yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

朝起きて

 

昨晩は早くも八時半に眠気を催した。風呂から上がってマッサージ器具に掛かっていたら、ついうとうとしたので、これはいけないと思ったので、まだ九時前だったが床を敷いて横になった。それからすぐ寝入ったのか、今朝眼が醒めたのは丁度三時だった。トイレに行きまた床に入ったがもう眠れないので思いきって起きた。

三時十五分になっていた。洗顔の後、愈々今日から漱石全集の第九巻『文学論』を

読むことにした。この本は此れまでに三回ほど開いている。今年四月にも読んで、文末に次のように記している。

 

「令和二年四月二十五日読了(六時五分) 丁度一ヶ月かかった。再読すればもっと理解できようが時間なし。一応読んで良かったと思う」

 

この『文学論』を最初から最後まで読み通して、完全に理解できて楽しかったという人は少ない、と云った趣旨のことをある英文学者が言っていた。しかし彼はこの作品の校注をし終えて楽しかったと書いている。  (『文学論』宮崎孝一校注 講談社学術文庫

漱石がこれを最初に上梓したときは、「注解」つまりも引用した英文に日本語訳を付けていなかった。この事を思うと漱石の文章を理解した人は、かなり英語の読める人だったろう。私は此の最初の版を読んで早々にお手上げだった。その後昭和四十一年に岩波書店から出た「注解」のあるのを読み、また上記の講談社版も併せ読んだ。しかしやはり楽しく読んだとはとても言えなかった。だが、この本の「序」だけは多くの人が言及していて有名である。私は昔大学を出て始めて「序」の中に書かれている次の言葉を読んだとき、漱石の学問に対する真摯な態度を知った。この「序」はかなり長いもので、始めから終わりまで、読む人の心を打つ名文だと思う。その中の次の一節は特に有名である。

 

「春秋は十を連ねて吾前にあり。學ぶに餘暇なしとは云はず。學んで徹せざるを恨みとするのみ」

もう一節こういった文章もある。

「留学中に余が蒐めたるノートは蠅頭(ようとう)の細字にて五六寸の高さに達したり。余は此のノートを唯一の財産として帰朝したり」

 

彼はこのノートを基に東大で講義をしたのである。私は漱石が好きだから、これまで小説類は全て読んではいるが、全作品を読んではいない。そこで此の度は彼の日記やメモや書翰など全てが収まっている漱石全集・全十六巻を読もうと思ったのである。そう思って今年六月二十八日に第一巻『吾輩は猫である』を読み終え、続いて順次に読んで第八巻の『小品集』を先月末に丁度読み終えた。以上の作品の中では『思ひ出す事など』が一番心に残った。やはり私自身が歳を取り、死ということを真面目に考えるようになった為かと思う。特にこの中に載っている漱石自作の漢詩がよかった。例えばこんなのがある。

 

 独り坐して啼鳥を聴き

 門を関(とざ)して世嘩(せいか)を謝す

 南窓 一事無く

 閑に写す 水仙

 

今云ったようにこれまでは、いわゆる小説や随筆と云ったものだから割と読み易く思ったが、この『文学論』は中々歯が立たない。峨々たる山岳に挑戦するようで、ただ難しくて骨が折れたと云った感じしか持たなかった。山巓(さんてん)に辿りつき、そこに立って登り来た道を振り返り、また四囲の風景を俯瞰したり、広々とした蒼空を仰ぎ見るといった爽快感はなかった。要するに私には難しかったと云うことだ。しかしこれで正確には三度目だから、今度は少しは理解できて面白く読めるようになれたらと思っている。老いてテレビだけ漫然と見ていたのでは早く惚けるというから、その意味でも何とか挑戦しようと思ったのである。

 

今朝起きて「序」だけ読むのに一時間半掛かった。私は同じ本だけ読み通すということが出来ない。いくら面白いと思っても、二時間ばかり読んだら気分転換に別の本を読む。だから机には各種の本が積まれている。この夏過ぎに「オクラと蛙」という駄文を書いたが、その中に出てくる蛙には感心した。蛙はオクラの破れ葉の上にちょこんと坐って殆ど一日中動かない。それに比べたら吾が身を省みると恥ずかしい。それにもう一つ、最近血圧が高くなったので、あまり無理をしないようにしていることもある。

