yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

梅と百(もも)鳥(とり)

私は先月妻の一周忌の法要を済ませた後、『漱石全集』の全巻をできる限り読もうと心に決めて、「第一巻」の『吾輩は猫である』から読み始めた。漱石は『猫』を日露戦争の最中に「ホトトギス」に連載し始め、続いて数々の小説や随筆を書くにつれて、圧倒的な人気を博した。その後日本が欧米列強に追いつけ追い越せと云った時代に突入して行くのであるが、そういった時、彼は冷静にそれを見据えて絶えず国民に警醒の言葉を投げかけている。そして最後は「則天去私」の心境へと自らを高める努力を重ねている。この事を知るにつけても、今度こそはじっくり漱石を読んで何らかの示唆を得たいと思ったのである。

草枕』を読む傍ら、矢本貞幹(やもとただよし)著『夏目漱石 その英文学的側面』(研究社叢書)を久し振りに読み直したら、「あとがき」に著者はこう云っている。

 

「戦後、日本の自主性を忘れるほどの国際主義に変わってきた。そこで、日本人としての自覚を忘れない漱石と英文学との関係について私は短いエッセイをいくつか書いた。(中略)今度、本書を書くことになって、私は久し振りに敬愛する師に会ったような心持ちになった。そしてあらためて『漱石全集』のあちらこちらを読み直したり、考え直したりして(後略)」

 

まさに同感である。私は意を強くして漱石の作品を続けて読むこととしよう。

「第二巻」の『坊ちゃんを』読んだ後、同じ巻に載っている『草枕』を開いたら、『坊ちゃん』とはがらりと変わった内容と文体に改めて眼を見開かされた。漱石は明治三十八年一月に『吾輩は猫である』を「ホトトギス」に発表した後、明治三十九年四月一日に『坊ちゃん』を、引き続いて『草枕』は同じ年の九月一日から執筆を始めている。それまでにも英文学に関する研究論文なども数多く世に問うている。小説だけに目を向けても、僅か二年間での文章の内容と文体の違いには驚く。私にとって漱石の何が一番面白いかといえば、和漢洋の蘊蓄を傾けて、しかも何の苦もなく流れる様に書かれた文章の妙である。

 

さて、『草枕』を読むと最初にシェリーの雲雀の詩が原文と漱石の訳で載っている。私はこの詩と名訳は最初にこの小説を読んだときから記憶にあるが、今回メレディスの詩に初めて気が付いた。両者の詩とその和訳はここには書かないが、漱石にとって英文は、何の苦もなく読めたのではなかろうかと思う。

実は『草枕』は平成二十四年、二十六年、二十九年と既に三回読んでいる。私はこの作品に出てくる「那古井の温泉場」つまり現在の熊本県玉名郡天水町の小天の温泉宿まで数年前に二人の友と出かけて泊まった。途中にある「峠の茶屋」にも足を止めた。その上宮本武蔵が晩年ここで『五輪書』を書いたと云われる地中かと思えるような冷え冷えとした霊巌洞へも行ってみた。そこには霊巌禅寺や五百羅漢の石仏もあった。途中の山腹に青黒く艶やかな葉を隠すばかりにたわわに実った紅玉のミカンの木が山腹を一面に植えられていた。そのミカンの木々の遙か向こうの眼下に有明の海が太陽の直射を受けて的皪と輝いていた。そうした十月末の良い季節だったのは記憶に新しい。

 

これまで数回読んでいるのにメレディスの詩はまったく覚えがない。迂闊にも素通りしていたのだ。人はよくこの本を読んだ、あの書に眼を通したと言うが、中々頭には残っていないような気がする。それはさておき、今回私はこの詩を読んでみてその意味を私なりに理解し、素晴らしい詩だと感じた。と同時に、この小説が出版されたとき、果たしてどれくらいの人がこの英語の詩の意味を理解したのかしらと思った。今でこそ「注解」として和訳が載っているが、出版当時には訳は付いていない。漱石はそれを承知で書いていたのだ。

これまで別に気にしなかった和歌にも今回注目した。それは小説に出てくる「峠の茶屋の婆さん」が口ずさんだ歌である。

 

あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも

「余はこんな山里に来て、こんな婆さんから、こんな古雅な言葉で、こんな古雅な話をきかうとは思ひがけなかった。」と漱石は書いている。

 

漱石は『草枕』の中に三回この歌を載せている。私はこの歌が『万葉集』の「巻第八」に「日置(へきの)長枝娘子(ながえいらつこ)歌一首」として載っているのを土屋文明の『万葉集私注』で知った。大意としてこう書いてある。

 

 秋になれば、尾花の上に置く露の如く、消えさうに私は思はれることである。

 

私は移り気で一冊の本を読み出したら最後まで外には見向きもしないで読み通すことができない。妻は反対に一冊読み終えたら次の本といった態度だった。したがって私の机の周辺には何時も数冊の本が散らばっている。根気のない証拠だ。こういった訳で私は以前読んだリービ英雄著『英語で読む万葉集』(岩波新書)と、もう一冊大学の恩師に頂いた大部な書、本多平太郎著『完訳 万葉集』の英訳書を二階から持ってきて頁を繰ってみた。

 

リービ氏は長短四十九歌を選んで英訳して解説している。一方本多氏は全部の歌を訳している。かなりの労作だと言えるが、両者を比べて読むと本多氏の訳は何となく堅苦しい感じで、『万葉集』本来の伸びやかさと云うか晴朗たる感じが乏しい様な気がする。

私のような者が、このような事が言える柄ではないが、日本人が日本文を外国語例えば英語に訳すより、日本語を充分に勉強した英米人が自国語に訳す方が優れたものになるような気がする。そういった意味で、リービ氏の訳は実に上手いと思った。

 

そこで『草枕』は一時傍らに置いて『新書』を再読することにした。こんな歌が選ばれていた。

 

わが園に 梅の花散る 久方(ひさかた)の 天(あめ)より雪の 流れ来るかも  主人(あるじ)

 

「私の庭に梅の花が散る。それともはるかな遠い天空から、雪が流れて来ているのだろうか」 (大伴旅人(たびと)、巻5・八二二)

 

 私はこの歌を読んだ時、我が家に柿本人麿の座像を描いた古びた掛け物があったのを思いだした。そして歌も載っていたと思い座敷の戸棚を探してみた。軸の表に「柿本大夫(たいふ)」と書いてあったので、これだと思って拡げて掲げてみた。左側を向き烏帽子を頭にのせた、老いた感じの人麿の座像が描かれていて、その上の方に細くて薄い字で次の和歌が書いてあった。繪も歌も中々繊細な筆遣いで良く書いてある。「大夫とは律令制で一位以下五位以上の称。転じて五位の通称」と『広辞苑』に載っていた。此の軸の真贋はどうも良く分からない。しかし梅が詠われているので曾祖父が求めたことは間違いないだろう。

 

梅の花それとも見えず久方(ひさかた)の天(あま)霧(ぎ)る雪のなべて降れれば

 

この歌は『万葉集』には載録されていなくて『古今和歌集』を調べたら、「三三四」にある。ところが「この歌、あるひとのいはく、柿本人麿が歌なり」とあった。歌の意味は大体分かる。

 

梅の花は、それと区別もつかない。空をかき曇らせる雪が、あたり一面降っているので」

                         (『古今和歌集』小野町照彦訳注)                  

 

確かに曾祖父が手に入れた物であろう。私は「梅」には人一倍関心を抱いている。曾祖父は菅原道真、即ち天神様の信者でその為に梅をこよなく愛していたと聞いている。これまで幾度も言及したが、防府天満宮には梅について曾祖父が詠んだ句碑がある。

 

天満る 薫を此処に 梅の華     佳兆

 

梅原猛が『水底の歌』で人麿の「流罪水死説」を世に問うたのは何時だったか忘れたが、今回『人物日本史1』(小学館)に彼が書いている「柿本人麿」を読んだら、次のような文章があった。

 

 「柳田国男によれば、古代日本において、死後個人として神に祭られるのは、怨念の残るような死に方をした人に限られるというのである。藤原広嗣(ひろつぐ)・早良(さわら)皇太子・菅原道真平将門崇徳天皇など、すべて日本における個人で神に祭られるのは、柳田国男の言うように、怨念の残るような死に方をした人である。それに対し、たとえば天武天皇桓武天皇藤原道長のように、どんなに優れた人物であっても、死に方の普通の人は、神にされていないのである。そういうことを考えると、たとえ人麿がどんなに優れた歌人であっても、死後まもなく神とされていることは、怪しむべきことである。歌の神、人麿、詩の神、道真というのが、日本の文化伝統であるが、人麿は歌の名人であるという点のみではなく、その運命の異常さにおいても、道真と同類の人間ではなかったか。」

 

少し話が逸れたが、私は旅人(たびと)の歌を、前に挙げた『万葉集私注』で調べてみた。是は太宰師大伴旅人が、彼の館で多くの者を招いての席で歌った三十二首の中の一首だと分かった。「梅花歌三十二首并序」とまずあって、三十二の歌が出てくる。私はこの「序」が中々の名文だと思うので先ずそれを書き写してみよう。原文は全て漢字だから、土屋氏の文章を引用する。(原文は旧漢字でふりがなは片仮名だが新漢字で平仮名にする)

 

天平二年正月十三日、師老の宅に萃(あつま)る。宴会を申(の)ぶる也。時に初春令月、気淑(す)み風和ぎ、梅は鏡前の粉(よそほひ)を披き、蘭は珮後の香を薫らす。加以(しかのみならず)曙嶺雲を移し、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾け、夕の岫霧を結び、鳥は穀(こめおり)に封ぜられて林に迷ふ。庭に新蝶舞ひ、空に故雁帰る。是に於て天を蓋(かさ)とし地を坐となし、膝を促して觴(さかずき)を飛ばし、言を一室の裏(うち)に忘れ、襟を煙霞の外に開く。淡然として自ら放(ほしいまま)にし、快然として自ら足る。若し翰苑に非ずば、何を以て情を攄(の)べむ。詩に落梅の篇を記す、古今夫何ぞ異ならむや。宜しく園の梅を賦し、聊か短詠を成すべし。

 

この「序」は山上憶良が書いたものと推定されている。全体の意味はさておき、最後に「詩に落梅の篇を記す」とあって三十二首どの歌も「梅」を詠じている。その中に私の気にいったのがもう一首あった。

 

原文を参考までに書いてみよう。

 

烏(う)梅(め)能波奈(のはな)伊麻佐加利奈利(いまさかりなり)毛々(もも)等(ど)利(り)能(の)己恵能古保志枳(こえのこほしき)波流岐多流良斯(はるきたるらし)

 

「梅の花今盛りなり百鳥の声の恋しき春来たるらし」

(梅の花が今や盛りである。多くの鳥の声の恋しく思われる春が来るであろう)

 

土屋文明氏は私がここに挙げた二首を好意的に評していた。私がこの歌を読んでいて「百鳥」という言葉にはたと気づいた。実は妻が亡くなったのと、この「百鳥」は関係があるからである。妻は高校時代の仲の良い友達数名と毎年宿泊を伴う旅行を楽しんでいた。最近は足腰の痛みがひどくて前年は遂に不参加だった。

「今年は近い所だし、昨年休んだから今年こそはどうしても行こう」

こう云って多少無理を押して出かけたのが終の別れになった。以前こんなことを言ったことがある。

「私たちの集まりに何か名称を付けるというので、私が『百(もも)鳥(とり)会』にしたらと提案したら、皆が賛成したのよ」

 「女性は皆よく喋る。とくに君は話好きだから、皆と一緒にぺちゃくちゃ鳥のようにおしゃべりを楽しむに相応しい名称だな」

こういって笑ったのを思い出した。そして昨年五月二十七日、門司のホテルで、妻は夜遅くまで語り合って、会がお開きになった後、二人部屋のシャワー室に入った直後に倒れて、息を引き取ったようである。人間の命は儚いものである。死はいつやって来るか分からない。

 

天平二年と云えば西暦七百三十年の昔である。大伴旅人はその翌年に六十七歳で亡くなっている。

 

 あをによし 奈良の京(みやこ)は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり

 

この歌に詠われている当時の奈良の京は確かに良かったと思う。旅人は任満ちて帰京して直ぐ亡くなっているが、太宰府における集(つど)いからも想像できるように、彼は結構人生を楽しんだような気がする。数年前、妻と妻の弟夫妻と一緒に「山辺の道」を散策したことが偲ばれる。奈良・京都は何回行っても良い。しかし最近は訳の分からないような外人が多く訪れて気持ちが殺がれる。「観光立国日本」も善し悪しだ。

 

 この拙文の始めに戻るが、全世界が本当に平和になることがあるだろうか。科学がいくら進歩しても、人間に我欲が存する限り、真の平和は中々訪れそうにない。

漱石の最後の漢詩は彼の心境というか願望を詠ったものであろう。

 

眞蹤(しんしよう)寂寞(せきばく) 杳(よう)として尋ね難く

虚懐を抱いて 古今に歩まんと欲す

碧水碧山 何ぞ我あらんや

蓋天蓋地 是れ無心

 

「森羅万象の真実の相は、ひっそりとして静寂であり、まことに深遠で容易に知ることはできない。自分は何とかして私心を去って真理を得ようと東西古今の道を探ねてきたことである。一体、この大自然にはちっぽけな「我」などないし、仰ぎみる天や俯してみる地は、ただ無心そのものである。

(佐古純一郎著『漱石詩集全釈』)仰賦してn多雨材、

 

聊(いささ)か道草を食うたので、また『草枕』を読むことにしよう。『万葉集』には「草枕」を枕詞とした旅の歌が数多くある。例えば聖徳太子の歌(巻3・四一五)。

 

家ならば 妹(いも)が手巻(ま)かむ 草枕 旅に臥(こ)やせる この旅人(たびと)あはれ

 

この歌の解説でリービ英雄氏はこう云っている。

 

旅という境遇に、最も英訳しやすい枕詞が冠されている。

草枕 旅」は、 on a journey  / with  grass  for  pillowとなる。

 

 漱石はこの『草枕』という小説の題名を、『万葉集』を読んでいて思いついたのかも知れない。『草枕』を読み、『野分』も読み終えた。この小説で漱石は登場人物の口を借りて理想的人格論を述べている。明日から「第三巻」に入る。

最後にリービ英雄の『英語で読む万葉集』は、「山上憶良、絶叫の挽歌」の章で終わっているが、その中に次の一首があった。

 

神代より 言ひ伝(つ)て来(く)らく そらみつ 倭(やまとの)国(くに)は 皇(すめ)神(がみ)の 厳(いつく)しき国

 言霊(ことだま)の幸(さき)はふ国と 語り継ぎ 言い継がひけり・・・                        

 

「神代より言い伝えてきたことに、そらみつ倭の国は、皇神の厳しい国、ことばの霊力に恵まれた国と語り継ぎ言いついできた・・・」(山上憶良、巻5・八九四)

 

この拙文の始めに書いたように、和漢洋の学識に富んだ漱石が、蘊蓄を傾けてそれに関係する豊富な言葉を彼の作品に縦横に用いているので、私は不明の言葉を辞書などで調べながら読まざるをえない。しかし別に時間に制限されない今、こうした読書も楽しいことである。言うなれば「閑を楽しむ」老後の日々である。

 

2020・6・27 記す

 

オクラと蛙

 

「オクラ」と聞いたら先ず何を連想するだろうか。万葉集歌人山上憶良(やまのうえのおくら)を頭に描く人は、ある程度の教養を身につけた御仁(ごじん)かも知れない。彼の「子等を思う歌」は昔教科書に出ていた。その一部をあげてみよう。

 

 瓜食(は)めば子ども思ほゆ、栗食(は)めばまして偲(しぬ)はゆ、何処(いづく)より来たりしものそ、目交(まなかひ)にもとなかかりて、安眠(やすみ)しなさぬ (巻五、八〇二)

「子供の面影が目のさきに、わけもなくしきりに掛かって、安い眠りも寝られない」

                         (土屋文明著『(萬葉集私注)』)

反歌

銀(しろがね)も金(こがね)も玉も何せむに優(まさ)れる宝子に如(し)かめやも(同、八〇三)

 

次ぎもまた有名な歌である。

 

憶良らは今は罷(まか)らむ子哭(な)くらむそれその母も吾を待つらむぞ  (巻三、三三七)

 

宴席のなかばに退席する際の即興の戯れ歌だが、この一首で憶良は喝采を博したとある。

 

何だか物知り顔に書いたが、私がここに言う「オクラ」は、野菜のそれである。昨日の朝リビングルームの南向きのロールカーテンを開くと、その合間から目に入ったのは緑一色だった。いやその緑の中にたった一つ、純白ではないが、やや薄黄色の「オクラ」の花が目に入った。僅か二坪ばかりの菜園には今は殆どの野菜がなくなり、我が家ではこのオクラだけが辛うじて実を付けて呉れている。オクラは花が咲いたらもう翌日は花が落ちて、緑色の小さな角錐状(かくすいじょう)のものが出来る。それが次第に伸びて細長い紡錘状(ぼうすいじょう)の実に変わり、三四日したら収穫できる。

この花が硝子窓越しに大きく開いているのが真正面に見えた。そこで私はカメラを手にしてもっと近づいて写そうと思って外に出た。そうしたら破れ団扇(うちわ)の様な葉っぱの上にちょこんと一匹の雨蛙が畏(かしこ)まって居るのに気が付いた。猫の額ほどの狭い畑であるが今は緑一色だから、全く同じ色の蛙をもう少しで見逃すところだった。私はこの蛙にもカメラを向けた。それから朝食を終えてしばらくして行ってみたら、違う葉っぱに位置を変えていた。しかし依然として目だけは開けてじっと蹲(うずくま)っていた。

夕方になって出て見たらまだ彼はそこにいた。そして中秋の名月の晩にはどうして居るかと思って夕方暗くなってまた出てみると姿を消していた。

一晩明けて朝行ってみたら、また同じオクラの葉の上にいた。今日もまた来てくれたかと可愛く思った。日中は陽光が照りつけて流石の蛙も何処かに行ったのだろう姿が見えなかった。所が夕方また如何しているかなと思って行ってみたら、驚いたことに同じ蛙のすぐ側に、まるで頭をくっつけるような恰好で、大きさが半分くらいの子蛙がちょこんと座って居るではないか。彼らは兄弟のようにも見えるが、私は親子だと思った。それにしても最初の蛙が子蛙に「俺が座っているオクラの葉っぱは風が吹けば静かに揺れて気持ちが良いから来てみんか」とでも誘ったのではないかと私は思った。人間にはこうした小動物の意思の疎通が如何して行われるか分からないが、彼らの間ではきっと伝達方法があるに違いない。獣、昆虫、鳥、魚といった生物が集団移住などをする。それどころかたった一匹の蟻が甘いものや何かの死体をみつけると、瞬く内に多くの蟻が群がる。人間には分からないが意思の伝達方法があると思う。

夕方六時になって外はもうかなり薄暗くなっていた。行ってみると子蛙は別の葉柄(ようへい)の上にいた。箸の様に細くて丸いこの葉柄の上にバランス良く止まっている。一方親蛙は朝と同じ葉の上にそのまま居た。今日は中秋の満月である。ひょっとして親子で月を愛でるのかと思って再び七時過ぎに行ってみるとどちらも姿が見えなかった。親蛙も子蛙が可愛いのだろう。夜が迫ったから連れ去ったのに違いない。明日もオクラの葉の上に来るように、出来たら二匹が来てくれと願いながら、私は雲一つない空に輝く中秋の名月を後にして室内に入った。

最初に蛙の姿を見て今日は三日目である。五時前に目が醒めたので洗顔の後机に向かってこれも読み始めて三日目になるが漱石の『道草』を開いた。まだ外は暗かった。六時になってひょっとして蛙がまた来ているかなと思って行ってみたら、これまでと違うもう一本のオクラの葉の上にちょこんと座っていた。私は「お前また来てくれたか」と声を掛けてやった。蛙には私を慰めようという意志はなかろうが、こうして毎日姿を見せてくれて、何だかほのぼのとした気持ちになった。たかが一匹の小さな生き物でも、日本人には自然を愛し、自然物と共に生きる、つまり「共生」という思想というか感情が脈々と伝わっているのではなかろうか。此の點諸外国の人たちとは違う様な気がする。

 

やれ打つな蠅が手をする脚をする   一茶

 

 朝顔に釣瓶取られてもらい水     加賀千代

 

こういった詩歌を彼らは理解できないだろう。私も下手な句を作ってみた。

 

明日も来い、親子揃ってオクラまで

 

明月を見捨てて何処へ雨蛙

 

雨蛙一人暮らしの慰みに

私はこの拙文をここで一端止めようと思った。しかしまた一晩寝て今朝は四日目である。蛙は如何(どう)かなと思いながら畑へ行ってみると、親子は別々のオクラの木の漏斗(ろうと)のようになった葉の底に尻を据えて、やや斜め上に身体を向け、目だけは開けて坐っていた。近づいて見ると喉のあたりが絶えずぴくぴくと微動して居た。恐らく呼吸をして居るのだと思った。オクラ以外にも色々な草花の葉や茎があるのに何故オクラの葉を好んで、その上に鎮座しているのかと不思議に思った。ここなら第一身の安全だと言うことを本能的に感知しているのだろうか。私はこんなことを考えていたとき、ふとオクラについてあることを思い出した。今でこそ「オクラ、オクラ」と言ってネットを開いたら「オクラのレシピ」とか言って料理の仕方を色々教えて呉れているが、私がオクラの存在を知ったのは、高校に通っていた七十年も前の事である。 

 

私には中学・高校・大学を通して一人の友人がいた。竹馬の友と云ってもいい男で、萩に居るときはよく彼の家へ遊びに行った。彼には姉が二人いて、長女はすでに東京女子大学を卒業し、次女は日本女子大学に籍を置いていた。当時女性が小学校を出て県立の女学校へ入るのは今と比べたら格段に少なかった。ましてや更に上級の進学となると稀な存在だった。従って彼は長男だと言いながら姉には聊か頭が上がらない様に見えた。彼には下に弟が二人、妹が二人いて、兄弟姉妹皆大学を卒業している。この事から分かるように彼の家は相当の資産家であった。彼の家には一人の年輩の男性がいた。家の者は皆この男性を「爺(じ)い爺(じ)い」と呼んでいた。この男性は子供の時から彼の家で掃除から風呂焚き、畑作りなど一切の下働きをして居たようである。

私の家から彼の家に行くとき、私はいつも住吉神社の境内を通って、本町通りに出て行くことにしていた。魚市場に向かって本町通りの左一郭に彼の家屋敷があり、その一郭の中に自転車屋、印刷所、八百屋、信用金庫などといったものが通りに面して軒を連ねていた。それらは敷地の一部を借りて商売をして居たと思われる。通りの右側の一部に板壁があり、その出入り口の戸を開けたら、其処にも彼の家に付属する廣い土地があって、畑とその先に茶室とそれに付属した立派な庭が広がっていた。我々はよくその庭で遊んだ。

ある時彼は畑に育っていた細い茎にヤツデの葉に似ていて、それより小さい葉が幾つもついていた植物を指さして、「これは爺じ爺いが植えたオクラというものだ。」と言って私に教えて呉れた。「このオクラの実は粘っこいものだ。栄養があるそうだ」

彼はこう云ってその紡錘状の実を一本もぎ取って、持っていた小刀でそれを切って見せて呉れた。中に小さな丸くて白い種が沢山あって、ねばねばとした粘液が垂れ下がった。私は初めて見る野菜に何かしら異種類のものを感じた。

「こねえなものが食べられるか」

「俺もそう思うが、爺い爺いが何処で聞いて来たのか知らんが、なんでも栄養があるからと言って植えたようだ。」

我々は千切(ちぎ)ったオクラをその場に捨てて省みなかった。そういった在りし日のことを私は今ふと思い出したのである。

大学時代、彼は親戚の土蔵の二階で寝起きして居た。今思うに其処に『漱石全集』の初版本が並べてあった。家主は大柄の老人で、慶應大学出身でその息子さんはセメント会社の社長だと云うことだった。私は情けない事に、当時その漱石の作品を手にとって読む気は無かった。大学を卒業後、その友人は長男ではあるが親の意に添わぬ女性と一緒になったために、家督を次男が継ぐことになった。彼は大阪に出て会社勤めをして居た。二人の子供にも恵まれ、平凡だが平和な暮らしをして居たと思う。しかし或る日通勤電車の中で突然吐血し、直ちに入院手術をした。そして手術後私は彼を見舞ったが、それから間もなくして胃潰瘍がもとで亡くなった。まだ定年を迎える二三年前の事だった。そして家督を継いだ次男も数年前に鬼籍に入った。彼の家は今は昔栄えていた面影がなくなってしまった。彼の家系は皆長生きである。彼がこのように早く死んだのはやはり精神的プレッシャーがあったものと思う。彼が死ぬ僅か数ヶ月前に、私は京都の東寺を彼と一緒に訪れた時、

