yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

又(ゆう)玄(げん)

                                  閑楽庵主人

 一昨日は夜中に目が醒めた。時計をみたら一時だった。それから一時(いっとき)眠れないで結局三時頃まで起きていた。その後うとうととしていていたら目覚ましが鳴った。知らぬ間に二時間ばかり寝ていたのだろう。やや寝不足の感はあったが五時だから床を出た。

しかし昨夜は熟睡できた。入浴したのが九時だったので、風呂から上がって直ぐに床に入った。五時に目覚ましが起こしてくれるまでぐっすり休む事が出来た。風呂に入って暖まってそのまま続けて寝たのが良かったのだろう。直ちに洗顔し、布団を上げてその同じ場所に薄い毛布を広げ、座布団を置き、それを尻の下に敷いて坐った。こうして私は机に向かい私の一日が始まるのである。

妻が昨年五月に亡くなったので、一年後の納骨まで遺骨と遺影を座敷の棚の上に置いている。われわれは寝起きの時間が全く違うので、私は二階の書斎で、妻は階下の自分の部屋で過ごしていた。寝るのも各自別の部屋だったが、亡くなってからせめて一緒の部屋にしようと、私は夏から秋が深まるまで座敷で寝るようにしていた。しかし冬になって座敷は夜しんしんと冷えるので、台所と居間兼用の広い部屋に敷き布団の持ち込んで寝ることに変更した。此処なら朝昼晩の食事はもとより、来客があってもこの部屋に通すので、夏季には冷房,冬季は一日中暖房を付けて、私にとっては唯一生活の場である。したがって寝るまで暖かい。外の部屋は皆寒冷地帯と云ったところだから、此処なら暖房の経費節約にもなる。

しかし一日中いるから十日に一度は掃除をする。その時はこの部屋だけではなく家中、階段から二階まで掃除機をかけ、板敷きの場所はモップを用いてきれいにする。今日は二月十日で掃除日に決めているので、階上階下全ての部屋を掃除した。そして神棚から仏壇、さらに座敷と玄関にある三つの花瓶の水まで替えてすっきりした。「明窓浄机」という言葉があるが、幾分こうした気分になる。八時から初めて丁度一時間かかった。

 

このところ私は『漱石全集』を再読して居る。いや再読ではない、三回以上読んだ作品もある。此の度読んだのは、『行人』『心』『道草』である。この後最後の作品『明暗』を読むつもりだが、その前に『第八巻 小品集』読むことにした。この作品だけは所々読んではいるが、全部は読んでいないから此の度読もうと思ったのである。

今回漱石の作品を読んでつくづく思うのは、漱石の文章は、内容の面白さはもとより、比喩や表現の上手さ、それから漢字、それも実に巧妙な宛字で、注意しながら読むと、まさに目から鱗で、改めて感心する。

例えば次ぎのような言葉があった。普通の読み方ではなくて漱石が付けている「フリガナ」が面白い。

 

蜿蜿(うねうね)と  狐鼡々々(こそこそ)と  調戯(からか)った  冷嘲(ひやか)す  憤(むっ)として  軽侮(さげすむ)  淡泊(あっさり)した女

引泣(しゃくり)上(あ)げる  見惚(みと)れる  焦急(じれっ)たさうに  性急(せっかち)の自分 ・・・・ 

 

こうして挙げれば切りがないほどある。

 

さて、こうして掃除を終え朝食を食べ終わり、すこし書見をしたら十時になった。一服しようと思い抹茶を点てて喫した。朝食はパンと珈琲だが、その時以外は必ず抹茶を喫することにして居る。しかし二度以上喫することはない。これまでは別に気にせずに飲んでいたが、この抹茶は『又(ゆう)玄(げん)』という銘で、100グラム入りの紙袋に入っている。

私は今日初めて「又」がなぜ「ゆう」と読むのか不思議に思って『漢和辞典』を引いてみた。そうしたら「又」は呉音で「ゆう」と読むとあった。しかし「又玄」の意味が分からない。辞典を調べてみても載ってはいない。そこでネットに載っているかと思ってみてみたら、果たして次のように説明してあった。

 

「奈良薬師寺の百二十三代管主橋本凝胤師が命名された。“奥深い上にもなお奥深い”という意味。」

 

何で読んだか忘れたが、こんな文章を書留めていた。

 

  いくら山に入っても山に入ったことにはならない。自然に帰ったことにはならない。問題はやはり心である。その心さえあれば雪や雲の山は昼も夜も幽玄を示すに違いなし、「玄の又た玄」の相。

 

橋本凝胤師の後を継いで薬師寺管主になったのが高田好胤師である。凝胤師は自ら律すること厳しくて肉食妻帯をせず、弟子の好胤師を徹底的に厳しく鍛え指導して居る。此の事を好胤師は本に書いている。高田好胤という存在を知ったのは、私の伯母がたまたま宇部市で講演された師の話を聞き、感銘を受けて茶杓を削って薬師寺に寄贈したことから二人の間に不思議な縁が生じたからである。彼はわざわざ山陰の片田舎にまで伯母を訪ねてきている。此の事は拙著『杏林の坂道』に書いた。

