yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

日々新

「無為」という漢字を辞典でみてみると、「無為自然」とか「無為にして化す」という言葉が先ず出てくる。これは「自然にまかせて、作為するところのないこと」と説明してある。これらは良い意味である。ところが「無為徒食」となると、「何の仕事もしないでただぶらぶらして暮らすこと」とある。

 鴎外の『妄想』にこんな文章がある。

 

漢学者の謂うふ酔生夢死といふやうな生涯を送ってしまふのが残念である。それを口惜しい、残念だと思ふと同時に心の空虚を感ずる。なんともかとも言はれない寂しさを覚える。それが煩悶になる。それが苦痛になる。

 

 岩波から出た『鴎外全集』は全部で三十八巻ある。最後の巻に「著作年表」と「総目索引」が載っている。それを見てみると、彼は明治十四年(1881)九月に『河津金線君に質す』と言う文章を「読売新聞」に出したのを嚆矢として、大正十一年(1922)八月一日発行される『新小説』に『伊沢蘭軒傳等広告文』を書いた後、七月九日に萎縮腎・肺結核で満六十一歳の生涯を終えた。この長い文筆生活の間、小説、翻訳、評論などざっと計算して一千六百もの文章を書いている。「酔生夢死」の真反対の一生を貫いたことになる。

 

年を取ると早く目が覚める。正月元旦を数日過ぎたある朝、時計を見るとまだ三時半であった。そこでしばらく床の中にいると、「無為、無意味、空しい」という言葉がなんとなく頭に浮かんだ。「空しい」は別として、皆「む」で始まる。そこで「三無」という言葉があるだろうかと思って、起き上がって『学研 漢和辞典』(学習研究社)を引いてみた。すると「三」のついた多くの言葉があるのを知ったが、「三無」はなかった。

 

「三」のついた言葉では、例えば、 「三人行必(さんにんおこなへばかならず)有我師(わがしあり)」とか「三楽」など、その意味を始めて正しく教えられた。

前者の説明は「自分のほかの二人との三人でいっしょに物事を行うとき、ひとりが自分よりすぐれていればそれに従い、もうひとりが自分よりすぐれていなければ自分を反省するから、必ず自分にとって師とすべきものがいるということ。[論・述而]」とあった。これは吉川英治の『宮本武蔵』に出てくる「我以外皆我師」を思い出させる。

後者は『孟子』『列子』『論語』の中からそれぞれ引用文を引いて説明してあった。例えば『孟子』の「尽心篇上」では「君子の三つの楽しみとして、父母兄弟共に生存すること、公明正大で心にやましいことがないこと、天下の英才を教育すること」とあった。

天下の英才を教育するには自らが英才である必要がある。従って凡才には此の「三楽」は望めそうにない。 

 

ついでに『日本国語大辞典』(小学館)を見てみた。すると出ているではないか。

 

【三無】「無」のつく語を三つ並べて総称するときに用いる語。①声なき楽、体なき礼、服なき喪をいう。精神があって形式がないこと。②は省略するが、③中国共産党草創時代のスローガンの一つで、失業者。徒食者・乞食をなくすこと。とあった。

 

私が三つの「む」つまり「無為、無意味、空しい」にこだわったのは、多くの人が老いてくると、こういった感情を抱くのではなかろうかと思うからである。戦後日本人の平均寿命が非常に延びて、男性の場合でも八十歳に達している。しかし肉体的にはともかくとして、精神的に元気な人の割合は少ないと思う。

  

實は昨年の暮れに次男が、「『杏林の坂道』をネットで読めるようにしてみようかね」と言うから、「出来たらやってみてくれ」と言った。そこで私は暮れから正月にかけて、六年前に私家版で上梓した拙著を見なおす作業を始めた。

年が明けて子供たちが集まったとき、「何とか読めるようになったよ。『杏林の坂道』と索引を引けば出るようになった。いまは『第一章 出郷』だけだが、誰でも読むことが出来る」と言ってくれた。これはもうすぐ満八十七歳になる私を少しでも元気づけようとする気持ちからだと思い有難かった。従ってその後毎日朝早く起きて作業を行っている。

 

拙著を読み直してみて、これに出てくる主人公と長男親子のことを改めて思った。父親は昔の県立萩中学校を明治三十四年に、五年生の時自らの意志で中退して長崎の三菱造船所に入り、その後日露戦争が勃発すると、看護兵として従軍した。無事帰還後、広島陸軍病院で勤務しながら猛勉強して医師の資格を取得、さらにその後請われて日本海岸の寒村の医者として赴任。太平洋戦争が終わった直後、患者を診ながらと言っても過言ではない仕方で急逝した。六十二歳であった。

同じ年の三月に、長男は父の丁度半分の年齢で軍医として硫黄島で玉砕した。二人の一生はおよそ「無為、無意味、空しい」なんて到底思われないものだったと私は想像する。いまから考えれば早世であるが、立派な生涯だったのではなかろうか。

 

私はこの拙い伝記小説を同人誌に連載し終えるのにかなりの年月を要した。その間、長崎はもとより大連から二〇三高地へ、さらに北上して旧満州奉天、現在の潘陽迄足を伸ばした。こうして観光を兼ねた取材旅行は結構愉しかった。この間は多少なりとも気持ちに張りがあったが、いまはやはり一抹の寂しさと空しさを感じる。書いてしまえば終わりである。ネットで一人でも多くの人が読んでくれたら有難いが、それだけの話である。

 

私は毎年元旦になると、一幅の決まった軸を床に掛けることにしている。それは松林桂月の「蒼海旭日」という縦長の軸で、激浪の蒼海の上方に大きな旭日が上っている様子を描いた単調なものである。そしてその前にお重ねを三宝に載せてお飾りをする。こうして新春の爽やかな気持ちを醸し出すようにしている。最近は近所でも玄関や家の前に殆ど輪飾りを見かけない。時代と共に伝統が廃れていく。クリスマスやハローウインは次第に人気があって、その様子をテレビで放映している。伝統の漸減と同時に日本人らしさも失われていくのではないかと心配する。

掛け軸のことだが、これは父が郷土の画家というので特別に手紙を書いて頼んだのを私は覚えている。しかし正月も過ぎたので、元相国寺管長の梶谷宗任忍師の書かれた「日々新」に掛け替えた。これはかっての同僚がどうして手に入れたか知らないが気前よく呉れた。箱書きも何もないもので、恐らく老師が気軽に書かれた半切を表装したものであろう。落款だけはある。絵と書では比較にならないが、日本画家桂月に比べたら書はあまり見栄えはしない。

しかし言葉が良いので私はこれを選んで掛けることにした。ということで、これからはせめて「日々新」な気持ちで、毎日を無事に送ることが出来たらと願っている。