yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

善光寺の柱

                 
 80歳を越えても最近は別に老人として特別に扱われることはない。しかし平均年齢が84歳のわれわれ三人が二泊三日の旅を無事に終えたことは、有難いの一語に尽きる。
 令和の新しい時代を祝う大型連休が終わった翌日、われわれは信州長野に向けて出発した。上田さん運転の車で林さんと二人がわが家に着いたのは5月7日の朝6時半だった。彼らは5時半頃萩を出たのだろう。わざわざ回り道をしてわが家に立ち寄ってくれた。一方林さんはいつも切符と宿の手配をしてくれる。私は「おんぶにだっこ」で感謝有るのみである。
 早起きに慣れている私は別にどうもないが、家内にとって早起きは苦手だがこの日だけは6時に起きて見送ってくれた。新山口駅の出発時間は7時半だから充分時間の余裕はあった。ひょっとして小学生の孫が駅の構内を通って通学するのに会えるかなと思い、しばらく見張っていたが会えなかった。  
出発当日から帰った日まで五月晴れが続き、青空に白雲が浮かんで暑くも寒くもない絶好の旅行日和だった。旅の成否は天候次第だから、今回の旅はその意味で恵まれた。此の度の旅行で大変御世話になった中村氏は、地元では前日まで天気は良くなかったと言っていた。
 新大阪駅で乗り換えて名古屋駅に着いたのが11時25分。さすがに新幹線の運行は時間に狂いがない。名古屋を丁度12時に出発して長野に向かう。「特急しなの」は長野駅に4分ばかり遅れて到着した。
 上田、林の両氏は地理と歴史が専門だから、車窓から遠望出来る山々の名前、あるいは通過した川の名前や古戦場の址などを話してくれて良い勉強になった。松本市に近づいた時、近くにある丘を指さして、「ここが姥捨て山」と林さんが言った時、『楢山節考』の著者である深沢七郎の名前が三人ともどうしても思い出せなかった。

 長野駅は20年近く前に中村さんの案内で訪れたときとは見違えるほど大きく立派になっていた。彼はこの新しい駅の設計に関係していて、構内の通路を拡大するように市長に進言したと帰る日に話してくれた。長野駅善光寺口に太くて真四角の柱が数本聳えるように立って居るのに驚いた。此の前来たときとは全く違う情景である。
駅前の「東急REIホテル」にチェックインした後、タクシーで善光寺を目指した。参道はかなりの長さで石畳が整備されていて緩やかな勾配である。寺に近づいたとき、向かって右側の小道を通って寺の正面に着いた。この小道の両側には多くの宿坊が並び、曹洞宗天台宗に属しているとのこと。「牛に引かれて善光寺」と言うから、その昔はさぞかし全国からの信者で賑わっていたことだろう。
参拝を終えて御堂の右側にある大きな柱の所へ行った。「これは大地震でこの大きな柱がこのように捩れたのです。その時の揺れが如何にひどかったかを物語る証拠です」と林さんが説明してくれた。
旅を終えて帰宅後この柱を思い出し、また林さんが「御嶽山の噴火以来、死火山という言葉はなくなった。萩の笠山も今では死火山とは言わない。」と言っていたので、ネットを開けて見た。
 「善光寺地震」はマグニチュード7.4の大地震で、この国宝の本堂は柱が僅かに捩れただけですんだが、死者が8600人も出たとあった。1847年の5月8日に起こっているから、我々が訪れた170年ばかり前の事である。その後1854年には東海と南海でも安政の大地震があり、更に1855年には江戸の大地震が発生している。
創建以来約1400年のこの寺は地震の外に10数回の火災に遭っているが、復興され護持されてきている。これは民衆の心の拠り所として深く廣く信仰されて来たためである。
 この杉の回向柱は約10メートルの高さがあり、太さは45センチ四方、重さは3トンもある。こうした頑丈な柱に支えられてはいるが、こういった災害が生じた時にも全国から多くの信者がお参りして居たであろう。その時彼らはどうしただろうか。私は寺田寅彦の「天災は忘れた頃にやって来る。」の言葉を思い出した。我々がこうしてやって来たときに起こらぬとも限らない。地震だけは予知できないから。万一東京オリンピックの時大地震が起きたらどうなるだろうかと余計な心配をした。
上記の寅彦の警句を思い出したので、『寺田寅彦全集 第五巻』で「天災と国防」を読んでみた。彼は次のような事を云っている。

