥しながらアメリカの哲学者・心理学者のウィリアム・ジェームス教授の『多元的宇宙』という浩瀚な本を「午前ジェームス読み終える。良い本だと思ふ」と日記に覚束ない文字で認めている。彼は教授の本を非常に愛読していたと思われる。『思ひ出す事など』の「三」に、幾度も教授の亡くなったことに言及している。

 

ジェームス教授の訃に接したのは長與院長の死を耳にした明日(あくるひ)の朝である。

 

思ふに教授の呼(い)息(き)を引き取ったのは、恐らく余の命が、痩せこけた手頸に、有るとも無いとも片付かない脉を打たして、看護の人をはらはらさせてゐた日であらう。

無論病勢の募(つの)るに伴(つ)れて讀書は全く廢(よ)さなければならなくなったので、教授の死ぬ日まで教授の書を再び手に取る機會はなかった。

 

   病床にありながら、三たび教授の多元的宇宙を取り上げたのは、教授が死んでから幾日目になるだろう。

 

   余の病気に就て治療上色々好意を表してくれた長與病院長は、余の知らない間にいつか死んでゐた。余の病中に、空漠なる余の頭に陸離の光彩を抛げ込んでくれたジェームス教授も余の知らない間にいつか死んでゐた。二人に謝すべき余はただ一人生き残ってゐる。

       菊の雨われに閑ある病哉

       菊の色縁に未し此晨

 

もう一つ、此の俳句を作った時、関東・東海地方で大水害が起きて多大の災害が生じ死傷者も出ている。しかし漱石は後になって初めて知ったのである。そのことについて『思ひ出す事など』の「十一」の最後にこう書いている。

 

家を流し崖を崩す凄まじい雨と水の中に都のものは幾萬となく恐るべき叫び聲を揚げた。同じ雨と同じ水の中に余と関係の深い二人は身を以て免れた。さうして余は毫も二人の災難を知らずに、遠い温泉(でゆ)の村と煙と、雨の糸を眺めて暮してゐた。さうして二人の安全であるといふ報知(しらせ)が着いたときは、余が病が次第々々に危険の方へ進んで行った時であった。

 

この記述の後に〈風に聞け何れか先に散る木の葉〉を書き添えているのである。

これまで長々とこの句が出来るまでの経緯を見て来たが、ここでこの句について考えて見よう。

 

漱石は自分が何時死んでもおかしくない状態であったのに生き返った。一方彼を助けようとして治療に当たっていた長與病院長は漱石が生死の間をさまよっていた間に五十歳未満で亡くなっている。また漱石が最も愛読していたジェームス教授も漱石の療養中に亡くなっていたことを知る。さらに云えば洪水で幾多の者が犠牲になっていたことも知らぬに自分は命を長らえた。

こういったことを考えた時、人間の寿命など分かるものか。風に吹かれて散る木の葉のようなものだ。風に聞いたところで、「何れか先」すなわち「何れかの葉が」先に散るのだ、と答えるだろう。さらに「いずれ」は、「その内いずれにしても」と云う意味も含まれている。

風は意のまま気の向くままに吹いている。人間も天意の思いのままに、早く死んだり長生きしたりするのだ。別に誰が先に、誰が後に死ぬということはない。たまたま自分はこうして生き延びたが、いずれは死ぬ身だ。我が命は天命に任すのみだ。

こういった気持ちで漱石はこの俳句を作ったのではなかろうか。この考えは「則天去私」に通ずると言える。ネットに此の詩の英訳が載っていた。

 

Ask  the  wind;

Which  leaf  will  fall  from

The  tree  first ?

 

「シンプルでわかりやすく訳したつもり」と云っているが、これでは真意を伝えない。確かに俳句や和歌を外国語に翻訳するのは生易しいことではない。

「生きとし生けるもの いずれか歌を詠まざりける」と『古今和歌集』の「仮名序」にあるが、早い遅いはあるが、誰も皆いずれは死ぬのだ、と漱石はしみじみ感じたのである。

 

最後に冗談。今回上梓した文庫本『硫黄島の奇跡―白骨遺体に巻かれたゲートル』(文芸社)の帯に、「母が彼の無事を祈って縫い付けた名前。それが奇跡をうんだ」とある。その名前は「オガタ」と右から左に糸で縫ってある。今は普通に左から読むので「タガオ」と読める。先日知人が来たので実物のゲートルを見せたら、「タカオ」と読んだ。「ガ」の濁点がよく見えなかったのだ。たかが濁点、されど濁点である。

 

                         2020・2・13 記す

 

 

 

 

包丁を研ぐ&蝉

 妻が生きていた時「包丁がよく切れないから研いでおくれ」と時々言ったので、外の流しの下に置いている荒砥(あらと)と中砥(なかと)の二つ砥石を台所の流しへ持ってきて、水道の栓を絞って水がわずかに滴るくらいにしてよく研いでいた。

今朝オクラとピーマンを俎板に乗せて切り始めたらどうも切れ味がよくない。こんな柔らかい野菜がスカッと切れないのは変だと思った。そう言えば妻がなくなって以来一度も研いでいなかった。手にしていた包丁をよく見てみると小さい刃こぼれが数か所あった。これでは切れないはずだと思い、先に述べたように二種類の砥石を取りだして研いだ。ついでにいつもよく使うのを二丁と出刃包丁を一つ、さらに小さなのも二本一緒に研いだ。

研ぎ終わったとき薄墨のような研ぎ汁が指先についたのでよく洗って、さてもう一度野菜を切ると、実に気持ちよくサックっと切れた。

 

私は最近次男が持ってきてくれた「電子書籍」で、吉川英治の『宮本武蔵』を楽しく読んでいる。つい先日次のような文章があった。それは武蔵が江戸に出てある刀(かたな)研(とぎ)のとこへ行ったとき、その研ぎ師が言った言葉である。

 

「常々師の光悦(こうえつ)が申すことには―由来、日本の刀は、人を斬り、人を害するために鍛えられてあるのではない。御代(みよ)を鎮(しず)め、世を護りたまわんがために、悪を掃(はら)い、魔を追うところの降魔(ごうま)の剣であり―また、人の道を研き、人の上に立つ者が自ら誡(いまし)め、自ら持(じ)するために、腰に帯びる侍のたましいであるから―それを研ぐ者もその心をもって研がねばならぬぞ―と何日(いつ)も聞かされておりました」

 

この言葉が頭の隅にあったから包丁を研ぐ気になったのかもしれない。「研ぐ」で今ふと思い出したことがある。それは以前従兄が彼の母親に習って茶杓を削るとき、「数百年も経った古い煤(すす)竹(だけ)を削ると、非常に硬いので切り出しナイフが直(じき)に切れなくなるので、しょっちゅう研がなければならない」と言っていた。

このことを拙著『杏林の坂道』に書いたとき、彫刻家の高村光太郎の詩を引用した。今その詩をもう一回見てみた。

 

   千恵子は寝た。 

   私は彫りかけの鯰(なまず)を傍らへ押しやり、

研水を新しくして

更に鋭い明日の小刀を瀏瀏(りうりう)と研ぐ

 

「瀏」という言葉が実によい。「きよい」「あきらか」の他に「切れ味がよく、さえている」という意味がある。当時光太郎の妻千恵子は精神的に正常ではなかった。光太郎はさぞかし苦しかったと思う。しかし彫刻に向かった時、又こうして小刀を研ぐときは一心不乱で精神は研ぎ澄まされていたと思われる。

 

私は研ぎ終えた包丁で野菜を切り、パンを焼き、コーヒーを淹れて朝食を終えた。私が朝の食卓に着くと、何処からともなく毎日一羽の鳩がやってくる。そこで私はその度に玄米をパラっと撒いてやることにしている。雀も来ることがあるが、やはり遠慮して鳩のおこぼれを啄(ついば)んでいる。鳩にしても雀にしても実に目がいいと思われる。離れたところの電線や屋根の上からでもこの米粒が見えるのだろう。

 

食事を終えて外に出て「あかめ」の垣根のそばへ行った。昨年油断していたので、この「あかめ」に実に多くの毛虫が取り付いて若葉を食い尽くした。今年はそうならないようにと気を付けている。今朝行ってみたら一匹に蝉がその木の小さな枝に止まっていた。蝉の鳴き声は時々聞くが姿を見たのは近来初めてのことだから、カメラを持ってきて写真に撮った。

 

早速パソコンで拡大して見たら、羽が透き通って奇麗である。子供のころ、萩の我が家に一本の桐の木が高くの伸びていて、それによくこれに似た蝉が止まって「シャーシャー」と言ってやかましく鳴いていた。私はその木にのぼって捕えようとすると、近づいた途端に鳴くのを止めてよく飛び去った。この蝉にも正式の名前はあるだろう。他にこれより小さい蝉も沢山いた。これは「ミーミー蝉」とか「チーチー蝉」とか言っていたが、いずれも鳴き声で区別していた。最近はこうした蝉もトンボも蝶もあまり姿を見かけない。これも一種の自然破壊と言うべきか。

 

いつぞや下関の名物の河豚を宮中に献上するといって、その道のプロともいえる職人が河豚の刺身を大きな皿に切っては盛り付ける様子をテレビで放映していた。

私はその手際の良さに感心すると同時に、あの柔らかい魚の身を、あのように薄く切るにはよほど包丁がよく切れなければ無理だろうと思った。刺身包丁という特別仕立ての包丁があるが、この包丁を鋭利に研ぐこともこの職人の大事な仕事に含まれるのではないか、と薄い蝉の羽を見て思った。

