yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

露草

                  一

夜中の二時過ぎにトイレに行き寝床に戻ったが眠れないので、電子書籍で『私本・太平記』を読んだ。吉川英治のこの作品によって、足利尊氏と、『新・平家物語』に出てくる平清盛が、正当に評価される大きなきっかけになったと言われている。我々が戦前に小学校で受けた歴史教育では、尊氏と清盛は国賊として教えられた。
現代のいわゆる「団塊の世代」のものたちは、日教組左翼共産主義思想によって、一種の自虐思想を植え付けられているような気がしてならない。若いときに染みこんだ考えは容易には拭い去らない。物事を客観的に正当に判断すると言うことは極めて難しいと思う。人間は皆自己中心的に考えるからである。相手の立場に立って正しく考え行動することは果たして可能だろうか。人は皆多かれ少なかれ我執を持っている。だから人類は永遠に争いを止めない。特に隣り合わせた人や国とはちょっとしたことがきっかけで、意見の違いが生ずると、それが取り返しの付かないように迄発展する。ましてや当初から相手を悪く思い、偏向教育を叩き込まれたらその考えは一生変わらない。国家の基本となるものは、正しい教育を子供に授けることだとつくづく思う。
四時になったので、床を出て洗顔した後、今度は『彼岸過迄』を開いた。大した事件はないが登場人物の心理描写や会話が面白い。漱石の四十歳を過ぎたばかりの文章だが、これだけの事を書くとは、漱石の知識の深さと大きさ、又経験の豊富なのには驚く。
漱石の最後に生まれた幼子(おさなご)が突然死んだ事を踏まえて、この作品の中に書いている。余程悲しかったのだろう。朝露のはかなさを知らしめる様だった。

七時前になったのでプラ容器包装を出す日なので、大きな透明のビニール袋二つを提げて二百メート先の収集場へ持っていった。既に同じ物が山と積まれていた。マスクをした当番の女性が二人腰掛けて話して居た。私を見て軽く頭を下げたので私も挨拶した。此処まで来たので、ついでだから「六地蔵」まで朝の散歩をしようとさらに先に進んだ。道が枝分かれした所で、自動車道路を横断して1メートル幅の溝川に沿った小道を歩いていたら、朝露に濡れた草の中に、鮮やかな藍色の嫋(たお)やかな露草が二本だけ、如何にも仲良さそうに咲いているのが目に入った。小さなミッキー・マウスのような感じだ。先日栗の写真を撮った近くだったので、この花も拡大して見てみようと思って、前後を考えずに一本だけ摘み取った。しかしその後ちょっと後悔した。
「さっきのゴミの収集場で二人の女性が仲良く話して居た。この二本の可憐な露草も同じように、人間には分からないが、ひょっとしたら短い朝の一時を睦まじく語り合っていたのではなかろうか。それが無残にもあっと云う間に摘み取られ、残った露草は嘆き悲しんでいるのではなかろうか。可哀想なことをした」
こう思うと少しでも早く家に帰って、コップの水の中に入れたら元気になるだろうと思い、散歩を中断して家に帰った。そしてじっくりカメラを向けてみた。
私はこの年になって始めて「ツユクサ」の姿をよく見た。またネットで調べることによってその実態を知った。
朝咲いた花が昼にはしぼむ事から朝露を連想して「露草」というとか、青い花瓣が着色しやすいことから「ツキクサ」がなまって「ツユクサ」の命名といった説がある。英名も「day flower」言う、その日のうちにしぼむからだろう。写真に撮って拡大してみたら可憐な姿が良く分かった。ネットに載っていた説明で、仮雄しべが三本、本物の雄しべが二本、雌しべが一本あることを知った。
それにしても朝あれほど可憐で美しく見えていた花が、昼には花瓣も雌雄の蕊(しべ)も縮こまって姿を消しているのは不思議な気がした。今朝もう一度見てみたら、色さえ消えて前日の姿は想像だに出来なかった。まさに露の消えると共に萎れる草花だと実感した。

