yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

蟇(ヒキ)

漱石の『行人』を読んでいたら「蟇」という字が出て来た。これは「ヒキ」とも言うが我々は「ガマ」と普通言っている。最近この大きなヒキガエルを目にしない。萩に居たとき、それもまだ父が生きていて、私が小学生の頃だからもう80年近く前になる。毎年夏の夕方になると、私と父は座敷の障子を開けてよく夕涼みをした。座敷の目の前に平たくて地面から50センチくらいの高さの芝の築山があった。「築山」と言っても、精々8畳敷きくらいの面積である。その上で私は近所の友達と相撲を取ったりしてよく遊んだ。また座敷の屋根に上って、そこから芝生の上に飛び降りたりした。今なら考えられないような事をしたと思う。

その芝山の一個所に大きな石がはめ込んだように据えてあった。その石には隙間というか小さな穴があって、中から大きな蟇が一匹決まったように、夏分になるとのそのそと出て来た。

父は「悪さをしてはいけんぞ」と言って蟇に危害を加えるような事を禁じた。私は言われたとおりに温和しく、蟇の悠然たる足取りをじっと見ていた。蟇は我々が見ているとは知らぬ気に、悠然と歩を運び、またどっしりと地面に腰を据えて、じっと構えて私達の方を見ることもあった。その内日が暮れると私達は障子を閉めたので、その後の蟇の行動は知らない。勿論蟇の心中を推し量ることは出来ない。

その蟇はかなりの大きさで、実に落ち着き払っていて貫禄があった。田圃などで見かける小さな蛙とは雲泥の差である。そうは言っても雨蛙の様子を見ると、中には何時迄も静かにじっと座っているのを見かけることもある。

実は山口に移住の際に、萩の庭にあった石の地蔵像をこちらへ運んで貰った。そして業者に台石を頼んだら、石地蔵の数倍もある大きい石を運んで据え付けた。当初大きくて不釣り合いに見えたが、今は見慣れてなるほどこれは良いと思うようになった。

昨年の梅雨時季だったと思うが、その地蔵様の頭の上にちょこんと一匹の真っ青な色をした雨蛙が坐っていた。私は翌朝になって如何(どう)して居るかと思って行ってみたらまだ居たので、カメラに撮ってみた。全く位置を変えないで終日はおろか翌朝まで坐っているのには感心した。

私は山口市の国宝「五重の塔」で有名な瑠璃光寺で毎週日曜の早朝に行われる「座禅会」へ10年ばかり通ったが、考えて見るとこの小さな雨蛙には到底勝てないと思った。

「蛙の面に水」とか「蛙の面に小便」という言葉があるのもなるほどと思う。これは悪い意味で言うのだろうが、一見したところ、本当に平気の平左で、しゃあしゃあしている。ついでに言えば「蛙の子は蛙」と言うからこれも代々受け継いできた遺伝子のお蔭だろう。そう思うと私に辛抱の心がないのも親から受け継いだものかもしれない。 

 

蟇から蛙に話が移ったが、私は「蟇」に関して何か書いてあるかと思って辞書を引いて見た。次ぎのように説明してあった。

「蝦蟇 ヒキガエルの俗称。 刺激を与えると乳白色の液を分泌し、これを原料としてがまの油を製する。中国のガマの仙人や日本の自(じ)来也(らいや)などの話に登場し、毒気を吐き、霧や雨を呼ぶものはヒキガエルの妖怪とされる」

 

確かにこの蝦蟇の姿はグロテスクで触る気にはなれない。私は「刺激を与えたら乳白色の液を出し、これを原料として蝦蟇の油を製する」と言うことを初めて知った。

この「蝦蟇の油」に関連して私は一人の「独楽回し」を思い出した。

私の子供時代、何と云っても一番の楽しみは夏休みに入ると間もなく始まる住吉神社のお祭りと、それに伴うサーカスである。これについては前にちょっと書いたが、この他に「独楽回し」の曲芸を見ることだった。

この独楽の曲芸をして見せて呉れる人は、後で知ったが「小野さん」と言って、祭りが始まる前に、神社の境内に並ぶ各種の店の割り振りをする顔利きだったようである。今で言えば俗に言う「ヤクザ」だったかも知れない。その「独楽回し」であるが、彼はいつも同じ場所、即ち社殿に向かって左側に大きな松の木があったが、その傍らの広場に茣蓙(ござ)を敷いて、そこで独楽の曲芸をして見せていた。多くの参拝客が集まって見物していた。勿論私もその一人で、その独楽の曲芸に目をみはったものである。