漢和辞典を引くと、「嬋娟(せんけん)」という言葉があり、この漢字を虫編でも書く。意味はいづれも「あでやかで美しい。美人」の意味だとある。蝉の羽の透き通るような美しさからの連想であろうか。

 

偶然の一致ということがある。私は時々『暮らしの365日 生活歳時記』(三宝出版)を見る。これは昭和五十三年に初版が出て、私が手に入れたのは五十五年の十九版のものである。1148頁もの浩瀚なもので色々なことが網羅されていて一冊の百科事典と言っても過言ではない。どのページを開けてみても教えられることが記載してあるから私は重宝にしている。

今日は7月26日だからその日付の開くと、驚いたことに「今日の歳時記」として蝉のことについて書かれていて挿絵も載っていた。私が偶然の一致といったのは、たまたま蝉に事を書いてそのあと散歩から帰り、今日の日付のところを開いたら蝉のことが書かれていたからである。その内容を書き写してみよう。

 

「今日の歳時記」

蝉  せみ

 七月半ばすぎると、いろいろの蝉がいっせいに鳴くのが聞かれる。ジイ、ジイとなく油蝉。ミーン、ミーンと鳴くミンミン蝉。シャー、シャーと鳴く熊蝉。ニイ、ニイと鳴くニイニイ蝉。あたかも時雨が降る様なのにで、この様を蝉時雨ともいう。鳴くのは雄で雌は鳴かないので唖蝉という。

閑かさや岩にしみ入る蝉に声  芭蕉

身に貯へん全山の蝉の声    三鬼

 

蝉の一生は最近の研究では一か月程度と言われている。それにしても短い命だと知った。

 

                     2020・7・262 記す

 

 

 

 

 

 

 

 

又(ゆう)玄(げん)

                                  閑楽庵主人

 一昨日は夜中に目が醒めた。時計をみたら一時だった。それから一時(いっとき)眠れないで結局三時頃まで起きていた。その後うとうととしていていたら目覚ましが鳴った。知らぬ間に二時間ばかり寝ていたのだろう。やや寝不足の感はあったが五時だから床を出た。

しかし昨夜は熟睡できた。入浴したのが九時だったので、風呂から上がって直ぐに床に入った。五時に目覚ましが起こしてくれるまでぐっすり休む事が出来た。風呂に入って暖まってそのまま続けて寝たのが良かったのだろう。直ちに洗顔し、布団を上げてその同じ場所に薄い毛布を広げ、座布団を置き、それを尻の下に敷いて坐った。こうして私は机に向かい私の一日が始まるのである。

妻が昨年五月に亡くなったので、一年後の納骨まで遺骨と遺影を座敷の棚の上に置いている。われわれは寝起きの時間が全く違うので、私は二階の書斎で、妻は階下の自分の部屋で過ごしていた。寝るのも各自別の部屋だったが、亡くなってからせめて一緒の部屋にしようと、私は夏から秋が深まるまで座敷で寝るようにしていた。しかし冬になって座敷は夜しんしんと冷えるので、台所と居間兼用の広い部屋に敷き布団の持ち込んで寝ることに変更した。此処なら朝昼晩の食事はもとより、来客があってもこの部屋に通すので、夏季には冷房,冬季は一日中暖房を付けて、私にとっては唯一生活の場である。したがって寝るまで暖かい。外の部屋は皆寒冷地帯と云ったところだから、此処なら暖房の経費節約にもなる。

しかし一日中いるから十日に一度は掃除をする。その時はこの部屋だけではなく家中、階段から二階まで掃除機をかけ、板敷きの場所はモップを用いてきれいにする。今日は二月十日で掃除日に決めているので、階上階下全ての部屋を掃除した。そして神棚から仏壇、さらに座敷と玄関にある三つの花瓶の水まで替えてすっきりした。「明窓浄机」という言葉があるが、幾分こうした気分になる。八時から初めて丁度一時間かかった。

 

このところ私は『漱石全集』を再読して居る。いや再読ではない、三回以上読んだ作品もある。此の度読んだのは、『行人』『心』『道草』である。この後最後の作品『明暗』を読むつもりだが、その前に『第八巻 小品集』読むことにした。この作品だけは所々読んではいるが、全部は読んでいないから此の度読もうと思ったのである。

今回漱石の作品を読んでつくづく思うのは、漱石の文章は、内容の面白さはもとより、比喩や表現の上手さ、それから漢字、それも実に巧妙な宛字で、注意しながら読むと、まさに目から鱗で、改めて感心する。

例えば次ぎのような言葉があった。普通の読み方ではなくて漱石が付けている「フリガナ」が面白い。

 

蜿蜿(うねうね)と  狐鼡々々(こそこそ)と  調戯(からか)った  冷嘲(ひやか)す  憤(むっ)として  軽侮(さげすむ)  淡泊(あっさり)した女

引泣(しゃくり)上(あ)げる  見惚(みと)れる  焦急(じれっ)たさうに  性急(せっかち)の自分 ・・・・ 

 

こうして挙げれば切りがないほどある。

 

さて、こうして掃除を終え朝食を食べ終わり、すこし書見をしたら十時になった。一服しようと思い抹茶を点てて喫した。朝食はパンと珈琲だが、その時以外は必ず抹茶を喫することにして居る。しかし二度以上喫することはない。これまでは別に気にせずに飲んでいたが、この抹茶は『又(ゆう)玄(げん)』という銘で、100グラム入りの紙袋に入っている。

私は今日初めて「又」がなぜ「ゆう」と読むのか不思議に思って『漢和辞典』を引いてみた。そうしたら「又」は呉音で「ゆう」と読むとあった。しかし「又玄」の意味が分からない。辞典を調べてみても載ってはいない。そこでネットに載っているかと思ってみてみたら、果たして次のように説明してあった。

 

「奈良薬師寺の百二十三代管主橋本凝胤師が命名された。“奥深い上にもなお奥深い”という意味。」

 

何で読んだか忘れたが、こんな文章を書留めていた。

 

  いくら山に入っても山に入ったことにはならない。自然に帰ったことにはならない。問題はやはり心である。その心さえあれば雪や雲の山は昼も夜も幽玄を示すに違いなし、「玄の又た玄」の相。

 

橋本凝胤師の後を継いで薬師寺管主になったのが高田好胤師である。凝胤師は自ら律すること厳しくて肉食妻帯をせず、弟子の好胤師を徹底的に厳しく鍛え指導して居る。此の事を好胤師は本に書いている。高田好胤という存在を知ったのは、私の伯母がたまたま宇部市で講演された師の話を聞き、感銘を受けて茶杓を削って薬師寺に寄贈したことから二人の間に不思議な縁が生じたからである。彼はわざわざ山陰の片田舎にまで伯母を訪ねてきている。此の事は拙著『杏林の坂道』に書いた。

 

私は橋本凝胤師が「又玄」の名付け親だと知って、なるほどそういう意味かと納得した。私はこの「又玄」を山口に来てから専ら愛飲し、河崎というお茶屋さんに電話して何時も持ってきてもらう。頼んだら彼はバイクでその日のうちに届けてくれる。客人が見えたときは珈琲や紅茶ではなくて、我が家では祖父の代から何時も茶を点ててもてなすことにして居る。私も家内も毎日喫していたので割と早くなくなる。たしかに心身の疲れたときの一碗の抹茶は効果がある。細かい緑色の沫粒は正に甘露である。そのとき私は何時も同じ萩焼の茶碗を使っている。漱石の事を書いたからついでに云うと、彼は『草枕』の中に茶人についてこんなことを書いている。

 

「極めて自尊的に、極めてことさらに、極めてせせこましく、必要もないのに鞠躬如(きっきゅうじょ)として。あぶくを飲んで結構がるのは所謂(いわゆる)茶人である」

 

漱石はわざと書いているのだろうが、その「あぶく」が何とも言えず美味いのである。ゆっくりと茶筅を動かして出来るだけ小さな「あぶく」が生ずるまで点てたお茶ほど味が良い。お茶は薬にもなると云われている。栄西禅師がもたらしたお茶の種がこうして広まった。いま「又玄」の意味を知って、これからは少しでも、この意にそうような生き方をしなければならないと思うのである。

 

さて、私が毎日使う茶碗だが、それは白い釉薬の大ぶりな萩焼茶碗である。私の父は商業英語のような学課を教えていたようだが、家で本を読む姿を見たことがない。夕飯を済ますとほとんど毎日出かけていた。行き先は当時まだ数軒あった道具屋だったと思う。教師としてはどうかと思う。父は停年になるのを待っていたかのように、退職するとすぐお茶を教え始めた。そして誰でもお茶を習いたいと言って来る人には喜んで教授した。父は心からお茶を愛し、死ぬ前日まで翌日の稽古の準備をしていて、その日の夜に静かに息を引き取った。享年八十四歳であった。晩年は自然を愛し、人生を楽しむ日々だった。「和敬清寂」の精神を生きようとしていたのかも知れない。

そういったことで老若男女いろいろな職業の人が稽古に来た。考えて見ると華道と違って茶道の教授は、準備万端、大変手間の掛かるものである。だから金銭的に見たらプラスにはならない。好きでなければ出来ない。その意味に於いては、父は清貧に甘んじながらも、自分の好きな道を歩んだ良き生涯だったと言える。

 