「定年退職したら、二人でゆっくり古都を巡ろうじゃないか」

そう言って別れたばかりなのに彼はもはや戻らぬ客となった。良き話し相手が亡くなり私は寂しい思いをしたが、あれからもう四十年近く経った。茫茫たる昔の事である。「栄枯盛衰世の習い」と言うが、人の一生は本当に分からないものだとつくづく思う。

 

その当時まだオクラを店頭に見かけることは全く無かった。もっとも戦時中でわれわれが一番目にしたのは、大して美味(うま)くもない薩摩芋や南京(なんきん)即ちカボチャだった。ただ腹の足しになれば良いと言うことで、空き地はもより学校の運動場まで耕して薩摩芋を栽培する時節だったから。そして戦後数十年経って、このオクラが今や栄養価の高い野菜として注目されるようになった。私は『原色牧野植物大圖鑑』を書架から取りだして、「オクラ」についての記述を見てみた。索引で「オクラ」を調べたら次のように書いてあった。

 

トロロアオイ 

中国原産の栽培される1年草。全体に毛がある。茎は単一で直立し高さ1~2m。葉は長い柄があり大形。花は夏から秋、朝開花し夕方にはしぼむ1日花。花の下には包葉があり、上部のもの小形。根は粘液を含み、それを製紙用ののりとして用いる。和名はその粘液を食用にするトロロに見立てたもの。漢名黄蜀葵。若い果実を食用とするオクラに似た花。

 

この図鑑は昭和五十七年に初版が出ている。私はもう少し知ろうと思ってネットを開けてみたら東京農大の先生の説明があった。

 

オクラの原産地はエチオピアやエジプトなどアフリカ東北部で、エジプトでは紀元前から栽培していた。日本へは幕末にアメリカから伝わり、一般家庭へは1970年頃からで、それまでは花の観賞用に栽培されていた。

 

一九七〇年と言えば昭和四十五年である。とすると友人の畑で見たオクラはそれより随分前になる。道理であの時見たオクラを珍しく異常なものと感じたのであろう。

話は変わるが、数日前に萩市の郊外に住んでいる友人から数冊の本が送って来た。彼は最近目が悪くなって活字が殆ど読めなくなったので、私が関心を持ちそうなのを選んでくれたのだ。その中に小笠原泰著『なんとなく、日本人』(PHP新書)があった。私はこれをなんとなく手に取ってみた。副題として「世界に通用する強さの秘密」とあって、私は思わずひきつけられて読み始めた。

 

日本人は、死者との間にも関係性をもっている。(中略)多くの日本人にとっては、家族や血縁者による遺骸の処理を通した死者儀礼によって、「生者」は「死者」へと時間をかけて移行していく(死ぬという「コト」)のであって、医者の死亡診断を通して「死者」へと即座に移行する(死という「モノ」)ものではない。

 

私はこの言葉に強く打たれた。昨年五月に妻が旅先で急逝し、一抹の淋しさを感じている。しかしここにも書いてあるように、ただ死んだ「モノ」としては絶対に思わない。この本の中にこんな文章があった

 

あの小林秀雄が、母親を亡くしたときに、「家の前の道に添うて小川が流れてゐた。もう夕暮れであった。門を出ると、行手には蛍が一匹飛んでゐるのを見た。この辺りには、毎年蛍を良く見かけるのだが、その年は、初めて見る蛍だった。今まで見たこともない様な大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考へから逃れる事が出来なかった」と目の前を行く大きな蛍を母親の生まれ変わりと得心してしまうわけである。

 

数日前から姿を見せる小さな蛙を見て、こうした小動物でも毎日オクラの葉の上に黙って坐っているだけでも、「なんとなく」私の心を慰めてくれるのである。

今日夕方になったので外に出て見たら、これまた偶然に一匹の小さな蛙を目にした。オクラと離れた所にある野バラの小さな葉の上に、同じ色をしたさらに小さな蛙が、ちょこんと坐っていた。これで三匹の蛙に出くわしたことになる。

蛙がじっとして居るのはエネルギーを使わないことになるらしい。ヒキガエルの中に三十年以上も長生きしたものが居るそうだ。そうだとすれば今現れた蛙は去年姿を見せた同じ蛙かも知れない。そう思うと益々愛(いと)おしくなる。私は良く来て呉れたと思いながらいつもの散歩に出かけた。 

 

以上の文章を書いて五日経つた。私は毎日外に出たら蛙が居るかどうか確かめる気になった。そうしたら一番大きな蛙だけは殆ど位置を変えないで同じ葉の上に夜昼を通して坐っている。一方それより小さい蛙は違った葉の上に移動したり、夜の間姿を見せないこともあった。ところで野バラの葉の上にじっとして居た一番小さい蛙が何処を探しても見つからなかった。丸一日姿を眩ましていた。今朝七時過ぎに小松菜に水をやろうと思ってオクラに近づいたら、一枚の葉の上に大きい蛙とその一番小さい蛙が反対向きにじっと坐っており、さらにもう一匹の蛙が別のオクラの木に止まっているではないか。

私はこれら三匹は親子だと思うが、オクラと薔薇は五メートルばかり離れて居て、その間に踏み段と赤煉瓦を敷いたテラスがあるから、子蛙はその距離を歩くか跳びはねて行ったことになる。それにしても彼らに意思の疎通がなければ、同じ葉の上に行ってじっとしているはずがないと思った。私はこうして小動物が毎日姿を見せて呉れることは、無言の中にも慰めになるので、これから次第に寒くなるが出来るだけ姿を見せてくれ、と心の中で願うのであった。 

もう少し続きを書こう。上記の文章を書いて丁度一週間経った。この間に彦根から妻の姪夫婦が墓参りをしたいと言って来た。その為に萩と長門方面へ連れて行ったりして、姪だけは十六日まで残ってくれたが彼女も帰ってまた一人暮らしになった。昨日は我が家の菜園へ何度も出てみたが蛙の姿は見えなかった。寒くなったので遂に冬眠に入ったのかなと思って今朝出てみたら、小さな破れ傘を拡げたようになったオクラの葉の上に、親蛙だけ一匹じっと止まって、日差しに背を向けて甲羅を干しているような恰好でいる。その艶々した背中は陽が当たって光って見えた。ただ喉元だけぴくぴく動いていた。

「よく来てくれた。寒くないか」と声をかけて私はしばらく立ち止まって見つめた。

この蛙が初めて出現したのが今月の始めだから今日で十七日過ぎたことになる。この間二日ほど姿を見せないことがあった。また恐らく子蛙だろう外に二匹現れた事もあったが、この親蛙だけは殆ど毎日やって来て、オクラのこの葉、あの葉へと転々としながら、終日いや時には一晩中留まってくれていた。私は「止まった」とは思わず「止まってくれた」と言いたい。物言わぬこうした小動物でさえ、私には慰みになったからである。

テラスの踏み段はセメントを塗ったで灰色である。その上に何だか動くものがいると思って近づいたら一匹の蛙だった。近寄ると怖くなったのか直ぐ側の土壁に跳んでぴたりと張り付いた。蛙は灰色から瞬時に褐色に変色した。まさに保護色の妙である。

 

「保護色は動物の隠蔽色の一つ。生活環境の背景の中にとけこませることにより、他から発見されにくくする効果を持つ。被食者が捕食者からのがれるにに役立つ色彩の場合にいう。」

このように説明してあるが、このメカニズムやこう言った動物の心理は人間には分からないと思う。この蛙もそろそろ冬眠で何処かに姿を消すだろう。

昨日は肌寒い一日だった。今朝は朝から陽光が射してこの時節にしては暖かい。七時過ぎて自転車で「ログ・ハウス」へ榊を買いに行った。帰って我が家の菜園へ出てみたら、昨日の親蛙がオクラの茎に止まっていた。午後になってまた如何しているかと出てみたら、オクラの破れて僅かに残っている葉の先端にいた。蛙の目方は軽いのでオクラの葉は耐えるのだろう。驚いたことに一番小さい蛙も別の漏斗型の葉の底に上を向いて坐っていた。この子は三日間姿を見せないでいた。陽気に誘われたのか、それとも「冬眠するにはまだ早い。もう少し世の中を見ておくのだ」と親蛙が言ったのか、可愛い眼をこちらに向けてじっとして居た。

もうこの辺で駄文に鳧(けり)をつけよう。また来年も現れてくれることを願ってこの拙文を書き終わることとしよう。最後に草野心平の『秋の夜の会話』を引用し、ついでに私の駄句と稚拙な歌を添えておこう。

 

秋の夜の会話

 

さむいね。

ああさむいね。

虫がないてるね。

ああ虫がないてるね。

もうすぐ土の中だね。

痩せたね。

君もずいぶん痩せたね。

どこがこんなに切ないんだろう。

腹だろうかね。

腹とったら死ぬだろうね。

死にたかあないね。

さむいね。

ああ虫がねいてるね。

      

雨蛙 冬眠終えて また来いよ              

 

霜枯れて 破れ傘なるオクラ葉に 無念無想の雨蛙哉(かな)          

 

令和二年十月十八日 擱筆

 

擱筆」と書いた翌日の十九日には予想通り蛙の姿は見えないので、遂に蛙のことを書くのもこれで終りだという気持ちになった。夜になっても勿論来なかった。一夜明けて四時過ぎに眼が醒めたので起きて漱石の『明暗』を読んだ。主な登場人物の一人である津田という何だか男らしくない人物と、彼と結婚したばかりの妻の延子。この新妻と津田の友人で、彼女にとっては薄気味悪い社会主義者的な鈴木とういう人物とのやりとりが、実に良く書いてあると思った。しばらく読んだ後、今日は十日に一度の掃除の日と決めているので、多少薄暗い時間だったが約四十分かけて上下階の掃除をした。掃除が終わって外に出てついでに蛙は如何かなと行ってみたら思った通り姿を見せていなかった。

「彼らは遂に冬眠に入ったか。寒くなったからしょうがなかろう」と思い、室内に入って神仏を拝み朝食も終えて、今度は先日たまたま本屋で見つけた宮城谷昌光の『孔丘』を開いてしばらく読んだ。『論語』とは違って孔子を中心とした人物像が小説として生き生きと書かれている。著者の古代中国の歴史の知識は実に幅広く深いものだと感心した。

十時頃読むのを止めて外の空気を吸うためにまたオクラのところへ行ってみると、一昨日と同じ小さな葉の窪みに子蛙だけ一匹座って居るではないか。私は思わず「よう来てくれた」と言葉をかけて、今年最後の蛙の思い出となる写真を取るためにカメラを向けた。午後になってまた行ってみると影も形も見えなかった。「子蛙はどう思ったのだろうか。カメラを向けられて恐怖心を抱いたのだろうか。そんなことはなかろう。これまで幾度もカメラを向けている。それとも最後の挨拶に来たのだろうか。」私はこんな思いで、この蛙のあまりにも短時間の出現が一寸物足りないと同時に名残惜しく思った。

 

考えて見たら蛙と私との間には意思の疎通はない。しかし一人暮らしの身にとって、彼らの出現は非常に慰みになった。蝶とか蜘蛛なども身辺に見かけるが、同じ場所に、これほど長い期間、それも終日居ることはない。その点蛙はただ居て呉れるだけだが有難い。私はこれまで「蛙」とはただ水の中を泳いだり、地面を跳んだりしている小さな生き物としか考えて居なかった。折角だから「蛙」という言葉を辞書で引いてみようと思った。そうしたら知らない事が実に多くあってよい勉強になった。

 

まず私が持っている一番詳しい『広漢和辞典』(大修館書店)の【索引】で「かえる」を引いて見た。そうすると殆どが「交代」、「変更」、「帰還」、「反復」「復興」「回帰」といった動詞の意味の漢字で、「蛙」「蛤(かえる)」のみが生き物を表していた。

次ぎに「虫偏」の漢字を見てみると、驚いたことに五二三もの漢字が載っていた。私は「虫偏」だから「蛇」や「蝶」や「蚯蚓」や「蜘蛛」と言ったものばかりだろと思っていたからである。そこで「虫」を引いてみると次のように書いてあった。

【虫】①昆虫の総称

②動物の総称。羽虫は鳥、毛虫は獣、甲虫は亀の類、鱗虫は竜のようにうろこのある動物、裸虫は人類。

私はなるほどこれで、「蚫(あわび)」「蜆(しじみ)」「蛸(たこ)」等の字があると分かった。更に面白い事にどうも「虫」とは関係が無さそうな字にも、それなりに理屈がつくような説明があった。

【虹】昔は竜の一種と考え、雄を虹、雌を蜺(にじ)といった。

【蛮】南方に住む未開の種族。四夷(東夷、西戎、南蛮、北狄

 私はふと思った。とるに足りないとして人を卑しめて言う語に「虫螻(けら)同然」という言葉のあるのを。

この他虫偏で動作を意味する字「蝕」「融」「蟄」「蟠」「蠢」「蜿蜒」等もそれなりに関係づけて説明がしてある。私は今度は「圭」を伴う漢字を見てみた。

【圭】①たま 上がとがり、下が四角名玉。古代天子が諸侯を封ずる証として、

また祭祀(さいし)、朝聘(ちょうへい)等に用いた。これは割と少なかった。

②きちんと角目がととのっている様。

「桂」「佳」「畦」「珪」「鮭」「硅」「銈」「烓」「挂」「蛙」など。

私は蛙の頭部がやや尖り、後部が角張っているから、この字が出来たのかなと想像した。それから不思議な事に「蛙」だけ「ア」、そして「佳」は「カ」と訓じ、其の他は「ケイ」だと知った。辞典を見ていたら「蛙鳴(あめい)蝉噪(せんそう)」と言う熟語があった。この意味は「蛙や蝉の鳴き騒ぐこと。転じてくだらぬ議論や文章」とあった。これまで二十日間にわたり、止めようと思っては書き継いできたこの「くだらぬ」文を、今日こそ筆を擱くこととしよう。           

そしてオクラも引き抜くことにしよう。 

こう思ってまた一夜明けて今朝六時過ぎ朝の曙光が指さない前に出てみてオクラの所へ行ってみると、驚きまた嬉しいことに、親蛙だけ一匹葉の上に座っていた。これを見てまだオクラだけはそのままにしておこうと思った。                     

 

最後に蛇足ながら付け加えると、私が何故指の先にも乗るような小さな蛙に興味を抱いたかと考えて見ると、蛙以外に普通目にする生き物は蟻や蝶や雀や烏や小魚にしても、絶えずそわそわ、ばたばた、がさがさ、ひらひら、とせわしなく動き回っている。衣服を脱げば裸身で「蛮」と言われる人間は、外の生き物たちのこうした動きに加えて、くよくよと悔やんだり、かっかと怒ったり、それかと思うとめそめそと泣いたりして、彼ら以上に行動においても心中にあっても落ち着きがないのではなかろうか。それに反して、このとるにも足りないような蛙が終始、泰然自若、無念無想の態度を保持しているのに、何だか教えられるような気がしたからである。

 もう一つ付け加えて言えば、あれほどの漢字文化を創った過去の中国つまり支那は凄い。私が漱石を好むのは、彼が我が国の文学、漢文学、そして英文学に誰よりも精通して、それ等を駆使して居ると言われているからである。

    

令和二年十月二十一日 記す 

私の散歩道

 

大橋良介著『西田幾多郎』(ミネルヴァ書房)を読んでいたらこんな文章があった。

 

「散歩」は誰でもする平凡な行動である。いちおう、そう言えるであろう。しかし、そう自明的にいつでもできる行動ではない。たとえば生まれて、呼吸して、死ぬことは、生を享けた者なら誰もがくぐる共通の生命現象であるが、立って「歩く」となると、すぐに誰もが享受できるものとは言えなくなる。病や怪我や老齢で歩けない人は、世の中には沢山いる。まして、単に歩くだけでなく「散歩」するとなると、すでに希少価値すらある。たとえば、健康であっても生活に追われている人には、散歩の暇は無い。そしてまた、そもそも散歩するのに適した道があることも、不可欠の条件だ。社会や国家の情勢の安定という、平和時にはあまり意識しない基本条件もある。治安が悪くて外に出られないという地域は、日本では珍しいだろうが、世界各地ではむしろそのほうが当たり前という地域が、いくらでもある。 

 

 わたしはこれを読んで「目から鱗」といった感じを受けた。わたしはこれまで萩においても山口に来ても、至極当たり前のように散歩を楽しんでいたからである。たしかに散歩の出来る条件としてここにあげてあるものが一つでも欠けたら散歩は不可能である。これを思うとわたしはこれまで自由に散歩が出来てつくづく有難いと思った。妻が亡くなった後、我々が結婚したことについて考えてみた。男女二人が結婚できるには、これまた多くの条件をクリアーしなければならない。散歩に限らず、世の中の各種多様なことは、多かれ少なかれ幾つかの条件が調って初めて成立するものと思う。例えば大学進学にしても、本人の学力はもとより、健康状態、さらに家庭の経済状態。こういったことは考慮すべき必須の条件だろう。結婚となると当事者たちに関する多くの条件だけでなく、両家が関係するから一段と複雑になる。

以上の事を考えると、残り少ないわたしの平凡な人生も、恵まれていたと言えるだろう。「無事是貴人」という言葉がある。こうして一人暮らしにはなったが、老後になって散歩が出来るとは有難い。そう思い、あらためて感謝の気持ちで、わたしの散歩について少し書いてみようと思った。

 

大橋氏は西田の「散歩」について、最後にこう書いている。

 

  西田において昭和六年(一九三一)の秋から一八年(一九四三)の秋まで、散歩ができるような安寧がいちおうあった、ということである。琴(注:西田が昭和六年に再婚した人)と一緒の生活が、その安らぎの基盤だった。西田の散歩道のひとつは。いま「哲学の道」として、京都の銀閣寺から岡崎までつづいている。「散歩のある日々」は、いま、どれほどの我々の生活に残っているだろうか。これは現在の我々が自分に尋ねてもよい問いである。

 

昭和五十七年五月一日に父が亡くなった後、わたしは日曜日になると、萩の浜崎にある我が家の近くの住吉神社の境内を抜けて、日本海に向かって立っている鳥居の所の石段を降りて波打ち際まで行き、そこから女台場の松原までの砂浜をよく散歩した。そこの砂浜は子供時代の遊び場だった。  

夏の太陽がぎらぎらと照りつける真昼時、素足で熱い砂浜を駆けながら、途中広い砂浜に筵を敷き、その上に拡げて陽に乾かしてある煎り子を一寸摘まんで食べたりしたこともある。泳ぐことが出来ない季節にはその砂浜で、草野球ならぬ砂浜野球を楽しんだ。

さて、初夏の朝の散歩は、爽やかな空気と清新な気が漂う中を、打ち寄せる波の音を聞きながらゆっくり歩いた。名も知らぬ小鳥が小さな蟹の穴をつついているのを見かけた。盆を過ぎた頃になると、夕陽が西の海に沈む前、指月山が暗いシルエットとなり、空が真っ赤に染まってくる。そうなると海上に金波銀波の輝く筋が幾つも生じ、それらが金粉を撒いたように美しくきらきらと燦めいて見える。これを見るだけでも気分が好かった。人影はほとんどないので、まるでこの素晴らしい光景を独り占めにしたように感じることが出来た。

このようにわたしは小さな子供の時から、この日本海を見て過ごし、その海岸の砂浜で遊ぶのを常としていた。高校に入り学校帰りにもよく海辺の道を歩いた。大学へ入るまで、海はわたしにとって不可分のものだと言っても過言ではない。だから山口に移って海がすぐ見られないのは残念に思っている。 

波打ち際を三百メートルばかり歩いて、女台場の碑のある松林の所から街中に入り、先祖の眠る菩提寺に詣って帰るのがいつもの散歩コースだった。しかし父がまだ生きているうちから、わたしたちは隣家からの騒音に非常に悩まされた。父が亡くなったので、わたしと妻は浜崎に我が家があるのに家を出て、市内の城下街にある「史跡 青木周弼旧宅」に管理人として住むようになった。そこに八年間居たが、この間はあまり散歩をしなかった。八年目になって、観光客が家の中まで自由に入るようになったので、ここを出てまた我が家に帰ることになった。それから山口市に移るまでの二年ばかりの間、わたしはまた上記の散歩道をほとんど毎日歩いた。

 

平成十年(一九九八)に山口市吉敷に転居してからは、それほど決まって散歩するようなことはなかった。気が向くと夕飯前、吉敷川に沿った小道を時々散歩した。ここは蛍の名所だそうだが、夜分歩かないから一度見ただけである。しかし川沿いの桜吹雪の下や、各種草花の咲き乱れている人通り極めて少ない小道を歩くのは気持ちがよかった。

 

令和元年五月二十七日に妻が旅先で急逝し、葬儀も済ませたので近くを少し歩いてみる気になった。平成十年九月に山口市吉敷の今居る所に萩を出て家を建てた時には、周辺には田圃がかなり残っていて、田園地帯と言った感じがしていた。

それか数年後に我が家の前に立派な自動車道路ができ、引き続いてスーパーが誕生した。これはわれわれにとっては有難かった。そのスーパーの横の道路を隔てて四階建ての「県職員住宅」が三棟並行してあったが、次第に古くなり住居希望が減ったのであろう、その内の二棟が解体撤去された。その後整地され、今度は個人住宅用として売りに出された。それが令和元年九月である。まだ四ヶ月しか経たないのに十数軒の家が目下新築中である。坪単価が十五、六万円と標示されていた。我が家を建てた時よりは十万円も安くなっている。

こうした新築家屋を見るに、樹木を植えている家は今のところ一軒だけである。どの家も家屋と車庫だけが確保された狭いスペースである。こうした家を建てる年代は皆三十代から四十代の共稼ぎが多いのだろう。小学生が一人か二人居るかも知れないが、これから二十数年経てば子供は独立して皆家を離れる。その頃になると家の外壁を塗り替えなければならない。だんだんと年を取り、夫婦だけが残り終には老人となる。これが現代の日本の姿である。我が家の周辺ではここだけでなく、スーパーの反対側にもあった田圃を潰して、今や二十数軒の新しい家ができているし、建築中の家もある。その意味に於いては活気があるが、数十年後はどうなるだろうか。これが日本各地の田舎では深刻な状態で、廃屋ばかりになった地域もある。

もう一つ私が感じた事は前にもちょっと言及したが、どの家にも自然の緑がない。都会のマンション暮らしもそうであろう。以前は多くの家にはささやかながら庭と菜園があった。「家庭」とは文字通り「家と庭」から成り立つ。日本人は本来自然に囲まれ、自然に育まれ、そして自然を愛でて一生を過ごしてきたのだが、今や金・金・金のもうけ主義と、便利とスピードのみを競いそして追う生き方に代わってしまったような気がする。「家庭」は「家車」となった。こうした生活を維持するために若い夫婦は共に働き、またそれができない者は独身生活を余儀なくされ、そして停年を迎えるのではなかろうか。人の世は一生である。この二度とない人生をせめて退職後は、多少不便で生活のテンポは遅くとも、大自然を味わうべくゆったりとした気持ちになりたいものだと切に思うのである。

現代社会は科学とテクノロジーによって突き動かされ、人間性が失われようとしている。山川草木の「自然」と一体になるという言葉があるが、庭に咲く一本の花に目を留める余裕がないのかも知れない。だから西洋の若者が禅に関心を抱いている、といった趣旨のことを大橋良介氏は書いていた。 (『日本的なもの、ヨーロッパ的なもの』)(新潮撰書)

 

つまらん愚見を述べたが、このスーパーの横を、真っ直ぐに五百メートルばかり行った所に六地蔵がある。この六地蔵は小高い丘の麓にある。「天保六年四月吉日」と台石に彫ってあった。そのすぐ側に「所郁太郎墓」と書いて矢印のある標識が立っている。そこから左の方へ小さな道を八十メートルばかり行くと別の六地蔵がある。ここにも同じ標識がある。最初の六地蔵の存在は承知していたが、後で知ったこちらの六地蔵も、安置された年月日は同じではないかと思う。本尊ならびにこれを中心とした周辺の小さな六体の仏の像が全く同じに見えるから。