彼は今から考えたら50歳くらいだったろうか、着物を着て羽織を纏っていた。大小幾つもの独楽を身辺に転がして居て、その中から直径20センチもある大きな独楽を手に取ると、太さが1センチくらいの長い紐を独楽の周囲にかけ回し、「ヤッ」と掛け声をかけると同時に独楽を放り出し、グッと紐を引くと独楽は彼が左手に持った羽子板を小さくしたような板の上にパッと載せた。見ていてまことに見事なものだった。

心棒の長い独楽は澄み切ったように回る。「独り楽しむ」と書いて「コマ」と読むが、大きな独楽が真っ直ぐに立って、まるで静止しているように回転しているのを見ると、それこそ心を静めて「静寂を独り楽しんでいる」ような感を抱く。

『行人』に杜甫の詩の一節が引用してあった。

「燈影照無睡 心清聞妙香」(燈影無睡を照し、心清妙香を聞く)

これは次のように解釈してあった。

「燈の影が私を照らしている。眠れないのではないのだ。なぜならこれから心清らかに妙香を聞こうとする素晴らしい夜なのだから」 

 

独楽回しのおじさんは回っている独楽をサッと左の掌に載せ、それを右手に執ると、これを開いた傘の上で回したり、自分の羽織の右袖から襟さらに左襟へと移動させる。実に妙を得たものである。誰もが固唾(かたず)を呑んで見守って居ると、最後に諸肌(もろはだ)脱いで、刀を手にして「独楽の刃渡り」と言って独楽を刀の刃の上を移動させるのだが、それを実際にする前に「蝦蟇の膏」の宣伝についての講釈が始まるのである。

「やあ、お立ち会いのみなさん。この蝦蟇の膏はこの刀で、こうして肌を切りつけて血が出ても、この蝦蟇の膏を付けたらたちまち傷が治るのだ。そもそもこの蝦蟇の膏は・・・」

と言って中々、「独楽の刃渡り」は始まらない。結局このハマグリの殻に入った黒い練り膏薬を見物人に売るのが最終目的である。果たして買い手が幾人かあったかどうか知らないが、ここまでの演技と彼の「蝦蟇の膏(あぶら)」売りの口上は堂に入ったものだと今にして思うのである。

 

そういえば私が県立萩中学校に入ったとき、永松定という英語の先生が居られた。当時我々は殆どの全ての先生を「渾名」で呼んでいた。永松先生は「アナグマ」と言っていた。教員室に生徒が入る時には、入口で大きい声で先生の名前を呼ばなければ勝手に入れなかった。そこで同級生の一人が教員室に入るに際し、大きな声で「何年何組の誰それ、アナグマ先生に用があって参りました。入っても宜しゅう御座いますか」と大きい声で言ったものだから言って、後で大叱られされたと聞いた。

アナグマ先生なる永松先生は東大英文科の卒業で、伊藤整とか上林暁と言った文人と交流があり、また難解と言われるジェイムス・ジョイスの長編小説『ユリシーズ』の翻訳者の一人だと後で知った。当時私なんか全く「猫に小判」か「豚に真珠」、いや今も変わらないが、あの時そんなに偉い先生だとは思いもよらなかった。もっとも先生の授業は決して褒めたものではなかったと思う。しかし実力があったのだろう、萩中学校からその後新設の熊本の県立大学の英語科の主任教授として赴任され、後に宮中での褒賞を受けられたと聞くから。

この永松先生が『萩の独楽回し』という短編を書いておられる。今それを探しても見当たらないが、先生がこの独楽回しの小野氏の近くに下宿して居られたので、訪ねて行っての感想文だったと思う。

広辞苑』を引くと「蝦蟇の膏」について詳しく載っていた。

「ガマの分泌液を膏剤にまぜて練ったという軟膏。昔から戦陣の膏薬(軍中膏)として用いられ、火傷、日々、あかぎれ、切傷等に効能があるといわれ、大道に人を集めて香具師(やし)が口上面白く売った」

ついでの「独楽回し」の項を見たらこのような文章があった。

「独楽を回すこと。また、その芸人。古くから行われたが、江戸時代以降に遊芸となる」

さらに「松井源水」の項にこう書いてあった。

 「曲(きょく)独(ご)楽師(まし)。先祖は越中の人、反魂丹を精製、富山にいたが、四代目から江戸に出て浅草奥山で家薬を売り、客寄せのため曲独楽を演じ、9代将軍德川家重の上覧を得て以来これを本業とした」

たかが「独楽回し」と言っても、これほどの伝統があることを私は知らなかった。『萩の独楽回し』の小野氏も恐らく相当の修行を積んだのであろうと思うのでる。                         

2020・9・13 記す