yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

藪倒(やぶたお)し

 私は雨がひどい時を除いて殆ど毎日散歩に出かける。我が家のすぐ近くの二車線の道路を横断し、「マックスバリュー」というスーパーの横を真っ直ぐ行ったところにある「六地蔵」を拝んで帰るのである。道の突き当たりがその六地蔵のある丘陵地で、そこまでの道は僅かに勾配していて約五百メートルの距離である。丘に向かって道の左側にスーパーがあり、右側に数年前まで四階建ての「県営教職員住宅」が二棟建っていた。古くなって利用者が減ったために一棟だけ解体撤去された。その跡地が個人住宅地として整地されたが、瞬く間に新しい個人住宅が十数軒建った。どれも殆ど皆近代的な箱形の二階家で、庭はなくて二台分の車庫だけは備えている。

 

道の両サイドにはこうした新しい住宅が建っているが、一部畑地がある。丘陵地の東向きの斜面には多くの墓がある。新旧併せて数百基はあるだろう。二十年前に萩から移って来た時はスーパーも自動車道路もなく田圃が広がっていた。瞬く間に住宅地に変わり、今はこのあたりは新しい家ばかりだが、弥生時代の土器が数多く発見されているので、その昔も集落があったのだろう。

この斜面の麓に車が一台通れる程度の粗末な舗装道路が走っている。この田舎道と私が歩いて来た道とが丁字形をなしている。二筋の道が接した地点から斜面を登る道があり、人一人がやっと通れる程の小道で、葛(つず)籠(ら)折(お)りに頂上へと通じている。この麓に「六地蔵」があり、この道を麓に沿って八十メートルばかり左手に行って少し登った所にもう一つの「六地蔵」がある。

 

丘の頂上と言えども、麓の道からは三十メートル足らずの高さしかない。しかしそこからの眺望は中々良い。山口市街の中心部はここからは見ると可なり低位置にあるので、街の大半が眼下に見渡せて、そのはるか向こうに中国山脈が連なっているのが遠望できる。その昔大内氏が此処を拠点としたことも頷(うなず)ける。地形が京都に似た盆地で三方を山に囲まれ、中央に川が流れていて「西の京」または「小京都」と言われる所以(ゆえん)である。

 朝早く登れば連綿とつらなる山の背後から上る朝日が拝めるし、夕方には西の空に沈む夕陽のお蔭で、夕焼け雲の見事な景色が望める。私は萩に居たときは良く海岸で夕陽の沈むのを見たが、山口では海や大きい川がないのが残念だ。従ってこの丘陵地からの市街地の展望が唯一の楽しみである。私は今こうしてここまで登って来ることができるが、果たして何時迄この散歩を続けることが可能だろうか、そう長くは続けられないだろう思いながら慎重にゆっくり登る。

 

この頂上に「所郁太郎の墓」がある。彼は現在の岐阜県の生まれで、大阪へ出て緒方洪庵の「適塾」で医学を学び、その後京都へ出て長州の志士と交わり、「蛤御門の戦い」で長州が負けたことによる「七卿都落ち」に伴い長州に来た。その後奇兵隊に彼は所属した。当時長州は幕府に恭順する「俗論派」と幕府に対抗する「正義派」の二つに分かれ対立していた。井上馨が俗論派の者に滅多斬りにされたとき、郁太郎が焼酎で消毒して疊針で傷口を縫合して一命を取り止めたと云われている。然し郁太郎はその後二十四歳の若さで病死した。一方井上馨明治維新の政府高官として八十歳の長命を保った事は何とも不思議な運命の仕業である。瀕死の重傷を負ったとき井上の母は見るに見かねて、我が子をそのまま死なせてくれと懇願したとのことである。人の命は神のみぞ知るという事か。

所郁太郎はこうして井上の命を救った事で歴史に名を残したが、この頂上には多々良家とか小田家、更に中原家(中原中也の親族だろう)云った古い家の墓が多く建ち並んでいる。それらは皆丘の頂上附近に建っている。昔こうした頂上への墓参りは、手桶に水を汲み入れ、花芝などを抱えて一苦労だったと思われる。今は麓に水道が取り付けてあるが、それでもここまで登るだけでも汗ばむほどだ。然し死者の霊をこうした丘の見晴らしの良い所に鎮める事のできたのは、多少とも権力があった家だけだろう。

