yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

梅と百(もも)鳥(とり)

私は先月妻の一周忌の法要を済ませた後、『漱石全集』の全巻をできる限り読もうと心に決めて、「第一巻」の『吾輩は猫である』から読み始めた。漱石は『猫』を日露戦争の最中に「ホトトギス」に連載し始め、続いて数々の小説や随筆を書くにつれて、圧倒的な人気を博した。その後日本が欧米列強に追いつけ追い越せと云った時代に突入して行くのであるが、そういった時、彼は冷静にそれを見据えて絶えず国民に警醒の言葉を投げかけている。そして最後は「則天去私」の心境へと自らを高める努力を重ねている。この事を知るにつけても、今度こそはじっくり漱石を読んで何らかの示唆を得たいと思ったのである。

草枕』を読む傍ら、矢本貞幹(やもとただよし)著『夏目漱石 その英文学的側面』(研究社叢書)を久し振りに読み直したら、「あとがき」に著者はこう云っている。

 

「戦後、日本の自主性を忘れるほどの国際主義に変わってきた。そこで、日本人としての自覚を忘れない漱石と英文学との関係について私は短いエッセイをいくつか書いた。(中略)今度、本書を書くことになって、私は久し振りに敬愛する師に会ったような心持ちになった。そしてあらためて『漱石全集』のあちらこちらを読み直したり、考え直したりして(後略)」

 

まさに同感である。私は意を強くして漱石の作品を続けて読むこととしよう。

「第二巻」の『坊ちゃんを』読んだ後、同じ巻に載っている『草枕』を開いたら、『坊ちゃん』とはがらりと変わった内容と文体に改めて眼を見開かされた。漱石は明治三十八年一月に『吾輩は猫である』を「ホトトギス」に発表した後、明治三十九年四月一日に『坊ちゃん』を、引き続いて『草枕』は同じ年の九月一日から執筆を始めている。それまでにも英文学に関する研究論文なども数多く世に問うている。小説だけに目を向けても、僅か二年間での文章の内容と文体の違いには驚く。私にとって漱石の何が一番面白いかといえば、和漢洋の蘊蓄を傾けて、しかも何の苦もなく流れる様に書かれた文章の妙である。

 

さて、『草枕』を読むと最初にシェリーの雲雀の詩が原文と漱石の訳で載っている。私はこの詩と名訳は最初にこの小説を読んだときから記憶にあるが、今回メレディスの詩に初めて気が付いた。両者の詩とその和訳はここには書かないが、漱石にとって英文は、何の苦もなく読めたのではなかろうかと思う。

実は『草枕』は平成二十四年、二十六年、二十九年と既に三回読んでいる。私はこの作品に出てくる「那古井の温泉場」つまり現在の熊本県玉名郡天水町の小天の温泉宿まで数年前に二人の友と出かけて泊まった。途中にある「峠の茶屋」にも足を止めた。その上宮本武蔵が晩年ここで『五輪書』を書いたと云われる地中かと思えるような冷え冷えとした霊巌洞へも行ってみた。そこには霊巌禅寺や五百羅漢の石仏もあった。途中の山腹に青黒く艶やかな葉を隠すばかりにたわわに実った紅玉のミカンの木が山腹を一面に植えられていた。そのミカンの木々の遙か向こうの眼下に有明の海が太陽の直射を受けて的皪と輝いていた。そうした十月末の良い季節だったのは記憶に新しい。

 

これまで数回読んでいるのにメレディスの詩はまったく覚えがない。迂闊にも素通りしていたのだ。人はよくこの本を読んだ、あの書に眼を通したと言うが、中々頭には残っていないような気がする。それはさておき、今回私はこの詩を読んでみてその意味を私なりに理解し、素晴らしい詩だと感じた。と同時に、この小説が出版されたとき、果たしてどれくらいの人がこの英語の詩の意味を理解したのかしらと思った。今でこそ「注解」として和訳が載っているが、出版当時には訳は付いていない。漱石はそれを承知で書いていたのだ。