こうした父の弟子の一人が玉村松月さんだったのである。彼は山口県下でも最も優れた萩焼作家で、この玉村松月さんに父がこの茶碗を貰ったものだと思う。父はこの茶碗を愛用していたが私もこの茶碗が一番気に入っている。外側に比べて茶碗の内側には、飴色の薄い釉薬がかかっていて、鮮やかに貫入が入っている。両手で抱えた時掌にぴったりと当てはまる。ふっくらとした井戸茶碗で、かなり大きく深いものだが軽く感じられる。私は名碗だと思っている。

松月さんの息子さんも一緒にお茶の稽古に来ていた。息子さんは玉村登陽と云う雅号だが、これは私の父が付けたようである。登陽さんが以前私にこんなことを言った。

 

「私の父は大きな手をしていまして、一日に三百箇の茶碗を作ったことがあります。私なんか百箇作れたら御(おん)の字です。それほど父は握力が強かったです。小さいときから粘土をいじっていたからです。今でも私はとても父には敵(かな)いません」

 

松月さんは小学校を出ただけだが、陶芸に関しては抜群の才能があった。息子の登陽さんも父に早くから師事して、日本伝統工芸展など数々の陶芸展に入選している。残念なことに彼は先年亡くなった。私の妻が亡くなって一ヶ月ばかりして、登陽さんのお奥さんとやはり父の後を継いで陶芸作家になった息子さんの二人が突然見えた。

実はわれわれが平成十年に山口に居を移して家を建てた時、登陽さんが「お祝いに今挑戦して居る『紅萩』が出来たら差し上げようと思っています」と云っていた。しかし何かと都合があったのだろう生前には来られないうちに亡くなった。その約束を果たすために奥さんと息子さんが持って来られたのである。私は見事な作品に感激する以上に、その遺志をこうして実現された事に心を打たれ、心から礼を述べた。これはやはり人の和を大事にし、また萩焼を愛した父の気持ちが、玉村家親子三代に通じたものだとも思い本当に有難かった。

                           2020・2・10 記す

 

 

日々新

「無為」という漢字を辞典でみてみると、「無為自然」とか「無為にして化す」という言葉が先ず出てくる。これは「自然にまかせて、作為するところのないこと」と説明してある。これらは良い意味である。ところが「無為徒食」となると、「何の仕事もしないでただぶらぶらして暮らすこと」とある。

 鴎外の『妄想』にこんな文章がある。

 

漢学者の謂うふ酔生夢死といふやうな生涯を送ってしまふのが残念である。それを口惜しい、残念だと思ふと同時に心の空虚を感ずる。なんともかとも言はれない寂しさを覚える。それが煩悶になる。それが苦痛になる。

 

 岩波から出た『鴎外全集』は全部で三十八巻ある。最後の巻に「著作年表」と「総目索引」が載っている。それを見てみると、彼は明治十四年(1881)九月に『河津金線君に質す』と言う文章を「読売新聞」に出したのを嚆矢として、大正十一年(1922)八月一日発行される『新小説』に『伊沢蘭軒傳等広告文』を書いた後、七月九日に萎縮腎・肺結核で満六十一歳の生涯を終えた。この長い文筆生活の間、小説、翻訳、評論などざっと計算して一千六百もの文章を書いている。「酔生夢死」の真反対の一生を貫いたことになる。

 

年を取ると早く目が覚める。正月元旦を数日過ぎたある朝、時計を見るとまだ三時半であった。そこでしばらく床の中にいると、「無為、無意味、空しい」という言葉がなんとなく頭に浮かんだ。「空しい」は別として、皆「む」で始まる。そこで「三無」という言葉があるだろうかと思って、起き上がって『学研 漢和辞典』(学習研究社)を引いてみた。すると「三」のついた多くの言葉があるのを知ったが、「三無」はなかった。

 

「三」のついた言葉では、例えば、 「三人行必(さんにんおこなへばかならず)有我師(わがしあり)」とか「三楽」など、その意味を始めて正しく教えられた。

前者の説明は「自分のほかの二人との三人でいっしょに物事を行うとき、ひとりが自分よりすぐれていればそれに従い、もうひとりが自分よりすぐれていなければ自分を反省するから、必ず自分にとって師とすべきものがいるということ。[論・述而]」とあった。これは吉川英治の『宮本武蔵』に出てくる「我以外皆我師」を思い出させる。

後者は『孟子』『列子』『論語』の中からそれぞれ引用文を引いて説明してあった。例えば『孟子』の「尽心篇上」では「君子の三つの楽しみとして、父母兄弟共に生存すること、公明正大で心にやましいことがないこと、天下の英才を教育すること」とあった。

天下の英才を教育するには自らが英才である必要がある。従って凡才には此の「三楽」は望めそうにない。 

 

ついでに『日本国語大辞典』(小学館)を見てみた。すると出ているではないか。

 

【三無】「無」のつく語を三つ並べて総称するときに用いる語。①声なき楽、体なき礼、服なき喪をいう。精神があって形式がないこと。②は省略するが、③中国共産党草創時代のスローガンの一つで、失業者。徒食者・乞食をなくすこと。とあった。

 

私が三つの「む」つまり「無為、無意味、空しい」にこだわったのは、多くの人が老いてくると、こういった感情を抱くのではなかろうかと思うからである。戦後日本人の平均寿命が非常に延びて、男性の場合でも八十歳に達している。しかし肉体的にはともかくとして、精神的に元気な人の割合は少ないと思う。

  

實は昨年の暮れに次男が、「『杏林の坂道』をネットで読めるようにしてみようかね」と言うから、「出来たらやってみてくれ」と言った。そこで私は暮れから正月にかけて、六年前に私家版で上梓した拙著を見なおす作業を始めた。

年が明けて子供たちが集まったとき、「何とか読めるようになったよ。『杏林の坂道』と索引を引けば出るようになった。いまは『第一章 出郷』だけだが、誰でも読むことが出来る」と言ってくれた。これはもうすぐ満八十七歳になる私を少しでも元気づけようとする気持ちからだと思い有難かった。従ってその後毎日朝早く起きて作業を行っている。

 

拙著を読み直してみて、これに出てくる主人公と長男親子のことを改めて思った。父親は昔の県立萩中学校を明治三十四年に、五年生の時自らの意志で中退して長崎の三菱造船所に入り、その後日露戦争が勃発すると、看護兵として従軍した。無事帰還後、広島陸軍病院で勤務しながら猛勉強して医師の資格を取得、さらにその後請われて日本海岸の寒村の医者として赴任。太平洋戦争が終わった直後、患者を診ながらと言っても過言ではない仕方で急逝した。六十二歳であった。

同じ年の三月に、長男は父の丁度半分の年齢で軍医として硫黄島で玉砕した。二人の一生はおよそ「無為、無意味、空しい」なんて到底思われないものだったと私は想像する。いまから考えれば早世であるが、立派な生涯だったのではなかろうか。

 

私はこの拙い伝記小説を同人誌に連載し終えるのにかなりの年月を要した。その間、長崎はもとより大連から二〇三高地へ、さらに北上して旧満州奉天、現在の潘陽迄足を伸ばした。こうして観光を兼ねた取材旅行は結構愉しかった。この間は多少なりとも気持ちに張りがあったが、いまはやはり一抹の寂しさと空しさを感じる。書いてしまえば終わりである。ネットで一人でも多くの人が読んでくれたら有難いが、それだけの話である。

 

私は毎年元旦になると、一幅の決まった軸を床に掛けることにしている。それは松林桂月の「蒼海旭日」という縦長の軸で、激浪の蒼海の上方に大きな旭日が上っている様子を描いた単調なものである。そしてその前にお重ねを三宝に載せてお飾りをする。こうして新春の爽やかな気持ちを醸し出すようにしている。最近は近所でも玄関や家の前に殆ど輪飾りを見かけない。時代と共に伝統が廃れていく。クリスマスやハローウインは次第に人気があって、その様子をテレビで放映している。伝統の漸減と同時に日本人らしさも失われていくのではないかと心配する。

掛け軸のことだが、これは父が郷土の画家というので特別に手紙を書いて頼んだのを私は覚えている。しかし正月も過ぎたので、元相国寺管長の梶谷宗任忍師の書かれた「日々新」に掛け替えた。これはかっての同僚がどうして手に入れたか知らないが気前よく呉れた。箱書きも何もないもので、恐らく老師が気軽に書かれた半切を表装したものであろう。落款だけはある。絵と書では比較にならないが、日本画家桂月に比べたら書はあまり見栄えはしない。

しかし言葉が良いので私はこれを選んで掛けることにした。ということで、これからはせめて「日々新」な気持ちで、毎日を無事に送ることが出来たらと願っている。

理髪店主のまごころ

 今日は八月三日、まだ盆前の週であるが、毎年この日に萩のお寺から盆のお参りに来られることになっているので、昨日からその準備だけはしておいた。今日は若い息子さんが代理で見えた。その少し前に下関に居住している私の長男が帰った。何かしら大きな紙包みのようなものを持っているから、どうしたのかと尋ねたら、

「僕が何時も行っている散髪屋のおやじさんが、お母さんにお供えしてくれといって、自分で作ったこの造化をくれたのだよ」

 こう云って包みを拡げて見せた。私はその見事な造化に驚いた。普通店頭で見かけるよりももっと立派なものである。こうした材料は売っているのかとも思うが、紙で作った菊や百合や蓮の花、またその葉っぱなど実に良くできている。セロハン紙に几帳面に包みしかも二束一対あった。私はこの理髪店の主人のまごころに打たれた。