この二箇所の六地蔵は丘の麓、道の直ぐ側にあるが、両方の六地蔵の所から、丘の斜面を登っていける石段が設置してある。しかし丘の一番高い場所には石段はなくて、非常に細い道が通じているだけである。実はこの丘の東側の斜面は墓地になっているから、こうした歩くに便利な石段があるのだ。古い自然石の墓や、かなり広い区画の墓所御影石の立派な墓などが、雑然と並んでいる。こうした新旧様々な墓が数百基もあるだろうが、その中の一つの墓への案内の標識が数カ所立っている。それは先に述べた「所郁太郎墓」と書かれた標識である。わたしはこれまで数回、「所郁太郎墓」へ行ってみたが、今回カメラで墓の後にある掲示板を写真に撮った。それには次のように書いてあった。

     

所郁太郎

  天保九年美濃国岐阜県)に生まれ、本姓矢橋氏、所伊織の養子となって所氏を嗣ぎ、

後大阪に出て緖方洪庵に医学を学び、京都に出て医院を開業した。

この時代に長州藩の青年志士と交遊して尊皇開国を唱え、文久三年七卿とともに長州に逃れ、吉敷新町に住んで医院を開き、元治元年九月井上候が袖解橋に襲われたときこれを手術したことは有名である。

翌元治元年正月高杉晋作等の挙兵に呼応して遊撃隊参謀として大田、絵堂に俗論派と戦ってこれを破り、再び新町に駐屯していたとき腸チフスにかかり、その三月十二日没した。 行年二十八歳。 

 明治三十一年追贈従四位

昭和四十年三月十二日   吉敷自治

 

わたしはこの掲示の内容を読んで二箇所誤りではないかと思った。一つは「井上候」の「候」は「侯」である。もう一つは、「元治元年九月」の事件が歴史的に正しければ、「翌元治元年正月」は「慶應元年」とすべきである。このように掲示が間違っていることは往々にしてあるものだ。わたしは防府天満宮菅原道真に関する掲示にも誤りを見つけて連絡したことがある。それは兎も角として、もし所郁太郎が瀕死の重傷を負った井上馨を手術しなかったら、間違いなく彼は死に、維新の歴史も少しは変わったであろう。ところが井上を助けた所郁太郎は二十八歳の若さで病死している。これを思うと、幸・不幸、人の運命の不思議を思わざるをえない。それにしても二十八歳とは若い。

 この「所郁太郎墓」まで登ると見晴らしがよくて、市街地の大半が遠望できる。澄み切った青空の下、はるか彼方の山並みに囲まれた山口市が盆地の状態であるのがよく分かる。

 

わたしはその日、六地蔵の側にある掲示も写真に撮って帰って読んでみた。こう書いてあった。

 

      六地蔵様縁起

  

お釈迦様没後、第二のお釈迦様と仰がれる弥勒菩薩様が、この世に現れるまで、五十六億七千万年の間、衆生(生き物全て)の苦悩を救済して下さるのが地蔵菩薩様(お地蔵様)です。

そして、衆生が自ら作った業(行為の結果)によって生死を繰り返す六っの世界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)に至る一切の衆生を、それぞれ救済するのがこの六地蔵様です。

お墓や辻、お寺などによく見られ、私たちに最も親しいほとけ様です。

 

                              上東自治会墓地委員会

  

わたしは妻が亡くなってからほぼ毎日、散歩かたがたこの二箇所の六地蔵を拝む事にしている。誰かがいつもきれいな花を供えている。わたしは一円玉をあげることにしている。

それにしても「五十六億七千万年」とは途方もない時間である。その時には人類は死滅しているのではなかろうか。インド人は数に関しては異常な才能があると聞いているが、一体誰がこのようなことを考えたのかと思った。

わたしはこの年数をもっと具体的に知ろうと思った。地球一周の距離が40,075キロだとすると、メートルに換算したら、40,075,000メートルになり、さらにセンチでいえば4,007,500,000となる。これは四十億七百五十万センチである。仮にもし人間が一年に1センチだけ移動するとして、地球を一周するのに要する時間である。それよりもはるかに長い距離が五十六億七千万年である。五億七千万年にはじまったといわれている生命の進化の、丁度十倍に相当する時間である。人間の生活史は僅か二万年に過ぎない。古代は約二千五百年つづき、中世は約千五百年つづき、近世は約五百年まえにはじまった。これからいうと、途方もない時間を考えたものである。わたしはあらためて五十六億七千万年という時間が途方もない長い時間だと知った。この悠久とも言える長い間、地蔵菩薩は一切の衆生を救済してくださるというのである。

 

二番目の六地蔵からは、来た道と並行した道を帰るのだが、六地蔵への路はこの他にも幾つかある。我が家の直ぐ近くのスーパーの前の自動車道路を右側へ五百メートルばかり行くと信号機の付いた十字路に差し掛かる。そこからまた右に折れて真っ直ぐに国道を横切りながら二キロ以上行けば突き当たりが山口大学である。私は反対に交差点で左に進む。そうしたら緩やかな勾配の道で五百メートルばかりの所に、湯田カントリークラブのゴルフ場がある。その前をまた左に折れて進めば六地蔵の所に達する。此の迂回路が距離にしたら一番長い。

まだ外にも道がある。我が家とこの信号機の丁度中間あたりに進行方向の左手に石の鳥居が立っている。ここは土師八幡宮への入口である。わたしは時々八幡宮を参拝する。杉や雑木に覆われた神域に囲まれた社殿まで行くには、歩数にして三百余、途中百段もの石段を登らなければならない。標高は僅か三十メートルばかりであろうか、丘の頂上に社殿があり太くて高い杉の神木が聳えている。登り口の鳥居の傍らにこの八幡宮についての説明板が立っていた。

 

  土師八幡宮

 

  祭神は天穂日命応神天皇、乃見宿禰菅原道真、息長帝姫命、田心姫命湍津姫命市杵島姫命で古くは土師宮といい天穂日命、乃見宿禰菅原道真の三神のみであったが、慶長年間に福原広俊がこの地の領主となり、元和七年(一六二一、一説には元和元年ともいう)安芸国高田郡福原村にあった内部八幡宮を移して合祀し、社号を土師八幡宮と改めて氏神とした。

私見。土師(はじ)という社命から考えると、この八幡宮は古い時代にこの附近に住んでいた「土師部」が、その氏神として祀ったものであろう。土師部とは土器をつくる職人のことで、これがのちには性となり、地名になったものである。この附近ではごく最近まで陶業が行われていて附近の山麓には陶土があって土師部が住んでいたものであろう。                 「良城小学校百年史より抜萃」

 

前記のように、平成十年にわれわれは萩から転居したのだが、家を建てようと選定した地所は、その時山口市が発掘調査をしていた。弥生式土器が沢山見つかったということだった。調査を終えて埋め直して宅地造成したのだが、このあたりは土器を作る人、つまり土師部が住んでいて人家も集中していたのであろう。

この掲示板にも二つの誤記があった。「社命」は「社名」であり、「性となり」は「姓となり」である。

 

神社を参拝した後、今度はその裏側から降りる道があるのでその道を行くと、先に述べた交差点からゴルフ場への道と合流する。

以上三通りの道の外にもう一つ六地蔵への道がある。これは家を出て反対側へスーパーの前を左の方へやはり五百メートルばかり進むのである。そこで道路を横断して右に折れたら細い流に沿った脇道がある。この小道を行けばすぐ田圃が見えてくる。此の田圃を見ながら行けば目的の六地蔵へ達する。田圃と言っても最近はどんどん田畑が潰されて新しい家が建っているのであるが、わたしはまだ田圃が僅かに残っているこの道を通るのが一番好きである。以上大きく分けて四つの道を適当に選びながら、健康と気分転換を兼ねて毎日歩いているのである。

 

漱石の『心』を先日久し振りに書架から出して読んでみたら、次の文章に思わず惹かれた。

 「今度御墓参りに入らっしゃる時に御伴をしても宜(よ)ござんすか。私は先生と一所に其所いらが散歩して見たい」

  「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」

  「然し序(つい)でに散歩をなすったら丁度ど好いじゃありませんか」

 先生は何とも答えなかった。しばらくしてから、「私のは本當の墓参り丈なんだから」と云って、何處迄も墓参と散歩を切り離さうとする風に見えた。私と行きたくない口實だか何だか、私には其時の先生が、如何にも子供らしくて變に思はれた。私はなほと先へ出る氣になった。

  「ぢゃ御墓参りでも好いから一所に伴(つ)れて行って下さい。私も御墓参りをしますから」實際私には墓参と散歩との區別が殆ど無意味のやうに思はれたのである。すると先生の眉がちょっと曇った。眼のうちに異様の光が出た。それは迷惑とも嫌悪とも畏怖とも片付けられない微かな不安らしいものであった。私は忽ち雜司ヶ谷で「先生」と呼び掛けた時の記憶を強く思ひ起した。二つの表情は全く同じだったのである。

  「私は」と先生が云った。「私はあなたに話す事のできないある理由があって、他(ひと)と一所にあすこへ墓参りには行きたくないのです。自分の妻(さい)さへまだ伴れて行った事がないのです」    (昭和四十一年発行の『漱石全集 第六巻 心 道草』より)

 

 「墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃない」との「先生」の言葉を読んで、私の場合は、毎日六地蔵まで散歩するのは、お参りと散歩の軽重は五分五分だと思った。地蔵菩薩に「一切の衆生の救済」をお願いするのと、自分の健康保持の目的を兼ねている。しかしもし妻の墓がそこにあれば、私は「先生」と同じ気持ちで散歩して墓参をするだろう。

  

先日久し振りに何か読むような本はなかろうかと、山口大学前の「文栄堂」という書店へ行ったら、高楠順次郎の『釈尊の生涯』(ちくま学芸文庫)が目に入ったので買って帰り読んでいたら、「経行」の説明に「散歩」という字が宛てられていた。そこで中村元著『仏教語大辞典』を見てみたら次のように説明してあった。

 

【經行】 きんひん」禅門では「きようぎょう」とはよまない。①仏道修行のこと。②坐禅中、足の疲れを休めるため、またときには睡眠を防ぐために、途中で立ってゆっくり堂中を歩くこと。狭い同じ場所を散歩すること。あたりを静かに歩く。そぞろ歩き。一定の場所を往き来すること。

 

散歩が「仏道修行」でもあると思うと、これまた「散歩」も一段と意味があるものとなってくる。

六地蔵からの帰り道について書くと、その途中にまた違った標識がある。以前わたしは何があるかと思い、帰りの道を逸れて緩やかな坂道を五十メートルばかり上ってみた。驚いたことに、また六地蔵があり、さらにその少し奥に立派な石の仏像が立っているのが目に入った。手前の六地蔵は先に述べたのと全く同じようだが、歩を進めて奥まった所へ行ってみたら、凡そ百基ほどの自然石からなる無縁墓が集められてあり、その前面に先ほどと同じような小さな六地蔵が並んでいた。

わたしは不思議に思った。この地で昔何かあって多くの人が亡くなり、その後生を弔うためにこの狭い地域に、わたしの家からそれぞれ五百メートルばかりの所に、四箇所も六地蔵が安置されているとは。人の死を弔う篤い信仰の表れだろう。こうした六地蔵に守られているこの地区は有難い場所かも知れないとも思った。

ところがまだある。この一番奥の六地蔵の右横に小さな板囲いのお堂があり、そのなかに墓石が見えた。ここにも掲示板があって、小さい文字でびっしり説明してあったので、これも写真に撮って帰って読んでみた。そういえば道端のこの場所への入口に「いちじいさまの墓」の標識が立っていた。長い説明文である。

 

       いちじいさまの墓

       ~痔を治す仏~

  

お墓に納められているのは、嘉永四年(一八五一)十一月十六日に亡くなった芾右エ門(いちうえもん)というお坊さんのお墓です。その証拠に、石には、俗名の芾右エ門、死亡年月日とともに「釈浄真法師」(しゃくじょうしんほっし)と刻まれています。「釈」は亡くなるとお釈迦様の弟子になるということ、「浄真」は法名、「法師」はお坊さんやお寺に仕える人のことを意味します。

  昔からの言い伝えによると、芾右エ門というお坊さんが、通りすがりに、痔の痛みに苦しみながら田畑で働く人たちに出会い、念仏を唱えたところ不思議なことに痛みが治りました。みんなは大変喜んで、お坊さんの大好きなお酒をお礼として差し上げました。そして、やがて、お坊さんのことを親しみと敬愛の気持ちを込めて「いちじいさま」と呼び始め、亡くなると、お墓を建て、お酒を供えるようになったそうです。

その後、だれかれとなく、「お墓にお酒を供えてお願いしたら痔が治る。治ったら、お酒を持ってお礼に行くそ」と言い始め、この話が広まると、痔で苦しむ人たちが、花や線香とともにお酒持参でお参りに訪れるようになりました。昔は、お酒を入れた竹筒を墓石の傍らの木にぶら下げていましたが、今は、瓶入りのお酒がほとんどです。平成二十五年七月のお堂再建に当たり、周辺を整備したところ、おびただしい数の酒瓶が出てきました。単なる噂ではなく、本当に「ご利益」がある証拠でしょうか。実話もいっぱい残っています。いつごろのものか定かではありませんが、この墓地への登り口左手には、「是ヨリ二十間」「じをなおす仏」(一間は約一八二センチメートル)、また、お堂の右手近くには、「是ヨリ左上」「発起人 湯田 奥原吉太郎」と刻まれている道標が立っています。

 

お願い

  「いちじいさまの墓」にお参りして、痔が治った方の体験談を募集しています。実名、匿名のどちらでもかまいません。備え付けの郵便受けに入れてください。

                          上東自治会 墓地委員会

 

ついでの散歩の途中で見つけた物について書こう。この散歩道の傍らに「庚申塔」が二つあるのを知った。それぞれ一キロくらい離れて立って居るが、大体同じような恰好の自然石に「庚申塔」と彫ってあるのがはっきり読める。建てられた年月日は苔むしてはhaは判読し難かったが「安永二年」と彫られているようであった。家に帰って調べたら、この年は1773年で「諸国疫病流行」とあった。なお、「庚申」の年は元文五年(1740)と寛政十二年(1800)である。さらにその次の庚申の年は、万延元年(1860)で、この年には「桜田門外の変」が起きている。

私はまたネットで調べてみて初めて「庚申」の意味を知った。「庚申」は干支(えと)で甲子(きのえね)、乙丑(きのとうし)など六十種の組み合わせの五十七番目に来るのだが、その日に関するものとして次のような記述があった。

 

庚申塚(こうしんづか)は、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた塚で、庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多いそうです。 庚申講とは、人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)という虫が、庚申の日の夜、寝ている間に神様にその人間の悪事を報告するので、それを避けるために庚申の日の夜は夜通し眠らないで神様や猿田彦青面金剛を祀り、勧行をしたり宴会をしたりする風習があったとのことです。(以下略)

 

散歩の功徳はぶらぶらと歩きながら、道ばたの草花を見たり、青田から黄金色に変わる稲穂に目を楽しましたり、鳥の声を聞いたり、雲の流れ、その変わりゆく姿を見て楽しむ以外に、漫然と色々な事を考えることでもある。時には学校帰りの小学生にも会う。

今日も昼前に散歩道で、可愛い小学生の男の子が二人向こうからやって来たので、「もう学校が終わったの?」と訊いたら、「はい、今日で学校は終わりました」と明るく元気に一人が答えた。そういえば今日は十二月二四日、明日から冬休みに入るのだ。私が萩市立明倫小学校に入ったのは、昭和十三年であったから、もう八十年近い年月が流れたことになる。そんなことを思いながら家路についた。

 

最後に一言。妻とわたしが萩からここに移った時、萩高校の教え子が、このあたりは「風水学」の見地か言うと中々良いところです、と云った。平成十年にこちらに来てから早や二十一年の年月が過ぎた。前にも書いたように、その時は周辺にまだ田圃が多く残っていて、雨期になれば蛙の鳴き声が喧しかった。しかし機械音とは全く違う。すこしも気にはならなかった。その時に比べると、今は住宅が多く建ってすっかり様変わりした。しかし静かな環境に変わりはない。町内の人も皆いい人である。

騒音問題という多大の苦痛、特に妻は一時神経に異常をきたすほどであった。しかしそれだけでは移転は出来なかったと思う。ここに神仏の御加護という絶対的な他力が働いて初めて可能になったとわたしは信じている。妻もよくそう言っていた。人生においては大きな転機を迎えるには、何らかの犠牲を伴うものだということをわれわれは経験した。妻もこちらに来て、最後の二十年を平穏に送ることができ、本当によかったと思ったのではなかろうか。これも我々にもたらされた運命だと言えよう。わたしに残された余命はもう知れている。その間この環境で少しでも長く散歩を楽しめたらと思うのである。

            

               令和元年十二月二十四日 擱筆。 

朝起きて

 

昨晩は早くも八時半に眠気を催した。風呂から上がってマッサージ器具に掛かっていたら、ついうとうとしたので、これはいけないと思ったので、まだ九時前だったが床を敷いて横になった。それからすぐ寝入ったのか、今朝眼が醒めたのは丁度三時だった。トイレに行きまた床に入ったがもう眠れないので思いきって起きた。

三時十五分になっていた。洗顔の後、愈々今日から漱石全集の第九巻『文学論』を

読むことにした。この本は此れまでに三回ほど開いている。今年四月にも読んで、文末に次のように記している。

 

「令和二年四月二十五日読了(六時五分) 丁度一ヶ月かかった。再読すればもっと理解できようが時間なし。一応読んで良かったと思う」

 

この『文学論』を最初から最後まで読み通して、完全に理解できて楽しかったという人は少ない、と云った趣旨のことをある英文学者が言っていた。しかし彼はこの作品の校注をし終えて楽しかったと書いている。  (『文学論』宮崎孝一校注 講談社学術文庫

漱石がこれを最初に上梓したときは、「注解」つまりも引用した英文に日本語訳を付けていなかった。この事を思うと漱石の文章を理解した人は、かなり英語の読める人だったろう。私は此の最初の版を読んで早々にお手上げだった。その後昭和四十一年に岩波書店から出た「注解」のあるのを読み、また上記の講談社版も併せ読んだ。しかしやはり楽しく読んだとはとても言えなかった。だが、この本の「序」だけは多くの人が言及していて有名である。私は昔大学を出て始めて「序」の中に書かれている次の言葉を読んだとき、漱石の学問に対する真摯な態度を知った。この「序」はかなり長いもので、始めから終わりまで、読む人の心を打つ名文だと思う。その中の次の一節は特に有名である。

 

「春秋は十を連ねて吾前にあり。學ぶに餘暇なしとは云はず。學んで徹せざるを恨みとするのみ」

もう一節こういった文章もある。

「留学中に余が蒐めたるノートは蠅頭(ようとう)の細字にて五六寸の高さに達したり。余は此のノートを唯一の財産として帰朝したり」

 

彼はこのノートを基に東大で講義をしたのである。私は漱石が好きだから、これまで小説類は全て読んではいるが、全作品を読んではいない。そこで此の度は彼の日記やメモや書翰など全てが収まっている漱石全集・全十六巻を読もうと思ったのである。そう思って今年六月二十八日に第一巻『吾輩は猫である』を読み終え、続いて順次に読んで第八巻の『小品集』を先月末に丁度読み終えた。以上の作品の中では『思ひ出す事など』が一番心に残った。やはり私自身が歳を取り、死ということを真面目に考えるようになった為かと思う。特にこの中に載っている漱石自作の漢詩がよかった。例えばこんなのがある。

 

 独り坐して啼鳥を聴き

 門を関(とざ)して世嘩(せいか)を謝す

 南窓 一事無く

 閑に写す 水仙

 

今云ったようにこれまでは、いわゆる小説や随筆と云ったものだから割と読み易く思ったが、この『文学論』は中々歯が立たない。峨々たる山岳に挑戦するようで、ただ難しくて骨が折れたと云った感じしか持たなかった。山巓(さんてん)に辿りつき、そこに立って登り来た道を振り返り、また四囲の風景を俯瞰したり、広々とした蒼空を仰ぎ見るといった爽快感はなかった。要するに私には難しかったと云うことだ。しかしこれで正確には三度目だから、今度は少しは理解できて面白く読めるようになれたらと思っている。老いてテレビだけ漫然と見ていたのでは早く惚けるというから、その意味でも何とか挑戦しようと思ったのである。

 

今朝起きて「序」だけ読むのに一時間半掛かった。私は同じ本だけ読み通すということが出来ない。いくら面白いと思っても、二時間ばかり読んだら気分転換に別の本を読む。だから机には各種の本が積まれている。この夏過ぎに「オクラと蛙」という駄文を書いたが、その中に出てくる蛙には感心した。蛙はオクラの破れ葉の上にちょこんと坐って殆ど一日中動かない。それに比べたら吾が身を省みると恥ずかしい。それにもう一つ、最近血圧が高くなったので、あまり無理をしないようにしていることもある。

まあそう言った訳で、一休みしようと思い、ポットに水を注ぎ、沸かして抹茶を点(た)て、温泉津(ゆのつ)の温泉宿で売っていた「蕎麦饅頭」で一服した。こうして一休みして次に取り上げたのは、長與善郎著『竹澤先生と云ふ人』である。

 

私がこの本を読もうと思ったのは、先に述べた『思ひ出す事など』の中に出てくる長與胃腸病院の院長に、漱石が大変世話になったと書いてあった事に関連する。院長の長與称吉氏は、適塾福沢諭吉の後を嗣いで塾長になった長與専斎の長男で、善郎は五男の末子である。三男の又郎は医学博士で東大の学長になっている。錚錚たる家柄である。私は善郎が里見弴や武者小路実篤たちと仲がよく、優れた作家であることだけを知っていた。そこで、どんな作品を書いているかと思い、講談社の『日本文学全集』の中から「里見弴・長與善郎集」を書架から取りだし、多くの作品の中でこの『竹澤先生と云ふ人』が代表作と云われていたので読むことにした。まだ三分の一も読んでいないがやや哲学的で真面目な内容で結構面白く読むことが出来た。

 

漱石が『三四郎』を書いたのが明治四十一年(一九〇八)だから四十一歳の時である。長與氏がこの本を書いたのが大正十四年(一九二五)で三十八歳の時である。何故二人の作品をここに取り上げたかというと、『三四郎』には広田という先生が出て来るし、こちらにはただ先生とだけあるが、いずれの先生も、その言動が私には興味を覚える面があるように思えるからである。それにしても漱石も善郎も四十歳前後でこのような作品を書いているから驚く。

ついでに言うと、私は先月末、二人の友人と三人で島根県の旅をした。平均年齢は八十五歳を超している。一番若いと言っても、八十四歳の友人が軽自動車を運転してくれた。幸い同県はコロナ感染がないので安心して行けたが、それでも何処へ行っても細心の用心がなされていた。三瓶山や石見銀山、それから温泉津温泉などを廻(めぐ)った。同行の一人が毛利藩の事に特別詳しいので、毛利元就の長男の毛利隆元の墓、毛利と尼子の熾烈な戦いの跡、あるいは元就の身代わりとして戦った「七騎落ち」と言われる曲がりくねった狭い道などを実地に見学した。毛利と尼子は山吹城と大森銀山を支配できれば天下を手にすることが出来るということで、幾度も激戦を展開したと初めて知った。

そういうこともあって帰宅後、小学館発刊の『人物日本の歴史』の中の「戦国の群雄」で毛利元就の伝記を読んだ。元就の生涯は戦いに次ぐ戦いで、権謀術数、七十五歳まで生きているのには驚く。ついでに同じ全集の中の「鎌倉の群英」の中にある北条時頼も読んで見た。時頼は弱冠二十歳で第五代執権になり、鎌倉幕府を安定させ、三十歳で隠退出家し、三十八歳で亡くなっている。此れより凄いのは、時頼の子北条時宗が父の後を嗣いで執権になったが十七歳の時である。それから十三年後の弘安四年(一二八一)の再度の元の襲来に、日本の軍勢のトップとして立ち向かい、見事元軍を撃滅したときは三十一歳の若さであった。そして彼は心労のためか三十三歳の若さで亡くなっている。