これまで別に気にしなかった和歌にも今回注目した。それは小説に出てくる「峠の茶屋の婆さん」が口ずさんだ歌である。

 

あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも

「余はこんな山里に来て、こんな婆さんから、こんな古雅な言葉で、こんな古雅な話をきかうとは思ひがけなかった。」と漱石は書いている。

 

漱石は『草枕』の中に三回この歌を載せている。私はこの歌が『万葉集』の「巻第八」に「日置(へきの)長枝娘子(ながえいらつこ)歌一首」として載っているのを土屋文明の『万葉集私注』で知った。大意としてこう書いてある。

 

 秋になれば、尾花の上に置く露の如く、消えさうに私は思はれることである。

 

私は移り気で一冊の本を読み出したら最後まで外には見向きもしないで読み通すことができない。妻は反対に一冊読み終えたら次の本といった態度だった。したがって私の机の周辺には何時も数冊の本が散らばっている。根気のない証拠だ。こういった訳で私は以前読んだリービ英雄著『英語で読む万葉集』(岩波新書)と、もう一冊大学の恩師に頂いた大部な書、本多平太郎著『完訳 万葉集』の英訳書を二階から持ってきて頁を繰ってみた。

 

リービ氏は長短四十九歌を選んで英訳して解説している。一方本多氏は全部の歌を訳している。かなりの労作だと言えるが、両者を比べて読むと本多氏の訳は何となく堅苦しい感じで、『万葉集』本来の伸びやかさと云うか晴朗たる感じが乏しい様な気がする。

私のような者が、このような事が言える柄ではないが、日本人が日本文を外国語例えば英語に訳すより、日本語を充分に勉強した英米人が自国語に訳す方が優れたものになるような気がする。そういった意味で、リービ氏の訳は実に上手いと思った。

 

そこで『草枕』は一時傍らに置いて『新書』を再読することにした。こんな歌が選ばれていた。

 

わが園に 梅の花散る 久方(ひさかた)の 天(あめ)より雪の 流れ来るかも  主人(あるじ)

 

「私の庭に梅の花が散る。それともはるかな遠い天空から、雪が流れて来ているのだろうか」 (大伴旅人(たびと)、巻5・八二二)

 

 私はこの歌を読んだ時、我が家に柿本人麿の座像を描いた古びた掛け物があったのを思いだした。そして歌も載っていたと思い座敷の戸棚を探してみた。軸の表に「柿本大夫(たいふ)」と書いてあったので、これだと思って拡げて掲げてみた。左側を向き烏帽子を頭にのせた、老いた感じの人麿の座像が描かれていて、その上の方に細くて薄い字で次の和歌が書いてあった。繪も歌も中々繊細な筆遣いで良く書いてある。「大夫とは律令制で一位以下五位以上の称。転じて五位の通称」と『広辞苑』に載っていた。此の軸の真贋はどうも良く分からない。しかし梅が詠われているので曾祖父が求めたことは間違いないだろう。

 

梅の花それとも見えず久方(ひさかた)の天(あま)霧(ぎ)る雪のなべて降れれば

 

この歌は『万葉集』には載録されていなくて『古今和歌集』を調べたら、「三三四」にある。ところが「この歌、あるひとのいはく、柿本人麿が歌なり」とあった。歌の意味は大体分かる。

 

梅の花は、それと区別もつかない。空をかき曇らせる雪が、あたり一面降っているので」

                         (『古今和歌集』小野町照彦訳注)                  

 

確かに曾祖父が手に入れた物であろう。私は「梅」には人一倍関心を抱いている。曾祖父は菅原道真、即ち天神様の信者でその為に梅をこよなく愛していたと聞いている。これまで幾度も言及したが、防府天満宮には梅について曾祖父が詠んだ句碑がある。

 

天満る 薫を此処に 梅の華     佳兆

 