 長男はこれに関して次のように言った。

「僕は何時もこの店へ行って頭を刈ってもらっているが実に感心な人です。まだ五十歳を過ぎたばかりだが、家が貧乏だから中学校を出ただけで、修業して散髪屋になったとか。最近彼の父親がバイクによる自責任の事故をして、脊髄を損傷したので今は働けないから、彼が父親の面倒を見ていると言っていた。この人には息子が居るが、やはりお金がないので、その息子は工業高校を出ただけだが、その高校で一番成績がよくて地方公務員試験に合格して、今その息子は山口県内で一番若い公務員だそうです。何処かの中学校に勤めているようだが、外人の英語教師が来た時、この息子が外人との通訳をするらしい。非常に頭が良いようだね。」

 これを聞いて私はこう言った。

「そりゃ立派だね。以前は優秀な生徒で高校を卒業しただけで、一流企業や公務員になるのがいた。そうした者はその企業や例えば日本銀行などに入って、大学へ進学させてもらえるような制度があったが今はどうかな。このような人は大いに才能を伸ばしてやると良いね」

 私は息子が帰る時、その理髪屋にお礼の気持ちで清酒を託した。そして帰った後、一対の造化を二つの小さな花瓶に挿して、妻の遺影の前に設置した。

 

今からもう三十年以上も前になるが、私が萩高校から萩商業高校へ転勤した時、一人の優秀な生徒がいた。彼は推薦で日本銀行へ入行したが、聞くところによると、大学へ行かせて貰ったようである。あの頃はまだ家が貧しいが故に普通高校、さらに大学へと進学しないで、商業高校や工業高校へ入り、卒業後は実社会に出るといった道を選ぶ者がいた。彼らは概して成績が良かった。

私はこの事に関して似たようなケースを今思い出した。生前妻が話したのだが、中学校時代の同級生に、親が炭鉱夫で、それこそ掘っ立て小屋のような所に住んでいる女性がいた。言うなれば極貧の生活を余儀なくされていた。炭鉱夫の父親が夜勤の場合、昼間は家に帰って休息を取らねばならない。しかし家が狭くて、子供は小学校から帰っても父親が寝ているから家には入れない。したがってそのまま戸外にいなければならなかった。

漱石に『坑夫』という小説がある。あの中に「安さん」と言うインテリの坑夫が出てくるが、一般的に言って炭鉱で働く者はすべての点で普通以下だろう。しかし中には賢いがやむを得ずこうした生活を余儀なくされている者もいたと思われる。妻の友達は中学校時代中々成績が良くて、卒業後も妻と電話したりしていた。彼女には妹がいたが、妹は前向きの志向ではないので、親と同じような境遇に甘んじていたようである。

彼女は中学校を卒業しただけで理髪業の男性と一緒になり、見よう見まねで彼女も理髪師の資格を取り、夫婦して大阪で店を持っているとのことだった。この女性には子供が三人いて皆よくできて、長男は京都大学を出て大手の銀行に勤務、次男も長女もそれぞれ一流の国立大学を卒業したようである。

妻はこのような事も聞かされたようである。其の友達の長男が京都大学を受験するにあたり、息子が無事に合格するようにと「茶断ち」をしたそうである。これを知った息子は、それだけは止めてくれ、自分は頑張るからと言って、見事合格したのである。この親にしてこの子ありと思う。昔から「親の後ろ姿を見て子は育つ」と言うが、本当にそうだと思う。

さらに私の長男が次のような事を話した。

「この散髪屋は散髪代が二千円で安いから僕は何時もいくことにしている」

「安いと云えば簡単にすますのじゃないか?」

「そんなことはない。きちんと頭まで洗ってくれて普通の散髪屋と全く同じです。また其処のおやじさんは、こんなことを言っていた。此の度のコロナ感染で、一律十万円貰う事になったが、彼が言うには『私は今のところお客さんも来てくださるし、生活に困らないから十万円は困って居る人に上げて下さいと言って貰いませんでした。』これを聞いて僕は本当に感心だと思った。世の中には、これとは反対で、如何にも困ったように見せかけて余分にこうした金を貰おうとする者がおるからね」

 

 私が大学を出て最初に就職したのは、県立小野田高校だった。当時まだ小野田市には炭鉱があったと思う。「ぼた山」を幾つ目にした。今「ぼた山」と言って分かる人は少ないのではなかろうか。私自身「ぼた」とは何かと思って『広辞苑』を引いてみたら、次の説明があった。

【ぼた】(主に九州地方で)炭鉱で、選炭した後に残る岩石や粗悪な石炭。

【ぼた山】炭鉱で、ぼたを積み上げた円錐状の山。

      

 私はこの高校に入って二年目に陸上競技部の顧問になった。放課後彼らの指導と言うよりむしろ、私自身若いので彼らと一緒に走ったり跳んだりして、結構楽しかったのを覚えている。その中に三年生で一人大変優れた部員がいた。色白で端正な顔立ちですっらとした体格であった。県内の高校ではトップクラスで、走るフォームが非常に綺麗で校内の運動会では目立つ存在だった。中距離競争、特に四百メートルでは県下で一位。中国大会でも三位に入賞した。この男を中心として四百メートルリレーを組み、中国大会に六位以内に入ったので、その夏高知市で行われた全国高校陸上競技選手権大会に出場した。

地球温暖化で今は三十度を超してもそれほどとは感じないが、当時三十度と言えば大変な暑さだった。南国土佐で、しかも擂り鉢状の競技場の中は三十三度に達していた。まさに猛暑である。旅費宿泊費が潤沢でなく、暑くてやりきれないので西瓜を買って皆で食べた事など覚えている。

松山から高知まで山の中を片道十三時間かけてバスで往復した。若いから出来たものである。しかしこのような状況だったので実力を発揮できなかったが良い経験にはなった。競技が終わり、市内を少し見物した。獰猛な土佐犬が一匹づつ入れてある頑丈な檻が幾つか並んでいるのを見た時、檻を破って出て来たらさぞや怖かろうと思った事も覚えている。高知城の大手門の前で、皆で写った写真を見ると、生徒達五人が白い半袖の開襟シャツを着て制帽をきちんと被って写っていた。

 

彼らのうち三年生は翌年の四月に卒業した。先に述べた最も優れた選手は村上正夫という名前であった。後で朝鮮人だと知った。彼の兄が炭鉱で働いて居たようで、その後彼は北朝鮮へ帰ったとの噂を耳にした。あれから六十五年の歳月が流れている。私は彼が小野田高校の制服を着用し、坊主頭に制帽をかぶり実に礼儀正しく、グランドにおいては、後輩の面倒をよく見ていたのを覚えている。彼は決してはしゃぐような事はなかった。

人間はどこの国に生れ、またどんな親の元で成育するかは、本人にとって無関係で運命のなせることだと思われる。戦前か戦時中か、彼の兄が恐らく朝鮮を後にして日本に来て、炭鉱で働いて居たのだろう。それに伴って彼も日本に来たのだと思われる。戦後北朝鮮が平和な楽園との宣伝を信じ、村上君兄弟は帰国したのだろうが、杳として彼の消息が分からない。彼と同じ学年で橋本浩吉という陸上部の選手もいた。彼も朝鮮国籍だと私は後で知った。『会員名簿』を見ると、二人とも名前だけは記載されているが、現住所はもとより、何処で何をしているか書いていない。こうした白紙の状態を見ると何だか淋しい。

彼らは今生きていたら八十二歳か三歳である。万が一にも彼らに会う事が出来たら、どんなにか懐旧の念にふけることができるだろう、と私はつくづく思った。

 

2020・8・3 記す

潸(サン)タリ

 

平家物語』にある「敦盛最期」は何とも哀しい情景を描いている。敦盛の「ただとくとく頸をとれ」という言葉にうながされ「なくなく頸をかいた」熊谷次郎直実の心中はさぞかしと想像される。

 

 「あはれ、弓矢とる身ほど口惜かりけるものはなし、武芸の家に生まれずは、何とてかかる憂き目をば見るべき。なさけなうも討ちたてまつるものかな」とかきくどき、袖をかほにをしあてて、さめざめとぞなきゐたる。

 

此の事を契機に熊谷直実は出家遁世し、法然上人に帰依したとのことだが、この他に大きな原因があったことを佐藤春夫は『掬水譚』に書いている。

 

私の家の信仰は浄土宗であるから、この「法然上人伝記」を読んでみた。

熊谷直実が縁者との領地争いが昂じて、頼朝の面前で互いに言い争いを陳べる対決の段になって、相手は縦横の辯をまくし立てるのに、戦場では人に引けをとらぬ直実も、生来の訥弁(とつべん)。申し立てもしどろもどろに、誠実さえ疑われて一向に申し分が通らない。終に彼は腹立ち紛れに持っていた証文をその場へたたきつけ、刀を抜いて自分の髻(もとどり)をぷっつりと断り捨て、その場を跳びだして駆け出すとそのまま姿を消した。

頼朝は一方ならず驚いて彼の一途を申しなだめ出家をおもい止まらせようとしたが一向に行方さえも知れない。直実はその間たまたま山中の枯れすすきのなかの小庵に念仏の声を聞き、それが縁で法然に出合うのである。

『掬水譚』では次のように文章が続く。熊谷が知り合った一人の僧に伴われて吉水の法然に初めて会ったときの彼の言葉。

 

