yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

二枚の皿

 まず写真を見ていただこう。左側の皿は直径十六センチの陶器で、鳥の絵と「言問」の二字が書いてある。恐らく私の祖父か曾祖父が明治の初めかそれより前に、江戸か京都で手に入れたものであろう。いずれも多少絵柄は異なるが大体同じような鳥の略画と外にこのような文字が書いてある。これは五枚揃いの中の一枚である。

一方右側の皿は直径が十一センチで、私が十数年前にワーズワスで有名なイギリス湖水地方を訪れたとき記念に買った物で、三枚とも全く同じ黄水仙の絵と詩が印刷された磁器製である。

 私はかねてよりイギリスを訪ねたいと思っていたので、幸い同行者を得たので彼と一緒に出かけた。もう十数年前になるが、「イギリスの田園地区」を周遊するバス旅行だった。ロンドンからスコットランドエジンバラ、さらにその北のネス湖まで行き、帰りはイングランド南西部にあるストンヘンジの巨石群の遺跡などを見学した。

ワーズワスの水仙の詩は高校の英語の教科書に載っていて、多くの人が知っている有名なものである。その時一緒に買った絵はがきも見て頂こう。我々一行はこの湖の畔の旅館で一泊した。二人は朝早く起きて湖畔を散策した。白鳥が数羽湖水に浮かんでいたが、遊覧船は係留されていた。爽やかな朝の静かな雰囲気だった事が記憶に残っている。

詩の訳はネットでも読むことが容易にできるが、私の手元にある訳を借用しよう。

 

             黄水仙

                ウイルヤム・ワーヅワス

 

    谷や小山の上の大空高く漂うてゐる雲の様に

    一人寂しく(山地)を徜徉してゐた時、

    忽然として私の目に入ったのは、

    湖水の岸辺に、又木の下影に咲き乱れ、

    微風に吹かれてはためき踊ってゐる

    夥しい数の黄金色の黄水仙だった。

 

    天の河に光り燦いてゐる 

    星の様に連綿として、

    その黄水仙の花は湖水の岸辺に連り咲き

    長い長い帯の様になってゐた、

    頭を上げ下げして活発に踊ってゐる

    一萬位の黄水仙の花を私は一目に見たのだった。

    その黄水仙の花の咲いてゐる側で湖水の波が踊って

ゐたけれども、

    黄水仙の愉快な様子はきらめき踊ってゐる波の及ぶ

    ところではなかった。

    かかる愉快な花の中に立ち交じって

    詩人である私は晴れやかな気持ちにならざるを得なかった、

で、私はつくづくと黄水仙の花に眺め入ったが、併し

この光景が私に貴重な印象感銘を与へたことに当時私は

思ひ至らなかった。

 

と言ふのは、私が茫然とし、又悵然として床に身を横たへる時、

その黄水仙の花は閑寂な生活をしてゐるものの喜である

あの心眼に屢々ひらめき映るのだ、

さうしてその時私の心は喜に充ち渡り、

黄水仙の花と共に踊り出すのだ。 

                       (『英詩詳釋』山宮允著)

 

この絵葉書の片面にワーズワスの妹ドロシーの『日記』の一部が抜粋してある。1802年4月15日の日付である。それを拙訳で紹介してみよう。

 

  私達がGowbarrow Parkを越えた森の中にいた時、水際近くに二三本の黄水仙を見た。私達は湖がその種を岸辺まで浮かべ寄せたのだろう、そしてその小さな群生が生じたのだと想像したーしかし水際に沿って歩むにつれ、だんだん数多く、最後は木々の大枝の下に、渚に添って長いそれらの帯が、ほぼ田舎の有料道路の幅となって在るのを見た。私はこれほど美しい黄水仙が苔むした石の間にあちらこちらと、中にはこれらの石の上に疲れて臥すように頭を横たえ、又残りのものはまるで湖の上を渡ってかれらの上に吹く風と共に心から笑うが如く、頭を持ち上げたり、よろめいたり、踊っているのを見たことがなかった。彼らは絶えずきらめき絶え間なく形を変えて非常に快活に見えた。この風が直接湖の上を渡って彼らに吹きつけたのだ。あちらこちらと、小さな群れ、又数ヤード高くなったところに、はぐれた群生も在ったが、それらは非常に僅かなので、あの一団の道路一面の幅で咲いている陽気な花。その簡素さ、統一性そして生命力を妨げるものではなかった・・・

 

ワーズワスの妹も流石詩人である。彼女はその時見た情景を散文で描写しており、兄は詩に書いたのである。

 