実は地面にあのまま生えていたら多少でも長持ちするのではないかと思って、夕方また朝と同じコースを歩いてみた。所がいくら探しても露草の影も形も見当たらない。再度引き返してじっくり川縁の草の中を探してみたが駄目だった。
萬葉集』に露草を歌った歌が幾つもある。その中の一首。

朝露に咲きすさびたる月草の日くだつなへに消ぬべく思ほゆ

大意「朝露に咲き盛っていた月草が、日の傾くと共にしぼむ如く、吾が命も消えそうに思われる」  (『萬葉集私注 巻十 二二八一』)

 万葉の人々は「はかなさ」と言うことに対して、現代人よりもはるかに感受性が強かったように思う。数学者の岡潔氏が「頭で学問をするものだという一般の観念に対して、私は本当は情緒が中心になっていると言いたい。・・・とりわけ情緒を養う教育は何よりも大事に考えなければならないのではないか、と思われる」と言っておられる。 
若くしてIT産業で大金を手にして、その使い道たるやまことにお粗末なのが居ると聞く。「もののあわれ」を知り、情操豊かな人間を教える教育を為政者はもっと考えるべきである。大臣にも文科省にも優れた人材が乏しいよう様に思えてならない。「出会い系バーで貧困調査」とうそぶいた、あの前川前文科次官をつい思い出す。このような厚顔無恥な高級官僚をのさばらす為に、先の戦いで若人達は国のために尊い命をなげうったのではなかろう。

   

                 二

話をもとに戻そう。夕方露草を探したが見つからないので、私は朝方途中で止めた散歩を改めてすることにした。「六地蔵」を拝んだ後、何時ものように石段を数段昇ってやや平たい所にあるレンガの仕切りを跨ぐ前に、それほど古くもない墓石が目に留まった。それを隠すが如くに「藪倒し」という蔓草が巻き付いていた。私はこの草を見る度に若い時の、我が家の橙畑でのこの蔓草と悪戦苦闘をした事を思い出す。ところが、この墓石の近くにもう一基の墓が建っていた。それには草は巻き付いていなかった。私は今日に限って何気なくその墓の側面に彫られている文字を見てみた。やや見え難(にく)かったのでカメラを提げていったので写真に撮った。帰って拡大して見たら次の様に彫ってあった。

昭和十八年七月十二日コロンバンカラ島沖夜戦
巡洋艦神通にて戦死
   原田金次次男享年二十六才

次男の文字がやや小さめに彫ってあった。私は「コロンバンカラ島」が何処にあるかと思って妻が買っていた『大きな文字 地図帳』を見てみたが見つからないので、ネットで調べたら、次のような書き出しで実に詳しく載っていた。

コロンバンカラ沖海戦又は夜戦。太平洋戦争(大東亜戦争)中の1943年7月12日にソロモン諸島コロンバンカラ島沖で発生した戦」

私はそこで大判の重い「講談社タイムズ編」の『世界全地図』を開いてじっくり見てみたら、ソロモン諸島ガダルカナル島の左上の方にやっと見つけることが出来た。実に小さい島で、たしかに「コロンバンガラ島」と載っていた。
しかしここで日米海軍による死闘というか大きな海戦が行われたのである。今から約七十七年前のことである。弱冠二十六才の若さで原田氏はこの戦いで、国のために命を捧げた。国のためとは言え、父親の金次氏は断腸の思いでこの墓石を建てたのであろう。次男とあるから子供の頃は兄弟仲睦まじく遊んでいたのではなかろうか。
私は二本の露草の事を思った。露草は朝に咲いて昼には凋む。人間の命といえども悠久の時の流れからいえば一瞬である。儚いものである。しかしその命は短くとも、自然の生命を保って、自然に死ぬのがすべての生あるものにとっての生き方であろう。しかし運命のいたずらか、こうして若くして命を奪われた人の事を思うと本当に気の毒でならない。
私の従兄も硫黄島の洞穴の中で自爆死した。戦争は絶対にあってはならない。何とか世界に本当の恒久的な平和が訪れないものか、と願って止まない。
                         2020・8・27 記す