yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

天人五衰

 長編小説や固い本を読む気にならないので、久し振りに漱石の『永日小品』を書棚から取り出して読むことにした。昔読んで大筋を覚えているのもあるが、初めて目にするものもある。筋だけ追ったのでは読んだという事にはならないと思って、今回は一語一語に多少なりとも気を配って読もうと思った。いとも簡単な気持ちで書いたと思える文章でも、わたしの知らない言葉や事項が出てくるので、語注を見たり、それでも分からないのはネットで調べたりした。この『小品』の最初にあるのは「元日」という文章である。

 漱石が雑煮を食べて書斎に引き取っていたら、しばらくして若い弟子が三四人やって来る。その内の一人がフロックを着ていて他の者がひやかす。このフロックを着た男の外の連中は皆普段着である。元旦に先生の家に挨拶に行くのに普段着はどうかと思う。漱石は気にはしていない振りをしているが、内心礼儀知らずの弟子共だと思っていたのではなかろうか。だからまた服装の事を書いている。かれらが屠蘇を飲みお膳のものをつついているところへ、今度は黒の羽織に黒の紋付きを着た高浜虚子が現れる。そして虚子は「一つ謡ひませんか」と言い出す。漱石は「謡って宜う御座んす」といっていよいよ「二人して東北(とうぼく)と云ふものを謡った」。
それから続いて「羽衣の曲(くせ)を謡ひ出した。春霞たなびきにけりと半行程来るうちに、どうも出が好くなかったと後悔し始めた。」とある。
虚子の気合いの入った掛け声や鼓を打つ音に圧倒されて漱石は調子がでず、その内聞いていた連中がくすくすと笑い出したと自己を茶化すように書いている。しかしこれより前に「東北」を謡い終えたときも、皆が申し合わせたように不味(まず)いと云い出した。すると漱石は「此連中は元来謡のうの字も心得のないもの共である。だから虚子と自分の優劣はとても分からないだろうと思っていた。」と、やせ我慢というか自己弁護しているのが漱石らしい。

 わたしも「謡のうの字も心得がない」。したがって「羽衣」については天人と漁夫の話だということだけは知っているが、「東北」に至っては第一「とうぼく」と読むことすら知らなかった。また「曲(くせ)」も分からないからネットでみると、「能の構成部分の一つ。曲舞の節を取り入れた長文の謡で、一曲の中心とされ、叙事的な内容が拍子に乗せて地謡によって謡われる」とあった。
そのときふと思い出したのは、萩から山口に転居したとき、我が家に昔からあったと思われる数少ない蔵書の中に謡の本があった。探してみたら見つかった。全部で二十七冊あった。
 全て和綴じの薄い本で出版の年月日がまちまちである。不思議な事に「羽衣」と「東北」だけはいずれも二冊あった。一つは初版が寛政十一年三月であって著作者は宝生太夫で、明治三十四年八月に改定四版とあって相続者校訂者として宝生九郎の名前であった。もう一冊は大正九年十月印刷で昭和二年第九版発行。訂正著作者は二四世観世元滋とあった。これで見ると我が家の祖先の誰かがこうした事に興味を持っていたのだろう。

 さて、此の謡の本の「東北」と「羽衣」を読んでみようと思って開けたところが、古い版は容易に読めるような文字ではない。現代の活字では書かれていない。ある程度は読めるが正確には読めない。これは困ったと思い、これまた思い出したのが『古典日本文学全集』(筑摩書房)である。この全集の中の一冊『能・狂言名作集』を開いてみたら、二十作ほど選んであった。しかし肝腎の「東北」も「羽衣」もなかった。図書館へでも行ったら能の解説書はあるだろうがわざわざ行くのも大義だと思いい、試みにネットを開いてみることにした。するとやはり出ていた。このネットなるものは非常に便利であるから私はよく利用する。それにしてもよくもこれ程膨大な情報が入っているものだと感心する。
 こうしてわたしはネットを参考にして、わざと読みにくい方の和綴じの本で「東北」と「羽衣」を何とか読んでみた。はたして先に引用した「羽衣」の「春霞たなびきけり」の言葉が見つかった。