時頼は鎌倉に建長寺を建て、時宗は宋から無学祖元を招いて円覚寺の開山としているが、いずれも今から考えたら、若くして日本のために身命を賭し、日本を救った偉大な人物である。

これを思うと当時の日本人、特に鎌倉武士は実に立派である。三十歳と云えば今は大学を出て数年経ったばかりの年齢である。とても日本を背負い日本国民の為に命を投げ出すと云うことは考えられない。このような現状において、僅かに救いになる記事がネットに出ていた。それはイージス艦の艦長に女性の自衛官が始めてなったこと、またF-15戦闘機に女性初のパイロットがでたというニュースである。今は男女同権、金儲けにのみ目を向けている多くの国民の中にあって、こうした人物がいるということは、我が国にもちょっと希望がもてるような気がした。

                         2020・12・3  記す

天人五衰

 長編小説や固い本を読む気にならないので、久し振りに漱石の『永日小品』を書棚から取り出して読むことにした。昔読んで大筋を覚えているのもあるが、初めて目にするものもある。筋だけ追ったのでは読んだという事にはならないと思って、今回は一語一語に多少なりとも気を配って読もうと思った。いとも簡単な気持ちで書いたと思える文章でも、わたしの知らない言葉や事項が出てくるので、語注を見たり、それでも分からないのはネットで調べたりした。この『小品』の最初にあるのは「元日」という文章である。

 

漱石が雑煮を食べて書斎に引き取っていたら、しばらくして若い弟子が三四人やって来る。その内の一人がフロックを着ていて他の者がひやかす。このフロックを着た男の外の連中は皆普段着である。元旦に先生の家に挨拶に行くのに普段着はどうかと思う。漱石は気にはしていない振りをしているが、内心礼儀知らずの弟子共だと思っていたのではなかろうか。だからまた服装の事を書いている。かれらが屠蘇を飲みお膳のものをつついているところへ、今度は黒の羽織に黒の紋付きを着た高浜虚子が現れる。そして虚子は「一つ謡ひませんか」と言い出す。漱石は「謡って宜う御座んす」といっていよいよ「二人して東北(とうぼく)と云ふものを謡った」。

それから続いて「羽衣の曲(くせ)を謡ひ出した。春霞たなびきにけりと半行程来るうちに、どうも出が好くなかったと後悔し始めた。」とある。

虚子の気合いの入った掛け声や鼓を打つ音に圧倒されて漱石は調子がでず、その内聞いていた連中がくすくすと笑い出したと自己を茶化すように書いている。しかしこれより前に「東北」を謡い終えたときも、皆が申し合わせたように不味(まず)いと云い出した。すると漱石は「此連中は元来謡のうの字も心得のないもの共である。だから虚子と自分の優劣はとても分からないだろうと思っていた。」と、やせ我慢というか自己弁護しているのが漱石らしい。

 

わたしも「謡のうの字も心得がない」。したがって「羽衣」については天人と漁夫の話だということだけは知っているが、「東北」に至っては第一「とうぼく」と読むことすら知らなかった。また「曲(くせ)」も分からないからネットでみると、「能の構成部分の一つ。曲舞の節を取り入れた長文の謡で、一曲の中心とされ、叙事的な内容が拍子に乗せて地謡によって謡われる」とあった。

そのときふと思い出したのは、萩から山口に転居したとき、我が家に昔からあったと思われる数少ない蔵書の中に謡の本があった。探してみたら見つかった。全部で二十七冊あった。

全て和綴じの薄い本で出版の年月日がまちまちである。不思議な事に「羽衣」と「東北」だけはいずれも二冊あった。一つは初版が寛政十一年三月であって著作者は宝生太夫で、明治三十四年八月に改定四版とあって相続者校訂者として宝生九郎の名前であった。もう一冊は大正九年十月印刷で昭和二年第九版発行。訂正著作者は二四世観世元滋とあった。これで見ると我が家の祖先の誰かがこうした事に興味を持っていたのだろう。

 

さて、此の謡の本の「東北」と「羽衣」を読んでみようと思って開けたところが、古い版は容易に読めるような文字ではない。現代の活字では書かれていない。ある程度は読めるが正確には読めない。これは困ったと思い、これまた思い出したのが『古典日本文学全集』(筑摩書房)である。この全集の中の一冊『能・狂言名作集』を開いてみたら、二十作ほど選んであった。しかし肝腎の「東北」も「羽衣」もなかった。図書館へでも行ったら能の解説書はあるだろうがわざわざ行くのも大義だと思いい、試みにネットを開いてみることにした。するとやはり出ていた。このネットなるものは非常に便利であるから私はよく利用する。それにしてもよくもこれ程膨大な情報が入っているものだと感心する。

こうしてわたしはネットを参考にして、わざと読みにくい方の和綴じの本で「東北」と「羽衣」を何とか読んでみた。はたして先に引用した「羽衣」の「春霞たなびきけり」の言葉が見つかった。

 

話は逸れるが、山口県でも「防府能」と云った催しが隔年毎に防府市で開催さているようだ。家内の従弟が東京芸大出身でいつも出演していて、数年前に招待券を貰って観能した事がある。彼は今も毎月数回山口市から上京して家元で稽古し、また能舞台で出演もしているというから本格的である。もうすぐ八十に手の届く年齢だから、出演の度に新しく地謡の文句を覚えることと、二時間もの長い間殆ど姿勢を崩さないで畏まっている事、更に身軽く舞を舞うのは大変だと云っていた。

ついでに彼に話を聞くと、まず芸大の試験は実技が主で、能の科目に合格した者は二名。各学年二名だから四年生まで僅か八名授業を受ける。授業内容は観世流宝生流のそれぞれ家元の先生が七名来て教えられる。鼓や舞い地唄などそれぞれの流派の先生が来られるので、生徒が休めば先生の方が多くなると云っていた。

今現在のマンモス大学でのマイクによる講義とは雲泥の差である。こうした授業を受けて卒業した彼の場合、趣味を通り越してプロだと云える。この能など日本の芸能は高尚なものだが、おいそれと誰もが容易に真似の出来るものではないとつくづく思った。

 

さて、ここでは「羽衣」について話を進めることにする。新しい方の版の最初の頁に「概説」が載っていたので書き写してみよう。

 

白(はく)龍(りよう)と云へる漁夫三保の松原にて美しき衣の松の枝に懸れるを見出し、取りて帰らんとすれば美しき女現れ、其の衣は天人の羽衣とて人間に與ふべき物に非ざれば返し給へと云ふ、白龍惜みて返さず、羽衣無くては天上に帰る事叶はずとて天人甚く悲しめるより、白龍憐れに思ひ、舞を舞ひ給はば返し申さんと云ふ、衣無くては舞う事叶はずと云ふより、返し與ふれば天人は之を身に纏ひ、東遊びの曲の数々舞ひ奏でつつ昇天せり。

 

漁夫が羽衣を持ち帰って宝にすると言って中々返さないので、天人はこれが無ければ天上に帰れないと言って見るも憐れな様子になる。そこの場面がこう書いてある。

 

せん方も涙の露のたまかづら かざしの花もしをしをと 天人の五衰も目の前に見えて浅ましや

 

 わたしは「天人の五衰」が分からないからまた辞書を引いてみた。中村元著『仏教語大辞典』に詳しく載っていた。平仮名で「ごすい」とあれば誰でも「午睡」つまり「昼寝」と思うだろうが、「五衰」となると分からないのではなかろうか。

この『大辞典』にはこう説明してある。

 

「てんにんのごすい 天上の衆生が寿命が尽きて死ぬときに示す五種の徴候をいう。これに大小の二種がある。大の五衰は⑴衣服垢穢(衣服が垢でよごれる)、⑵頭上華萎(頭上の華鬘が萎えてしまう)、⑶身体臭穢(身体がよごれて臭気を発す)、⑷腋下汗流(腋下に汗が流れる)、⑸不楽本座(自分の座席を楽しまない)、であって、この時には必ず死ぬ。」 

 

 漁夫の白龍は天人のこのような有様を見て気の毒に思い、舞いを舞ったら羽衣を返すと云うが、天人は衣が無ければ舞えないと云う。この場面での双方のやりとりが面白い。

 

「御姿を見れば餘りに御痛はしく候程に衣を返し申さうずるにて候」

「あら嬉しや此方へ給り候へ」

「暫く、承り及びたる天人の舞楽只今ここにて奏し給はば衣を返し申すべし」

「嬉しやさては天上に帰らん事をえたり」

 

天人はこう言って衣を返すように頼むが漁夫は、

 

「いやこの衣を返しなば、舞曲をなさでそのままに、天にや上がり給ふべき」

「いや疑は人間にあり。天に偽りなきものを」

「あら恥かしやさらば」

 

と云って羽衣を返し與えると天人はそれを着て数々の舞曲を舞って「天つ御空の霞にまぎれて失せにけり」で終わりになる。この時「春霞棚引きけり久方の月の桂の花や咲く」の文句がでてきた。

「疑いは人間にあり。天に偽りなきものを」という天人の言葉を聞いて「あら恥かしやさらば」と言って衣を返したこの二人のやりとりを読んで、今の日韓の関係をはじめとして、昔も今も人間世界は疑心暗鬼に渦巻いており、舌の根の乾かぬ内に前言を易々と翻すなど朝飯前だな、と思わずにはおれなかった。

 

もう一つわたしの注目を引いたことを述べてみよう。実は妻が今年五月に急死した。高校時代の仲の良い友達との集まりに、北九州の門司のホテルで食事をしながら楽しく話し合った後、シャワーを浴びようとして、浴室に這入った直後に倒れたようである。医師の診断では「大動脈解離」とあった。真夜中の電話で起こされ、息子の車で門司にある緊急病院に駆けつけた。妻は一室のベッドの上で安らかに瞑目していた。額に手を当てると実に冷たかった。体内に血が通わないとこうなるのかと実感した。

妻は生前わたしに約束してくれと次のように言っていた。

 

「葬儀の時、死んだ方の顔を見て下さいと遺族の方がよく言われますが、わたしは出来るだけ見ないようにしています。生前の面影を打ち消すような窶れた顔を見るに堪えないからですよ。だからわたしが死んだ場合は顔を決して人に見せないようにしてください」

 

わたしは妻との約束を守った。しかし棺桶に納まっていた妻は、安らかに眠るが如く美しい顔を見せていた。

葬儀を終えて暫くして、わたしは毎日夕方散歩を兼ねて近くにある「六地蔵像」を拝みに行くことにした。我が家を出て北西の方角へ四百メートルばかり行った最後の五十メートルは急勾配になっているが、その突き当たりが低い丘で、その麓に車が一台通れるだけの粗末に舗装された道がある。この小道から石段があって東南向きの斜面にある墓地に行けるようになっている。この石段を上り始めた場所に、「所郁太郎墓」と矢印のある標識が立っている。

わたしは墓地の一番上にある彼の墓まで行って見た。そこには大略次のような事が記されていた。

 

所郁太郎は岐阜県の生まれで、洪庵の下で勉強した後、京都で開業していたときに長州の志士と付き合い、「七卿の都落ち」に伴って長州に来た。その後高杉晋作の挙兵に加わり参謀として従軍したが、腸チフスにかかって病死した。享年二十八。

 

彼が長州に来ていたとき井上馨が反対派の者達に斬られて瀕死の重傷を負った。そのとき、洪庵の下で医学を学んだ所郁太郎が呼び出され、彼は焼酎で創口を消毒して疊針で縫って井上の命を取り留めたと云われている。九死に一生を得て助かった井上は、その後明治の元勲にまでなっている。人の運命は分からないものである。この「所郁太郎墓」の指標が立っている丘の麓にあるのが「六地蔵像」で、同じような地蔵像が八十メートル離れてもう一ヶ所ある。

往復で丁度一キロの距離だから、歩いて帰るとやや汗ばみ夕飯前の運動に最適である。いずれの地蔵像の傍にも「六地蔵の由来」を書いた立て札があるので読んでみた。これまたわたしにとって新知識であった。白く塗った板に次のような事が書かれてあった。

 

釈迦が亡くなって第二の釈迦と言われる弥勒菩薩が現れるまでの五百六十億七千万年の間、衆生(人間を始めとして、全ての生き物)の苦悩を救われるのが地蔵菩薩である。衆生は業により六つの世界(地獄・畜生・餓鬼・修羅・人間・天上)を経巡るが、地蔵菩薩はその苦しみを救ってくださるのである。

 

わたしはこの立て札を読んで、天上にいる天人でもまたそこを離れて輪廻転生を続けるのかなと思った。この場所への行き帰りに人に会うことはめったにない。時々子犬を連れた人が散歩しているのに出会う事があるくらいである。木々の濃き緑が美しい初夏、鶯の鳴き声が聞こえてきた時などは何とも言えない良い心地であった。今や夏も過ぎ道行く途中、住宅が多く建てられて僅かに残る田圃には、黄色く実った稲穂が頭を垂れている。彼岸も間近くなったのを知らせるかのように、赤い彼岸花が目に付きはじめた。この花も毎年この時期になると、記憶を呼び起こすかのように咲き出して、秋の風景に彩りを添えて呉れる。

この彼岸花が一斉に群れをなして咲き出すと、稲穂の黄、稲の葉の緑、そしてこの彼岸花の赤、これら三色が鮮やかに目を楽しませる。しかしこの先彼岸も過ぎ稲穂も刈り取られた後、この花だけが萎れて褐色に変化し、見るも無惨な姿になっても、何時までも落ちないで細い茎の先にしがみついている。

こうなる前に何故散らないのか。これこそまさに「天人五衰」の一つである「頭上華萎」を象徴しているのだ、とわたしは、はたと思った。

 

 

                          令和元年九月十五日 記す

 

転居の記

昭和三十九年四月、私は前任校に三カ年勤めただけで母校の萩高校に転勤した。その少し前、父が脳卒中で倒れたからである。左半身が麻痺し、ものもはっきりとは言えなくなった。一カ月ほど安静にしていたら幸いにも回復できた。発症した時たまたま家で寝ていて良かったのかもしれない。

我が家に帰って十数年経ったある日のこと、突然隣家から騒音が襲って来た。青天の霹靂の思いだった。私の住宅区域は萩市内でも海岸に近く、当時は魚市場も盛況で、町内には水産物加工などを生業(なりわい)とする家がいくつもあり、子沢山の家が多かった。純粋の民家は比較的少なかった。水産加工といえば、蒲鉾や竹輪などの加工をはじめ、いりこ干しなどを行う。昔は砂浜に莚(むしろ)を敷いて天日干しをしていたが、その後室内で大型の扇風機による乾燥に代わった。そうなると雨天であろうと夜間であろうと差し支えない。一年中扇風機を回すことができる。それに伴う騒音は経験したものではないと分からない。まさに騒音で耳をふさがれるといった感じである。風量が落とされる夜間には音こそ幾分押さえられるものの微かな振動は伝わってくる。そのため気にし出すと、容易に寝つかれなくて睡眠を妨げられた。心身ともに極度に疲れ果て、市当局に訴えても、規制内の音量なので問題なしとのこと。業者にとっては死活問題なので、結局我々は一方的不利な状況下で、泣き寝入りの状態を続けざるを得なかった。

 

私の家への門は道路に面していた。「いた」と過去形で書くのは、今は私の所有ではないからである。その門を潜って細い路地を十メートルばかり入った所に中間の門扉があった。それは普通閉めたままで、その左手にある小さなもう一つの潜り戸があった。そこから一歩中に入ると、パッと大きく開けたように芝生のある庭が眼前に広がって見えた。庭にはタブの大樹があり、四方八方に太い枝葉を伸ばし庭の一部を覆っていた。しかし今はすべての大枝が切断され、拡げた傘をしぼめた様な情けない格好になっている。

漢字の「門構」の中に「木」を書くと「閑」という字になる。私はこの字を何となく好む。「閑雅」「閑居」「静閑」という成句があり、悠々自適の境地を彷彿させるからである。曽祖父、祖父、父と三代にわたってここに住み、お茶を嗜んできたのも、この大きなタブの木の繁った閑静な環境に身を置く事が出来たからだと思う。

先に述べた中間の潜り戸を通って庭を左手に見ながらさらに十メートルばかり進むと玄関に辿りつく。こう書くと如何にも広い家屋敷のように思われるが、実際は二百坪の「うなぎの寝床」のような所である。家は明治の初期に建てられた平屋で、室内に茶室が二つあった。私はこの茶室で生まれたと聞かされている。騒音に悩まされるまでは、陶淵明の言を借りれば、「人境に在り、而も車馬の喧(かまびす)しきなし」の静かな場所であった。ついでに書くと、祖父が建てた茶室の庵号は「閑楽庵」である。

 

「人の身に止むことを得ずして営む所、第一に食ふ物、第二に着る物、第三に居る所なり。人間の大事、この三つには過ぎず。餓ゑず、寒からず、風雨に侵されずして、閑かに過ごすを楽しびとす。」

 

兼好法師はこのように言っている。私の祖父が『徒然草』を愛読していたとは思はないが、閑を楽しむ精神は持っていたと思う。

 

東萩駅から松本橋を渡り市街地の寺町まで来たら、その先に指月山が見えて、城下町萩の雰囲気を感じられる処へ連れて行ってもらえると思っていたのに、寺町を過ぎた途端に魚の臭いのする町内に入ったので、一体何処へ連れて行かれるのかと不安でたまらなかった」、と荊妻は当時を思い出してはときどき口にする。周囲が田圃の家で暮らしてきたので非常に心配したのだろう。萩といえば古都とまではいわないが、白壁に夏ミカンのある静かな佇まいの城下町を誰もが連想する。しかしこうした商業地も市中には当然ある。私の家はそういった活動的な街中にあったが、「一歩門を潜ると閑静で別世界に入った様だ」と、初めて訪れる人は異口同音に感想を漏らしていた。家内もそれでホッとしたようだ。

 

父は昭和五十七年に八十四歳で亡くなった。その前日の昼過ぎまで元気だったが、その年高校に入ったばかりの次男が学校から帰った時、縁側に倒れていたのを発見した。翌日のお茶の稽古の準備をしていたのであるが、急に具合が悪くなったのである。父はその日の夜中に急死した。長年体内に抱えていた動脈瘤が破裂したためだと思われる。

私は父が生きている間は我慢して騒音に堪えていたのであるが、とうとう腰を上げざるを得なくなった。父の死後しばらくして、ある日のこと、突然妻がほんの一時的に軽度の記憶喪失の症状を見せたのである。それまでにも急に耳が痛むという前兆はあった。一日中振動と騒音に悩まされて神経に異常をきたしたと思われる。

何時も思うのであるが、沖縄や岩国など、米軍空軍基地周辺に住む住民の悩みが如何に深刻なものかは、気持ちの上だけでは真の共感にはならない。わが身に同じような災難が降りかかって人は初めて他人の苦しみを実感するものではなかろうか。福島の原発被害が如何に深刻なものか。金銭だけでは本当の解決にはならないだろう。

しばらくの間妻は自分の姉が住んでいる滋賀県に移って養生することにした。こうなると事は深刻である。住み慣れた我が家があるのに、騒音の無い家を別に探し求めねばならない。偶々城下町の一偶にある青木周弼旧宅が見つかった。それまで住んで居られた郷土史家の田中助一先生御夫妻が、高齢のためにこの広い屋敷を出て行かれ、代わりの管理人を探しておられたので、運よく我々が入居することになったのである。父の死後、母の妹が母と一緒に住んでくれることになり、私と妻は安心して我が家を一時出ていくことが出来た。ここに転居して、我々は久しぶりに再び閑静な環境に身を置くことが出来た。

そういえば、この青木周弼の旧居へ移る二年前、従兄が、アメリカのミシガン大学で世話になったと言って、マッセイという生化学の学者夫妻を、萩見物のついでに我が家に案内したことがあった。その時ご婦人が色紙に、萩の町の面影を「土」に託した詩に書いて下さった。 

  

Little town of clay

The source of a new Japan

Quiet in its dream

 

「試訳」 土塀の小さな町       注:「clay」は元来粘土の意味だから

      新日本胎動の地         「土塀と焼物」と訳すべきかとも思う

      静かなり夢の中

 

土塀に囲まれた武家屋敷が静かに立ち並ぶ城下町。この小さな町が、維新胎動の地、新日本発祥の原点となったとは。しかし今は、過ぎ去った時代を夢見るがごとくひっそりと佇んでいる。遠くアメリカから萩を訪ねられた女史は、ふとこの様に不思議に思われたのではなかろうか。勝手な解釈を試みたが、これは韻を踏んだ良い詩だと私は思う。

 

市内には観光の名所がいくつもある。この城下町筋もその一つで、青木周弼の旧居と、先隣の木戸孝允の生家が並んでいる。私たちが管理人として入居した当時は、観光客は家の門を入った地点までで、室内へ入ることは出来なかった。

 

『図説 日本の町並み』(第一法規)に次のような記述がある。

呉服町・南古萩地区は、「萩城下町」としてその一部の約四・五ヘクタールが国の史跡に指定された。これは全国で最初の町並みとしての保存策がとられたものとして注目される。

地区全体として藩政時代の建物は三四棟あり、道路総長との比率ももっとも高い地区となっている。藩政末期に活躍した著名な人たちの家としては、青木周弼旧宅・木戸孝允旧居(江戸屋横丁)、高杉晋作旧宅(菊屋横丁)があげられる。(中略) 

武家地の特色は、比較的ゆったりとした敷地を持ち、主屋が奥まったところに建つことにある。道路からみえるのは、門と塀、そしてまれには主屋の屋根であるために,町並み景観としては、散漫で物足りない印象を与える。しかし、ともすれば住環境の悪化しがちな現代都市の中で、萩の旧武家地はまことに魅力的である。

 

「まことに魅力的な旧武家地」に移住でき、その静かなことにおいては申分のない処であった。しかし観光客として外部から覗き見るのと、実際に住むのとではかなりの隔たりがある。萩市文化財となっているこの旧宅は、安政四年に建てられているので、そこで生活を始めると色々と不便な点が出てきた。

最近建てられる文化住宅は、利便性が第一に考えられる。これに対して、昔の武家住宅は格式ばっているというか、玄関や座敷(客間)、またそこから見える庭などには十分な配慮がなされているが、家人が生活する場所としてはかなり不便であるように見受けられた。私たちは先ず昔のトイレ、つまり雪隠(せっちん)や厠(かわや)の呼称にふさわしい粗末な便所に漂う臭気に曝され、さらに糞尿の汲み取りを自分でしなければならなかった。これには相当に悩まされた。

敷島の大和心を人とはば西陽(にしび)に臭ふ雪隠の中

 

これは本居宣長の「敷島の大和心を人とはば朝日に匂ふ山桜花」のパロディである。誰が詠ったかは忘れた。今日私たちは数多くの文明の利器の恩恵に浴している。このうち一つだけを利用させてやると言われたら、私は躊躇なく水洗便所を選ぶであろう。

次は風呂である。浴場には五右衛門風呂が据えてあり、湯は電気で沸かすようにはなっていた。しかし真冬日など隙間風に曝されて随分寒い思いをした。この事も今から思えば我慢すべきものであった。さらに台所は、現代風のキッチンとはとても言えない天井の低い狭い場所であった。こうした不便をかこつことはあっても、騒音被害を免れたことを感謝して住むことにした。

道路から一段高く石段を上った処に厳めしい門があり、その両側に塀が続いている。間口四十二メートル、奥行きもほぼ同じ四十メートルもある五百坪の広い敷地内に、建物としては、門を入って右側に仲間部屋、門の正面に主屋、その主屋の北側に堂々たる土蔵が接するようにあった。室内の間取りや敷地内の様子を詳述する事は止めて、私にとってこの転居が思いがけない出会いをもたらし、有意義であったことを少し書いてみよう。

幕末、緒方洪庵と並び称された蘭学者で医師であった青木周(しゅう)弼(すけ)と彼の弟の研蔵、さらに研蔵の養子となり、名を周弼の「周」と研蔵の「蔵」を取って「周蔵」と改め、後に外交官として活躍した青木周蔵の三人が、この家屋敷に一時住んでいたことを、私はここに来て初めて知った。私たちが入る前に住んでおられた田中助一氏の本業は耳鼻咽喉科ならびに眼科の医師である。しかし先生はむしろ篤学の郷土史家として有名である。先生が書かれた『青木周弼』と『防長醫學史(全)』を拾い読みして、周弼が医者としてだけではなく、優れた人格者である事を教えられた。『醫學史』の中の「萩藩の先覚者青木周弼」という項目の「緒言」の一部を転記してみよう。

