yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

理髪店主のまごころ

 今日は八月三日、まだ盆前の週であるが、毎年この日に萩のお寺から盆のお参りに来られることになっているので、昨日からその準備だけはしておいた。今日は若い息子さんが代理で見えた。その少し前に下関に居住している私の長男が帰った。何かしら大きな紙包みのようなものを持っているから、どうしたのかと尋ねたら、

「僕が何時も行っている散髪屋のおやじさんが、お母さんにお供えしてくれといって、自分で作ったこの造化をくれたのだよ」

 こう云って包みを拡げて見せた。私はその見事な造化に驚いた。普通店頭で見かけるよりももっと立派なものである。こうした材料は売っているのかとも思うが、紙で作った菊や百合や蓮の花、またその葉っぱなど実に良くできている。セロハン紙に几帳面に包みしかも二束一対あった。私はこの理髪店の主人のまごころに打たれた。

 長男はこれに関して次のように言った。

「僕は何時もこの店へ行って頭を刈ってもらっているが実に感心な人です。まだ五十歳を過ぎたばかりだが、家が貧乏だから中学校を出ただけで、修業して散髪屋になったとか。最近彼の父親がバイクによる自責任の事故をして、脊髄を損傷したので今は働けないから、彼が父親の面倒を見ていると言っていた。この人には息子が居るが、やはりお金がないので、その息子は工業高校を出ただけだが、その高校で一番成績がよくて地方公務員試験に合格して、今その息子は山口県内で一番若い公務員だそうです。何処かの中学校に勤めているようだが、外人の英語教師が来た時、この息子が外人との通訳をするらしい。非常に頭が良いようだね。」

 これを聞いて私はこう言った。

「そりゃ立派だね。以前は優秀な生徒で高校を卒業しただけで、一流企業や公務員になるのがいた。そうした者はその企業や例えば日本銀行などに入って、大学へ進学させてもらえるような制度があったが今はどうかな。このような人は大いに才能を伸ばしてやると良いね」

 私は息子が帰る時、その理髪屋にお礼の気持ちで清酒を託した。そして帰った後、一対の造化を二つの小さな花瓶に挿して、妻の遺影の前に設置した。

 

今からもう三十年以上も前になるが、私が萩高校から萩商業高校へ転勤した時、一人の優秀な生徒がいた。彼は推薦で日本銀行へ入行したが、聞くところによると、大学へ行かせて貰ったようである。あの頃はまだ家が貧しいが故に普通高校、さらに大学へと進学しないで、商業高校や工業高校へ入り、卒業後は実社会に出るといった道を選ぶ者がいた。彼らは概して成績が良かった。

私はこの事に関して似たようなケースを今思い出した。生前妻が話したのだが、中学校時代の同級生に、親が炭鉱夫で、それこそ掘っ立て小屋のような所に住んでいる女性がいた。言うなれば極貧の生活を余儀なくされていた。炭鉱夫の父親が夜勤の場合、昼間は家に帰って休息を取らねばならない。しかし家が狭くて、子供は小学校から帰っても父親が寝ているから家には入れない。したがってそのまま戸外にいなければならなかった。

漱石に『坑夫』という小説がある。あの中に「安さん」と言うインテリの坑夫が出てくるが、一般的に言って炭鉱で働く者はすべての点で普通以下だろう。しかし中には賢いがやむを得ずこうした生活を余儀なくされている者もいたと思われる。妻の友達は中学校時代中々成績が良くて、卒業後も妻と電話したりしていた。彼女には妹がいたが、妹は前向きの志向ではないので、親と同じような境遇に甘んじていたようである。

彼女は中学校を卒業しただけで理髪業の男性と一緒になり、見よう見まねで彼女も理髪師の資格を取り、夫婦して大阪で店を持っているとのことだった。この女性には子供が三人いて皆よくできて、長男は京都大学を出て大手の銀行に勤務、次男も長女もそれぞれ一流の国立大学を卒業したようである。

妻はこのような事も聞かされたようである。其の友達の長男が京都大学を受験するにあたり、息子が無事に合格するようにと「茶断ち」をしたそうである。これを知った息子は、それだけは止めてくれ、自分は頑張るからと言って、見事合格したのである。この親にしてこの子ありと思う。昔から「親の後ろ姿を見て子は育つ」と言うが、本当にそうだと思う。