「殺生戒はおろかな事、殺生を身の誉にさへ思って、その功積もって受領(じゅりょう)にもならんずる心でをりましたきのふまでのわが身の罪業、怖ろしさの極みでございます。また奸智に長けた輩(ともがら)、相謀って邪悪を遂げる現世の姿、厭(いと)うても厭い切れませぬままに、浄土を欣求(ごんぐ)致す念を発しましたが、こんな罪業重き身には願っても叶わぬかと浅ましく、後生(ごしょう)の程も案ぜられます」

 

 この懺悔の言葉を静かに聞き終わると法然は、浄土の法門の概略から弥陀の本願を説いて聞かせ、罪の軽重を言わず十悪五逆でさへも唯称名し念仏だに申せば、その功徳によって往生する事が出来る浄土が西方に開かれる、と言ったような話をことこまかに語り述べ教えたときに、熊谷は返事の言葉も絶えて潸々(さめざめ)と泣き出して、大粒の涙が手の甲から溢れ落ちた。

 

私は「潸々(さめざめ)」と送り仮名がしてあるこの漢字を始めて目にした。そこで『学研漢和辞典』を引いて見た。全ての漢字の中では「さんずい」のついたのが最も多いのではないかと思うが、いずれにしても「潸」という漢字を始めて目にし、これを「さん」とか「せん」と訓ずると知った。佐藤春夫がこの字を二つ並べては「さめざめ」とは、流石だと思った。

漢和辞典を見ると、「潸」は、涙がはらはらと流れるさま。「念報明時涕毎潸」=明時に報ぜんことを念(おも)ひて涕(なみだ)つねに潸(さん)たり。(陸游・識愧)と引用文が載っていた。

 

萩から山口に移り住んで何よりも有り難く思うのは県立図書館の存在である。駐車場には車が多く見受けられるが館内は割と閑散としている。その上三週間貸し出し可能である。二週間だと直ぐ返却しなければいけないような気がするからだ。私はここに河上肇著『陸放翁観賞』があるのを知ったので、「識愧」という詩が載っているかと思って調べてみたがこの詩は見つからない。岩波書店の『中国詩人選集』を見てみたら、「陸游―陸放翁― 一海知義注」にこの詩が取り上げてあった。河上肇は出獄後に上記の著作に没頭したそうだが、陸游の晩年の政治色の少ない詩を主に取り上げている。

 

数多くの中国の有名な詩人の中で、もっとも多くの詩を作りかつ長く生きたのが陸游だと言われている。彼は一二〇九年に八十五歳で亡くなっている。熊谷直実が亡くなったのが一二〇八年だから、全く同時代を生きたことになる。頼朝が鎌倉に幕府を開いたのが一一九二年であるが、七年後に彼は死んだ。その後北条氏が幕府を受け継ぎ確固たる制度とした。

我が国に所謂「武士道」というか「武士の精神」が誕生したのは、北条時頼時宗の時代だとものの本に書いてあった。北方女真族の金による侵攻で北宋が滅び、南宋が誕生したとき、幾人かの禅僧が我が国に来た。中でも有名なのは無学(むがく)祖元(そげん)だが、これらの優れた禅僧の鎌倉武士への感化は大きい。

陸游は生まれて早々にこうした国難に遭遇し、爾後政府の官僚として憂国の思いを持ち続けた。彼は役を退いた後は故郷に隠遁し農民と親しく交わっている。しかしその間にあっても国家再建の夢は念頭を離れなかった。此の事を頭に入れて「識愧」の詩を見てみる必要があるようだ。

以下、原詩は省いて、一海知義氏の読み下し文と解釈をみてみる。

 

      

 

識愧(はじをしる)

 

  幾年 羸疾(るいしつ) 家山に臥(ふ)し

牧(ぼく)竪(じゅ) 樵夫(しょうふ) 日びに往還す

至論(しろん) 本(も)と求む 編簡の上

忠言 乃(すなわ)ち在り 里閭(りりょ)の間

私(ひそ)かに驕(きょう)虜(りょ)を憂いて 心常に折(くだ)け

明時(めいじ)に報ぜんことを念(おも)いて 涕(なみだ)毎(つね)に潸(さん)たり

寸録(すんろく) 沾(うるお)わずして 能く此(ここ)に及ぶ

細(こま)かに聴きて只だ益ます吾が顔を厚うす

 

一二〇八年の秋、故郷における陸游八十四歳での作。作者の自注に「路に野老に逢い、共に語りて舎(いえ)に帰り、此の詩を賦す」という。百姓じいさんが口にした憂国の情に自ら反省して作った詩。

 

  もう幾年ものあいだ病気がちな私は山に囲まれた故郷に隠居し、牧童やきこりたちと、毎日ゆききする。世の中についてのすぐれた意見をもとは書物の上に求めていた私だが、誠意のこもった言葉は、何とこうした村里の中にこそあったのだ。

「いばりくさっておるえびすどものことを、わたしゃひとりで気にやんで、いつも胸をぶちくだかれたような気持ちになりますだ。このありがたい御代に何とかお報いしたいものと思うそのたびに、涙が溢れてきますのじゃ」

お上からわずかな俸給さえももらっていないのに、よくまあここまでと、ひとつひとつの言葉に耳を傾けていた私は、何もせずに居るおのれのあつかましさにいよいよ恥じ入るばかりだった。

 

 「かたじけない」という言葉がある。漢字では「忝い」とか「辱い」と書く。この意味は(1)「恥ずかしい、面目ない」(2)「もったいない」「恐れ多い」(3)「身にしみてありがたい」と数々あるようだ。(『広辞苑』参照)

西行の歌に、「何事のおはしますかはしらねどもかたじけなさに涙こぼるる」というのがある。西行は感動の涙を流したのであろう。漢字で書けば「涕潸たり」が相当する。

この場合「感泣の涙」で、只普通に「哀しいから泣く」のではなく(3)の「身にしみてありがたい」意味が多分にある。熊谷直実の場合は敢えて言えば(1)と(3)の両方を意味する。そして陸游の出逢った老農は(1)の意味か。

泣くという感情表現は外の動物にもあろうが、やはり人間特有のものだと思う。泣くことによって心が洗われることがある。来し方を顧みて、「潸たる涙」を流すことも時には有っても良いものかと思う。

 

二十一世紀の今日、北朝鮮による拉致問題、またチベットウイグル地区での中国共産党の暴虐行為はあまりに人道を無視している。今を去る八百年の昔、南宋のシナ人が逆に被害者の立場にあった、そして名もなき農夫までもが憂国の情に駆られていた。共産党の幹部連中は時代錯誤もいいところだ。彼等に限らず、大国の為政者には往々にして、涙なき者が出現する。北宋の皇帝一家が金に拉致されたという事は歴史的事実のほんの一例に過ぎない。

 

「潸」という字を調べるうちにいささか脱線したが、熊谷次郎直実と陸游の二人の憂悶の士が、国を隣りにして同時代に生きて居たとことを今回初めて知った。

光陰矢の如し。平成十年九月に故郷の萩を去って山口に来て丁度二十年経った。天皇陛下は満八十五歳の誕生日を迎えられた。多くの国民が祝賀に参加している様子をテレビ中継していた。八十五歳と云えば陸游が亡くなった年齢である。当時としてはまれに見る長寿だっただろう。私は彼の年齢を超えてしまった。徒に長く生きたものである。この先何とか無事にと願い駄文を書いてみた。

 

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以上の文章を私は平成三十年十二月二十三日に書いた。それからあっという間に時が経った。平成三十一年五月一日に令和元年へと年号が変わった。そして新しい天皇が誕生された。その令和元年五月二十七日に、全く思いも掛けないことに妻が旅先で急逝した。私は妻が亡くなった後一人暮らしを余儀なくされる事になった。これから何とか生きなければならない。子供たちに迷惑をかけないように心身の健康を第一と考え、自らを律しなければいけない。認知症になってはいけない。そう思って『漱石全集』を始めから読み直す事を始めた。然しこれは朝起きて朝食までとし、昼間は何か別の軽い本を読もうと思った。そこで次男に頼んで吉川英治の『宮本武蔵』を「電子書籍」で読めるようにして貰った。 

実はたまたま『人物日本の歴史 10 桃山の栄光』(小学館)で「宮本武蔵」を読んで、日本人として武蔵という人物は、如何に生きるかと云う点で、見習うべきものがあると思ったからである。

私は高校生の時、父の同僚で宮本武蔵を研究されていた伊東勲先生から、小説『宮本武蔵』を借りて読んだことがある。文庫本ではなくて濃紺の表紙の立派な装丁の本だった。そのとき読んだ幾つかの場面を今も覚えている。今回読み直して過去の記憶が多少蘇る。此の度は時間にゆとりが有るのでゆっくり楽しめる。次のような場面があった。

 

武蔵が友人の本位田又八関ヶ原の戦に加わって敗者となった。従ってかれらは残党狩りの対象となり、お甲という女とその娘の朱美の二人が住んでいた家に、武蔵と又八は転がり込んで一時身を隠していたところ、又八はお甲といい仲になるが、武蔵は如何しても帰郷して一人の姉だけには事情を話さなければと思う。しかし負けた西側にいたために故郷に帰る事が容易ではない。関所を破り殺人を犯すとう結果、遂に殺人犯として追われる身になっている。

この武蔵を捕らえようとして、沢庵和尚とお通というかっての又八の許嫁(いいなずけ)が山中で武蔵と出合うシーンを著者の吉川英治はこう書いている。

 

らんらんと光る眼が、じっと、沢庵の影とお通のほうを見ていた。猜疑にみち、殺気にみち、殺気に燃えている眼である。然し沢庵の一種の誘導尋問によって次第に武蔵の心がほぐれてくる。最後に沢庵がいった言葉は武蔵の心を百八十度変える。