 

幕末勤皇運動の揺籃時代、萩藩には多数の人材が輩出したが、そのなかよりとくに先覚者としての大人物を指摘することになると、第一番に村田清風をあげることについては、誰も異論ないこととおもふ。それではそのつぎには何人をあげるべきであろうか、余は本邦医界の麒麟児として、藩政方面にもあまたの功績をのこした青木周弼をおしたいとおもふのである。さうして清風をかたる時には、周弼の存在を無視することが出来ず、周弼の事蹟について考へる時には、清風の絶大な後援を見のがすことが出来ない程、二人の関係は密接であったのである。

もし不幸にして藩主毛利敬親が清風と周弼との二大人物を得なかったならば、はたして萩藩の回天事業推進の基礎は、あのように立派に出来えたであろうか、さいはひ出来たとしても、それはずっとかはった形になってゐたこととおもふ。余は防長回天史をひもどくごとに、思をここにいたし無量の感慨をおぼえるのである。

 

文久二年に幕府の西洋医学所(現在の東大医学部)の頭取大槻俊斎が死んだ時、取締の伊東玄朴は外部から適当な人物を引っ張って来て頭取にしようと考えた。かれは先ず緒方洪庵に白羽の矢をたて交渉したが断られ、今度は周弼に懇望するが、かれは老齢を最大の理由として辞退し、洪庵が最適任者だとして再交渉するようにと願い、結局洪庵が受諾したことはよく知られている。私は周弼が政治の面でも大いに活躍したという事は、この本を読むまでは知らなかった。このような優れた人物が晩年を送り、最後息を引き取った家に住むむようになったことに不思議な縁を感じた。

青木周弼の弟研蔵は、晩年東京に出て明治天皇の大典医になっていたが不慮の死を遂げている。一方彼の養子となった周蔵は当初医学を志しドイツへ留学したが、医学の研究を止めて政治を学び、結局外交官となった。帰国後、山県有朋が組閣した時、彼は外務大臣として活躍して、萩へは帰ることもなかった。青木家の東京移住後、この由緒ある家が廃屋となる事を心配して、萩中学校の教師であり、また優れた郷土史家であった安藤紀一先生が買い取られ、ほとんど旧観を変えることなく保存して住んでおられたのである。

私が敢えて縁だと言ったのは、私たちがここに住むようになったことを知った伯母が、「あんたら安藤先生のお屋敷に住んでおるのか。私は父に頼まれて、先生のお宅へ何度かお伺いしたことがある。大きなお屋敷じゃろうが。」と話してくれたからである。

昭和十九年、萩中学校に入って間もない時、私はこの青木周弼の旧居の前を通った事がある。大きな門構えの家と長い土塀、その下の側溝の淀んだ青黒い溜り水。これらを目にして、人気(ひとけ)のない陰気な場所だなと思いながらも、私は忘れ難い場所として記憶にとどめていた。現在はこの道筋を観光客がひっきりなしに往来していて、全く隔世の感がある。

大正時代、父は萩中学校で安藤先生に国・漢を習い、又先生が我が家に来られて祖父と茶席で話され、お帰りの時玄関でお見送りをした、と語ったことなども、私たちが周弼の旧居に住むようになって改めて思い出した。こじつければ人と人との間、何らかの繋がりや縁が見つかるものかもしれない。

 

周弼が弟子たちを教え、あるいは治療を終えた後、寛いだと思われる書斎に私は坐り、机に両肘を乗せ、両手で顎を抱えながら、ガラス窓越しに庭を心静かによく見たものである。周弼は梅の木をこよなく愛したいたようで、広い敷地内に多くの梅の木が植栽されていた。冬から春にかけて紅白の梅が咲き、毎日何処からともなく鶯が飛んできて、美しい鳴き声を聞かせてくれた。また田中先生の奥様が丹精込めて育成されていた各種の椿も、美しく花開いて目を楽しませてくれた。私がここに来た当時、門の側に大きな杏(あんず)の木があった。薄紅色の花が咲き、実も幾つかなっていた。「杏林」といえば医者のことだが、思えばこのような恵まれた環境は、先に述べた多少の不便を相殺(そうさい)して余りあるものであった。

その頃私は森鷗外の作品をよく読んでいた。鷗外がドイツのベルリンに着いたのは明治十七年十月十一日である。彼は到着早々の十三日に青木公使を訪ねている。『獨逸日記』に彼は次の様に記載している。

 

十三日。橋本氏に導かれて、大山陸軍卿に見(まみ)えぬ。脊高く面黒くして、痘痕ある人なり。聲はいと優く、殆女子の如くなりき。この日又青木公使にも逢ひぬ。容貌魁偉にして鬚多き人なり。(中略)公使のいはく衛生学を修むるは善し。されど歸りて直ちにこれを實施せむこと、恐らくは難かるべし。足の指の間に、下駄の緒挟みて行く民に、衛生論はいらぬ事ぞ。學問とは書を讀むのみをいふにあらず。歐洲人の思想はいかに、その生活はいかに、その禮儀はいかに、これだけ善く観ば、洋行の手柄は充分ならむといはれぬ。

 

十九歳の若さで東大医学部を卒業し陸軍に入った鷗外が、抜擢されて独逸に留学し、独逸の陸軍衛生部の事を学ぼうと意気揚々とした気持ちで挨拶に行ったところが、時の独逸公使であった青木周蔵は、このようなアドバイスを鷗外にしたのである。この事があってか、鷗外は衛生学研究の傍ら、哲学書や文学書を猛烈に読んでいる。翌年の明治十八年八月十三日の日記に彼は書いている。

 

架上の洋書は已に百七十余巻の多きに至る。鎖校以来、暫時閑暇なり。手に随ひて繙(はん)閲(えつ)す。其適言ふ可からず。(中略)誰か来りて余が楽しみを分つ者ぞ。

 

鷗外はギリシャ神話をはじめとして、ダンテの神曲やフランス文学などをドイツ語訳で、またゲーテ全集などに読みふけっている。僅か一年足らずの間に、これだけの数の洋書を架上に並べた鷗外の得意満面たる様子が見てとれるようだ。これは青木公使の忠告に半ば従おうとした結果だろうか。確かに経験豊かな長者の言に重きを置き、それを実行出来た鷗外の天才ぶりを示すものではある。しかしそうした事は特別面白いとは思えない。私は、鷗外の負けん気というか、一種の皮肉を、明治四十二年の彼の作品『大発見』の中に「発見」して思わず顔を綻(ほころ)ばせた。彼はドイツ留学時代に青木公使に逢った時の会話を再現してこう書いているのである。

 

「君は何をしに来た。」

「衛生学を修めて来いといふことでござります。」

「なに衛生学だ。馬鹿なことをいひ付けたものだ。足の親指と二番目の指との間に縄を挟んで歩いてゐて、人の前で鼻糞をほじる國民に衛生も何もあるものか。學問は大概にして、ちっと歐羅巴人がどんな生活をしてゐるか、見て行くが宜しい。」

「はい。」

僕は一汗かいて引き下がった。

 

此の作品の最後のところで、鷗外は書いている。

 

僕は晝飯の辦當に、食(しょく)麺(ぱ)包(ん)砂糖を附け齧ってゐる。馬の外は電車にしか乗らないで、跡(あと)はてくてく歩いて、月給の大部分を書物にして讀んでゐる。そのお蔭で、是の如く歐洲巴人の鼻糞をほじるといふ大事實を、最も明快に、最も的確に、毫釐(ごうり)の遺憾なく、発見し得たのである。

歐洲巴の白皙人種は鼻糞をほじる。此大発見は最早何人と雖、抹殺する事は出来ないであらう。

前の伯林駐箚(ちゅうさつ)大日本帝國特命全権公使子爵S.A.閣下よ。僕は謹んで閣下に報告する。歐洲巴人も鼻糞をほじりますよ。

 

いささか脱線したので、青木周弼旧居での生活に話を戻そう。この拙文を書くに当たり、転居の正確な日時を知ろうと思って当時の日記を見ると、昭和六十二年九月九日だった。翌十日、日記に「朝、漢詩を作る」と書いている。恥さらしだが次のような詩である。

 

騒音不絶十余年       騒音絶えずして十余年

念願叶得城下町       念願叶い得たり城下町

観光雖繁唯往来       観光繁しと雖も唯往来

潜門現前別天地       門を潜れば現前す別天地

鳴禽来遊庭前枝       鳴禽来たり遊ぶ庭前の枝

今知静寂価千金       今ぞ知る静寂の価千金なるを

 

当時の心境だけは伝えている様だが、単なる言葉の羅列、漢詩と言えるものではない。今にして思えば余程嬉しく有難かったからだろう。人は苦境に立っても、時が経てばその苦しみや悩みは薄らぎ忘れ去るものだ。書いた事をすっかり忘れていた。

住んでみると、大きな百足(むかで)、蜘蛛、守宮(やもり)、羽蟻といった虫が壁や天井をしばしば這うので、家内は気味悪がった。殺すわけにもいかないのでなるべく逃がすようにした。敷地内に蛇を見かける事は殆どなかったが、蜥蜴(とかげ)は石垣の間からちょろちょろと姿を見せた。田中先生の奥さんが餌を与えられておられたのだろう、数匹の子猫を連れた野良猫が、私たちが戸外に出るとやって来た。親猫は警戒して近付こうとはしないが、子猫はすぐ慣れた。ところが捕まえようとすると怖がって逃げようとする。だが、本気で逃げはしない。子猫は木登りが好きで、物置き小屋の上に駆けあがったり、枇杷の木に登ったりして遊びまわるのでとても可愛かった。こういったことも時が経って見ると大半は忘却の彼方にある。結局私たちはここに八年ばかり御世話になったが、どうしても忘れられないことがある。

 

昭和六十五年九月二十二日の爽やかな秋の午後二時頃だった。土曜日なので私は学校から帰り、座敷で『般若心経』を低い声で読誦(どくじゅ)していた。ガラス越しに土蔵が見え、そこで三人の大工が仕事をしていた。松陰先生の銅像を製作された長嶺武四郎氏が亡くなられ、遺族が多くの石膏像を萩市に寄贈されたので、その置き場としてこの土蔵が選ばれたのである。そのことは数日前に市の係りの人が来て伝えた。ところが長年誰も入ったことがなく、固く閉ざされていたので、開けてみて損傷がひどく、直ぐには搬入できない状態だと分かった。大工たちは重みに充分耐えるように、床板をしっかりしたものにしようと思って、それを剥がしたところ二つの箱が出て来たのである。

「先生、一寸来てみてください。何かお金の様なものが出てきました」と、一人の大工が座敷へきて興奮した口調で語りかけた。私は何事かなと思い直ぐ後ついて行った。分厚い壁土できた頑丈な土蔵に入ったら、「これを見てください」と言って指差すところを見ると、一つは木箱、もう一つはブリキの函(かん)で、大きさは共に「広辞苑」程度であった。木箱はどうもなっていないが、ブリキの函を持ち上げたら、底が腐食していたので中にあった紙包みが落ち、紙が裂けて一分銀がこぼれ出たのである。まさかといった出来事だから大工が驚いたのも無理はない。私もびっくりした。私は慎重な手つきでそのブリキの函を座敷へ運んだ。木箱は大工に持って来てもらった。ずっしりと手に応える重さだった。

早速田中助一先生と市の教育長へ電話した。一分銀が四十枚ずつ和紙に包んであり、「金拾両」と楷書で墨書してあった。全部で何両あったか記憶にないが、原価にしてかなりの金額だった。しかし田中先生がお金には目もくれないで、紙包みに書いてあった文字を真剣なまなざしで見ておられ、「やはり学者は違う」と思ったことが忘れられない。この後市当局としては、屋内から発見されたので、単なる拾得物取扱いにならないので持主を探したところ、南米のペルー大使館の人質事件の時の青木大使が血を引く人だと判明し、全ての金を渡したと聞いている。周弼・研蔵兄弟が住んでいた頃、お金を預ける様な機関がないので土蔵の床下に収蔵していて、家族の外のものが知らないままに二人が亡くなったので、長い年月床下に眠っていたのだ。私としては埋蔵金発見の現場に立ち会うという面白い体験をした。なお、多数の石膏像はそれから四日後に無事搬入された。

 

「人間万事塞翁馬」の故事を引き合いに出すほどではないが、騒音に悩み我が家を去らねばならなかった時の切ない思いも、今となっては薄らいでいる。これは偏(ひとえ)に青木周弼の旧居への転居が大きな機縁と言えよう。      

二枚の皿

 まず写真を見ていただこう。左側の皿は直径十六センチの陶器で、鳥の絵と「言問」の二字が書いてある。恐らく私の祖父か曾祖父が明治の初めかそれより前に、江戸か京都で手に入れたものであろう。いずれも多少絵柄は異なるが大体同じような鳥の略画と外にこのような文字が書いてある。これは五枚揃いの中の一枚である。

一方右側の皿は直径が十一センチで、私が十数年前にワーズワスで有名なイギリス湖水地方を訪れたとき記念に買った物で、三枚とも全く同じ黄水仙の絵と詩が印刷された磁器製である。

 私はかねてよりイギリスを訪ねたいと思っていたので、幸い同行者を得たので彼と一緒に出かけた。もう十数年前になるが、「イギリスの田園地区」を周遊するバス旅行だった。ロンドンからスコットランドエジンバラ、さらにその北のネス湖まで行き、帰りはイングランド南西部にあるストンヘンジの巨石群の遺跡などを見学した。

ワーズワスの水仙の詩は高校の英語の教科書に載っていて、多くの人が知っている有名なものである。その時一緒に買った絵はがきも見て頂こう。我々一行はこの湖の畔の旅館で一泊した。二人は朝早く起きて湖畔を散策した。白鳥が数羽湖水に浮かんでいたが、遊覧船は係留されていた。爽やかな朝の静かな雰囲気だった事が記憶に残っている。

詩の訳はネットでも読むことが容易にできるが、私の手元にある訳を借用しよう。

 

             黄水仙

                ウイルヤム・ワーヅワス

 

    谷や小山の上の大空高く漂うてゐる雲の様に

    一人寂しく(山地)を徜徉してゐた時、

    忽然として私の目に入ったのは、

    湖水の岸辺に、又木の下影に咲き乱れ、

    微風に吹かれてはためき踊ってゐる

    夥しい数の黄金色の黄水仙だった。

 

    天の河に光り燦いてゐる 

    星の様に連綿として、

    その黄水仙の花は湖水の岸辺に連り咲き

    長い長い帯の様になってゐた、

    頭を上げ下げして活発に踊ってゐる

    一萬位の黄水仙の花を私は一目に見たのだった。

    その黄水仙の花の咲いてゐる側で湖水の波が踊って

ゐたけれども、

    黄水仙の愉快な様子はきらめき踊ってゐる波の及ぶ

    ところではなかった。

    かかる愉快な花の中に立ち交じって

    詩人である私は晴れやかな気持ちにならざるを得なかった、

で、私はつくづくと黄水仙の花に眺め入ったが、併し

この光景が私に貴重な印象感銘を与へたことに当時私は

思ひ至らなかった。

 

と言ふのは、私が茫然とし、又悵然として床に身を横たへる時、

その黄水仙の花は閑寂な生活をしてゐるものの喜である

あの心眼に屢々ひらめき映るのだ、

さうしてその時私の心は喜に充ち渡り、

黄水仙の花と共に踊り出すのだ。 

                       (『英詩詳釋』山宮允著)

 

この絵葉書の片面にワーズワスの妹ドロシーの『日記』の一部が抜粋してある。1802年4月15日の日付である。それを拙訳で紹介してみよう。

 

  私達がGowbarrow Parkを越えた森の中にいた時、水際近くに二三本の黄水仙を見た。私達は湖がその種を岸辺まで浮かべ寄せたのだろう、そしてその小さな群生が生じたのだと想像したーしかし水際に沿って歩むにつれ、だんだん数多く、最後は木々の大枝の下に、渚に添って長いそれらの帯が、ほぼ田舎の有料道路の幅となって在るのを見た。私はこれほど美しい黄水仙が苔むした石の間にあちらこちらと、中にはこれらの石の上に疲れて臥すように頭を横たえ、又残りのものはまるで湖の上を渡ってかれらの上に吹く風と共に心から笑うが如く、頭を持ち上げたり、よろめいたり、踊っているのを見たことがなかった。彼らは絶えずきらめき絶え間なく形を変えて非常に快活に見えた。この風が直接湖の上を渡って彼らに吹きつけたのだ。あちらこちらと、小さな群れ、又数ヤード高くなったところに、はぐれた群生も在ったが、それらは非常に僅かなので、あの一団の道路一面の幅で咲いている陽気な花。その簡素さ、統一性そして生命力を妨げるものではなかった・・・

 

ワーズワスの妹も流石詩人である。彼女はその時見た情景を散文で描写しており、兄は詩に書いたのである。

 

さて、今度は鳥の絵が描かれてある皿である。これを見て直ぐ分かる人が居られたら私はその方の見識というか、教養に頭を下げよう。

今は便利になったものである。ネットを開けば殆ど何でも教えて呉れる。しかしそのネットも「言問」だけでは出ない様だ。「言問はば」で引くと次の和歌が出た。

 

名にし負はば いざ言問はむ都鳥 わが思う人の ありやなしやと

 

 これは『古今和歌集』にある在原業平の歌である。次のような前書きがある。

 

  武蔵国下総国との中にある、隅田川のほとりに至りて、都のいと恋しうおぼえければ、しばし川のほとりに下り居て思ひやれば、限りなく遠くも来にけるかな、と思ひわびてながめるに、渡守は、「はや舟に乗れ、日暮れぬ」と言ひければ、舟に乗りて渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なくしもあらず。さる折に、白き鳥の嘴と脚と赤き、川のほとりにあそびけり。京には見えぬ鳥なりければ、みな人知らず。渡守に、「これは何鳥ぞ」と問ひければ、「これなむ都鳥」と言ひけるを聞きてよめる。

 

  これでこの歌が生まれたいきさつが分かる。参考までに訳詩は次の通り。

 

   都という名を持っているのなら、都のことを知っているだろうから、さあたずねてみよう。都鳥よ、私が恋い慕っている都の人が、無事にくらしているかどうかと。

                        (『古今和歌集』小野町照彦訳注)

在原業平(825~880)は平安初期の歌人で、才気に優れながら政治的には藤原氏に阻まれて不遇、『古今集』以下の勅撰集に多くの歌がとられ、『伊勢物語』の主人公に目されている」と『日本史事典』にあるから、彼が実際に都落ちしたのではないようだ。   

それにしても世の中の移り変わりは早く、とくに墨田川を含め東京の現状は年毎に大きく変貌しているようだ。業平が活躍していた頃から一千百五十年経つことになるが、いやいやそんな昔話ではない。

この都鳥の絵のある皿は精々百五十年ばかり前のものと思われる。その当時はまだこういった民芸品が出回っていたものと考えられる。しかし今はこのような物を店頭で見つけることはできないだろう。先にあげたワーズワスの水仙の皿のような印刷されたきれいな磁器製品ばかりだ。

私は最近次の文章を読んだのであるが、この先日本人の情緒や感性が実際は薄れて終には消滅するのではないかとさえ思うのである。あまりにも機械化と金、金の競争の世の中である。その為にごく一部の富裕層と大多数の乏しき者との格差が生じ、日本人が本来保っていた美質が失われていくように思えて仕方がない。愛宮(えのみや)真備(まきび)師の言葉が今も生きておると良いのだが。

 

日本文化の強味となっているものは確かに直感、感情、芸術です。又それらと関連をもつすべてのものである。恐らく日本民族ほど、芸術に対する素晴らしい理解を示した民族は殆どいないであろう。些細な日常の生活様式にまでもそれが認められるのである。

                (『禅―悟りへの道』愛宮真備著・池本喬訳)

 

「著者は、1898年ドイツに生まれ、旧姓フーゴー・ラサール、1948年日本に帰化して愛宮真備と改姓せられた。師は第一次世界大戦に参加して戦傷を負い、戦後イエズス会に入会、オランダ、英国のカトリック系大学で哲学と神学を専攻し、1927年司祭に叙せられ、翌々年来日、上智大学教授を勤め、また広島市郊外の長束修練院で指導の任に当たった。師は早くから日本民族の心性と文化を理解するためには禅精神の体得が必須の要件であることに気づき、また現代の不安を超克するためにも、坐禅が最良の方法であることに着目され実践されている」等と紹介されている。

 

 著者はこの本の「結び」でこう書いている。

「確かに東洋の人々は西洋文明を獲得するために自分たちの伝統的英知から遠ざかっているように、あるいは少なくともそれを放置しているように思われる。例えば,日本人は悟りを開くことよりもむしろ学問や技術の最近の進歩を習得することに専念して居る。ところが他方、西洋の人たちには東洋の英知への思慕が次第に高まってきているのである。

しかし、この相互理解、東と西が共の世界の運命を形づくるための平和的共同作業の前提条件は単に理論的なものに留まる必要はなく、われわれが互いに何かを学びとるという意味でまた実践的になって差し支えない。それによって心と心との接近が実践され、偏見をとり除くのに最も役立つのである。東西の人々が一つに結合し,相互に自己のもつ真価を分かち合って共に豊かになればなるほど、未来の人間の精神的水準はますます高まり、新しい精神文化の可能性は、ますます大きくなるであろう。精神文化は、価値評価において何といっても常に物質文化に優位に保たなければならないのである。

                  (2019・11・12)  

                 

露草

                  一

夜中の二時過ぎにトイレに行き寝床に戻ったが眠れないので、電子書籍で『私本・太平記』を読んだ。吉川英治のこの作品によって、足利尊氏と、『新・平家物語』に出てくる平清盛が、正当に評価される大きなきっかけになったと言われている。我々が戦前に小学校で受けた歴史教育では、尊氏と清盛は国賊として教えられた。
現代のいわゆる「団塊の世代」のものたちは、日教組左翼共産主義思想によって、一種の自虐思想を植え付けられているような気がしてならない。若いときに染みこんだ考えは容易には拭い去らない。物事を客観的に正当に判断すると言うことは極めて難しいと思う。人間は皆自己中心的に考えるからである。相手の立場に立って正しく考え行動することは果たして可能だろうか。人は皆多かれ少なかれ我執を持っている。だから人類は永遠に争いを止めない。特に隣り合わせた人や国とはちょっとしたことがきっかけで、意見の違いが生ずると、それが取り返しの付かないように迄発展する。ましてや当初から相手を悪く思い、偏向教育を叩き込まれたらその考えは一生変わらない。国家の基本となるものは、正しい教育を子供に授けることだとつくづく思う。
四時になったので、床を出て洗顔した後、今度は『彼岸過迄』を開いた。大した事件はないが登場人物の心理描写や会話が面白い。漱石の四十歳を過ぎたばかりの文章だが、これだけの事を書くとは、漱石の知識の深さと大きさ、又経験の豊富なのには驚く。
漱石の最後に生まれた幼子(おさなご)が突然死んだ事を踏まえて、この作品の中に書いている。余程悲しかったのだろう。朝露のはかなさを知らしめる様だった。