 

 私はこの頂上までは頻繁には登らない。麓から十メートルばかり登った地点で左折して進む。そこは誰かの墓地だと思うが、横長に五・六坪ばかりのセメントが敷かれた空き地になっていて、立派な墓が二基あるだけである。私はこの場所まで登ると一休みして市街地を眺めることにしている。この地点からでも眼下に広々とした風景が展望できるので実に気持ちが良い。私は景色を見ながら深呼吸して、今度は小道を下って次の六地蔵まで行くのだが、途中梅雨時から盛夏にかけてシダや蔓草が道いっぱいに繁茂していて、蛇でも出はしないかと気を付けながら草を踏んで歩く。この蔓草は「藪枯し」とものの本に載っている。私はこの蔓草を萩に居るとき「藪倒し」と言っていて、これを見た途端に在りし日のことを思い出した。

 

太平洋戦争が始まる直前の昭和十六年の夏休みだったと思う。翌年の四月に私は県立萩中学校へ入学した。従って明倫小学校六年生の時、私はある朝早く起きて父に連れられて我が家の橙畑へ行った。我が家を出てしばらく商店街の間を通り、橋本川にさしかかって長い橋を渡り、金谷天神から萩駅の前まで歩き、さらに左折して山陰本線に沿った道を少し行って踏切を越えた。ここからは完全に郊外で田圃の中の長い一本道である。当時舗装されていないこの道は「大屋畷(おおやなわて)」と呼ばれていたが、此処をとぼとぼと歩き、大屋川に達すると、川に沿ってしばらく歩いて、やっとの思いで松陰先生の「涙松の碑」の下方にある我が家の畑に辿り着いた。この間五キロ以上は優にある距離である。私はその後もよく歩いて往き来した。父はその後は自転車だったと思う。今なら自動車で簡単に行けるが、自転車でも往路は多少坂道で、力を入れてペダルを踏まなければならない。

 

萩中学校への自転車通学は、三角州内から通う者は不許可だった。しかし畑へ行くために父は自転車を買ってくれた。歩いて行くより楽だし時間の短縮になる。だが橙を我が家に沢山持って帰るとなると自転車に積める数は知れたものだ。私が萩中に入った時、我が家に従兄が三人下宿して居た。彼らは上から五年、四年、三年生で、皆父の姉の息子達で私にとっては兄弟同然の間柄だった。

戦時中で食料不足、唯一食べ放題の可能なのは我が家の橙畑で採れる橙である。そこで当時父が勤めていた萩商業高校まで歩いて行き、そこで大八車を借り、この車を皆で街中をぞろぞろと引っ張って畑まで行き、橙を沢山摘(も)いで叺(かます)(藁(わら)筵(むしろ)を二つ折りにして作った袋)に詰め込むのである。一つの叺には大きい橙が五十個くらいは入ったであろう。結構の重量である。そうして収穫した橙を五袋くらい大八車に積んで、今度は我が家まで重たい車を引っ張って帰った。帰ると直ぐに車を学校へ戻さなければならない。

今から考えると、これが唯一の腹拵えになって、いくらでも食べることのできた「おやつ」だった。毎日一人が三つ四つ食べるので、こうして持って帰った橙も長くは保(も)たない。そうすると又大八車を借りて同じような行動に出なければならなかった。今では考えられない事だが、我が家にこうした食べ放題の橙があるだけでも良しとするような状態だった。誰もが食べ物に飢えていた時代なので、「橙泥棒」という言葉さえあった。我が家の畑でも日頃人気がないから、唐(とう)米(まい)袋(ぶくろ)(現在農協が使う三十キロの米を入れるような袋で、麻の繊維で作ったもの)で数袋の橙を、朝鮮人と思われる者に盗まれたことがある。こうした実態は体験した者でしか分からないから、書きとどめておくことにする。

 

さて、到着したら畑の中にある小屋の戸を開けて中に入り、作業着に着替えてヤブ蚊よけに身体にフマキラーを吹きかけた。そして家から持ってきた鎌を両手にしてく草刈りの開始である。この橙畑は宅地造成して現在十軒ばかりの家が建っている。橙畑になる前は梅林で数百本の梅の木が植えてあった。中には珍しい品種もあったようである。今もその事を示す石碑だけが残っていて在りし日の姿を伝えている。その石碑には次の文字が刻まれている。