 

「日(ひ)名倉(なくら)の山牢にとらわれているおぬしの姉―お吟(ぎん)どのはどうする気かな?」

「・・・・・」

「あの気立てのよい、弟思いのお吟どのを・・・」

 

この言葉を聞いて武蔵は痩せ尖った肩を大きくふるわせ、そして潸然と泣いて叫んだ。すると、沢庵は拳骨をかためて、不意に武蔵の顔を横から力まかせに撲り、

「この、馬鹿者っ!」

と、大喝した。

この後武蔵は沢庵に捕らえられ、千年杉に縛り吊される。その時の沢庵が語りかけた言葉に武蔵は生まれ変わる。

 

「武士の強さとはそんなものじゃないのだ。怖いものの怖さをよく知っている事が人間の勇気であり、生命は惜しみいたわる珠(たま)とも抱き、そし其の死所を得ることが真の人間というものじゃ。おぬしには生まれながらの腕力と剛気はあるが学問がない。武道の悪いところだけを学んで、智徳を磨こうとしなかった。文武二道というが、二道とはふた道と読むのではない、ふたつを供えて一つの道だよ。―わかるか武蔵。」

 

私は武蔵が「潸然と泣いて叫んだ」と吉川英治が書いているのを目にして、二年前に「潸タリ」という文書を書いたのを思い出して、『潸』という文字が一段と強く心に訴えたのである。「さめざめと泣く」というに日本語があるが、この「潸」は「涙がはらはらと落ちるさま」とあり、心機一転、取り返しのつかない事をしたという、悔恨の気持ちが見た目にはっきりするのだと思った。

人生に於いてこのような気持ちを経験して、『潸然』として立ち直ることができた者は幸せだと言えるのではなかろうか。人の一生は決して平坦ではない。山あり谷ありの起伏に満ちたものである。道の途中には落とし穴があるかも知れない。このような道を辿るとき、思いも掛けない不幸に出会うことがある。「禍を転じて福となす」という言葉がある。その不幸こそ却って何らかの閃き、天外からの導きだと感じ、救いの光が射し込んだと思い、素直に感謝と改悛の気持ちで受け取った時、その人間は救われるのではなかろうか。私は妻の死をその様に感じ、感謝してこれから生きなければと思うのである。

 

                         令和二年七月一日 記す

藪倒(やぶたお)し

 私は雨がひどい時を除いて殆ど毎日散歩に出かける。我が家のすぐ近くの二車線の道路を横断し、「マックスバリュー」というスーパーの横を真っ直ぐ行ったところにある「六地蔵」を拝んで帰るのである。道の突き当たりがその六地蔵のある丘陵地で、そこまでの道は僅かに勾配していて約五百メートルの距離である。丘に向かって道の左側にスーパーがあり、右側に数年前まで四階建ての「県営教職員住宅」が二棟建っていた。古くなって利用者が減ったために一棟だけ解体撤去された。その跡地が個人住宅地として整地されたが、瞬く間に新しい個人住宅が十数軒建った。どれも殆ど皆近代的な箱形の二階家で、庭はなくて二台分の車庫だけは備えている。

 

道の両サイドにはこうした新しい住宅が建っているが、一部畑地がある。丘陵地の東向きの斜面には多くの墓がある。新旧併せて数百基はあるだろう。二十年前に萩から移って来た時はスーパーも自動車道路もなく田圃が広がっていた。瞬く間に住宅地に変わり、今はこのあたりは新しい家ばかりだが、弥生時代の土器が数多く発見されているので、その昔も集落があったのだろう。

この斜面の麓に車が一台通れる程度の粗末な舗装道路が走っている。この田舎道と私が歩いて来た道とが丁字形をなしている。二筋の道が接した地点から斜面を登る道があり、人一人がやっと通れる程の小道で、葛(つず)籠(ら)折(お)りに頂上へと通じている。この麓に「六地蔵」があり、この道を麓に沿って八十メートルばかり左手に行って少し登った所にもう一つの「六地蔵」がある。

 

丘の頂上と言えども、麓の道からは三十メートル足らずの高さしかない。しかしそこからの眺望は中々良い。山口市街の中心部はここからは見ると可なり低位置にあるので、街の大半が眼下に見渡せて、そのはるか向こうに中国山脈が連なっているのが遠望できる。その昔大内氏が此処を拠点としたことも頷(うなず)ける。地形が京都に似た盆地で三方を山に囲まれ、中央に川が流れていて「西の京」または「小京都」と言われる所以(ゆえん)である。

 朝早く登れば連綿とつらなる山の背後から上る朝日が拝めるし、夕方には西の空に沈む夕陽のお蔭で、夕焼け雲の見事な景色が望める。私は萩に居たときは良く海岸で夕陽の沈むのを見たが、山口では海や大きい川がないのが残念だ。従ってこの丘陵地からの市街地の展望が唯一の楽しみである。私は今こうしてここまで登って来ることができるが、果たして何時迄この散歩を続けることが可能だろうか、そう長くは続けられないだろう思いながら慎重にゆっくり登る。

 

この頂上に「所郁太郎の墓」がある。彼は現在の岐阜県の生まれで、大阪へ出て緒方洪庵の「適塾」で医学を学び、その後京都へ出て長州の志士と交わり、「蛤御門の戦い」で長州が負けたことによる「七卿都落ち」に伴い長州に来た。その後奇兵隊に彼は所属した。当時長州は幕府に恭順する「俗論派」と幕府に対抗する「正義派」の二つに分かれ対立していた。井上馨が俗論派の者に滅多斬りにされたとき、郁太郎が焼酎で消毒して疊針で傷口を縫合して一命を取り止めたと云われている。然し郁太郎はその後二十四歳の若さで病死した。一方井上馨明治維新の政府高官として八十歳の長命を保った事は何とも不思議な運命の仕業である。瀕死の重傷を負ったとき井上の母は見るに見かねて、我が子をそのまま死なせてくれと懇願したとのことである。人の命は神のみぞ知るという事か。

所郁太郎はこうして井上の命を救った事で歴史に名を残したが、この頂上には多々良家とか小田家、更に中原家(中原中也の親族だろう)云った古い家の墓が多く建ち並んでいる。それらは皆丘の頂上附近に建っている。昔こうした頂上への墓参りは、手桶に水を汲み入れ、花芝などを抱えて一苦労だったと思われる。今は麓に水道が取り付けてあるが、それでもここまで登るだけでも汗ばむほどだ。然し死者の霊をこうした丘の見晴らしの良い所に鎮める事のできたのは、多少とも権力があった家だけだろう。

 

 私はこの頂上までは頻繁には登らない。麓から十メートルばかり登った地点で左折して進む。そこは誰かの墓地だと思うが、横長に五・六坪ばかりのセメントが敷かれた空き地になっていて、立派な墓が二基あるだけである。私はこの場所まで登ると一休みして市街地を眺めることにしている。この地点からでも眼下に広々とした風景が展望できるので実に気持ちが良い。私は景色を見ながら深呼吸して、今度は小道を下って次の六地蔵まで行くのだが、途中梅雨時から盛夏にかけてシダや蔓草が道いっぱいに繁茂していて、蛇でも出はしないかと気を付けながら草を踏んで歩く。この蔓草は「藪枯し」とものの本に載っている。私はこの蔓草を萩に居るとき「藪倒し」と言っていて、これを見た途端に在りし日のことを思い出した。

 

太平洋戦争が始まる直前の昭和十六年の夏休みだったと思う。翌年の四月に私は県立萩中学校へ入学した。従って明倫小学校六年生の時、私はある朝早く起きて父に連れられて我が家の橙畑へ行った。我が家を出てしばらく商店街の間を通り、橋本川にさしかかって長い橋を渡り、金谷天神から萩駅の前まで歩き、さらに左折して山陰本線に沿った道を少し行って踏切を越えた。ここからは完全に郊外で田圃の中の長い一本道である。当時舗装されていないこの道は「大屋畷(おおやなわて)」と呼ばれていたが、此処をとぼとぼと歩き、大屋川に達すると、川に沿ってしばらく歩いて、やっとの思いで松陰先生の「涙松の碑」の下方にある我が家の畑に辿り着いた。この間五キロ以上は優にある距離である。私はその後もよく歩いて往き来した。父はその後は自転車だったと思う。今なら自動車で簡単に行けるが、自転車でも往路は多少坂道で、力を入れてペダルを踏まなければならない。

 

萩中学校への自転車通学は、三角州内から通う者は不許可だった。しかし畑へ行くために父は自転車を買ってくれた。歩いて行くより楽だし時間の短縮になる。だが橙を我が家に沢山持って帰るとなると自転車に積める数は知れたものだ。私が萩中に入った時、我が家に従兄が三人下宿して居た。彼らは上から五年、四年、三年生で、皆父の姉の息子達で私にとっては兄弟同然の間柄だった。

戦時中で食料不足、唯一食べ放題の可能なのは我が家の橙畑で採れる橙である。そこで当時父が勤めていた萩商業高校まで歩いて行き、そこで大八車を借り、この車を皆で街中をぞろぞろと引っ張って畑まで行き、橙を沢山摘(も)いで叺(かます)(藁(わら)筵(むしろ)を二つ折りにして作った袋)に詰め込むのである。一つの叺には大きい橙が五十個くらいは入ったであろう。結構の重量である。そうして収穫した橙を五袋くらい大八車に積んで、今度は我が家まで重たい車を引っ張って帰った。帰ると直ぐに車を学校へ戻さなければならない。