さて、今度は鳥の絵が描かれてある皿である。これを見て直ぐ分かる人が居られたら私はその方の見識というか、教養に頭を下げよう。

今は便利になったものである。ネットを開けば殆ど何でも教えて呉れる。しかしそのネットも「言問」だけでは出ない様だ。「言問はば」で引くと次の和歌が出た。

 

名にし負はば いざ言問はむ都鳥 わが思う人の ありやなしやと

 

 これは『古今和歌集』にある在原業平の歌である。次のような前書きがある。

 

  武蔵国下総国との中にある、隅田川のほとりに至りて、都のいと恋しうおぼえければ、しばし川のほとりに下り居て思ひやれば、限りなく遠くも来にけるかな、と思ひわびてながめるに、渡守は、「はや舟に乗れ、日暮れぬ」と言ひければ、舟に乗りて渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なくしもあらず。さる折に、白き鳥の嘴と脚と赤き、川のほとりにあそびけり。京には見えぬ鳥なりければ、みな人知らず。渡守に、「これは何鳥ぞ」と問ひければ、「これなむ都鳥」と言ひけるを聞きてよめる。

 

  これでこの歌が生まれたいきさつが分かる。参考までに訳詩は次の通り。

 

   都という名を持っているのなら、都のことを知っているだろうから、さあたずねてみよう。都鳥よ、私が恋い慕っている都の人が、無事にくらしているかどうかと。

                        (『古今和歌集』小野町照彦訳注)

在原業平(825~880)は平安初期の歌人で、才気に優れながら政治的には藤原氏に阻まれて不遇、『古今集』以下の勅撰集に多くの歌がとられ、『伊勢物語』の主人公に目されている」と『日本史事典』にあるから、彼が実際に都落ちしたのではないようだ。   

それにしても世の中の移り変わりは早く、とくに墨田川を含め東京の現状は年毎に大きく変貌しているようだ。業平が活躍していた頃から一千百五十年経つことになるが、いやいやそんな昔話ではない。

この都鳥の絵のある皿は精々百五十年ばかり前のものと思われる。その当時はまだこういった民芸品が出回っていたものと考えられる。しかし今はこのような物を店頭で見つけることはできないだろう。先にあげたワーズワスの水仙の皿のような印刷されたきれいな磁器製品ばかりだ。

私は最近次の文章を読んだのであるが、この先日本人の情緒や感性が実際は薄れて終には消滅するのではないかとさえ思うのである。あまりにも機械化と金、金の競争の世の中である。その為にごく一部の富裕層と大多数の乏しき者との格差が生じ、日本人が本来保っていた美質が失われていくように思えて仕方がない。愛宮(えのみや)真備(まきび)師の言葉が今も生きておると良いのだが。

 

日本文化の強味となっているものは確かに直感、感情、芸術です。又それらと関連をもつすべてのものである。恐らく日本民族ほど、芸術に対する素晴らしい理解を示した民族は殆どいないであろう。些細な日常の生活様式にまでもそれが認められるのである。

                (『禅―悟りへの道』愛宮真備著・池本喬訳)

 

「著者は、1898年ドイツに生まれ、旧姓フーゴー・ラサール、1948年日本に帰化して愛宮真備と改姓せられた。師は第一次世界大戦に参加して戦傷を負い、戦後イエズス会に入会、オランダ、英国のカトリック系大学で哲学と神学を専攻し、1927年司祭に叙せられ、翌々年来日、上智大学教授を勤め、また広島市郊外の長束修練院で指導の任に当たった。師は早くから日本民族の心性と文化を理解するためには禅精神の体得が必須の要件であることに気づき、また現代の不安を超克するためにも、坐禅が最良の方法であることに着目され実践されている」等と紹介されている。

 

 著者はこの本の「結び」でこう書いている。

「確かに東洋の人々は西洋文明を獲得するために自分たちの伝統的英知から遠ざかっているように、あるいは少なくともそれを放置しているように思われる。例えば,日本人は悟りを開くことよりもむしろ学問や技術の最近の進歩を習得することに専念して居る。ところが他方、西洋の人たちには東洋の英知への思慕が次第に高まってきているのである。

しかし、この相互理解、東と西が共の世界の運命を形づくるための平和的共同作業の前提条件は単に理論的なものに留まる必要はなく、われわれが互いに何かを学びとるという意味でまた実践的になって差し支えない。それによって心と心との接近が実践され、偏見をとり除くのに最も役立つのである。東西の人々が一つに結合し,相互に自己のもつ真価を分かち合って共に豊かになればなるほど、未来の人間の精神的水準はますます高まり、新しい精神文化の可能性は、ますます大きくなるであろう。精神文化は、価値評価において何といっても常に物質文化に優位に保たなければならないのである。

                  (2019・11・12)