七時前になったのでプラ容器包装を出す日なので、大きな透明のビニール袋二つを提げて二百メート先の収集場へ持っていった。既に同じ物が山と積まれていた。マスクをした当番の女性が二人腰掛けて話して居た。私を見て軽く頭を下げたので私も挨拶した。此処まで来たので、ついでだから「六地蔵」まで朝の散歩をしようとさらに先に進んだ。道が枝分かれした所で、自動車道路を横断して1メートル幅の溝川に沿った小道を歩いていたら、朝露に濡れた草の中に、鮮やかな藍色の嫋(たお)やかな露草が二本だけ、如何にも仲良さそうに咲いているのが目に入った。小さなミッキー・マウスのような感じだ。先日栗の写真を撮った近くだったので、この花も拡大して見てみようと思って、前後を考えずに一本だけ摘み取った。しかしその後ちょっと後悔した。
「さっきのゴミの収集場で二人の女性が仲良く話して居た。この二本の可憐な露草も同じように、人間には分からないが、ひょっとしたら短い朝の一時を睦まじく語り合っていたのではなかろうか。それが無残にもあっと云う間に摘み取られ、残った露草は嘆き悲しんでいるのではなかろうか。可哀想なことをした」
こう思うと少しでも早く家に帰って、コップの水の中に入れたら元気になるだろうと思い、散歩を中断して家に帰った。そしてじっくりカメラを向けてみた。
私はこの年になって始めて「ツユクサ」の姿をよく見た。またネットで調べることによってその実態を知った。
朝咲いた花が昼にはしぼむ事から朝露を連想して「露草」というとか、青い花瓣が着色しやすいことから「ツキクサ」がなまって「ツユクサ」の命名といった説がある。英名も「day flower」言う、その日のうちにしぼむからだろう。写真に撮って拡大してみたら可憐な姿が良く分かった。ネットに載っていた説明で、仮雄しべが三本、本物の雄しべが二本、雌しべが一本あることを知った。
それにしても朝あれほど可憐で美しく見えていた花が、昼には花瓣も雌雄の蕊(しべ)も縮こまって姿を消しているのは不思議な気がした。今朝もう一度見てみたら、色さえ消えて前日の姿は想像だに出来なかった。まさに露の消えると共に萎れる草花だと実感した。

実は地面にあのまま生えていたら多少でも長持ちするのではないかと思って、夕方また朝と同じコースを歩いてみた。所がいくら探しても露草の影も形も見当たらない。再度引き返してじっくり川縁の草の中を探してみたが駄目だった。
萬葉集』に露草を歌った歌が幾つもある。その中の一首。

朝露に咲きすさびたる月草の日くだつなへに消ぬべく思ほゆ

大意「朝露に咲き盛っていた月草が、日の傾くと共にしぼむ如く、吾が命も消えそうに思われる」  (『萬葉集私注 巻十 二二八一』)

 万葉の人々は「はかなさ」と言うことに対して、現代人よりもはるかに感受性が強かったように思う。数学者の岡潔氏が「頭で学問をするものだという一般の観念に対して、私は本当は情緒が中心になっていると言いたい。・・・とりわけ情緒を養う教育は何よりも大事に考えなければならないのではないか、と思われる」と言っておられる。 
若くしてIT産業で大金を手にして、その使い道たるやまことにお粗末なのが居ると聞く。「もののあわれ」を知り、情操豊かな人間を教える教育を為政者はもっと考えるべきである。大臣にも文科省にも優れた人材が乏しいよう様に思えてならない。「出会い系バーで貧困調査」とうそぶいた、あの前川前文科次官をつい思い出す。このような厚顔無恥な高級官僚をのさばらす為に、先の戦いで若人達は国のために尊い命をなげうったのではなかろう。

   

                 二

話をもとに戻そう。夕方露草を探したが見つからないので、私は朝方途中で止めた散歩を改めてすることにした。「六地蔵」を拝んだ後、何時ものように石段を数段昇ってやや平たい所にあるレンガの仕切りを跨ぐ前に、それほど古くもない墓石が目に留まった。それを隠すが如くに「藪倒し」という蔓草が巻き付いていた。私はこの草を見る度に若い時の、我が家の橙畑でのこの蔓草と悪戦苦闘をした事を思い出す。ところが、この墓石の近くにもう一基の墓が建っていた。それには草は巻き付いていなかった。私は今日に限って何気なくその墓の側面に彫られている文字を見てみた。やや見え難(にく)かったのでカメラを提げていったので写真に撮った。帰って拡大して見たら次の様に彫ってあった。

昭和十八年七月十二日コロンバンカラ島沖夜戦
巡洋艦神通にて戦死
   原田金次次男享年二十六才

次男の文字がやや小さめに彫ってあった。私は「コロンバンカラ島」が何処にあるかと思って妻が買っていた『大きな文字 地図帳』を見てみたが見つからないので、ネットで調べたら、次のような書き出しで実に詳しく載っていた。

コロンバンカラ沖海戦又は夜戦。太平洋戦争(大東亜戦争)中の1943年7月12日にソロモン諸島コロンバンカラ島沖で発生した戦」

私はそこで大判の重い「講談社タイムズ編」の『世界全地図』を開いてじっくり見てみたら、ソロモン諸島ガダルカナル島の左上の方にやっと見つけることが出来た。実に小さい島で、たしかに「コロンバンガラ島」と載っていた。
しかしここで日米海軍による死闘というか大きな海戦が行われたのである。今から約七十七年前のことである。弱冠二十六才の若さで原田氏はこの戦いで、国のために命を捧げた。国のためとは言え、父親の金次氏は断腸の思いでこの墓石を建てたのであろう。次男とあるから子供の頃は兄弟仲睦まじく遊んでいたのではなかろうか。
私は二本の露草の事を思った。露草は朝に咲いて昼には凋む。人間の命といえども悠久の時の流れからいえば一瞬である。儚いものである。しかしその命は短くとも、自然の生命を保って、自然に死ぬのがすべての生あるものにとっての生き方であろう。しかし運命のいたずらか、こうして若くして命を奪われた人の事を思うと本当に気の毒でならない。
私の従兄も硫黄島の洞穴の中で自爆死した。戦争は絶対にあってはならない。何とか世界に本当の恒久的な平和が訪れないものか、と願って止まない。
                         2020・8・27 記す

「雜」について

「雑」と「雅」は一見したところ似ている漢字だが、その意味するところは真反対である。雅は「みやびやかなことと。趣味の高尚なこと。相手を尊敬してその人の言行や詩文につけることば」で、「俗」や「鄙」(ひなびた)に対するものとして使われる」と、辞書にある。私は「雅」に対する語として「雜」という字を考えて見た。

 

何故この「雜」という字を思いついたかと言うと、妻が亡くなる数年前から私は彼女に代わって室内の掃除をしていた。脊椎間狭窄症で痛みがひどいことが屢々あったので、階段の上り下りはもとより、直ぐ近くのスーパーへ買い物に行っても、店内ではカートを利用し、車まではカートで運べるが、我が家に帰ったら、車から荷物を下ろして家の中に運ぶのに私を呼ぶような状態だったからだ。しかし妻はそうした様子をなるべく他人には見せないようにしていた。これは一種の矜持かも知れない。弱みを見せて人の同情を借る様な真似はしたくなかったからであろう。

それは兎も角として、今朝も私は室内の掃除をした。私は10日に1度だけ室内の掃除をすることにしている。一人暮らしであまり汚れないし、掃除となると掃除機で上下階のすべての部屋をまず綺麗にし、続いて板敷きの階段や居間と台所、さらに廊下などをモップで拭き掃除する。少なくとも45分はかかるので時間が勿体ないからでもある。

今日モップの雑巾を絞っていたとき「雑巾(ぞうきん)」と「布巾(ふきん)」は同じ「拭くもの」だのにと思って、掃除を済ませて「雜」を辞書で見てみた。

【雜】(呉音はゾウ)

  • 種々のものが入りまじること。主要でないこと。
  • あらくて念入りでないこと。

 ここまで書いて歯医者への予約の時間が来たから出かけた。簡単な治療の後、歯の汚れを取ると言って歯の上下裏表を「ブーン」と雑音のする器械で擦り取る作業が始まる。私はこれが苦手である。歯茎の直近までしてくれるのは良いが、ちょっとでも歯茎に当と「痛い!」と声には出さないが、身体が「ピックッ」と思わず動く。一段階終わったとき、「ちょっと痛かった」と看護婦に言ったら「済みません、痛かったですか」と言って、つぎには慎重にしたのだろう痛みを感じなかった。

ここでも「雜」にするか丁寧に慎重にするかということで患者の反応は大違いだと思った。

治療を終えて帰るとき田圃道を歩いていたら、黄金色に輝いた稲穂を垂れて刈り入れを待っている良く実った一面の稲田がある傍らに、萎(しお)れて茎も穂も垂れ曲がり、見るも憐れな惨状が一面に広がっているのが目に入った。この名状しがたい枯渇した有様を見て、私は戦場の焼き討ち作戦の結果死屍(しし)累々(るいるい)たる状態を頭に描いた。

私がこちらに移り住んだ20年ばかり前には、我が家を取り囲むように田圃があった。年々田圃が埋め立てられて住宅地として造成され家が建てられ、今では田圃は僅かに残るだけとなった。そう言ったわけで、私は春の田植から収穫の秋までの稲作の状況をいやでも毎日見て来たが、今日の惨状は初めてである。私は萩市で稲作を行っている友人に電話して訊いてみた。

「それはウンカの為ですよ。今年はウンカの発生が多いと、注意を呼び掛けています」との返事だった。

「台風が原因だと思ったがそうではないですね」

「今年はウンカの発生が多いので私はすこし大目に薬をやりました。粉の薬を散布するのが中々できませんから。」

「百姓は大変ですね」

「そうです。百姓は儲けにはなりはしませんよ。労賃を計算に入れたらマイナスですよ。丹精込めて作ってこうなったら、焼き捨てるだけですから。」

このような会話をして電話を切った。我々日本人は米を食べて生きている。この主食が害虫によってこのようにひどい目にあうことは由々しき問題である。それこそ米作も、自然任せで雑には出来ないものだとつくづく思った。昔からバッタの被害は『聖書』にも載っているが、ウンカの被害がこれほどとは知らなかった。

「浮塵子」と書いて「うんか」とは誰にも読めないだろう。『広辞苑』にはつぎのように載っていた。

カメムシ目ウンカ科の昆虫の総称、形はセミに似るが、はるかに小形。口吻で植物の汁を吸い、またウイルスを媒介する種類もある」

稲の大害虫で、体長は5ミリである事も初めて知った。海を渡って中国方面から飛来する。コロナと言い碌なものはやってこない。

 

さて、もう少し「雜」について書いて見よう。結婚して始めて分かることは多い。相手の育った環境、受けた教育、家族の動向などはある程度分かるが、性格やものの考え方、さらに親から受け継いだ遺伝的なものは、結婚して徐々に分かって来るのではなかろうか。

我々の場合を考えて見たら、私はかなり大雑把、つまり何をするにも「雑」である。一方妻は几帳面だった。どちらかというと神経が細やかすぎる面を持っていた。だから彼女は私に対して良く文句を言ったり注意したりした。私は妻の言い分を是(ぜ)としてその都度改めようとしていたが、持って生まれた性格はおいそれとは直らない。したがって妻は半ば諦めていたかも知れない。「味噌も糞も一緒」とは言わないが「清濁併せ呑む」と言った面から考えたら、私は生活する上において、あまりやかましく言わないから彼女としては案外やりやすい点があったのではなかろうかと思う。

先に書いたように私が掃除をするようになったのも、彼女が出来なくて代わりにするようになったからである。こうして身辺を整理整頓して綺麗にすれば確かに気持ちが良い。 

洗濯物一つ畳んでも妻は実にきちんと畳んでいた。数年前からいわゆる「家庭内別居」を励行して、食事の時以外は別の部屋、私は二階の書斎、妻は階下のそれまでの二人の寝室を整理して使っていた。その為に新しく机や椅子などを購入して見違える程便利で感じの良い部屋にした。丁度その頃だったと思うが、妻は白内障の手術をしたので本がよく読めるようになってからは、好きな作家の本、それもすべて文庫本を買って読んでいた。私は妻が亡くなった後、ある事柄のあった年月日を確かめるために彼女が付けていた日記を初めて開いてみた。それまでは日記を付けているという事だけは知っていたが、今回初めて手にとってみた。妻はいつも同じ横書きの『高橋の3年日記』を使って居た事も初めて知った。2004年からつけ始めて2019年5月25日につけ終わっている。この同じ日記が6冊残っていて、最後の日記は大半が空白となったのである。私は最後の文章を読んでみた。仲良しグループの集まりに参加する前日のことで、死ぬことなど全く念頭になく、これからも生きて行く、ただ足腰の痛みに耐えて行かなければならないと言ったことだけ書いていた。私は平凡な記述を其処に見出しただけである。

 

ここで敢えて妻の日記に言及したのは、最初の2004年1月1日に書いている文字と、死ぬ前日に書いた文字、そして書いている文字数が全くと云って良いほど同じで、一画一字、明瞭に几帳面に書いていたのである。15年と5ヶ月余の筆跡に何の変化もないのには驚いた。決して上手な字ではないが、読みやすく几帳面なのには感心した。私も30年以上日記を付けている。書店で適当な日記を買ってきて、書いた字が自分でも後になったら読めないような書きぶりである。ここに「雜」とそうで無い紛れもない証拠を見せつけられた思いであった。

日記と言えば漱石と鷗外の『獨逸日記』や『小倉日記』、それに永井荷風の『断腸亭日乗』が有名である。私はこれからこうした作家の日記を読むことを楽しみにしている。また妻の書いた日記で、ありし日の事などを思い出す縁(よすが)として、時々読んで見ようかと思うのである。

最後に「雜」と云う字を含んだ言葉を少し書きだしてみよう。先に挙げた2つの意味に分類されるが、両方の意味をもったものもある。

 

雑役、雑誌、雑学、雑魚(ざこ)、雑煮(ぞうに)、雑記帳、雑木林、粗雑、乱雑、煩雑、等。

 

そういえば妻は誰とでも雑談を楽しんでいたようである。また庭に雑草が生えた。妻は黙って庭の雑草を取っていた。戦前までは家事一切の雑用を我が国では家庭の主婦が主として行ってきた。今は男女平等参画で女性が社会に進出して、彼女達は容易には結婚しない。

したがって雑用も当然ながらしない。しかし子育ては決して雑用・雑事ではない。少子化対策を如何にするか。雑然と考えないで真剣に考えなければ我が国は亡びる。まあしかし、私のような老いぼれはどうしようもない。多少なりとも雑念を払って澄み切った気持ちになりたいものである。              2020・9・10 記す

私の散歩道

 大橋良介著『西田幾多郎』(ミネルヴァ書房)を読んでいたらこんな文章があった。

 「散歩」は誰でもする平凡な行動である。いちおう、そう言えるであろう。しかし、そう自明的にいつでもできる行動ではない。たとえば生まれて、呼吸して、死ぬことは、生を享けた者なら誰もがくぐる共通の生命現象であるが、立って「歩く」となると、すぐに誰もが享受できるものとは言えなくなる。病や怪我や老齢で歩けない人は、世の中には沢山いる。まして、単に歩くだけでなく「散歩」するとなると、すでに希少価値すらある。たとえば、健康であっても生活に追われている人には、散歩の暇は無い。そしてまた、そもそも散歩するのに適した道があることも、不可欠の条件だ。社会や国家の情勢の安定という、平和時にはあまり意識しない基本条件もある。治安が悪くて外に出られないという地域は、日本では珍しいだろうが、世界各地ではむしろそのほうが当たり前という地域が、いくらでもある。 

 わたしはこれを読んで「目から鱗」といった感じを受けた。わたしはこれまで萩においても山口に来ても、至極当たり前のように散歩を楽しんでいたからである。たしかに散歩の出来る条件としてここにあげてあるものが一つでも欠けたら散歩は不可能である。これを思うとわたしはこれまで自由に散歩が出来てつくづく有難いと思った。妻が亡くなった後、我々が結婚したことについて考えてみた。男女二人が結婚できるには、これまた多くの条件をクリアーしなければならない。散歩に限らず、世の中の各種多様なことは、多かれ少なかれ幾つかの条件が調って初めて成立するものと思う。例えば大学進学にしても、本人の学力はもとより、健康状態、さらに家庭の経済状態。こういったことは考慮すべき必須の条件だろう。結婚となると当事者たちに関する多くの条件だけでなく、両家が関係するから一段と複雑になる。
以上の事を考えると、残り少ないわたしの平凡な人生も、恵まれていたと言えるだろう。「無事是貴人」という言葉がある。こうして一人暮らしにはなったが、老後になって散歩が出来るとは有難い。そう思い、あらためて感謝の気持ちで、わたしの散歩について少し書いてみようと思った。

 大橋氏は西田の「散歩」について、最後にこう書いている。

 西田において昭和六年(一九三一)の秋から一八年(一九四三)の秋まで、散歩ができるような安寧がいちおうあった、ということである。琴(注:西田が昭和六年に再婚した人)と一緒の生活が、その安らぎの基盤だった。西田の散歩道のひとつは。いま「哲学の道」として、京都の銀閣寺から岡崎までつづいている。「散歩のある日々」は、いま、どれほどの我々の生活に残っているだろうか。これは現在の我々が自分に尋ねてもよい問いである。

 昭和五十七年五月一日に父が亡くなった後、わたしは日曜日になると、萩の浜崎にある我が家の近くの住吉神社の境内を抜けて、日本海に向かって立っている鳥居の所の石段を降りて波打ち際まで行き、そこから女台場の松原までの砂浜をよく散歩した。そこの砂浜は子供時代の遊び場だった。  
夏の太陽がぎらぎらと照りつける真昼時、素足で熱い砂浜を駆けながら、途中広い砂浜に筵を敷き、その上に拡げて陽に乾かしてある煎り子を一寸摘まんで食べたりしたこともある。泳ぐことが出来ない季節にはその砂浜で、草野球ならぬ砂浜野球を楽しんだ。
さて、初夏の朝の散歩は、爽やかな空気と清新な気が漂う中を、打ち寄せる波の音を聞きながらゆっくり歩いた。名も知らぬ小鳥が小さな蟹の穴をつついているのを見かけた。盆を過ぎた頃になると、夕陽が西の海に沈む前、指月山が暗いシルエットとなり、空が真っ赤に染まってくる。そうなると海上に金波銀波の輝く筋が幾つも生じ、それらが金粉を撒いたように美しくきらきらと燦めいて見える。これを見るだけでも気分が好かった。人影はほとんどないので、まるでこの素晴らしい光景を独り占めにしたように感じることが出来た。
 このようにわたしは小さな子供の時から、この日本海を見て過ごし、その海岸の砂浜で遊ぶのを常としていた。高校に入り学校帰りにもよく海辺の道を歩いた。大学へ入るまで、海はわたしにとって不可分のものだと言っても過言ではない。だから山口に移って海がすぐ見られないのは残念に思っている。 
 波打ち際を三百メートルばかり歩いて、女台場の碑のある松林の所から街中に入り、先祖の眠る菩提寺に詣って帰るのがいつもの散歩コースだった。しかし父がまだ生きているうちから、わたしたちは隣家からの騒音に非常に悩まされた。父が亡くなったので、わたしと妻は浜崎に我が家があるのに家を出て、市内の城下街にある「史跡 青木周弼旧宅」に管理人として住むようになった。そこに八年間居たが、この間はあまり散歩をしなかった。八年目になって、観光客が家の中まで自由に入るようになったので、ここを出てまた我が家に帰ることになった。それから山口市に移るまでの二年ばかりの間、わたしはまた上記の散歩道をほとんど毎日歩いた。

 平成十年(一九九八)に山口市吉敷に転居してからは、それほど決まって散歩するようなことはなかった。気が向くと夕飯前、吉敷川に沿った小道を時々散歩した。ここは蛍の名所だそうだが、夜分歩かないから一度見ただけである。しかし川沿いの桜吹雪の下や、各種草花の咲き乱れている人通り極めて少ない小道を歩くのは気持ちがよかった。

 令和元年五月二十七日に妻が旅先で急逝し、葬儀も済ませたので近くを少し歩いてみる気になった。平成十年九月に山口市吉敷の今居る所に萩を出て家を建てた時には、周辺には田圃がかなり残っていて、田園地帯と言った感じがしていた。
それか数年後に我が家の前に立派な自動車道路ができ、引き続いてスーパーが誕生した。これはわれわれにとっては有難かった。そのスーパーの横の道路を隔てて四階建ての「県職員住宅」が三棟並行してあったが、次第に古くなり住居希望が減ったのであろう、その内の二棟が解体撤去された。その後整地され、今度は個人住宅用として売りに出された。それが令和元年九月である。まだ四ヶ月しか経たないのに十数軒の家が目下新築中である。坪単価が十五万八千円と標示されていた。我が家を建てた時よりは十万円も安くなっている。
 こうした新築家屋を見るに、樹木を植えている家は今のところ一軒もない。家屋と車庫だけが確保された狭いスペースである。こうした家を建てる年代は皆三十代から四十代の共稼ぎが多いのだろう。小学生が一人か二人居るかも知れないが、これから二十数年経てば子供は独立して皆家を離れる。その頃になると家の外壁を塗り替えなければならない。だんだんと年を取り、夫婦だけが残り終には老人となる。これが現代の日本の姿である。我が家の周辺ではここだけでなく、スーパーの反対側にもあった田圃を潰して、今や二十数軒の新しい家ができているし、建築中の家もある。その意味に於いては活気があるが、数十年後はどうなるだろうか。これが日本各地の田舎では深刻な状態で、廃屋ばかりになった地域もある。
 もう一つ私が感じた事は前にもちょっと言及したが、どの家にも自然の緑がない。都会のマンション暮らしもそうであろう。以前は多くの家にはささやかながら庭と菜園があった。「家庭」とは文字通り「家と庭」から成り立つ。日本人は本来自然に囲まれ、自然に育まれ、そして自然を愛でて一生を過ごしてきたのだが、今や金・金・金のもうけ主義と、便利とスピードのみを競いそして追う生き方に代わってしまったような気がする。「家庭」は「家車」となった。こうした生活を維持するために若い夫婦は共に働き、またそれができない者は独身生活を余儀なくされ、そして停年を迎えるのではなかろうか。人の世は一生である。この二度とない人生をせめて退職後は、多少不便で生活のテンポは遅くとも、大自然を味わうべくゆったりとした気持ちになりたいものだと切に思うのである。
 現代社会は科学とテクノロジーによって突き動かされ、人間性が失われようとしている。山川草木の「自然」と一体になるという言葉があるが、庭に咲く一本の花に目を留める余裕がないのかも知れない。だから西洋の若者が禅に関心を抱いている、といった趣旨のことを大橋良介氏は書いていた。 (『日本的なもの、ヨーロッパ的なもの』)(新潮撰書)

 つまらん愚見を述べたが、このスーパーの横を、真っ直ぐに五百メートルばかり行った所に六地蔵がある。この六地蔵は小高い丘の麓にある。「天保六年四月吉日」と台石に彫ってあった。そのすぐ側に「所郁太郎墓」と書いて矢印のある標識が立っている。そこから左の方へ小さな道を八十メートルばかり行くと別の六地蔵がある。ここにも同じ標識がある。最初の六地蔵の存在は承知していたが、後で知ったこちらの六地蔵も、安置された年月日は同じではないかと思う。本尊ならびにこれを中心とした周辺の小さな六体の仏の像が全く同じに見えるから。
 この二箇所の六地蔵は丘の麓、道の直ぐ側にあるが、両方の六地蔵の所から、丘の斜面を登っていける石段が設置してある。しかし丘の一番高い場所には石段はなくて、非常に細い道が通じているだけである。実はこの丘の東側の斜面は墓地になっているから、こうした歩くに便利な石段があるのだ。古い自然石の墓や、かなり広い区画の墓所御影石の立派な墓などが、雑然と並んでいる。こうした新旧様々な墓が数百基もあるだろうが、その中の一つの墓への案内の標識が数カ所立っている。それは先に述べた「所郁太郎墓」と書かれた標識である。わたしはこれまで数回、「所幾太郎墓」へ行ってみたが、今回カメラで墓の後にある掲示板を写真に撮った。それには次のように書いてあった。
     
所郁太郎
  天保九年美濃国岐阜県)に生まれ、本姓矢橋氏、所伊織の養子となって所氏を嗣ぎ、後大阪に出て緖方洪庵に医学を学び、京都に出て医院を開業した。
 この時代に長州藩の青年志士と交遊して尊皇開国を唱え、文久三年七卿とともに長州に逃れ、吉敷新町に住んで医院を開き、元治元年九月井上候が袖解橋に襲われたときこれを手術したことは有名である。
 翌元治元年正月高杉晋作等の挙兵に呼応して遊撃隊参謀として大田、絵堂に俗論派と戦ってこれを破り、再び新町に駐屯していたとき腸チフスにかかり、その三月十二日没した。 行年二十八歳。 
 明治三十一年追贈従四位
 昭和四十年三月十二日   吉敷自治

 

