yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

潸(サン)タリ

 

平家物語』にある「敦盛最期」は何とも哀しい情景を描いている。敦盛の「ただとくとく頸をとれ」という言葉にうながされ「なくなく頸をかいた」熊谷次郎直実の心中はさぞかしと想像される。

 

 「あはれ、弓矢とる身ほど口惜かりけるものはなし、武芸の家に生まれずは、何とてかかる憂き目をば見るべき。なさけなうも討ちたてまつるものかな」とかきくどき、袖をかほにをしあてて、さめざめとぞなきゐたる。

 

此の事を契機に熊谷直実は出家遁世し、法然上人に帰依したとのことだが、この他に大きな原因があったことを佐藤春夫は『掬水譚』に書いている。

 

私の家の信仰は浄土宗であるから、この「法然上人伝記」を読んでみた。

熊谷直実が縁者との領地争いが昂じて、頼朝の面前で互いに言い争いを陳べる対決の段になって、相手は縦横の辯をまくし立てるのに、戦場では人に引けをとらぬ直実も、生来の訥弁(とつべん)。申し立てもしどろもどろに、誠実さえ疑われて一向に申し分が通らない。終に彼は腹立ち紛れに持っていた証文をその場へたたきつけ、刀を抜いて自分の髻(もとどり)をぷっつりと断り捨て、その場を跳びだして駆け出すとそのまま姿を消した。

頼朝は一方ならず驚いて彼の一途を申しなだめ出家をおもい止まらせようとしたが一向に行方さえも知れない。直実はその間たまたま山中の枯れすすきのなかの小庵に念仏の声を聞き、それが縁で法然に出合うのである。

『掬水譚』では次のように文章が続く。熊谷が知り合った一人の僧に伴われて吉水の法然に初めて会ったときの彼の言葉。

 

「殺生戒はおろかな事、殺生を身の誉にさへ思って、その功積もって受領(じゅりょう)にもならんずる心でをりましたきのふまでのわが身の罪業、怖ろしさの極みでございます。また奸智に長けた輩(ともがら)、相謀って邪悪を遂げる現世の姿、厭(いと)うても厭い切れませぬままに、浄土を欣求(ごんぐ)致す念を発しましたが、こんな罪業重き身には願っても叶わぬかと浅ましく、後生(ごしょう)の程も案ぜられます」

 

 この懺悔の言葉を静かに聞き終わると法然は、浄土の法門の概略から弥陀の本願を説いて聞かせ、罪の軽重を言わず十悪五逆でさへも唯称名し念仏だに申せば、その功徳によって往生する事が出来る浄土が西方に開かれる、と言ったような話をことこまかに語り述べ教えたときに、熊谷は返事の言葉も絶えて潸々(さめざめ)と泣き出して、大粒の涙が手の甲から溢れ落ちた。

 

私は「潸々(さめざめ)」と送り仮名がしてあるこの漢字を始めて目にした。そこで『学研漢和辞典』を引いて見た。全ての漢字の中では「さんずい」のついたのが最も多いのではないかと思うが、いずれにしても「潸」という漢字を始めて目にし、これを「さん」とか「せん」と訓ずると知った。佐藤春夫がこの字を二つ並べては「さめざめ」とは、流石だと思った。

漢和辞典を見ると、「潸」は、涙がはらはらと流れるさま。「念報明時涕毎潸」=明時に報ぜんことを念(おも)ひて涕(なみだ)つねに潸(さん)たり。(陸游・識愧)と引用文が載っていた。

 

萩から山口に移り住んで何よりも有り難く思うのは県立図書館の存在である。駐車場には車が多く見受けられるが館内は割と閑散としている。その上三週間貸し出し可能である。二週間だと直ぐ返却しなければいけないような気がするからだ。私はここに河上肇著『陸放翁観賞』があるのを知ったので、「識愧」という詩が載っているかと思って調べてみたがこの詩は見つからない。岩波書店の『中国詩人選集』を見てみたら、「陸游―陸放翁― 一海知義注」にこの詩が取り上げてあった。河上肇は出獄後に上記の著作に没頭したそうだが、陸游の晩年の政治色の少ない詩を主に取り上げている。

 

数多くの中国の有名な詩人の中で、もっとも多くの詩を作りかつ長く生きたのが陸游だと言われている。彼は一二〇九年に八十五歳で亡くなっている。熊谷直実が亡くなったのが一二〇八年だから、全く同時代を生きたことになる。頼朝が鎌倉に幕府を開いたのが一一九二年であるが、七年後に彼は死んだ。その後北条氏が幕府を受け継ぎ確固たる制度とした。