表に 夢想 天みつる薫をここに梅の華

裏に 嘉永中墾此地栽梅焉

   長門阿武御民山本七兵衛源信

 

私の曾祖父が二十六歳の時、嘉永年間に此の地を開墾して梅を植え、井戸を掘り屋敷を建てた跡を示すものである。

私が作業を始めたときは丁度一町歩(1ヘクタール)の面積があった。その後一部を売却した。その小屋から五十メートルばかり離れたところに今書いたように、深い井戸が掘ってあり、そこには一寸した屋敷があったのだ。然しその梅屋敷は大庭學僊という画家が屏風に画いた繪でしか今は見ることができない。

草刈りが終わって素っ裸になって深い井戸に釣瓶を落として、汲み上げた冷たい水を頭からかぶったとき、

「働いた後、こうして冷たい水を頭から被ると、一瞬に疲れがとれた様な気がするじゃろう」と父が言ったのも今は懐かしい思い出である。

 

父はまず草の刈り方を教えて呉れた。全ての草が真っ直ぐに立っておれば問題ないが、長く伸びて倒れたのが多い。

「左手に持った鎌を外向きにして横倒しの草を絡(から)げるように一寸持ち上げ、根元が見えるようにした状態で、右手に持った鎌で手前に引くようにして刈るのだ。鎌はあくまでも刃が手前に向くように動かさなければいけない。鎌を左から右へと大きく揮(ふ)ると、側に誰か人がいたら危険だから」

こう云って父は手本をして見せた。鎌は畑仕事の前の日に数挺よく研いでおいた。

然し厄介なのは木を覆うように巻き付いた蔓草である。これは鎌では容易に除去出来ない。

「これが木に巻き付いたら日光が遮断され橙の葉が枯れ落ちて木は枯れてしまう。藪でも枯らするほどの繁殖力の強い蔓草である。だから『藪倒し』という名がついているのであろう。この草の除去は鎌では無理で、両手を使って素手で巻き付いた蔓を引きずり落とさなければならない。」

父はこう云って蔓草を引きずり落とそうとしたが容易には片付かない木があった。

その後私は独りで草刈りに行った時の事である。ばっさばっさと「藪倒し」を引きずり下ろしていたとき、足長蜂の一斉攻撃にあって顔面や首筋を七ヵ所も刺された。それこそ焼け火箸をあてられたような痛みを感じ、すぐ小屋の中に用意していた薬を付けたが、今でもその時の事は覚えている。後からそっと行ってみると直径十五センチ以上もの大きな蜂の巣が隠れるようにしてぶら下がっていて、その周辺を数匹の蜂が飛び回っていたので、先ずフマキラーで蜂を一時逃がして、竹竿で叩き落とした。後で蜂は巣がないので困った事だろう。父も同じような痛い目に会った事があると言っていた。

また、こんなこともあった。こうした蔓草に巻き付かれるのは割と低い木である。高い木に登って橙を摘果していた時、目の前の枝に一匹の蛇が巻き付いてこちらを見ていた。此の時は確かに驚いた。幸いにも我が家の畑でマムシを見たことはないが、近くに同じような橙畑を持っていた高校時代の友人は、この辺にマムシは居るから気を付けなければいけないと言っていた。

 

こうして草刈りをした後、今度は木の根元を食い込んでそこに産み付けられた米粒に似た小さな白い卵を見つけ、またその成虫である害虫の駆除作業がある。父は「ドウ虫」と言っていたが、正式には「ゴマダラカミキリムシ」と言うのだ。害虫も卵も見つからなければ良いのだが、防虫の為には木の根元を綺麗にしておくことが必要だというので、屈み込んでその作業を一本一本しなければならない。一町歩もの広い畑だから一週間やそこらでは全てが完了できない。梅雨時から夏にかけて草との戦いである。私は父と春夏の長期の休みには一緒にしていたが、父が五十歳を過ぎたとき、斜面になって居るところで父が足首を挫いた。

「俺はこれまで一人でずっとやって来たが、是からはお前一人でやってくれ」と云われ、大学に入った後も土日には出来るだけ帰り、又教師として山陽側の高校に勤めていたが、長期の休みには必ず帰省して、毎日朝五時前に早く起きて畑仕事に精を出した。

