yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

風に聞け何れか先に散る木の葉

 

昭和四十一年に岩波書店から『漱石全集 全十八巻』が発刊されたとき、私は直ぐに注文して手に入れた。あれからもう五十年以上時が経った。各巻はずっしりと重い。しかし活字が大きいので老人になった今は読みやすい。妻も漱石を愛読していて、軽くて便利だと云って『講談社文庫』を読んでいた。確かにこの方が手軽である。しかし送り仮名や当用漢字など、読みやすく現代風に書き換えてあるので、私は意味だけを知るのならともかく、漱石の書いたままの言葉遣いを知る上においては、やはり『十八巻本』の方をよしとする。

 

本は読むときのその人の年齢、つまり人生体験の大小有無によって、理解や関心の度合いが非常に違ってくると思う。大学で曲がりなりにも英文科に籍を置いた以上は漱石だけは読むべきだと思って、就職して安月給ながら全集を買った。当時としては高価(各巻共千弐百円)な買い物だった。私はこの全集を時折書架から取り出す。又買い集めた漱石に関連した多くの研究書も時と場合によって手にすることもある。

昨年妻が亡くなって私はまた漱石の作品を読みたくなったので、『行人』から読み始めて、『こころ』さらに『道草』を読んだ。この後は当然『明暗』を読むべきだが、私はその頃彼が同時に書いていた『思ひ出す事など』や『硝子戸の中』などが集録されている『第八巻 小品集』を先に読もうと思った。

私は漱石の小説はもとより、英文の引用が多くて難解な『文学論』と『文学評伝』なども何とか読んだが、この『第八巻 小品集』の中にあるもの全ては読んでいなかった。この度読んでピンと来るというか非常に面白く感じた。これは先にも云ったように、妻が急死して思いも掛けず一人暮らしになった事が多分に影響しているからだろう。此の事はやはり貴重な人生体験である。

 

この巻の中には長短いろいろな文章が載っている。私は『思ひ出す事など』をまず読むことにした。この中に漱石の俳句〈風に聞け何れか先に散る木の葉〉が出て来た。

私は佳い俳句だと思ってこれを書き写したとき、「何れか」とあって、「何れが」でないことに気が付いた。単に「か」と「が」の違いに過ぎないが意味は大きく違うと思った。

例えば「誰か来たか?」と「誰が来たか?」、「何かあったか?」と「何があったか?」あるいは、「何処か痛むか?」と「何処が痛むか?」といったように、「か」より「が」のほうが一層特定のものを訊ねている。そこで上の俳句であるが、その前に漱石がどのような境遇また心境の下で、この三十一(みそひと)文字(もじ)を詠んだかについて述べておこう。

 

漱石は上に兄四人、姉三人の末っ子で、生まれても歓迎されない存在だったので、生まれた翌年に養子に出されている。その後兄達が次々に肺疾患などで亡くなったので、養家から引き戻されて夏目家を継いでいる。彼は父親に疎(うと)まれ嫌われた存在だった。幼児期彼を愛してくれた母は早く亡くなっている。この幼い時の正常でない生活がトラウマとなって、金銭感覚や人間の心理、特に男女の心理の機微について誠に敏感になって居ると私は思う。彼は特に人間の誠実さ、真面目と云うことに人一倍鋭敏で神経を尖らせている。こういったことのために精神的に悩みが深く、神経衰弱に度々なって居る。

彼がイギリス留学から帰国して、一高、東大で教鞭を執っているとき、昔の養父母が縒(よ)りを戻そうとして、しつこく現れて彼を悩ます状況を『道草』に書いている。彼は大学で講義をするために実に真面目に勉強して、講義内容を夜遅くまで作成している。実際はこうした事から解放されて好きな文学に没頭したかったのである。そうした時、たまたま『猫』を書いたことが契機となって、彼は外にもいろいろと作品を発表した。これらの作品が朝日新聞社の幹部の目にとまった。その結果彼は好条件で入社することになり、教職の道を振り切って作家の道を選んだ。

しかし好きな道を選んだと云っても、月々年々新聞紙上に作品を発表しなければならない。此の事は責任感の強い漱石にとってはこれまた違った面で重圧だった。彼は少しでも読者を楽しませ、読者の目を引く作品をと考えたのである。多くの批評家や研究者の評しているように、漱石の作品はたえず進化発展している。所謂マンネリで読者をうんざりさせるものは一作もない。

私が学生の時、一般教養で「法学」の授業を受講したが、その時の先生は毎年同じノートを持ってきて坐って読むだけだった。毎年学生が入れ替わるから良いようなものの、漱石の態度とは雲泥の差である。

 

さて、こういった精神的に非常なプレッシャーが肉体にも影響を及ぼして彼は胃潰瘍になったと思われる。このような状況下で、先に挙げた〈風に聞けいずれか先に散る木の葉〉を作って日記に書いている。場所は伊豆の修善寺の菊屋という旅館においてである。