我が国に所謂「武士道」というか「武士の精神」が誕生したのは、北条時頼時宗の時代だとものの本に書いてあった。北方女真族の金による侵攻で北宋が滅び、南宋が誕生したとき、幾人かの禅僧が我が国に来た。中でも有名なのは無学(むがく)祖元(そげん)だが、これらの優れた禅僧の鎌倉武士への感化は大きい。

陸游は生まれて早々にこうした国難に遭遇し、爾後政府の官僚として憂国の思いを持ち続けた。彼は役を退いた後は故郷に隠遁し農民と親しく交わっている。しかしその間にあっても国家再建の夢は念頭を離れなかった。此の事を頭に入れて「識愧」の詩を見てみる必要があるようだ。

以下、原詩は省いて、一海知義氏の読み下し文と解釈をみてみる。

 

      

 

識愧(はじをしる)

 

  幾年 羸疾(るいしつ) 家山に臥(ふ)し

牧(ぼく)竪(じゅ) 樵夫(しょうふ) 日びに往還す

至論(しろん) 本(も)と求む 編簡の上

忠言 乃(すなわ)ち在り 里閭(りりょ)の間

私(ひそ)かに驕(きょう)虜(りょ)を憂いて 心常に折(くだ)け

明時(めいじ)に報ぜんことを念(おも)いて 涕(なみだ)毎(つね)に潸(さん)たり

寸録(すんろく) 沾(うるお)わずして 能く此(ここ)に及ぶ

細(こま)かに聴きて只だ益ます吾が顔を厚うす

 

一二〇八年の秋、故郷における陸游八十四歳での作。作者の自注に「路に野老に逢い、共に語りて舎(いえ)に帰り、此の詩を賦す」という。百姓じいさんが口にした憂国の情に自ら反省して作った詩。

 

  もう幾年ものあいだ病気がちな私は山に囲まれた故郷に隠居し、牧童やきこりたちと、毎日ゆききする。世の中についてのすぐれた意見をもとは書物の上に求めていた私だが、誠意のこもった言葉は、何とこうした村里の中にこそあったのだ。

「いばりくさっておるえびすどものことを、わたしゃひとりで気にやんで、いつも胸をぶちくだかれたような気持ちになりますだ。このありがたい御代に何とかお報いしたいものと思うそのたびに、涙が溢れてきますのじゃ」

お上からわずかな俸給さえももらっていないのに、よくまあここまでと、ひとつひとつの言葉に耳を傾けていた私は、何もせずに居るおのれのあつかましさにいよいよ恥じ入るばかりだった。

 

 「かたじけない」という言葉がある。漢字では「忝い」とか「辱い」と書く。この意味は(1)「恥ずかしい、面目ない」(2)「もったいない」「恐れ多い」(3)「身にしみてありがたい」と数々あるようだ。(『広辞苑』参照)

西行の歌に、「何事のおはしますかはしらねどもかたじけなさに涙こぼるる」というのがある。西行は感動の涙を流したのであろう。漢字で書けば「涕潸たり」が相当する。

この場合「感泣の涙」で、只普通に「哀しいから泣く」のではなく(3)の「身にしみてありがたい」意味が多分にある。熊谷直実の場合は敢えて言えば(1)と(3)の両方を意味する。そして陸游の出逢った老農は(1)の意味か。

泣くという感情表現は外の動物にもあろうが、やはり人間特有のものだと思う。泣くことによって心が洗われることがある。来し方を顧みて、「潸たる涙」を流すことも時には有っても良いものかと思う。

 

二十一世紀の今日、北朝鮮による拉致問題、またチベットウイグル地区での中国共産党の暴虐行為はあまりに人道を無視している。今を去る八百年の昔、南宋のシナ人が逆に被害者の立場にあった、そして名もなき農夫までもが憂国の情に駆られていた。共産党の幹部連中は時代錯誤もいいところだ。彼等に限らず、大国の為政者には往々にして、涙なき者が出現する。北宋の皇帝一家が金に拉致されたという事は歴史的事実のほんの一例に過ぎない。

 

「潸」という字を調べるうちにいささか脱線したが、熊谷次郎直実と陸游の二人の憂悶の士が、国を隣りにして同時代に生きて居たとことを今回初めて知った。

光陰矢の如し。平成十年九月に故郷の萩を去って山口に来て丁度二十年経った。天皇陛下は満八十五歳の誕生日を迎えられた。多くの国民が祝賀に参加している様子をテレビ中継していた。八十五歳と云えば陸游が亡くなった年齢である。当時としてはまれに見る長寿だっただろう。私は彼の年齢を超えてしまった。徒に長く生きたものである。この先何とか無事にと願い駄文を書いてみた。

 

・・・・・・・・・・・

 