 わたしはこの掲示の内容を読んで二箇所誤りではないかと思った。一つは「井上候」の「候」は「侯」である。もう一つは、「元治元年九月」の事件が歴史的に正しければ、「翌元治元年正月」は「慶應元年」とすべきである。このように掲示が間違っていることは往々にしてあるものだ。わたしは防府天満宮菅原道真に関する掲示にも誤りを見つけて連絡したことがある。それは兎も角として、もし所郁太郎が瀕死の重傷を負った井上馨を手術しなかったら、間違いなく彼は死に、維新の歴史も少しは変わったであろう。ところが井上を助けた所幾太郎は二十八歳の若さで病死している。これを思うと、幸・不幸、人の運命の不思議を思わざるをえない。それにしても二十八歳とは若い。
 この「所郁太郎墓」まで登ると見晴らしがよくて、市街地の大半が遠望できる。澄み切った青空の下、はるか彼方の山並みに囲まれた山口市が盆地の状態であるのがよく分かる。

 わたしはその日、六地蔵の側にある掲示も写真に撮って帰って読んでみた。こう書いてあった。

      六地蔵様縁起
  
 お釈迦様没後、第二のお釈迦様と仰がれる弥勒菩薩様が、この世に現れるまで、五十六億七千万年の間、衆生(生き物全て)の苦悩を救済して下さるのが地蔵菩薩様(お地蔵様)です。
 そして、衆生が自ら作った業(行為の結果)によって生死を繰り返す六っの世界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)に至る一切の衆生を、それぞれ救済するのがこの六地蔵様です。
お墓や辻、お寺などによく見られ、私たちに最も親しいほとけ様です。

                             上東自治会墓地委員会
  
 わたしは妻が亡くなってからほぼ毎日、散歩かたがたこの二箇所の六地蔵を拝む事にしている。誰かがいつもきれいな花を供えている。わたしは一円玉をあげることにしている。
 それにしても「五十六億七千万年」とは途方もない時間である。その時には人類は死滅しているのではなかろうか。インド人は数に関しては異常な才能があると聞いているが、一体誰がこのようなことを考えたのかと思った。
わたしはこの年数をもっと具体的に知ろうと思った。地球一周の距離が40,075キロだとすると、メートルに換算したら、40,075,000メートルになり、さらにセンチでいえば4,007,500,000となる。これは四十億七百五十万センチである。仮にもし人間が1年に1センチだけ移動するとして、地球を一周するのに要する時間である。それよりもはるかに長い距離が五十六億七千万年である。途方もない時間を考えたものだとあらためて感心した。

 二番目の六地蔵からは、来た道と並行した道を帰るのだが、六地蔵への路はこの他にも幾つかある。我が家の直ぐ近くのスーパーの前の自動車道路を右側へ五百メートルばかり行くと信号機の付いた十字路に差し掛かる。そこからまた右に折れて真っ直ぐに国道を横切りながら二キロ以上行けば突き当たりが山口大学である。私は反対に交差点で左に進む。そうしたら緩やかな勾配の道で五百メートルばかりの所に、湯田カントリークラブのゴルフ場がある。その前をまた左に折れて進めば六地蔵の所に達する。此の迂回路が距離にしたら一番長い。
 まだ外にも道がある。我が家とこの信号機の丁度中間あたりに進行方向の左手に石の鳥居が立っている。ここは土師八幡宮への入口である。わたしは時々八幡宮を参拝する。杉や雑木に覆われた神域に囲まれた社殿まで行くには、歩数にして三百余、途中百段もの石段を登らなければならない。標高は僅か三十メートルばかりであろうか、丘の頂上に社殿があり太くて高い杉の神木が聳えている。登り口の鳥居の傍らにこの八幡宮についての説明板が立っていた。

  土師八幡宮

  祭神は天穂日命応神天皇、乃見宿禰菅原道真、息長帝姫命、田心姫命湍津姫命市杵島姫命で古くは土師宮といい天穂日命、乃見宿禰菅原道真の三神のみであったが、慶長年間に福原広俊がこの地の領主となり、元和七年(一六二一、一説には元和元年ともいう)安芸国高田郡福原村にあった内部八幡宮を移して合祀し、社号を土師八幡宮と改めて氏神とした。
 私見。土師(はじ)という社命から考えると、この八幡宮は古い時代にこの附近に住んでいた「土師部」が、その氏神として祀ったものであろう。土師部とは土器をつくる職人のことで、これがのちには性となり、地名になったものである。この附近ではごく最近まで陶業が行われていて附近の山麓には陶土があって土師部が住んでいたものであろう。                 「良城小学校百年史より抜萃」

 

 前記のように、平成十年にわれわれは萩から転居したのだが、家を建てようと選定した地所は、その時山口市が発掘調査をしていた。弥生式土器が沢山見つかったということだった。調査を終えて埋め直して宅地造成したのだが、このあたりは土器を作る人、つまり土師部が住んでいて人家も集中していたのであろう。
この掲示板にも二つの誤記があった。「社命」は「社名」であり、「性となり」は「姓となり」である。

 神社を参拝した後、今度はその裏側から降りる道があるのでその道を行くと、先に述べた交差点からゴルフ場への道と合流する。
 以上三通りの道の外にもう一つ六地蔵への道がある。これは家を出て反対側へスーパーの前を左の方へやはり五百メートルばかり進むのである。そこで道路を横断して右に折れたら細い流に沿った脇道がある。この小道を行けばすぐ田圃が見えてくる。此の田圃を見ながら行けば目的の六地蔵へ達する。田圃と言っても最近はどんどん田畑が潰されて新しい家が建っているのであるが、わたしはまだ田圃が僅かに残っているこの道を通るのが一番好きである。以上大きく分けて四つの道を適当に選びながら、健康と気分転換を兼ねて毎日歩いているのである。

 漱石の『心』を先日久し振りに書架から出して読んでみたら、次の文章に思わず惹かれた。

  「今度御墓参りに入らっしゃる時に御伴をしても宜(よ)ござんすか。私は先生と一所に其所いらが散歩して見たい」
  「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」
  「然し序(つい)でに散歩をなすったら丁度ど好いじゃありませんか」
 先生は何とも答えなかった。しばらくしてから、「私のは本當の墓参り丈なんだから」と云って、何處迄も墓参と散歩を切り離さうとする風に見えた。私と行きたくない口實だか何だか、私には其時の先生が、如何にも子供らしくて變に思はれた。私はなほと先へ出る氣になった。
  「ぢゃ御墓参りでも好いから一所に伴(つ)れて行って下さい。私も御墓参りをしますから」實際私には墓参と散歩との區別が殆ど無意味のやうに思はれたのである。すると先生の眉がちょっと曇った。眼のうちに異様の光が出た。それは迷惑とも嫌悪とも畏怖とも片付けられない微かな不安らしいものであった。私は忽ち雜司ヶ谷で「先生」と呼び掛けた時の記憶を強く思ひ起した。二つの表情は全く同じだったのである。
  「私は」と先生が云った。「私はあなたに話す事のできないある理由があって、他(ひと)と一所にあすこへ墓参りには行きたくないのです。自分の妻(さい)さへまだ伴れて行った事がないのです」

(昭和四十一年発行の『漱石全集 第六巻 心 道草』より)

 「墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃない」との「先生」の言葉を読んで、私の場合は、毎日六地蔵まで散歩するのは、お参りと散歩の軽重は五分五分だと思った。地蔵菩薩に「一切の衆生の救済」をお願いするのと、自分の健康保持の目的を兼ねている。しかしもし妻の墓がそこにあれば、私は「先生」と同じ気持ちで散歩して墓参をするだろう。
  
 先日久し振りに何か読むような本はなかろうかと、山口大学前の「文栄堂」という書店へ行ったら、高楠順次郎の『釈尊の生涯』(ちくま学芸文庫)が目に入ったので買って帰り読んでいたら、「経行」の説明に「散歩」という字が宛てられていた。そこで中村元著『仏教語大辞典』を見てみたら次のように説明してあった。

【經行】 きんひん」禅門では「きようぎょう」とはよまない。①仏道修行のこと。②坐禅中、足の疲れを休めるため、またときには睡眠を防ぐために、途中で立ってゆっくり堂中を歩くこと。狭い同じ場所を散歩すること。あたりを静かに歩く。そぞろ歩き。一定の場所を往き来すること。

 散歩が「仏道修行」でもあると思うと、これまた「散歩」も一段と意味があるものとなってくる。
 六地蔵からの帰り道について書くと、その途中にまた違った標識がある。以前わたしは何があるかと思い、帰りの道を逸れて緩やかな坂道を五十メートルばかり上ってみた。驚いたことに、また六地蔵があり、さらにその少し奥に立派な石の仏像が立っているのが目に入った。手前の六地蔵は先に述べたのと全く同じようだが、歩を進めて奥まった所へ行ってみたら、凡そ百基ほどの自然石からなる無縁墓が集められてあり、その前面に先ほどと同じような小さな六地蔵が並んでいた。
 わたしは不思議に思った。この地で昔何かあって多くの人が亡くなり、その後生を弔うためにこの狭い地域に、わたしの家からそれぞれ五百メートルばかりの所に、四箇所も六地蔵が安置されているとは。人の死を弔う篤い信仰の表れだろう。こうした六地蔵に守られているこの地区は有難い場所かも知れないとも思った。
ところがまだある。この一番奥の六地蔵の右横に小さな板囲いのお堂があり、そのなかに墓石が見えた。ここにも掲示板があって、小さい文字でびっしり説明してあったので、これも写真に撮って帰って読んでみた。そういえば道端のこの場所への入口に「いちじいさまの墓」の標識が立っていた。長い説明文である。

       いちじいさまの墓
       ~痔を治す仏~
  
 お墓に納められているのは、嘉永四年(一八五一)十一月十六日に亡くなった芾右エ門(いちうえもん)というお坊さんのお墓です。その証拠に、石には、俗名の芾右エ門、死亡年月日とともに「釈浄真法師」(しゃくじょうしんほっし)と刻まれています。「釈」は亡くなるとお釈迦様の弟子になるということ、「浄真」は法名、「法師」はお坊さんやお寺に仕える人のことを意味します。
  昔からの言い伝えによると、芾右エ門というお坊さんが、通りすがりに、痔の痛みに苦しみながら田畑で働く人たちに出会い、念仏を唱えたところ不思議なことに痛みが治りました。みんなは大変喜んで、お坊さんの大好きなお酒をお礼として差し上げました。そして、やがて、お坊さんのことを親しみと敬愛の気持ちを込めて「いちじいさま」と呼び始め、亡くなると、お墓を建て、お酒を供えるようになったそうです。
その後、だれかれとなく、「お墓にお酒を供えてお願いしたら痔が治る。治ったら、お酒を持ってお礼に行くそ」と言い始め、この話が広まると、痔で苦しむ人たちが、花や線香とともにお酒持参でお参りに訪れるようになりました。昔は、お酒を入れた竹筒を墓石の傍らの木にぶら下げていましたが、今は、瓶入りのお酒がほとんどです。平成二十五年七月のお堂再建に当たり、周辺を整備したところ、おびただしい数の酒瓶が出てきました。単なる噂ではなく、本当に「ご利益」がある証拠でしょうか。実話もいっぱい残っています。いつごろのものか定かではありませんが、この墓地への登り口左手には、「是ヨリ二十間」「じをなおす仏」(一間は約一八二センチメートル)、また、お堂の右手近くには、「是ヨリ左上」「発起人 湯田 奥原吉太郎」と刻まれている道標が立っています。

お願い
  「いちじいさまの墓」にお参りして、痔が治った方の体験談を募集しています。実名、匿名のどちらでもかまいません。備え付けの郵便受けに入れてください。
                          上東自治会 墓地委員会

 

 長々と書き写したが、わたしはまだ「いちじいさま」にお願いする必要はない。

ついでの散歩の途中で見つけた物について書こう。この散歩道の傍らに「庚申塔」が二つあるのを知った。それぞれ一キロくらい離れて立って居るが、大体同じような恰好の自然石に「庚申塔」と彫ってあるのがはっきり読める。建てられた年月日は苔むして読めなかった。私はネットで調べてみて初めて「庚申」の意味を知った。「庚申」は干支(えと)で甲子(きのえね)、乙丑(きのとうし)など六十種の組み合わせの五十七番目に来るのだが、その日に関するものとして次のような記述があった。

 庚申塚(こうしんづか)は、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた塚で、庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多いそうです。 庚申講とは、人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)という虫が、庚申の日の夜、寝ている間に神様にその人間の悪事を報告するので、それを避けるために庚申の日の夜は夜通し眠らないで神様や猿田彦青面金剛を祀り、勧行をしたり宴会をしたりする風習があったとのことです。(以下略)

 散歩の功徳はぶらぶらと歩きながら、道ばたの草花を見たり、青田から黄金色に変わる稲穂に目を楽しましたり、鳥の声を聞いたり、雲の流れ、その変わりゆく姿を見て楽しむ以外に、漫然と色々な事を考えることでもある。時には学校帰りの小学生にも会う。
 今日も昼前に散歩道で、可愛い小学生の男の子が二人向こうからやって来たので、「もう学校が終わったの?」と訊いたら、「はい、今日で学校は終わりました」と明るく元気に一人が答えた。そういえば今日は十二月二四日、明日から冬休みに入るのだ。私が萩市立明倫小学校に入ったのは、昭和十三年であったから、もう八十年近い年月が流れたことになる。そんなことを思いながら家路についた。

 最後に一言。妻とわたしが萩からここに移った時、萩高校の教え子が、このあたりは「風水学」の見地から言うと中々良いところです、と云った。平成十年にこちらに来てから早や二十一年の年月が過ぎた。前にも書いたように、その時は周辺にまだ田圃が多く残っていて、雨期になれば蛙の鳴き声が喧しかった。しかし機械音とは全く違う。すこしも気にはならなかった。その時に比べると、今は住宅が多く建ってすっかり様変わりした。しかし静かな環境に変わりはない。町内の人も皆いい人である。
騒音問題という多大の苦痛、特に妻は一時神経に異常をきたすほどであった。しかしそれだけでは移転は出来なかったと思う。ここに神仏の御加護という絶対的な他力が働いて初めて可能になったとわたしは信じている。妻もよくそう言っていた。人生においては大きな転機を迎えるには、何らかの犠牲を伴うものだということをわれわれは経験した。妻もこちらに来て、最後の二十年を平穏に送ることができ、本当によかったと思ったのではなかろうか。これも我々にもたらされた運命だと言えよう。わたしに残された余命はもう知れている。その間この環境で少しでも長く散歩を楽しめたらと思うのである。
            
               令和元年十二月二十四日 擱筆。 

防府天満宮参詣

 十一月七日は私の実母の祥月命日である。亡くなって八十七年になる。年月が経ったものである。この日に防府天満宮へお参りしようと思っていたが、事情があって翌日の八日になった。息子からは遠距離のドライブはしないようにと言われていたが、これだけはと思って実行した。
 私は妻が亡くなって彼女の書き残した六冊の日記を時々見る。我々が山口市に転居したのは平成十年(1998)だった。妻は2004年からいつも同じ『高橋の3年日記』を用いている。彼女の日記を見ることで、「あの日に何があり、誰が来たか」といったことを確かめることができるからである。
 私も3年連続日記を用いているが、出版社はまちまちである。この点を考えただけでも、妻はすることなすことがきちんと徹底していた。性格が字に現れるとも言われるが、妻の書いた文章は日々のスペース一杯に、しかも一字一字はっきりと黒のボールペンで明瞭に記載している。私はその点でも出鱈目で、紙面一杯に書くこともあれば、半分くらいで余白を残すこともある。おまけに書体はかなり崩れているので他の者には容易に読めないかも知れない。これは思うに、私は九時頃床に就くので、その日のことを思い出すがままにメモ的に記載するのに反して、妻は夜遅くまで起きているのでじっくり考えを纏めて書いたのだろう。まあ一事が万事、几帳面な妻に対して私はルーズというか、物事を大体で済ます傾向がある。言うなれば妻はやや神経質で、私はいささか大雑把といわれても仕方あるまい。
 日記への記載一つをとってもこのような違いがあるが、こういったことも結婚してみて初めて分かる事である。だから世の中では折角一緒になっても、性格の不一致で破綻をきたす事もあるのはやむを得ない事だと思う。そこを破鏡に至らずに済むには、人のよく言う結婚には「忍耐と妥協」が必要なのかも知れない。何百何千という人の中から縁あって結ばれたのだから、やはりこのご縁を大事にすべきだろう。我々も、とくに妻の場合そう思ったのかも知れない。時々妻は冗談交じりに「勘違い結婚だった」と言っていた。
 話が逸れたが、昨年の妻の日記を見たらこんなことを書いていた。

「朝食の時夫が今日天神さまにお詣りしようかと言う。ちょうどいい頃合いなので私も
 乗り気になる。梅は峠を越しているとは言えまだ充分きれいだった。年と共にだんだんお詣りの時期がずれて遅くなったが、なぜか天神さまへお詣りできたらほっとする。帰りは佐波川添いの宇佐八幡宮にも寄ろうというのでそこもお詣りをし、徳地の南大門や仁保の道の駅にも寄る。ふと角のそば屋が営業していたので、月曜会を懐かしみながらそばを食べて帰る。」

 防府天満宮には私の曾祖父が寄進したというか、建てているかなり大きな長方形の御影石に俳句が刻まれてある。それが大きな自然石の上に据え付けてある。そしてその両側に紅白の梅が植えてある。
 曾祖父は若いときに夢に天神さまが現れたとかで、それ以後天神さまを信じて、酒造業を萩で始めた時屋号を「梅屋」とし、酒銘を「箙」としたと聞いている。天神さまと梅は密接な繋がりがある。太宰府天満宮には有名な「飛び梅」の樹があるし、境内では「梅が枝餅」を売っている。酒の銘を「箙」としたのは『広辞苑』にも載っているように「箙の梅」という故事を知って命名したのだろう。故事とは、生田の森の源平の戦いで、梶原源太景季が箙に梅の枝を挿して奮戦した事である。
句碑には「夢想」という字が横書きに刻まれ、その下に縦書きに彫られた俳句が読み取れる。
   天満る 薫を此処に の梅の華      佳兆

「佳兆」は俳号である。

 妻は結婚した当初、私が曾祖父の事を話したら、「鉄砲を買うとか何とか云っても、単なる商売人じゃないの」と馬鹿にしていたが、この鉄砲購入のことが『萩市史』に載っている事を知って、天神さまと曾祖父の事を多少見なおしたのか、上記の日記に書いていているような気持ちになって、我々は天神さまへ毎年必ずお詣りしていた。
 このような訳で、今回は最後だと思い、昨年と全く同じコースを独りでドライブした。「そば」は徳地から山口への峠の途中にある店で食べた。爽やかな天気で紅葉がきれいだったが、傍らに話しかける妻のいない行程80キロの運転は、やはりこれを最期にしようとつくづく思った。そば屋の女将さんが「御元気ですね。お年にはとても見えません」と言って呉れたが、やはり運転には気を遣う。
 妻の日記に「月曜会を懐かしみながら」と書いているのは、我々が山口市に移り程なくして二組の御夫婦と知り合うようになり、毎年一度我々三組、その後萩の知人ご夫妻も加わって合計八人の老夫婦が国内を方々旅行した。また毎週月曜日には市内の数カ所の食堂で昼食会を楽しんでいたからである。それも一組のご主人が亡くなられ、残りの老夫妻も鎌倉に行かれた。或る日「角のそば屋」でそばを食したことが思い浮かんだのであろう。
 人生に於ける邂逅と離別は避けることのできないことである。最後は残った者がこの現世を後にして、次はあの世で又相まみえることになるかも知れない。その時は姿は見えないが、霊として実存しているのであろう。

                          (2019・11・11)

 

 

 連休に猛烈な台風十九号の襲来が予告されている。前回の台風十五号より規模が大きいとのことで、進行方向の右側は又甚大な被害が生ずるのではなかろうか。幸いにも山口県を避けているようだ。しかし備えをするようにテレビでは警告を流している。このために新幹線が不通になることを考えて十三日の納骨は取り止めた。
台風が来るのはまだ数日先のことだから今朝など雲一つない快晴。猫の額ほどの狭いところに葉野菜を植えているのが、日照り続きだから水をやろうと思ってホースを手にして水をかけたら、その水が小さな半円の弧となり虹色に輝くではないか。私はこの現象に目を見張った。水を止めれば勿論直ちに虹は消える。水を出すと今度は二重の虹が生じた。これは珍しい現象だと思い、カメラを持ってきて片手にホースから水を出し、一方の手でシャッターを切って虹を写してみた。
 外側から赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の七色にはっきりと見えた。そのときふと私は思った。何故「虹」と云う字は「虫偏」なのかと。そこで撒水を済ますと二階へ上がって漢和辞典を引いてみた。すると「にじ」と云う漢字は「虹」の外に幾つかあるということを知った。まず「虹」の説明にはこうあった。
 
 「虫」は大蛇のこと。「工」はつらぬくこと。従って天空を貫く大蛇に見立てた呼び名。
 「霓」と「蜺」も「にじ」を意味し、「昔、にじにも雌雄があると考え、雄を「虹」雌を「蜺」または「霓」といった。

昔の人が、[虹]を天空を貫いて輝く蛇のように見立てたのには驚いた。英語は平凡に
RAINBOW(雨の弓)で誰にも頷ける。
ここで私は又「雌雄」という言葉について一寸気になった。不通「男女」とか「夫婦」と云った語順で「オトコ」が先に来るのに何故「雌雄」では逆になって居るのかと。これは人間以外の生物の場合、何と云っても「メス」が生殖の主体だからだろうと思った。
 こうした愚にもつかない事を考えたが、「虹」と云えばどうしてもワズワースの有名な詩を思い出す。

My heart leaps up when I behold
A rainbow in the sky:
So was it when my life began,
So is it now I am a man,
So be it when I shall grow old
Or let me die!
The child is father of the Man;
And I could wish my days to be
Bound each to each by natural piety.