梅原猛が『水底の歌』で人麿の「流罪水死説」を世に問うたのは何時だったか忘れたが、今回『人物日本史1』(小学館)に彼が書いている「柿本人麿」を読んだら、次のような文章があった。

 

 「柳田国男によれば、古代日本において、死後個人として神に祭られるのは、怨念の残るような死に方をした人に限られるというのである。藤原広嗣(ひろつぐ)・早良(さわら)皇太子・菅原道真平将門崇徳天皇など、すべて日本における個人で神に祭られるのは、柳田国男の言うように、怨念の残るような死に方をした人である。それに対し、たとえば天武天皇桓武天皇藤原道長のように、どんなに優れた人物であっても、死に方の普通の人は、神にされていないのである。そういうことを考えると、たとえ人麿がどんなに優れた歌人であっても、死後まもなく神とされていることは、怪しむべきことである。歌の神、人麿、詩の神、道真というのが、日本の文化伝統であるが、人麿は歌の名人であるという点のみではなく、その運命の異常さにおいても、道真と同類の人間ではなかったか。」

 

少し話が逸れたが、私は旅人(たびと)の歌を、前に挙げた『万葉集私注』で調べてみた。是は太宰師大伴旅人が、彼の館で多くの者を招いての席で歌った三十二首の中の一首だと分かった。「梅花歌三十二首并序」とまずあって、三十二の歌が出てくる。私はこの「序」が中々の名文だと思うので先ずそれを書き写してみよう。原文は全て漢字だから、土屋氏の文章を引用する。(原文は旧漢字でふりがなは片仮名だが新漢字で平仮名にする)

 

天平二年正月十三日、師老の宅に萃(あつま)る。宴会を申(の)ぶる也。時に初春令月、気淑(す)み風和ぎ、梅は鏡前の粉(よそほひ)を披き、蘭は珮後の香を薫らす。加以(しかのみならず)曙嶺雲を移し、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾け、夕の岫霧を結び、鳥は穀(こめおり)に封ぜられて林に迷ふ。庭に新蝶舞ひ、空に故雁帰る。是に於て天を蓋(かさ)とし地を坐となし、膝を促して觴(さかずき)を飛ばし、言を一室の裏(うち)に忘れ、襟を煙霞の外に開く。淡然として自ら放(ほしいまま)にし、快然として自ら足る。若し翰苑に非ずば、何を以て情を攄(の)べむ。詩に落梅の篇を記す、古今夫何ぞ異ならむや。宜しく園の梅を賦し、聊か短詠を成すべし。

 

この「序」は山上憶良が書いたものと推定されている。全体の意味はさておき、最後に「詩に落梅の篇を記す」とあって三十二首どの歌も「梅」を詠じている。その中に私の気にいったのがもう一首あった。

 

原文を参考までに書いてみよう。

 

烏(う)梅(め)能波奈(のはな)伊麻佐加利奈利(いまさかりなり)毛々(もも)等(ど)利(り)能(の)己恵能古保志枳(こえのこほしき)波流岐多流良斯(はるきたるらし)

 

「梅の花今盛りなり百鳥の声の恋しき春来たるらし」

(梅の花が今や盛りである。多くの鳥の声の恋しく思われる春が来るであろう)

 

土屋文明氏は私がここに挙げた二首を好意的に評していた。私がこの歌を読んでいて「百鳥」という言葉にはたと気づいた。実は妻が亡くなったのと、この「百鳥」は関係があるからである。妻は高校時代の仲の良い友達数名と毎年宿泊を伴う旅行を楽しんでいた。最近は足腰の痛みがひどくて前年は遂に不参加だった。