今から考えると、これが唯一の腹拵えになって、いくらでも食べることのできた「おやつ」だった。毎日一人が三つ四つ食べるので、こうして持って帰った橙も長くは保(も)たない。そうすると又大八車を借りて同じような行動に出なければならなかった。今では考えられない事だが、我が家にこうした食べ放題の橙があるだけでも良しとするような状態だった。誰もが食べ物に飢えていた時代なので、「橙泥棒」という言葉さえあった。我が家の畑でも日頃人気がないから、唐(とう)米(まい)袋(ぶくろ)(現在農協が使う三十キロの米を入れるような袋で、麻の繊維で作ったもの)で数袋の橙を、朝鮮人と思われる者に盗まれたことがある。こうした実態は体験した者でしか分からないから、書きとどめておくことにする。

 

さて、到着したら畑の中にある小屋の戸を開けて中に入り、作業着に着替えてヤブ蚊よけに身体にフマキラーを吹きかけた。そして家から持ってきた鎌を両手にしてく草刈りの開始である。この橙畑は宅地造成して現在十軒ばかりの家が建っている。橙畑になる前は梅林で数百本の梅の木が植えてあった。中には珍しい品種もあったようである。今もその事を示す石碑だけが残っていて在りし日の姿を伝えている。その石碑には次の文字が刻まれている。

表に 夢想 天みつる薫をここに梅の華

裏に 嘉永中墾此地栽梅焉

   長門阿武御民山本七兵衛源信

 

私の曾祖父が二十六歳の時、嘉永年間に此の地を開墾して梅を植え、井戸を掘り屋敷を建てた跡を示すものである。

私が作業を始めたときは丁度一町歩(1ヘクタール)の面積があった。その後一部を売却した。その小屋から五十メートルばかり離れたところに今書いたように、深い井戸が掘ってあり、そこには一寸した屋敷があったのだ。然しその梅屋敷は大庭學僊という画家が屏風に画いた繪でしか今は見ることができない。

草刈りが終わって素っ裸になって深い井戸に釣瓶を落として、汲み上げた冷たい水を頭からかぶったとき、

「働いた後、こうして冷たい水を頭から被ると、一瞬に疲れがとれた様な気がするじゃろう」と父が言ったのも今は懐かしい思い出である。

 

父はまず草の刈り方を教えて呉れた。全ての草が真っ直ぐに立っておれば問題ないが、長く伸びて倒れたのが多い。

「左手に持った鎌を外向きにして横倒しの草を絡(から)げるように一寸持ち上げ、根元が見えるようにした状態で、右手に持った鎌で手前に引くようにして刈るのだ。鎌はあくまでも刃が手前に向くように動かさなければいけない。鎌を左から右へと大きく揮(ふ)ると、側に誰か人がいたら危険だから」

こう云って父は手本をして見せた。鎌は畑仕事の前の日に数挺よく研いでおいた。

然し厄介なのは木を覆うように巻き付いた蔓草である。これは鎌では容易に除去出来ない。

「これが木に巻き付いたら日光が遮断され橙の葉が枯れ落ちて木は枯れてしまう。藪でも枯らするほどの繁殖力の強い蔓草である。だから『藪倒し』という名がついているのであろう。この草の除去は鎌では無理で、両手を使って素手で巻き付いた蔓を引きずり落とさなければならない。」

父はこう云って蔓草を引きずり落とそうとしたが容易には片付かない木があった。

その後私は独りで草刈りに行った時の事である。ばっさばっさと「藪倒し」を引きずり下ろしていたとき、足長蜂の一斉攻撃にあって顔面や首筋を七ヵ所も刺された。それこそ焼け火箸をあてられたような痛みを感じ、すぐ小屋の中に用意していた薬を付けたが、今でもその時の事は覚えている。後からそっと行ってみると直径十五センチ以上もの大きな蜂の巣が隠れるようにしてぶら下がっていて、その周辺を数匹の蜂が飛び回っていたので、先ずフマキラーで蜂を一時逃がして、竹竿で叩き落とした。後で蜂は巣がないので困った事だろう。父も同じような痛い目に会った事があると言っていた。

また、こんなこともあった。こうした蔓草に巻き付かれるのは割と低い木である。高い木に登って橙を摘果していた時、目の前の枝に一匹の蛇が巻き付いてこちらを見ていた。此の時は確かに驚いた。幸いにも我が家の畑でマムシを見たことはないが、近くに同じような橙畑を持っていた高校時代の友人は、この辺にマムシは居るから気を付けなければいけないと言っていた。

 

こうして草刈りをした後、今度は木の根元を食い込んでそこに産み付けられた米粒に似た小さな白い卵を見つけ、またその成虫である害虫の駆除作業がある。父は「ドウ虫」と言っていたが、正式には「ゴマダラカミキリムシ」と言うのだ。害虫も卵も見つからなければ良いのだが、防虫の為には木の根元を綺麗にしておくことが必要だというので、屈み込んでその作業を一本一本しなければならない。一町歩もの広い畑だから一週間やそこらでは全てが完了できない。梅雨時から夏にかけて草との戦いである。私は父と春夏の長期の休みには一緒にしていたが、父が五十歳を過ぎたとき、斜面になって居るところで父が足首を挫いた。

「俺はこれまで一人でずっとやって来たが、是からはお前一人でやってくれ」と云われ、大学に入った後も土日には出来るだけ帰り、又教師として山陽側の高校に勤めていたが、長期の休みには必ず帰省して、毎日朝五時前に早く起きて畑仕事に精を出した。

今から考えると、小学生の時は身体が弱くてよく学校を休んでいたが、こうした畑仕事のお蔭で何とか元気になったのかもしれない。もう一つある。高校で体育の時間、教師の号令で一斉に「腕立て伏せ」をさせられたとき、私が一番多くできた。これも草刈りのお蔭だと思う。反対にこれはお蔭とは言えないが、学校のクラブ活動はしない、図書館で本を借りて読むといったこともせず、こうして毎日朝早くから昼まで畑仕事に従事したので、本来出来が悪いので大学進学を全く考えなくて勉強しないものだから、学校の成績の席次は下から数えた方が早かった。漱石の言葉を借りれば「席序下算の便」といったところだった。

高校三年になって、父の姉が父を説得して私を大学へ行かせてくれたのは、今から考えると大変有難かった。父としては一人息子が大学へ行き、県外に就職したらこの橙畑の世話を父一人でするようになるのではないか、と不安を抱いていたのだろう。このように私は今思うのである。あの当時は、多少なりとも家に田畑のある長男や一人息子は、進学しないか、進学しても教育学部に入り、卒業後地元の小中学校に勤めるケースが多かった。

 

私はこうして進学し、卒業後教職に就き、何とか無事に職務を果たして、今や米寿を迎えるまで元気に居れるのは、先にも書いたように、案外若いときの畑仕事のお蔭かも知れない。墓地でこの蔓草を見て、在りし日の事を以上のように思い出したのである。

 

もう少し父と一緒に草刈りをしたときの思い出を書いてみよう。

ある夏の日、畑の小屋で父と一晩過ごしたことがある。小屋は父が建てたもので、疊を敷いた二間と土間からなる小さな平屋建てであった。電灯はついていた。夏だから毛布一枚で充分だった。半畳にも満たない板床があり、そこに細い小さな床柱があり、袖壁といった風の土壁があった。その壁土が少し破損していた。何処かの茶席を移築したものだと聞いている。

 

「お前は太田垣蓮月という歌人を知るまい。俺の祖父はこの蓮月という歌人に会って短冊を数枚書いて貰っておる。蓮月の歌にこんなのがある。

 

山里の 壁の破(や)れ間のきりぎりす 月もここよりさせよとぞ鳴く

 

俺はこの歌が好きじゃ。どうか分かるか。蓮月という女性は勤王歌人といわれて、自然を歌った良い歌がある。しかし歌も良いが字が非常に見事じゃ。あれほどの繊細でしかも凜とした強い線で書いた字を見たことがない。実に良い字じゃ。これも蓮月の歌じゃ。これは俺の祖父が書いて貰った短冊の中にある」こう云って父は次ぎの歌を口ずさんだ。

 

「のに山に うかれうかれてかへるさを ねやまでおくる 秋の夜の月

 

どう思うか。蓮月尼の歌には月を歌ったのが多い。もう一首家にある俺の好きな歌はこれだ。」こう言って父は次の歌を低唱した。

 

 「ほしかきの 軒にやせゆく山さとの よあらし寒く なりにけるか那

 

この歌は蓮月が八十一歳の時作ったと短冊に書いてある。彼女は当時としては珍しく八十五歳まで生きた。歌は余技で粘土を拈(ひね)って素朴な土器をつくって生計を立てて居たようで、家(うち)にも自分の歌を釘彫りした湯飲み茶碗がある。」

 

私は平成十年に萩から山口に居を移した。そして父が話してくれた蓮月の短冊を調べて見たら、蓮月がわざわざ曾祖父の為に作ってくれたと思われる歌を見つけた。何故そうだと言えるかというと、「梅屋」という文字が歌に書き添えてあったからである。曾祖父は酒造業を営んでいて、屋号を「梅屋」として、自ら梅屋七兵衛と称していたからである。

 

梅屋  鴬のつまやこもるとゆかしきは うめ咲きかこむ庵のやへ垣     蓮月

 