まあそう言った訳で、一休みしようと思い、ポットに水を注ぎ、沸かして抹茶を点(た)て、温泉津(ゆのつ)の温泉宿で売っていた「蕎麦饅頭」で一服した。こうして一休みして次に取り上げたのは、長與善郎著『竹澤先生と云ふ人』である。

 

私がこの本を読もうと思ったのは、先に述べた『思ひ出す事など』の中に出てくる長與胃腸病院の院長に、漱石が大変世話になったと書いてあった事に関連する。院長の長與称吉氏は、適塾福沢諭吉の後を嗣いで塾長になった長與専斎の長男で、善郎は五男の末子である。三男の又郎は医学博士で東大の学長になっている。錚錚たる家柄である。私は善郎が里見弴や武者小路実篤たちと仲がよく、優れた作家であることだけを知っていた。そこで、どんな作品を書いているかと思い、講談社の『日本文学全集』の中から「里見弴・長與善郎集」を書架から取りだし、多くの作品の中でこの『竹澤先生と云ふ人』が代表作と云われていたので読むことにした。まだ三分の一も読んでいないがやや哲学的で真面目な内容で結構面白く読むことが出来た。

 

漱石が『三四郎』を書いたのが明治四十一年(一九〇八)だから四十一歳の時である。長與氏がこの本を書いたのが大正十四年(一九二五)で三十八歳の時である。何故二人の作品をここに取り上げたかというと、『三四郎』には広田という先生が出て来るし、こちらにはただ先生とだけあるが、いずれの先生も、その言動が私には興味を覚える面があるように思えるからである。それにしても漱石も善郎も四十歳前後でこのような作品を書いているから驚く。

ついでに言うと、私は先月末、二人の友人と三人で島根県の旅をした。平均年齢は八十五歳を超している。一番若いと言っても、八十四歳の友人が軽自動車を運転してくれた。幸い同県はコロナ感染がないので安心して行けたが、それでも何処へ行っても細心の用心がなされていた。三瓶山や石見銀山、それから温泉津温泉などを廻(めぐ)った。同行の一人が毛利藩の事に特別詳しいので、毛利元就の長男の毛利隆元の墓、毛利と尼子の熾烈な戦いの跡、あるいは元就の身代わりとして戦った「七騎落ち」と言われる曲がりくねった狭い道などを実地に見学した。毛利と尼子は山吹城と大森銀山を支配できれば天下を手にすることが出来るということで、幾度も激戦を展開したと初めて知った。

そういうこともあって帰宅後、小学館発刊の『人物日本の歴史』の中の「戦国の群雄」で毛利元就の伝記を読んだ。元就の生涯は戦いに次ぐ戦いで、権謀術数、七十五歳まで生きているのには驚く。ついでに同じ全集の中の「鎌倉の群英」の中にある北条時頼も読んで見た。時頼は弱冠二十歳で第五代執権になり、鎌倉幕府を安定させ、三十歳で隠退出家し、三十八歳で亡くなっている。此れより凄いのは、時頼の子北条時宗が父の後を嗣いで執権になったが十七歳の時である。それから十三年後の弘安四年(一二八一)の再度の元の襲来に、日本の軍勢のトップとして立ち向かい、見事元軍を撃滅したときは三十一歳の若さであった。そして彼は心労のためか三十三歳の若さで亡くなっている。

時頼は鎌倉に建長寺を建て、時宗は宋から無学祖元を招いて円覚寺の開山としているが、いずれも今から考えたら、若くして日本のために身命を賭し、日本を救った偉大な人物である。

これを思うと当時の日本人、特に鎌倉武士は実に立派である。三十歳と云えば今は大学を出て数年経ったばかりの年齢である。とても日本を背負い日本国民の為に命を投げ出すと云うことは考えられない。このような現状において、僅かに救いになる記事がネットに出ていた。それはイージス艦の艦長に女性の自衛官が始めてなったこと、またF-15戦闘機に女性初のパイロットがでたというニュースである。今は男女同権、金儲けにのみ目を向けている多くの国民の中にあって、こうした人物がいるということは、我が国にもちょっと希望がもてるような気がした。

                         2020・12・3  記す