空の虹を見ると 
私の心は踊り立つ、
子供の時分にそうだった、
大人になった今でもそうだ、
老人になってもそうありたいものだー
そうでなかったら私は死ぬ。
子供こそは大人の親だ 
そうして私は生涯一貫して
親に對にする本然の尊敬心の如き尊敬心を子供に對して
持っていたいものだと思う。
            山宮 允著『英詩詳釋』

 この最後の二行がワズワースの虹を見ての感想の主眼だろうが、純真無垢の童心を彼は何時までも持っていたいとは流石だ。
 
 子供に罪はない。ところが最近幼児虐待と云ったとても考えられないような事件が頻繁に起こっている。「出来ちゃった結婚」で結婚後すぐ離婚し、女性は暮らしていけないから又別の男性と一緒になる。そうすると新しい夫は前の男性の子供が邪魔になる。その子は当然なついてくれない。その結果虐待という仕打ちになってしまう。
 今は少子高齢化と云われている。若い者が中々結婚しないし、しても生活に追われて出産を控える。この傾向は今後まだ進むかも知れない。昔は仲人という者がいて双方の家に相応しい相手を心配して居たが、今はそういったものがなくなった。その為につい一目惚れで結婚しても直ぐ熱が冷め、子供が生まれるとその子の運命は不幸になることが多い。
 明治の『教育勅語』を戦後悪の根源のように排斥して来たが、そこに書かれている親孝行とか兄弟仲良くし、夫婦相和す事は人間として一番大事なことだと思う。

それにしても天然の色彩は実に美しい。豊旗雲とか茜色の夕空など実に美しい。今朝の撒水という何気ない動作の中に、こうした自然現象を発見したのは良いが、愚痴に終わってしまった。もう一度虹の写真を見てみよう。
                         2019・10・10 記す

                                   

天人五衰

 長編小説や固い本を読む気にならないので、久し振りに漱石の『永日小品』を書棚から取り出して読むことにした。昔読んで大筋を覚えているのもあるが、初めて目にするものもある。筋だけ追ったのでは読んだという事にはならないと思って、今回は一語一語に多少なりとも気を配って読もうと思った。いとも簡単な気持ちで書いたと思える文章でも、わたしの知らない言葉や事項が出てくるので、語注を見たり、それでも分からないのはネットで調べたりした。この『小品』の最初にあるのは「元日」という文章である。

 漱石が雑煮を食べて書斎に引き取っていたら、しばらくして若い弟子が三四人やって来る。その内の一人がフロックを着ていて他の者がひやかす。このフロックを着た男の外の連中は皆普段着である。元旦に先生の家に挨拶に行くのに普段着はどうかと思う。漱石は気にはしていない振りをしているが、内心礼儀知らずの弟子共だと思っていたのではなかろうか。だからまた服装の事を書いている。かれらが屠蘇を飲みお膳のものをつついているところへ、今度は黒の羽織に黒の紋付きを着た高浜虚子が現れる。そして虚子は「一つ謡ひませんか」と言い出す。漱石は「謡って宜う御座んす」といっていよいよ「二人して東北(とうぼく)と云ふものを謡った」。
それから続いて「羽衣の曲(くせ)を謡ひ出した。春霞たなびきにけりと半行程来るうちに、どうも出が好くなかったと後悔し始めた。」とある。
虚子の気合いの入った掛け声や鼓を打つ音に圧倒されて漱石は調子がでず、その内聞いていた連中がくすくすと笑い出したと自己を茶化すように書いている。しかしこれより前に「東北」を謡い終えたときも、皆が申し合わせたように不味(まず)いと云い出した。すると漱石は「此連中は元来謡のうの字も心得のないもの共である。だから虚子と自分の優劣はとても分からないだろうと思っていた。」と、やせ我慢というか自己弁護しているのが漱石らしい。

 わたしも「謡のうの字も心得がない」。したがって「羽衣」については天人と漁夫の話だということだけは知っているが、「東北」に至っては第一「とうぼく」と読むことすら知らなかった。また「曲(くせ)」も分からないからネットでみると、「能の構成部分の一つ。曲舞の節を取り入れた長文の謡で、一曲の中心とされ、叙事的な内容が拍子に乗せて地謡によって謡われる」とあった。
そのときふと思い出したのは、萩から山口に転居したとき、我が家に昔からあったと思われる数少ない蔵書の中に謡の本があった。探してみたら見つかった。全部で二十七冊あった。
 全て和綴じの薄い本で出版の年月日がまちまちである。不思議な事に「羽衣」と「東北」だけはいずれも二冊あった。一つは初版が寛政十一年三月であって著作者は宝生太夫で、明治三十四年八月に改定四版とあって相続者校訂者として宝生九郎の名前であった。もう一冊は大正九年十月印刷で昭和二年第九版発行。訂正著作者は二四世観世元滋とあった。これで見ると我が家の祖先の誰かがこうした事に興味を持っていたのだろう。

 さて、此の謡の本の「東北」と「羽衣」を読んでみようと思って開けたところが、古い版は容易に読めるような文字ではない。現代の活字では書かれていない。ある程度は読めるが正確には読めない。これは困ったと思い、これまた思い出したのが『古典日本文学全集』(筑摩書房)である。この全集の中の一冊『能・狂言名作集』を開いてみたら、二十作ほど選んであった。しかし肝腎の「東北」も「羽衣」もなかった。図書館へでも行ったら能の解説書はあるだろうがわざわざ行くのも大義だと思いい、試みにネットを開いてみることにした。するとやはり出ていた。このネットなるものは非常に便利であるから私はよく利用する。それにしてもよくもこれ程膨大な情報が入っているものだと感心する。
 こうしてわたしはネットを参考にして、わざと読みにくい方の和綴じの本で「東北」と「羽衣」を何とか読んでみた。はたして先に引用した「羽衣」の「春霞たなびきけり」の言葉が見つかった。

 話は逸れるが、山口県でも「防府能」と云った催しが隔年毎に防府市で開催さているようだ。家内の従弟が東京芸大出身でいつも出演していて、数年前に招待券を貰って観能した事がある。彼は今も毎月数回山口市から上京して家元で稽古し、また能舞台で出演もしているというから本格的である。もうすぐ八十に手の届く年齢だから、出演の度に新しく地謡の文句を覚えることと、二時間もの長い間殆ど姿勢を崩さないで畏まっている事、更に身軽く舞を舞うのは大変だと云っていた。
ついでに彼に話を聞くと、まず芸大の試験は実技が主で、能の科目に合格した者は二名。各学年二名だから四年生まで僅か八名授業を受ける。授業内容は観世流宝生流のそれぞれ家元の先生が来て教えられる。能では狩られてのせんせいにるうないTがwz出わずか全学年であdけが藩士
彼の場合趣味を通り越してプロだと云える。この能など日本芸能は高尚なものだが、おいそれと誰もが容易に真似の出来るものではないとつくづく思った。

 さて、ここでは「羽衣」について話を進めることにする。新しい方の版の最初の頁に「概説」が載っていたので書き写してみよう。

 

白(はく)龍(りよう)と云へる漁夫三保の松原にて美しき衣の松の枝に懸れるを見出し、取りて帰らんとすれば美しき女現れ、其の衣は天人の羽衣とて人間に與ふべき物に非ざれば返し給へと云ふ、白龍惜みて返さず、羽衣無くては天上に帰る事叶はずとて天人甚く悲しめるより、白龍憐れに思ひ、舞を舞ひ給はば返し申さんと云ふ、衣無くては舞う事叶はずと云ふより、返し與ふれば天人は之を身に纏ひ、東遊びの曲の数々舞ひ奏でつつ昇天せり。

 漁夫が羽衣を持ち帰って宝にすると言って中々返さないので、天人はこれが無ければ天上に帰れないと言って見るも憐れな様子になる。そこの場面がこう書いてある。

せん方も涙の露のたまかづら かざしの花もしをしをと 天人の五衰も目の前に見えて浅ましや

 わたしは「天人の五衰」が分からないからまた辞書を引いてみた。中村元著『仏教語大辞典』に詳しく載っていた。平仮名で「ごすい」とあれば誰でも「午睡」つまり「昼寝」と思うだろうが、「五衰」となると分からないのではなかろうか。
この『大辞典』にはこう説明してある。

 「てんにんのごすい 天上の衆生が寿命が尽きて死ぬときに示す五種の徴候をいう。これに大小の二種がある。大の五衰は⑴衣服垢穢(衣服が垢でよごれる)、⑵頭上華萎(頭上の華鬘が萎えてしまう)、⑶身体臭穢(身体がよごれて臭気を発す)、⑷腋下汗流(腋下に汗が流れる)、⑸不楽本座(自分の座席を楽しまない)、であって、この時には必ず死ぬ。」 
 
 漁夫の白龍は天人のこのような有様を見て気の毒に思い、舞いを舞ったら羽衣を返すと云うが、天人は衣が無ければ舞えないと云う。この場面での双方のやりとりが面白い。

「御姿を見れば餘りに御痛はしく候程に衣を返し申さうずるにて候」
「あら嬉しや此方へ給り候へ」
「暫く、承り及びたる天人の舞楽只今ここにて奏し給はば衣を返し申すべし」
「嬉しやさては天上に帰らん事をえたり」
 
天人はこう言って衣を返すように頼むが漁夫は、

「いやこの衣を返しなば、舞曲をなさでそのままに、天にや上がり給ふべき」
「いや疑は人間にあり。天に偽りなきものを」
「あら恥かしやさらば」

と云って羽衣を返し與えると天人はそれを着て数々の舞曲を舞って「天つ御空の霞にまぎれて失せにけり」で終わりになる。この時「春霞棚引きけり久方の月の桂の花や咲く」の文句がでてきた。
 「疑いは人間にあり。天に偽りなきものを」という天人の言葉を聞いて「あら恥かしやさらば」と言って衣を返したこの二人のやりとりを読んで、今の日韓の関係をはじめとして、昔も今も人間世界は疑心暗鬼に渦巻いており、舌の根の乾かぬ内に前言を易々と翻すなど朝飯前だな、と思わずにはおれなかった。

 もう一つわたしの注目を引いたことを述べてみよう。実は妻が今年五月に急死した。高校時代の仲の良い友達との集まりに、北九州の門司のホテルで食事をしながら楽しく話し合った後、シャワーを浴びようとして、浴室に這入った直後に倒れたようである。医師の診断では「大動脈解離」とあった。真夜中の電話で起こされ、息子の車で門司にある緊急病院に駆けつけた。妻は一室のベッドの上で安らかに瞑目していた。額に手を当てると実に冷たかった。体内に血が通わないとこうなるのかと実感した。
妻は生前わたしに約束してくれと次のように言っていた。

 「葬儀の時、死んだ方の顔を見て下さいと遺族の方がよく言われますが、わたしは出来るだけ見ないようにしています。生前の面影を打ち消すような窶れた顔を見るに堪えないからですよ。だからわたしが死んだ場合は顔を決して人に見せないようにしてください」

 わたしは妻との約束を守った。しかし棺桶に納まっていた妻は、安らかに眠るが如く美しい顔を見せていた。
 葬儀を終えて暫くして、わたしは毎日夕方散歩を兼ねて近くにある「六地蔵像」を拝みに行くことにした。我が家を出て北西の方角へ四百メートルばかり行った最後の五十メートルは急勾配になっているが、その突き当たりが低い丘で、その麓に車が一台通れるだけの粗末に舗装された道がある。この小道から石段があって東南向きの斜面にある墓地に行けるようになっている。この石段を上り始めた場所に、「所郁太郎墓」と矢印のある標識が立っている。
 わたしは墓地の一番上にある彼の墓まで行って見た。そこには大略次のような事が記されていた。

 所郁太郎は岐阜県の生まれで、洪庵の下で勉強した後、京都で開業していたときに長州の志士と付き合い、「七卿の都落ち」に伴って長州に来た。その後高杉晋作の挙兵に加わり参謀として従軍したが、腸チフスにかかって病死した。享年二十八。

彼が長州に来ていたとき井上馨が反対派の者達に斬られて瀕死の重傷を負った。そのとき、洪庵の下で医学を学んだ所郁太郎が呼び出され、彼は焼酎で創口を消毒して疊針で縫って井上の命を取り留めたと云われている。九死に一生を得て助かった井上は、その後明治の元勲にまでなっている。人の運命は分からないものである。この「所郁太郎墓」の指標が立っている丘の麓にあるのが「六地蔵像」で、同じような地蔵像が八十メートル離れてもう一ヶ所ある。
 往復で丁度一キロの距離だから、歩いて帰るとやや汗ばみ夕飯前の運動に最適である。いずれの地蔵像の傍にも「六地蔵の由来」を書いた立て札があるので読んでみた。これまたわたしにとって新知識であった。白く塗った板に次のような事が書かれてあった。

釈迦が亡くなって第二の釈迦と言われる弥勒菩薩が現れるまでの五百六十億七千万年の間、衆生(人間を始めとして、全ての生き物)の苦悩を救われるのが地蔵菩薩である。衆生は業により六つの世界(地獄・畜生・餓鬼・修羅・人間・天上)を経巡るが、地蔵菩薩はその苦しみを救ってくださるのである。

 わたしはこの立て札を読んで、天上にいる天人でもまたそこを離れて輪廻転生を続けるのかなと思った。この場所への行き帰りに人に会うことはめったにない。時々子犬を連れた人が散歩しているのに出会う事があるくらいである。木々の濃き緑が美しい初夏、鶯の鳴き声が聞こえてきた時などは何とも言えない良い心地であった。今や夏も過ぎ道行く途中、住宅が多く建てられて僅かに残る田圃には、黄色く実った稲穂が頭を垂れている。彼岸も間近くなったのを知らせるかのように、赤い彼岸花が目に付きはじめた。この花も毎年この時期になると、記憶を呼び起こすかのように咲き出して、秋の風景に彩りを添えて呉れる。
 この彼岸花が一斉に群れをなして咲き出すと、稲穂の黄、稲の葉の緑、そしてこの彼岸花の赤、これら三色が鮮やかに目を楽しませる。しかしこの先彼岸も過ぎ稲穂も刈り取られた後、この花だけが萎れて褐色に変化し、見るも無惨な姿になっても、何時までも落ちないで細い茎の先にしがみついている。
こうなる前に何故散らないのか。これこそまさに「天人五衰」の一つである「頭上華萎」を象徴しているのだ、とわたしは はた と思った。


                          令和元年九月十五日 記す

 

ログ・ハウス

 仏壇の花が萎れた感じなので、花を求めてログハウスへ行った。文字通り「丸太小屋」である。行く前の事を一寸書いて見ると、今朝は早く目が醒めた。時計を見ると丁度4時だった。昨日は寝過ぎて6時前に起きたのだからまあいいやと思って起きた。
いつものように妻が使っていた机で『枕草子』を読んだ。清少納言と彼女がお仕えした中宮定子とのどちらも負けてはいない女性同士の意地を張る関係が面白かった。それにしても当時の宮廷サロンにはかなりの知的な雰囲気があって、上流貴族の男女の間においてもこのような交流があったのかと驚くほどである。
時間にゆとりがあるので2時間ばかり読んだ。その後いつものように神棚の榊の水と、我が家の仏壇と妻の遺骨を置いている仮の仏壇の花の水を替えようと思ったとき、前述のことに気づいたのである。
 店が開くのは7時だからまだ時間に余裕があるので、座敷、仏間、玄関の間に掃除機をかけ、外に出ていつものように体操と木剣の素振りを行った。昨日までの曇天に比べて朝から青空が広がっている。簡単に着替えて出かけた。我が家から東南の方向にセメントの道が田圃の中を多少曲折して居るが続いている。車は途中から通行可能となって居る。最近新しい家やマンションが建ち、我々が住み始めた頃に比べると格段に多くの住宅が出来て人口も増えた。それでも青田が多少残っているので、その田圃の中の道を歩くと、青々とした稲の葉が風にそよいで目を楽しませてくれる。風も涼しく感じられた。凡そ500メートルばかり行くと国道に出る。そこは車のラッシュで左右を確認して横断道路を横切った直ぐの所に、車を10数台置ける広場がある。其の一郭にログ・ハウスがある。固定客もいるのだろう。いつ行っても7時には数台の車が止まっている。

 一昨日も私はこの店を訪れた。その時私は店主が萩高校の出身だと知ったので、私の教え子のことを尋ねた。店主は宮崎大学農学部出身で、萩市から山間部に入った所の紫(し)福(ぶき)という部落で牧場を経営しているようである。一方私の教え子は萩高校を卒業後、萩から言えば紫福の手前にある福井という地区の萩市管轄の役場に勤務していた。彼らは年齢に多少の開きがあるが仕事上お互いに知っていると思ったので私は尋ねたのである。所が驚き又悲しい事に「藤野君は今年亡くなったです」との返事だった。

 私は野菜を少しばかり買って帰宅し朝食を済ました後、福井の藤野君の家へ電話した。私は萩高校に勤めていたとき、相撲部の顧問を長くした。これまで多くの部員に接しているが、卒業後年賀状のやりとりなどで関係を続けて居るのは非常に少ない。こうした中で藤野君は良く稽古し相撲も強かったから良く覚えている。最近もどうしているかと電話しようと思っていた矢先の事だから、なおさら残念に思い彼の家に電話したのである。
 奥さんが電話口に出て、「昨年市役所を退職する前から『どうも頭の調子がおかしい。認知症の始まりではなかろうか。』こう申しまして退職後山口医大付属の病院に入って精密検査して診て貰ったら頭に腫瘍が出来ていました。すでに手遅れの感があると言われました。本人はもとより私共にとっても本当にショックでした。その後放射能治療を8ヶ月もの間施されました。お医者の言われるままにしましたが、かなりきつかったようで、結局今年の2月27日に亡くなりました。今から思えばこうした治療はするべきではなかった様に思います。主人は息子と娘をよく可愛がっていました。又近所の子供たちに相撲を教えたりもしていまして、萩地区で優勝した事もあります。本人に取りましては残念であったと思いますが、悔いのない人生だったと私は思います。」
 こういったことを長々と話された。彼は実に好い生徒だったので心から悔やみを述べて電話を切った。そしてあと彼の思い出を少し書き、僅かばかりの香奠を包んで奥さんに手紙を出した。
昨年も私のクラスにいて萩高校の教員になった教え子と、外にもう一人これもよく知っていた教え子が亡くなった。人は必ず死ぬ、これは必然的な事である。しかし何時、何処でどのようにして死ぬかは全く偶然である。私は妻の死に直面してこういったことを考える。それにしても定年退職したと言え、まだ家族のため或いは世の中のために活躍できる若い彼らがこうして早く旅立ったのが悲しくも残念でならない。
 
 今朝は先の述べたように花を買った。赤いダリヤの花一把100円なので二把買った。その時、店主に彼と同学年の生徒の消息を尋ねたが、「名前は覚えていますが良くは知りません。あの頃は生徒数が500人を越えていましたから」と笑って答えた。そういえばあの当時の生徒は団塊の世代で一教室に55人いて、すし詰め状態だったのを思い出す。今は1学年4クラスで生徒数も激減して居る。
萩高等学校校歌に「共に進まむ一千余名」とあるが、最早この数になることは絶対になかろう。地方創生と言うが地方衰退の兆しのみ見られる昨今である。


                          2019・7・27 記す
                          

善光寺の柱

                 
 80歳を越えても最近は別に老人として特別に扱われることはない。しかし平均年齢が84歳のわれわれ三人が二泊三日の旅を無事に終えたことは、有難いの一語に尽きる。
 令和の新しい時代を祝う大型連休が終わった翌日、われわれは信州長野に向けて出発した。上田さん運転の車で林さんと二人がわが家に着いたのは5月7日の朝6時半だった。彼らは5時半頃萩を出たのだろう。わざわざ回り道をしてわが家に立ち寄ってくれた。一方林さんはいつも切符と宿の手配をしてくれる。私は「おんぶにだっこ」で感謝有るのみである。
 早起きに慣れている私は別にどうもないが、家内にとって早起きは苦手だがこの日だけは6時に起きて見送ってくれた。新山口駅の出発時間は7時半だから充分時間の余裕はあった。ひょっとして小学生の孫が駅の構内を通って通学するのに会えるかなと思い、しばらく見張っていたが会えなかった。  
出発当日から帰った日まで五月晴れが続き、青空に白雲が浮かんで暑くも寒くもない絶好の旅行日和だった。旅の成否は天候次第だから、今回の旅はその意味で恵まれた。此の度の旅行で大変御世話になった中村氏は、地元では前日まで天気は良くなかったと言っていた。
 新大阪駅で乗り換えて名古屋駅に着いたのが11時25分。さすがに新幹線の運行は時間に狂いがない。名古屋を丁度12時に出発して長野に向かう。「特急しなの」は長野駅に4分ばかり遅れて到着した。
 上田、林の両氏は地理と歴史が専門だから、車窓から遠望出来る山々の名前、あるいは通過した川の名前や古戦場の址などを話してくれて良い勉強になった。松本市に近づいた時、近くにある丘を指さして、「ここが姥捨て山」と林さんが言った時、『楢山節考』の著者である深沢七郎の名前が三人ともどうしても思い出せなかった。

 長野駅は20年近く前に中村さんの案内で訪れたときとは見違えるほど大きく立派になっていた。彼はこの新しい駅の設計に関係していて、構内の通路を拡大するように市長に進言したと帰る日に話してくれた。長野駅善光寺口に太くて真四角の柱が数本聳えるように立って居るのに驚いた。此の前来たときとは全く違う情景である。
駅前の「東急REIホテル」にチェックインした後、タクシーで善光寺を目指した。参道はかなりの長さで石畳が整備されていて緩やかな勾配である。寺に近づいたとき、向かって右側の小道を通って寺の正面に着いた。この小道の両側には多くの宿坊が並び、曹洞宗天台宗に属しているとのこと。「牛に引かれて善光寺」と言うから、その昔はさぞかし全国からの信者で賑わっていたことだろう。
参拝を終えて御堂の右側にある大きな柱の所へ行った。「これは大地震でこの大きな柱がこのように捩れたのです。その時の揺れが如何にひどかったかを物語る証拠です」と林さんが説明してくれた。
旅を終えて帰宅後この柱を思い出し、また林さんが「御嶽山の噴火以来、死火山という言葉はなくなった。萩の笠山も今では死火山とは言わない。」と言っていたので、ネットを開けて見た。
 「善光寺地震」はマグニチュード7.4の大地震で、この国宝の本堂は柱が僅かに捩れただけですんだが、死者が8600人も出たとあった。1847年の5月8日に起こっているから、我々が訪れた170年ばかり前の事である。その後1854年には東海と南海でも安政の大地震があり、更に1855年には江戸の大地震が発生している。
創建以来約1400年のこの寺は地震の外に10数回の火災に遭っているが、復興され護持されてきている。これは民衆の心の拠り所として深く廣く信仰されて来たためである。
 この杉の回向柱は約10メートルの高さがあり、太さは45センチ四方、重さは3トンもある。こうした頑丈な柱に支えられてはいるが、こういった災害が生じた時にも全国から多くの信者がお参りして居たであろう。その時彼らはどうしただろうか。私は寺田寅彦の「天災は忘れた頃にやって来る。」の言葉を思い出した。我々がこうしてやって来たときに起こらぬとも限らない。地震だけは予知できないから。万一東京オリンピックの時大地震が起きたらどうなるだろうかと余計な心配をした。
上記の寅彦の警句を思い出したので、『寺田寅彦全集 第五巻』で「天災と国防」を読んでみた。彼は次のような事を云っている。

 「悪い年廻りは寧ろ何時かは廻って来るのが自然の鉄則であると覚悟を定めて、良い年廻りの間に十分の用意をして置かなければならないといふことは、實に明白過ぎる程明白なことであるが、又此れ程萬人が綺麗に忘れ勝なことも稀である。尤もこれを忘れてゐるおかげで今日を楽しむことが出来るのだといふ人があるかも知れないのであるが、それは個人銘々の哲学に任せるとして、少なくとも一國の為政の枢機に参与する人々だけは、この健忘症に対する診断を常々怠らないやうにして貰ひ度いと思ふ次第である。」
 更に続けてこう書いている。
「日本はその地理的の位置が極めて特殊である為に国際的にも特殊な関係が生じ色々な仮想敵国に対する特殊な防備の必要を生じると同時に、気象学的地球物理学的にも亦極めて特殊な環境の支配を受けて居る為に、その結果として特殊な天変地異に絶えず脅かされなければならない運命の下に置かれて居ることを一日も忘れてはならない筈である。」
 またこうも云っている」
「文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるといふ事実を十分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならない筈であるのに、それが一向にできてゐないのはどいうふ訳であるか。その主な原因は、畢竟さういふ天災が極めて稀にしか起こらないで、丁度人間が前車の転覆を忘れた頃にそろそろ後車を引き出すやうになるからであらう。
彼は最期に次のように言っている。

 「人類が進歩するに従って愛国心大和魂も矢張進化すべきではないかと思ふ。砲弾煙雨の中に身命を賭して敵の陣営に突撃するのもたしかに貴い日本魂であるが、○國や△國よりも強い天然の強敵に対して平生から国民一致協力して適当な科学的対策を講ずるのも亦現代に相応はしい大和魂の進化の一相として期待して然るべきことではないいかと思はれる。天災の起こった時に始めて大急ぎでさうした愛国心を発揮するのも結構であるが、昆虫や鳥獣でない二十世紀の科学的文明国民の愛国心の発露はもう少しちがった、もう少し合理的な様式があって然るべきではないかと思ふ次第である。(昭和9年十一月)
 85年前のこの言葉は今も真実を伝えている。そして今現在正に的中しているのではないかと思った。

 参詣を終えての帰りは、柱のことはすっかり忘れて、 見事に敷き詰められた参道をぶらぶらと歩いてホテルまで帰った。長い間列車に閉じ込められていたので、良い運動になった。約束の丁度5時に中村さんがロビーに現れたので、彼が予約してくれていた同じホテル内の一階で一緒に食事をした。その時、「駅前の柱をどう思われますか。十二本立っています。あれは善光寺の柱を模して設計した物です。」と彼が訊ねた。
これも帰宅後ネットで調べて始めて知ったのであるが、善光寺の本堂は奈良の大仏殿、京都の三十三間堂に次いで我が国では三番目に大きい木造建築で、国宝に指定されている。この巨大な構造物を支えているのが108本の太くて真四角な長い柱である。このお陰で善光寺地震にも耐えたと言うから、当時の匠たちの技量は素晴らしい。ちなみに108本は人間の煩悩の数が108あるということと関係するらしい。寺田寅彦が又次のようにも書いている。
 「今度の関西の風害でも、古い神社仏閣などは存外餘りいたまないのに、時の試練を経ない新様式の学校や工場が無残に倒壊してしまった」
しばらく歓談をした後、中村さんが「明日は8時にホテルまでお迎えに来ます」と言って呉れたので、我々としては大助かり。初めて会った同行の二人も予期せぬ親切に大感激であった。


                         2019年5月16日 記す