「今年は近い所だし、昨年休んだから今年こそはどうしても行こう」

こう云って多少無理を押して出かけたのが終の別れになった。以前こんなことを言ったことがある。

「私たちの集まりに何か名称を付けるというので、私が『百(もも)鳥(とり)会』にしたらと提案したら、皆が賛成したのよ」

 「女性は皆よく喋る。とくに君は話好きだから、皆と一緒にぺちゃくちゃ鳥のようにおしゃべりを楽しむに相応しい名称だな」

こういって笑ったのを思い出した。そして昨年五月二十七日、門司のホテルで、妻は夜遅くまで語り合って、会がお開きになった後、二人部屋のシャワー室に入った直後に倒れて、息を引き取ったようである。人間の命は儚いものである。死はいつやって来るか分からない。

 

天平二年と云えば西暦七百三十年の昔である。大伴旅人はその翌年に六十七歳で亡くなっている。

 

 あをによし 奈良の京(みやこ)は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり

 

この歌に詠われている当時の奈良の京は確かに良かったと思う。旅人は任満ちて帰京して直ぐ亡くなっているが、太宰府における集(つど)いからも想像できるように、彼は結構人生を楽しんだような気がする。数年前、妻と妻の弟夫妻と一緒に「山辺の道」を散策したことが偲ばれる。奈良・京都は何回行っても良い。しかし最近は訳の分からないような外人が多く訪れて気持ちが殺がれる。「観光立国日本」も善し悪しだ。

 

 この拙文の始めに戻るが、全世界が本当に平和になることがあるだろうか。科学がいくら進歩しても、人間に我欲が存する限り、真の平和は中々訪れそうにない。

漱石の最後の漢詩は彼の心境というか願望を詠ったものであろう。

 

眞蹤(しんしよう)寂寞(せきばく) 杳(よう)として尋ね難く

虚懐を抱いて 古今に歩まんと欲す

碧水碧山 何ぞ我あらんや

蓋天蓋地 是れ無心

 

「森羅万象の真実の相は、ひっそりとして静寂であり、まことに深遠で容易に知ることはできない。自分は何とかして私心を去って真理を得ようと東西古今の道を探ねてきたことである。一体、この大自然にはちっぽけな「我」などないし、仰ぎみる天や俯してみる地は、ただ無心そのものである。

(佐古純一郎著『漱石詩集全釈』)仰賦してn多雨材、

 

聊(いささ)か道草を食うたので、また『草枕』を読むことにしよう。『万葉集』には「草枕」を枕詞とした旅の歌が数多くある。例えば聖徳太子の歌(巻3・四一五)。

 

家ならば 妹(いも)が手巻(ま)かむ 草枕 旅に臥(こ)やせる この旅人(たびと)あはれ

 

この歌の解説でリービ英雄氏はこう云っている。

 

旅という境遇に、最も英訳しやすい枕詞が冠されている。

草枕 旅」は、 on a journey  / with  grass  for  pillowとなる。

 

 漱石はこの『草枕』という小説の題名を、『万葉集』を読んでいて思いついたのかも知れない。『草枕』を読み、『野分』も読み終えた。この小説で漱石は登場人物の口を借りて理想的人格論を述べている。明日から「第三巻」に入る。

最後にリービ英雄の『英語で読む万葉集』は、「山上憶良、絶叫の挽歌」の章で終わっているが、その中に次の一首があった。

 

神代より 言ひ伝(つ)て来(く)らく そらみつ 倭(やまとの)国(くに)は 皇(すめ)神(がみ)の 厳(いつく)しき国

 言霊(ことだま)の幸(さき)はふ国と 語り継ぎ 言い継がひけり・・・                        

 

「神代より言い伝えてきたことに、そらみつ倭の国は、皇神の厳しい国、ことばの霊力に恵まれた国と語り継ぎ言いついできた・・・」(山上憶良、巻5・八九四)

 

この拙文の始めに書いたように、和漢洋の学識に富んだ漱石が、蘊蓄を傾けてそれに関係する豊富な言葉を彼の作品に縦横に用いているので、私は不明の言葉を辞書などで調べながら読まざるをえない。しかし別に時間に制限されない今、こうした読書も楽しいことである。言うなれば「閑を楽しむ」老後の日々である。

 

2020・6・27 記す