以上の文章を私は平成三十年十二月二十三日に書いた。それからあっという間に時が経った。平成三十一年五月一日に令和元年へと年号が変わった。そして新しい天皇が誕生された。その令和元年五月二十七日に、全く思いも掛けないことに妻が旅先で急逝した。私は妻が亡くなった後一人暮らしを余儀なくされる事になった。これから何とか生きなければならない。子供たちに迷惑をかけないように心身の健康を第一と考え、自らを律しなければいけない。認知症になってはいけない。そう思って『漱石全集』を始めから読み直す事を始めた。然しこれは朝起きて朝食までとし、昼間は何か別の軽い本を読もうと思った。そこで次男に頼んで吉川英治の『宮本武蔵』を「電子書籍」で読めるようにして貰った。 

実はたまたま『人物日本の歴史 10 桃山の栄光』(小学館)で「宮本武蔵」を読んで、日本人として武蔵という人物は、如何に生きるかと云う点で、見習うべきものがあると思ったからである。

私は高校生の時、父の同僚で宮本武蔵を研究されていた伊東勲先生から、小説『宮本武蔵』を借りて読んだことがある。文庫本ではなくて濃紺の表紙の立派な装丁の本だった。そのとき読んだ幾つかの場面を今も覚えている。今回読み直して過去の記憶が多少蘇る。此の度は時間にゆとりが有るのでゆっくり楽しめる。次のような場面があった。

 

武蔵が友人の本位田又八関ヶ原の戦に加わって敗者となった。従ってかれらは残党狩りの対象となり、お甲という女とその娘の朱美の二人が住んでいた家に、武蔵と又八は転がり込んで一時身を隠していたところ、又八はお甲といい仲になるが、武蔵は如何しても帰郷して一人の姉だけには事情を話さなければと思う。しかし負けた西側にいたために故郷に帰る事が容易ではない。関所を破り殺人を犯すとう結果、遂に殺人犯として追われる身になっている。

この武蔵を捕らえようとして、沢庵和尚とお通というかっての又八の許嫁(いいなずけ)が山中で武蔵と出合うシーンを著者の吉川英治はこう書いている。

 

らんらんと光る眼が、じっと、沢庵の影とお通のほうを見ていた。猜疑にみち、殺気にみち、殺気に燃えている眼である。然し沢庵の一種の誘導尋問によって次第に武蔵の心がほぐれてくる。最後に沢庵がいった言葉は武蔵の心を百八十度変える。

 

「日(ひ)名倉(なくら)の山牢にとらわれているおぬしの姉―お吟(ぎん)どのはどうする気かな?」

「・・・・・」

「あの気立てのよい、弟思いのお吟どのを・・・」

 

この言葉を聞いて武蔵は痩せ尖った肩を大きくふるわせ、そして潸然と泣いて叫んだ。すると、沢庵は拳骨をかためて、不意に武蔵の顔を横から力まかせに撲り、

「この、馬鹿者っ!」

と、大喝した。

この後武蔵は沢庵に捕らえられ、千年杉に縛り吊される。その時の沢庵が語りかけた言葉に武蔵は生まれ変わる。

 

「武士の強さとはそんなものじゃないのだ。怖いものの怖さをよく知っている事が人間の勇気であり、生命は惜しみいたわる珠(たま)とも抱き、そし其の死所を得ることが真の人間というものじゃ。おぬしには生まれながらの腕力と剛気はあるが学問がない。武道の悪いところだけを学んで、智徳を磨こうとしなかった。文武二道というが、二道とはふた道と読むのではない、ふたつを供えて一つの道だよ。―わかるか武蔵。」

 

私は武蔵が「潸然と泣いて叫んだ」と吉川英治が書いているのを目にして、二年前に「潸タリ」という文書を書いたのを思い出して、『潸』という文字が一段と強く心に訴えたのである。「さめざめと泣く」というに日本語があるが、この「潸」は「涙がはらはらと落ちるさま」とあり、心機一転、取り返しのつかない事をしたという、悔恨の気持ちが見た目にはっきりするのだと思った。

人生に於いてこのような気持ちを経験して、『潸然』として立ち直ることができた者は幸せだと言えるのではなかろうか。人の一生は決して平坦ではない。山あり谷ありの起伏に満ちたものである。道の途中には落とし穴があるかも知れない。このような道を辿るとき、思いも掛けない不幸に出会うことがある。「禍を転じて福となす」という言葉がある。その不幸こそ却って何らかの閃き、天外からの導きだと感じ、救いの光が射し込んだと思い、素直に感謝と改悛の気持ちで受け取った時、その人間は救われるのではなかろうか。私は妻の死をその様に感じ、感謝してこれから生きなければと思うのである。

 

                         令和二年七月一日 記す