さらに私の長男が次のような事を話した。

「この散髪屋は散髪代が二千円で安いから僕は何時もいくことにしている」

「安いと云えば簡単にすますのじゃないか?」

「そんなことはない。きちんと頭まで洗ってくれて普通の散髪屋と全く同じです。また其処のおやじさんは、こんなことを言っていた。此の度のコロナ感染で、一律十万円貰う事になったが、彼が言うには『私は今のところお客さんも来てくださるし、生活に困らないから十万円は困って居る人に上げて下さいと言って貰いませんでした。』これを聞いて僕は本当に感心だと思った。世の中には、これとは反対で、如何にも困ったように見せかけて余分にこうした金を貰おうとする者がおるからね」

 

 私が大学を出て最初に就職したのは、県立小野田高校だった。当時まだ小野田市には炭鉱があったと思う。「ぼた山」を幾つ目にした。今「ぼた山」と言って分かる人は少ないのではなかろうか。私自身「ぼた」とは何かと思って『広辞苑』を引いてみたら、次の説明があった。

【ぼた】(主に九州地方で)炭鉱で、選炭した後に残る岩石や粗悪な石炭。

【ぼた山】炭鉱で、ぼたを積み上げた円錐状の山。

      

 私はこの高校に入って二年目に陸上競技部の顧問になった。放課後彼らの指導と言うよりむしろ、私自身若いので彼らと一緒に走ったり跳んだりして、結構楽しかったのを覚えている。その中に三年生で一人大変優れた部員がいた。色白で端正な顔立ちですっらとした体格であった。県内の高校ではトップクラスで、走るフォームが非常に綺麗で校内の運動会では目立つ存在だった。中距離競争、特に四百メートルでは県下で一位。中国大会でも三位に入賞した。この男を中心として四百メートルリレーを組み、中国大会に六位以内に入ったので、その夏高知市で行われた全国高校陸上競技選手権大会に出場した。

地球温暖化で今は三十度を超してもそれほどとは感じないが、当時三十度と言えば大変な暑さだった。南国土佐で、しかも擂り鉢状の競技場の中は三十三度に達していた。まさに猛暑である。旅費宿泊費が潤沢でなく、暑くてやりきれないので西瓜を買って皆で食べた事など覚えている。

松山から高知まで山の中を片道十三時間かけてバスで往復した。若いから出来たものである。しかしこのような状況だったので実力を発揮できなかったが良い経験にはなった。競技が終わり、市内を少し見物した。獰猛な土佐犬が一匹づつ入れてある頑丈な檻が幾つか並んでいるのを見た時、檻を破って出て来たらさぞや怖かろうと思った事も覚えている。高知城の大手門の前で、皆で写った写真を見ると、生徒達五人が白い半袖の開襟シャツを着て制帽をきちんと被って写っていた。

 

彼らのうち三年生は翌年の四月に卒業した。先に述べた最も優れた選手は村上正夫という名前であった。後で朝鮮人だと知った。彼の兄が炭鉱で働いて居たようで、その後彼は北朝鮮へ帰ったとの噂を耳にした。あれから六十五年の歳月が流れている。私は彼が小野田高校の制服を着用し、坊主頭に制帽をかぶり実に礼儀正しく、グランドにおいては、後輩の面倒をよく見ていたのを覚えている。彼は決してはしゃぐような事はなかった。

人間はどこの国に生れ、またどんな親の元で成育するかは、本人にとって無関係で運命のなせることだと思われる。戦前か戦時中か、彼の兄が恐らく朝鮮を後にして日本に来て、炭鉱で働いて居たのだろう。それに伴って彼も日本に来たのだと思われる。戦後北朝鮮が平和な楽園との宣伝を信じ、村上君兄弟は帰国したのだろうが、杳として彼の消息が分からない。彼と同じ学年で橋本浩吉という陸上部の選手もいた。彼も朝鮮国籍だと私は後で知った。『会員名簿』を見ると、二人とも名前だけは記載されているが、現住所はもとより、何処で何をしているか書いていない。こうした白紙の状態を見ると何だか淋しい。

彼らは今生きていたら八十二歳か三歳である。万が一にも彼らに会う事が出来たら、どんなにか懐旧の念にふけることができるだろう、と私はつくづく思った。

 

2020・8・3 記す