 「悪い年廻りは寧ろ何時かは廻って来るのが自然の鉄則であると覚悟を定めて、良い年廻りの間に十分の用意をして置かなければならないといふことは、實に明白過ぎる程明白なことであるが、又此れ程萬人が綺麗に忘れ勝なことも稀である。尤もこれを忘れてゐるおかげで今日を楽しむことが出来るのだといふ人があるかも知れないのであるが、それは個人銘々の哲学に任せるとして、少なくとも一國の為政の枢機に参与する人々だけは、この健忘症に対する診断を常々怠らないやうにして貰ひ度いと思ふ次第である。」
 更に続けてこう書いている。
「日本はその地理的の位置が極めて特殊である為に国際的にも特殊な関係が生じ色々な仮想敵国に対する特殊な防備の必要を生じると同時に、気象学的地球物理学的にも亦極めて特殊な環境の支配を受けて居る為に、その結果として特殊な天変地異に絶えず脅かされなければならない運命の下に置かれて居ることを一日も忘れてはならない筈である。」
 またこうも云っている」
「文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるといふ事実を十分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならない筈であるのに、それが一向にできてゐないのはどいうふ訳であるか。その主な原因は、畢竟さういふ天災が極めて稀にしか起こらないで、丁度人間が前車の転覆を忘れた頃にそろそろ後車を引き出すやうになるからであらう。
彼は最期に次のように言っている。

 「人類が進歩するに従って愛国心大和魂も矢張進化すべきではないかと思ふ。砲弾煙雨の中に身命を賭して敵の陣営に突撃するのもたしかに貴い日本魂であるが、○國や△國よりも強い天然の強敵に対して平生から国民一致協力して適当な科学的対策を講ずるのも亦現代に相応はしい大和魂の進化の一相として期待して然るべきことではないいかと思はれる。天災の起こった時に始めて大急ぎでさうした愛国心を発揮するのも結構であるが、昆虫や鳥獣でない二十世紀の科学的文明国民の愛国心の発露はもう少しちがった、もう少し合理的な様式があって然るべきではないかと思ふ次第である。(昭和9年十一月)
 85年前のこの言葉は今も真実を伝えている。そして今現在正に的中しているのではないかと思った。

 参詣を終えての帰りは、柱のことはすっかり忘れて、 見事に敷き詰められた参道をぶらぶらと歩いてホテルまで帰った。長い間列車に閉じ込められていたので、良い運動になった。約束の丁度5時に中村さんがロビーに現れたので、彼が予約してくれていた同じホテル内の一階で一緒に食事をした。その時、「駅前の柱をどう思われますか。十二本立っています。あれは善光寺の柱を模して設計した物です。」と彼が訊ねた。
これも帰宅後ネットで調べて始めて知ったのであるが、善光寺の本堂は奈良の大仏殿、京都の三十三間堂に次いで我が国では三番目に大きい木造建築で、国宝に指定されている。この巨大な構造物を支えているのが108本の太くて真四角な長い柱である。このお陰で善光寺地震にも耐えたと言うから、当時の匠たちの技量は素晴らしい。ちなみに108本は人間の煩悩の数が108あるということと関係するらしい。寺田寅彦が又次のようにも書いている。
 「今度の関西の風害でも、古い神社仏閣などは存外餘りいたまないのに、時の試練を経ない新様式の学校や工場が無残に倒壊してしまった」
しばらく歓談をした後、中村さんが「明日は8時にホテルまでお迎えに来ます」と言って呉れたので、我々としては大助かり。初めて会った同行の二人も予期せぬ親切に大感激であった。


                         2019年5月16日 記す