 話は逸れるが、山口県でも「防府能」と云った催しが隔年毎に防府市で開催さているようだ。家内の従弟が東京芸大出身でいつも出演していて、数年前に招待券を貰って観能した事がある。彼は今も毎月数回山口市から上京して家元で稽古し、また能舞台で出演もしているというから本格的である。もうすぐ八十に手の届く年齢だから、出演の度に新しく地謡の文句を覚えることと、二時間もの長い間殆ど姿勢を崩さないで畏まっている事、更に身軽く舞を舞うのは大変だと云っていた。
ついでに彼に話を聞くと、まず芸大の試験は実技が主で、能の科目に合格した者は二名。各学年二名だから四年生まで僅か八名授業を受ける。授業内容は観世流宝生流のそれぞれ家元の先生が来て教えられる。能では狩られてのせんせいにるうないTがwz出わずか全学年であdけが藩士
彼の場合趣味を通り越してプロだと云える。この能など日本芸能は高尚なものだが、おいそれと誰もが容易に真似の出来るものではないとつくづく思った。

 さて、ここでは「羽衣」について話を進めることにする。新しい方の版の最初の頁に「概説」が載っていたので書き写してみよう。

 

白(はく)龍(りよう)と云へる漁夫三保の松原にて美しき衣の松の枝に懸れるを見出し、取りて帰らんとすれば美しき女現れ、其の衣は天人の羽衣とて人間に與ふべき物に非ざれば返し給へと云ふ、白龍惜みて返さず、羽衣無くては天上に帰る事叶はずとて天人甚く悲しめるより、白龍憐れに思ひ、舞を舞ひ給はば返し申さんと云ふ、衣無くては舞う事叶はずと云ふより、返し與ふれば天人は之を身に纏ひ、東遊びの曲の数々舞ひ奏でつつ昇天せり。

 漁夫が羽衣を持ち帰って宝にすると言って中々返さないので、天人はこれが無ければ天上に帰れないと言って見るも憐れな様子になる。そこの場面がこう書いてある。

せん方も涙の露のたまかづら かざしの花もしをしをと 天人の五衰も目の前に見えて浅ましや

 わたしは「天人の五衰」が分からないからまた辞書を引いてみた。中村元著『仏教語大辞典』に詳しく載っていた。平仮名で「ごすい」とあれば誰でも「午睡」つまり「昼寝」と思うだろうが、「五衰」となると分からないのではなかろうか。
この『大辞典』にはこう説明してある。

 「てんにんのごすい 天上の衆生が寿命が尽きて死ぬときに示す五種の徴候をいう。これに大小の二種がある。大の五衰は⑴衣服垢穢(衣服が垢でよごれる)、⑵頭上華萎(頭上の華鬘が萎えてしまう)、⑶身体臭穢(身体がよごれて臭気を発す)、⑷腋下汗流(腋下に汗が流れる)、⑸不楽本座(自分の座席を楽しまない)、であって、この時には必ず死ぬ。」 
 
 漁夫の白龍は天人のこのような有様を見て気の毒に思い、舞いを舞ったら羽衣を返すと云うが、天人は衣が無ければ舞えないと云う。この場面での双方のやりとりが面白い。

「御姿を見れば餘りに御痛はしく候程に衣を返し申さうずるにて候」
「あら嬉しや此方へ給り候へ」
「暫く、承り及びたる天人の舞楽只今ここにて奏し給はば衣を返し申すべし」
「嬉しやさては天上に帰らん事をえたり」
 
天人はこう言って衣を返すように頼むが漁夫は、

「いやこの衣を返しなば、舞曲をなさでそのままに、天にや上がり給ふべき」
「いや疑は人間にあり。天に偽りなきものを」
「あら恥かしやさらば」

と云って羽衣を返し與えると天人はそれを着て数々の舞曲を舞って「天つ御空の霞にまぎれて失せにけり」で終わりになる。この時「春霞棚引きけり久方の月の桂の花や咲く」の文句がでてきた。
 「疑いは人間にあり。天に偽りなきものを」という天人の言葉を聞いて「あら恥かしやさらば」と言って衣を返したこの二人のやりとりを読んで、今の日韓の関係をはじめとして、昔も今も人間世界は疑心暗鬼に渦巻いており、舌の根の乾かぬ内に前言を易々と翻すなど朝飯前だな、と思わずにはおれなかった。