 

私は橋本凝胤師が「又玄」の名付け親だと知って、なるほどそういう意味かと納得した。私はこの「又玄」を山口に来てから専ら愛飲し、河崎というお茶屋さんに電話して何時も持ってきてもらう。頼んだら彼はバイクでその日のうちに届けてくれる。客人が見えたときは珈琲や紅茶ではなくて、我が家では祖父の代から何時も茶を点ててもてなすことにして居る。私も家内も毎日喫していたので割と早くなくなる。たしかに心身の疲れたときの一碗の抹茶は効果がある。細かい緑色の沫粒は正に甘露である。そのとき私は何時も同じ萩焼の茶碗を使っている。漱石の事を書いたからついでに云うと、彼は『草枕』の中に茶人についてこんなことを書いている。

 

「極めて自尊的に、極めてことさらに、極めてせせこましく、必要もないのに鞠躬如(きっきゅうじょ)として。あぶくを飲んで結構がるのは所謂(いわゆる)茶人である」

 

漱石はわざと書いているのだろうが、その「あぶく」が何とも言えず美味いのである。ゆっくりと茶筅を動かして出来るだけ小さな「あぶく」が生ずるまで点てたお茶ほど味が良い。お茶は薬にもなると云われている。栄西禅師がもたらしたお茶の種がこうして広まった。いま「又玄」の意味を知って、これからは少しでも、この意にそうような生き方をしなければならないと思うのである。

 

さて、私が毎日使う茶碗だが、それは白い釉薬の大ぶりな萩焼茶碗である。私の父は商業英語のような学課を教えていたようだが、家で本を読む姿を見たことがない。夕飯を済ますとほとんど毎日出かけていた。行き先は当時まだ数軒あった道具屋だったと思う。教師としてはどうかと思う。父は停年になるのを待っていたかのように、退職するとすぐお茶を教え始めた。そして誰でもお茶を習いたいと言って来る人には喜んで教授した。父は心からお茶を愛し、死ぬ前日まで翌日の稽古の準備をしていて、その日の夜に静かに息を引き取った。享年八十四歳であった。晩年は自然を愛し、人生を楽しむ日々だった。「和敬清寂」の精神を生きようとしていたのかも知れない。

そういったことで老若男女いろいろな職業の人が稽古に来た。考えて見ると華道と違って茶道の教授は、準備万端、大変手間の掛かるものである。だから金銭的に見たらプラスにはならない。好きでなければ出来ない。その意味に於いては、父は清貧に甘んじながらも、自分の好きな道を歩んだ良き生涯だったと言える。

 

こうした父の弟子の一人が玉村松月さんだったのである。彼は山口県下でも最も優れた萩焼作家で、この玉村松月さんに父がこの茶碗を貰ったものだと思う。父はこの茶碗を愛用していたが私もこの茶碗が一番気に入っている。外側に比べて茶碗の内側には、飴色の薄い釉薬がかかっていて、鮮やかに貫入が入っている。両手で抱えた時掌にぴったりと当てはまる。ふっくらとした井戸茶碗で、かなり大きく深いものだが軽く感じられる。私は名碗だと思っている。

松月さんの息子さんも一緒にお茶の稽古に来ていた。息子さんは玉村登陽と云う雅号だが、これは私の父が付けたようである。登陽さんが以前私にこんなことを言った。

 

「私の父は大きな手をしていまして、一日に三百箇の茶碗を作ったことがあります。私なんか百箇作れたら御(おん)の字です。それほど父は握力が強かったです。小さいときから粘土をいじっていたからです。今でも私はとても父には敵(かな)いません」

 

松月さんは小学校を出ただけだが、陶芸に関しては抜群の才能があった。息子の登陽さんも父に早くから師事して、日本伝統工芸展など数々の陶芸展に入選している。残念なことに彼は先年亡くなった。私の妻が亡くなって一ヶ月ばかりして、登陽さんのお奥さんとやはり父の後を継いで陶芸作家になった息子さんの二人が突然見えた。

実はわれわれが平成十年に山口に居を移して家を建てた時、登陽さんが「お祝いに今挑戦して居る『紅萩』が出来たら差し上げようと思っています」と云っていた。しかし何かと都合があったのだろう生前には来られないうちに亡くなった。その約束を果たすために奥さんと息子さんが持って来られたのである。私は見事な作品に感激する以上に、その遺志をこうして実現された事に心を打たれ、心から礼を述べた。これはやはり人の和を大事にし、また萩焼を愛した父の気持ちが、玉村家親子三代に通じたものだとも思い本当に有難かった。

                           2020・2・10 記す