今から考えると、小学生の時は身体が弱くてよく学校を休んでいたが、こうした畑仕事のお蔭で何とか元気になったのかもしれない。もう一つある。高校で体育の時間、教師の号令で一斉に「腕立て伏せ」をさせられたとき、私が一番多くできた。これも草刈りのお蔭だと思う。反対にこれはお蔭とは言えないが、学校のクラブ活動はしない、図書館で本を借りて読むといったこともせず、こうして毎日朝早くから昼まで畑仕事に従事したので、本来出来が悪いので大学進学を全く考えなくて勉強しないものだから、学校の成績の席次は下から数えた方が早かった。漱石の言葉を借りれば「席序下算の便」といったところだった。

高校三年になって、父の姉が父を説得して私を大学へ行かせてくれたのは、今から考えると大変有難かった。父としては一人息子が大学へ行き、県外に就職したらこの橙畑の世話を父一人でするようになるのではないか、と不安を抱いていたのだろう。このように私は今思うのである。あの当時は、多少なりとも家に田畑のある長男や一人息子は、進学しないか、進学しても教育学部に入り、卒業後地元の小中学校に勤めるケースが多かった。

 

私はこうして進学し、卒業後教職に就き、何とか無事に職務を果たして、今や米寿を迎えるまで元気に居れるのは、先にも書いたように、案外若いときの畑仕事のお蔭かも知れない。墓地でこの蔓草を見て、在りし日の事を以上のように思い出したのである。

 

もう少し父と一緒に草刈りをしたときの思い出を書いてみよう。

ある夏の日、畑の小屋で父と一晩過ごしたことがある。小屋は父が建てたもので、疊を敷いた二間と土間からなる小さな平屋建てであった。電灯はついていた。夏だから毛布一枚で充分だった。半畳にも満たない板床があり、そこに細い小さな床柱があり、袖壁といった風の土壁があった。その壁土が少し破損していた。何処かの茶席を移築したものだと聞いている。

 

「お前は太田垣蓮月という歌人を知るまい。俺の祖父はこの蓮月という歌人に会って短冊を数枚書いて貰っておる。蓮月の歌にこんなのがある。

 

山里の 壁の破(や)れ間のきりぎりす 月もここよりさせよとぞ鳴く

 

俺はこの歌が好きじゃ。どうか分かるか。蓮月という女性は勤王歌人といわれて、自然を歌った良い歌がある。しかし歌も良いが字が非常に見事じゃ。あれほどの繊細でしかも凜とした強い線で書いた字を見たことがない。実に良い字じゃ。これも蓮月の歌じゃ。これは俺の祖父が書いて貰った短冊の中にある」こう云って父は次ぎの歌を口ずさんだ。

 

「のに山に うかれうかれてかへるさを ねやまでおくる 秋の夜の月

 

どう思うか。蓮月尼の歌には月を歌ったのが多い。もう一首家にある俺の好きな歌はこれだ。」こう言って父は次の歌を低唱した。

 

 「ほしかきの 軒にやせゆく山さとの よあらし寒く なりにけるか那

 

この歌は蓮月が八十一歳の時作ったと短冊に書いてある。彼女は当時としては珍しく八十五歳まで生きた。歌は余技で粘土を拈(ひね)って素朴な土器をつくって生計を立てて居たようで、家(うち)にも自分の歌を釘彫りした湯飲み茶碗がある。」

 

私は平成十年に萩から山口に居を移した。そして父が話してくれた蓮月の短冊を調べて見たら、蓮月がわざわざ曾祖父の為に作ってくれたと思われる歌を見つけた。何故そうだと言えるかというと、「梅屋」という文字が歌に書き添えてあったからである。曾祖父は酒造業を営んでいて、屋号を「梅屋」として、自ら梅屋七兵衛と称していたからである。

 

梅屋  鴬のつまやこもるとゆかしきは うめ咲きかこむ庵のやへ垣     蓮月

 

私は山口に来て数年して蓮月の墓参りを思い立って京都の洛北にその地を訪れた。道路傍(わき)の石段を登って行くと大きな桜の樹があった。そしてその根元に、こじんまりとした蓮月尼の墓を見つけた。その時私は一種の感動を覚えた。この事は既に別に詳しく書いたが、これも考えて見たら、数十年前父と畑の小屋で一夜を過ごしたとき、父が語った事との繋がりのあることである。

                       

2020・7・13  記す