 もう一つわたしの注目を引いたことを述べてみよう。実は妻が今年五月に急死した。高校時代の仲の良い友達との集まりに、北九州の門司のホテルで食事をしながら楽しく話し合った後、シャワーを浴びようとして、浴室に這入った直後に倒れたようである。医師の診断では「大動脈解離」とあった。真夜中の電話で起こされ、息子の車で門司にある緊急病院に駆けつけた。妻は一室のベッドの上で安らかに瞑目していた。額に手を当てると実に冷たかった。体内に血が通わないとこうなるのかと実感した。
妻は生前わたしに約束してくれと次のように言っていた。

 「葬儀の時、死んだ方の顔を見て下さいと遺族の方がよく言われますが、わたしは出来るだけ見ないようにしています。生前の面影を打ち消すような窶れた顔を見るに堪えないからですよ。だからわたしが死んだ場合は顔を決して人に見せないようにしてください」

 わたしは妻との約束を守った。しかし棺桶に納まっていた妻は、安らかに眠るが如く美しい顔を見せていた。
 葬儀を終えて暫くして、わたしは毎日夕方散歩を兼ねて近くにある「六地蔵像」を拝みに行くことにした。我が家を出て北西の方角へ四百メートルばかり行った最後の五十メートルは急勾配になっているが、その突き当たりが低い丘で、その麓に車が一台通れるだけの粗末に舗装された道がある。この小道から石段があって東南向きの斜面にある墓地に行けるようになっている。この石段を上り始めた場所に、「所郁太郎墓」と矢印のある標識が立っている。
 わたしは墓地の一番上にある彼の墓まで行って見た。そこには大略次のような事が記されていた。

 所郁太郎は岐阜県の生まれで、洪庵の下で勉強した後、京都で開業していたときに長州の志士と付き合い、「七卿の都落ち」に伴って長州に来た。その後高杉晋作の挙兵に加わり参謀として従軍したが、腸チフスにかかって病死した。享年二十八。

彼が長州に来ていたとき井上馨が反対派の者達に斬られて瀕死の重傷を負った。そのとき、洪庵の下で医学を学んだ所郁太郎が呼び出され、彼は焼酎で創口を消毒して疊針で縫って井上の命を取り留めたと云われている。九死に一生を得て助かった井上は、その後明治の元勲にまでなっている。人の運命は分からないものである。この「所郁太郎墓」の指標が立っている丘の麓にあるのが「六地蔵像」で、同じような地蔵像が八十メートル離れてもう一ヶ所ある。
 往復で丁度一キロの距離だから、歩いて帰るとやや汗ばみ夕飯前の運動に最適である。いずれの地蔵像の傍にも「六地蔵の由来」を書いた立て札があるので読んでみた。これまたわたしにとって新知識であった。白く塗った板に次のような事が書かれてあった。

釈迦が亡くなって第二の釈迦と言われる弥勒菩薩が現れるまでの五百六十億七千万年の間、衆生(人間を始めとして、全ての生き物)の苦悩を救われるのが地蔵菩薩である。衆生は業により六つの世界(地獄・畜生・餓鬼・修羅・人間・天上)を経巡るが、地蔵菩薩はその苦しみを救ってくださるのである。

 わたしはこの立て札を読んで、天上にいる天人でもまたそこを離れて輪廻転生を続けるのかなと思った。この場所への行き帰りに人に会うことはめったにない。時々子犬を連れた人が散歩しているのに出会う事があるくらいである。木々の濃き緑が美しい初夏、鶯の鳴き声が聞こえてきた時などは何とも言えない良い心地であった。今や夏も過ぎ道行く途中、住宅が多く建てられて僅かに残る田圃には、黄色く実った稲穂が頭を垂れている。彼岸も間近くなったのを知らせるかのように、赤い彼岸花が目に付きはじめた。この花も毎年この時期になると、記憶を呼び起こすかのように咲き出して、秋の風景に彩りを添えて呉れる。
 この彼岸花が一斉に群れをなして咲き出すと、稲穂の黄、稲の葉の緑、そしてこの彼岸花の赤、これら三色が鮮やかに目を楽しませる。しかしこの先彼岸も過ぎ稲穂も刈り取られた後、この花だけが萎れて褐色に変化し、見るも無惨な姿になっても、何時までも落ちないで細い茎の先にしがみついている。
こうなる前に何故散らないのか。これこそまさに「天人五衰」の一つである「頭上華萎」を象徴しているのだ、とわたしは はた と思った。


                          令和元年九月十五日 記す