明治四十三年の夏のことで、彼は胃潰瘍のため長與胃腸病院に入院して居たが、転地療養のために修善寺の旅館に逗留して居たのである。この俳句を作った後、彼は大吐血を起こし人事不省に陥る。彼は三十分間意識を失ってその間の事は全く記憶にない。しかしこうした大病を患いながらもその時の事を覚えていて克明に書いているのには驚く。

漱石がベッドに臥しながらアメリカの哲学者・心理学者のウィリアム・ジェームス教授の『多元的宇宙』という浩瀚な本を「午前ジェームス読み終える。良い本だと思ふ」と日記に覚束ない文字で認めている。彼は教授の本を非常に愛読していたと思われる。『思ひ出す事など』の「三」に、幾度も教授の亡くなったことに言及している。

 

ジェームス教授の訃に接したのは長與院長の死を耳にした明日(あくるひ)の朝である。

 

思ふに教授の呼(い)息(き)を引き取ったのは、恐らく余の命が、痩せこけた手頸に、有るとも無いとも片付かない脉を打たして、看護の人をはらはらさせてゐた日であらう。

無論病勢の募(つの)るに伴(つ)れて讀書は全く廢(よ)さなければならなくなったので、教授の死ぬ日まで教授の書を再び手に取る機會はなかった。

 

   病床にありながら、三たび教授の多元的宇宙を取り上げたのは、教授が死んでから幾日目になるだろう。

 

   余の病気に就て治療上色々好意を表してくれた長與病院長は、余の知らない間にいつか死んでゐた。余の病中に、空漠なる余の頭に陸離の光彩を抛げ込んでくれたジェームス教授も余の知らない間にいつか死んでゐた。二人に謝すべき余はただ一人生き残ってゐる。

       菊の雨われに閑ある病哉

       菊の色縁に未し此晨

 

もう一つ、此の俳句を作った時、関東・東海地方で大水害が起きて多大の災害が生じ死傷者も出ている。しかし漱石は後になって初めて知ったのである。そのことについて『思ひ出す事など』の「十一」の最後にこう書いている。

 

家を流し崖を崩す凄まじい雨と水の中に都のものは幾萬となく恐るべき叫び聲を揚げた。同じ雨と同じ水の中に余と関係の深い二人は身を以て免れた。さうして余は毫も二人の災難を知らずに、遠い温泉(でゆ)の村と煙と、雨の糸を眺めて暮してゐた。さうして二人の安全であるといふ報知(しらせ)が着いたときは、余が病が次第々々に危険の方へ進んで行った時であった。

 

この記述の後に〈風に聞け何れか先に散る木の葉〉を書き添えているのである。

これまで長々とこの句が出来るまでの経緯を見て来たが、ここでこの句について考えて見よう。

 

漱石は自分が何時死んでもおかしくない状態であったのに生き返った。一方彼を助けようとして治療に当たっていた長與病院長は漱石が生死の間をさまよっていた間に五十歳未満で亡くなっている。また漱石が最も愛読していたジェームス教授も漱石の療養中に亡くなっていたことを知る。さらに云えば洪水で幾多の者が犠牲になっていたことも知らぬに自分は命を長らえた。

こういったことを考えた時、人間の寿命など分かるものか。風に吹かれて散る木の葉のようなものだ。風に聞いたところで、「何れか先」すなわち「何れかの葉が」先に散るのだ、と答えるだろう。さらに「いずれ」は、「その内いずれにしても」と云う意味も含まれている。

風は意のまま気の向くままに吹いている。人間も天意の思いのままに、早く死んだり長生きしたりするのだ。別に誰が先に、誰が後に死ぬということはない。たまたま自分はこうして生き延びたが、いずれは死ぬ身だ。我が命は天命に任すのみだ。

こういった気持ちで漱石はこの俳句を作ったのではなかろうか。この考えは「則天去私」に通ずると言える。ネットに此の詩の英訳が載っていた。

 

Ask  the  wind;

Which  leaf  will  fall  from

The  tree  first ?

 

「シンプルでわかりやすく訳したつもり」と云っているが、これでは真意を伝えない。確かに俳句や和歌を外国語に翻訳するのは生易しいことではない。

「生きとし生けるもの いずれか歌を詠まざりける」と『古今和歌集』の「仮名序」にあるが、早い遅いはあるが、誰も皆いずれは死ぬのだ、と漱石はしみじみ感じたのである。

 

最後に冗談。今回上梓した文庫本『硫黄島の奇跡―白骨遺体に巻かれたゲートル』(文芸社)の帯に、「母が彼の無事を祈って縫い付けた名前。それが奇跡をうんだ」とある。その名前は「オガタ」と右から左に糸で縫ってある。今は普通に左から読むので「タガオ」と読める。先日知人が来たので実物のゲートルを見せたら、「タカオ」と読んだ。「ガ」の濁点がよく見えなかったのだ。たかが濁点、されど濁点である。

 

                         2020・2・13 記す