私は山口に来て数年して蓮月の墓参りを思い立って京都の洛北にその地を訪れた。道路傍(わき)の石段を登って行くと大きな桜の樹があった。そしてその根元に、こじんまりとした蓮月尼の墓を見つけた。その時私は一種の感動を覚えた。この事は既に別に詳しく書いたが、これも考えて見たら、数十年前父と畑の小屋で一夜を過ごしたとき、父が語った事との繋がりのあることである。

                       

2020・7・13  記す      

 

蟇(ヒキ)

漱石の『行人』を読んでいたら「蟇」という字が出て来た。これは「ヒキ」とも言うが我々は「ガマ」と普通言っている。最近この大きなヒキガエルを目にしない。萩に居たとき、それもまだ父が生きていて、私が小学生の頃だからもう80年近く前になる。毎年夏の夕方になると、私と父は座敷の障子を開けてよく夕涼みをした。座敷の目の前に平たくて地面から50センチくらいの高さの芝の築山があった。「築山」と言っても、精々8畳敷きくらいの面積である。その上で私は近所の友達と相撲を取ったりしてよく遊んだ。また座敷の屋根に上って、そこから芝生の上に飛び降りたりした。今なら考えられないような事をしたと思う。

その芝山の一個所に大きな石がはめ込んだように据えてあった。その石には隙間というか小さな穴があって、中から大きな蟇が一匹決まったように、夏分になるとのそのそと出て来た。

父は「悪さをしてはいけんぞ」と言って蟇に危害を加えるような事を禁じた。私は言われたとおりに温和しく、蟇の悠然たる足取りをじっと見ていた。蟇は我々が見ているとは知らぬ気に、悠然と歩を運び、またどっしりと地面に腰を据えて、じっと構えて私達の方を見ることもあった。その内日が暮れると私達は障子を閉めたので、その後の蟇の行動は知らない。勿論蟇の心中を推し量ることは出来ない。

その蟇はかなりの大きさで、実に落ち着き払っていて貫禄があった。田圃などで見かける小さな蛙とは雲泥の差である。そうは言っても雨蛙の様子を見ると、中には何時迄も静かにじっと座っているのを見かけることもある。

実は山口に移住の際に、萩の庭にあった石の地蔵像をこちらへ運んで貰った。そして業者に台石を頼んだら、石地蔵の数倍もある大きい石を運んで据え付けた。当初大きくて不釣り合いに見えたが、今は見慣れてなるほどこれは良いと思うようになった。

昨年の梅雨時季だったと思うが、その地蔵様の頭の上にちょこんと一匹の真っ青な色をした雨蛙が坐っていた。私は翌朝になって如何(どう)して居るかと思って行ってみたらまだ居たので、カメラに撮ってみた。全く位置を変えないで終日はおろか翌朝まで坐っているのには感心した。

私は山口市の国宝「五重の塔」で有名な瑠璃光寺で毎週日曜の早朝に行われる「座禅会」へ10年ばかり通ったが、考えて見るとこの小さな雨蛙には到底勝てないと思った。

「蛙の面に水」とか「蛙の面に小便」という言葉があるのもなるほどと思う。これは悪い意味で言うのだろうが、一見したところ、本当に平気の平左で、しゃあしゃあしている。ついでに言えば「蛙の子は蛙」と言うからこれも代々受け継いできた遺伝子のお蔭だろう。そう思うと私に辛抱の心がないのも親から受け継いだものかもしれない。 

 

蟇から蛙に話が移ったが、私は「蟇」に関して何か書いてあるかと思って辞書を引いて見た。次ぎのように説明してあった。

「蝦蟇 ヒキガエルの俗称。 刺激を与えると乳白色の液を分泌し、これを原料としてがまの油を製する。中国のガマの仙人や日本の自(じ)来也(らいや)などの話に登場し、毒気を吐き、霧や雨を呼ぶものはヒキガエルの妖怪とされる」

 

確かにこの蝦蟇の姿はグロテスクで触る気にはなれない。私は「刺激を与えたら乳白色の液を出し、これを原料として蝦蟇の油を製する」と言うことを初めて知った。

この「蝦蟇の油」に関連して私は一人の「独楽回し」を思い出した。

私の子供時代、何と云っても一番の楽しみは夏休みに入ると間もなく始まる住吉神社のお祭りと、それに伴うサーカスである。これについては前にちょっと書いたが、この他に「独楽回し」の曲芸を見ることだった。

この独楽の曲芸をして見せて呉れる人は、後で知ったが「小野さん」と言って、祭りが始まる前に、神社の境内に並ぶ各種の店の割り振りをする顔利きだったようである。今で言えば俗に言う「ヤクザ」だったかも知れない。その「独楽回し」であるが、彼はいつも同じ場所、即ち社殿に向かって左側に大きな松の木があったが、その傍らの広場に茣蓙(ござ)を敷いて、そこで独楽の曲芸をして見せていた。多くの参拝客が集まって見物していた。勿論私もその一人で、その独楽の曲芸に目をみはったものである。

彼は今から考えたら50歳くらいだったろうか、着物を着て羽織を纏っていた。大小幾つもの独楽を身辺に転がして居て、その中から直径20センチもある大きな独楽を手に取ると、太さが1センチくらいの長い紐を独楽の周囲にかけ回し、「ヤッ」と掛け声をかけると同時に独楽を放り出し、グッと紐を引くと独楽は彼が左手に持った羽子板を小さくしたような板の上にパッと載せた。見ていてまことに見事なものだった。

心棒の長い独楽は澄み切ったように回る。「独り楽しむ」と書いて「コマ」と読むが、大きな独楽が真っ直ぐに立って、まるで静止しているように回転しているのを見ると、それこそ心を静めて「静寂を独り楽しんでいる」ような感を抱く。

『行人』に杜甫の詩の一節が引用してあった。

「燈影照無睡 心清聞妙香」(燈影無睡を照し、心清妙香を聞く)

これは次のように解釈してあった。

「燈の影が私を照らしている。眠れないのではないのだ。なぜならこれから心清らかに妙香を聞こうとする素晴らしい夜なのだから」 

 

独楽回しのおじさんは回っている独楽をサッと左の掌に載せ、それを右手に執ると、これを開いた傘の上で回したり、自分の羽織の右袖から襟さらに左襟へと移動させる。実に妙を得たものである。誰もが固唾(かたず)を呑んで見守って居ると、最後に諸肌(もろはだ)脱いで、刀を手にして「独楽の刃渡り」と言って独楽を刀の刃の上を移動させるのだが、それを実際にする前に「蝦蟇の膏」の宣伝についての講釈が始まるのである。

「やあ、お立ち会いのみなさん。この蝦蟇の膏はこの刀で、こうして肌を切りつけて血が出ても、この蝦蟇の膏を付けたらたちまち傷が治るのだ。そもそもこの蝦蟇の膏は・・・」

と言って中々、「独楽の刃渡り」は始まらない。結局このハマグリの殻に入った黒い練り膏薬を見物人に売るのが最終目的である。果たして買い手が幾人かあったかどうか知らないが、ここまでの演技と彼の「蝦蟇の膏(あぶら)」売りの口上は堂に入ったものだと今にして思うのである。

 

そういえば私が県立萩中学校に入ったとき、永松定という英語の先生が居られた。当時我々は殆どの全ての先生を「渾名」で呼んでいた。永松先生は「アナグマ」と言っていた。教員室に生徒が入る時には、入口で大きい声で先生の名前を呼ばなければ勝手に入れなかった。そこで同級生の一人が教員室に入るに際し、大きな声で「何年何組の誰それ、アナグマ先生に用があって参りました。入っても宜しゅう御座いますか」と大きい声で言ったものだから言って、後で大叱られされたと聞いた。

アナグマ先生なる永松先生は東大英文科の卒業で、伊藤整とか上林暁と言った文人と交流があり、また難解と言われるジェイムス・ジョイスの長編小説『ユリシーズ』の翻訳者の一人だと後で知った。当時私なんか全く「猫に小判」か「豚に真珠」、いや今も変わらないが、あの時そんなに偉い先生だとは思いもよらなかった。もっとも先生の授業は決して褒めたものではなかったと思う。しかし実力があったのだろう、萩中学校からその後新設の熊本の県立大学の英語科の主任教授として赴任され、後に宮中での褒賞を受けられたと聞くから。

この永松先生が『萩の独楽回し』という短編を書いておられる。今それを探しても見当たらないが、先生がこの独楽回しの小野氏の近くに下宿して居られたので、訪ねて行っての感想文だったと思う。

広辞苑』を引くと「蝦蟇の膏」について詳しく載っていた。

「ガマの分泌液を膏剤にまぜて練ったという軟膏。昔から戦陣の膏薬(軍中膏)として用いられ、火傷、日々、あかぎれ、切傷等に効能があるといわれ、大道に人を集めて香具師(やし)が口上面白く売った」

ついでの「独楽回し」の項を見たらこのような文章があった。

「独楽を回すこと。また、その芸人。古くから行われたが、江戸時代以降に遊芸となる」

さらに「松井源水」の項にこう書いてあった。

 「曲(きょく)独(ご)楽師(まし)。先祖は越中の人、反魂丹を精製、富山にいたが、四代目から江戸に出て浅草奥山で家薬を売り、客寄せのため曲独楽を演じ、9代将軍德川家重の上覧を得て以来これを本業とした」

たかが「独楽回し」と言っても、これほどの伝統があることを私は知らなかった。『萩の独楽回し』の小野氏も恐らく相当の修行を積んだのであろうと思うのでる。                         

2020・9・13 記す