yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

ログ・ハウス

 仏壇の花が萎れた感じなので、花を求めてログハウスへ行った。文字通り「丸太小屋」である。行く前の事を一寸書いて見ると、今朝は早く目が醒めた。時計を見ると丁度4時だった。昨日は寝過ぎて6時前に起きたのだからまあいいやと思って起きた。
いつものように妻が使っていた机で『枕草子』を読んだ。清少納言と彼女がお仕えした中宮定子とのどちらも負けてはいない女性同士の意地を張る関係が面白かった。それにしても当時の宮廷サロンにはかなりの知的な雰囲気があって、上流貴族の男女の間においてもこのような交流があったのかと驚くほどである。
時間にゆとりがあるので2時間ばかり読んだ。その後いつものように神棚の榊の水と、我が家の仏壇と妻の遺骨を置いている仮の仏壇の花の水を替えようと思ったとき、前述のことに気づいたのである。
 店が開くのは7時だからまだ時間に余裕があるので、座敷、仏間、玄関の間に掃除機をかけ、外に出ていつものように体操と木剣の素振りを行った。昨日までの曇天に比べて朝から青空が広がっている。簡単に着替えて出かけた。我が家から東南の方向にセメントの道が田圃の中を多少曲折して居るが続いている。車は途中から通行可能となって居る。最近新しい家やマンションが建ち、我々が住み始めた頃に比べると格段に多くの住宅が出来て人口も増えた。それでも青田が多少残っているので、その田圃の中の道を歩くと、青々とした稲の葉が風にそよいで目を楽しませてくれる。風も涼しく感じられた。凡そ500メートルばかり行くと国道に出る。そこは車のラッシュで左右を確認して横断道路を横切った直ぐの所に、車を10数台置ける広場がある。其の一郭にログ・ハウスがある。固定客もいるのだろう。いつ行っても7時には数台の車が止まっている。

 一昨日も私はこの店を訪れた。その時私は店主が萩高校の出身だと知ったので、私の教え子のことを尋ねた。店主は宮崎大学農学部出身で、萩市から山間部に入った所の紫(し)福(ぶき)という部落で牧場を経営しているようである。一方私の教え子は萩高校を卒業後、萩から言えば紫福の手前にある福井という地区の萩市管轄の役場に勤務していた。彼らは年齢に多少の開きがあるが仕事上お互いに知っていると思ったので私は尋ねたのである。所が驚き又悲しい事に「藤野君は今年亡くなったです」との返事だった。

 私は野菜を少しばかり買って帰宅し朝食を済ました後、福井の藤野君の家へ電話した。私は萩高校に勤めていたとき、相撲部の顧問を長くした。これまで多くの部員に接しているが、卒業後年賀状のやりとりなどで関係を続けて居るのは非常に少ない。こうした中で藤野君は良く稽古し相撲も強かったから良く覚えている。最近もどうしているかと電話しようと思っていた矢先の事だから、なおさら残念に思い彼の家に電話したのである。
 奥さんが電話口に出て、「昨年市役所を退職する前から『どうも頭の調子がおかしい。認知症の始まりではなかろうか。』こう申しまして退職後山口医大付属の病院に入って精密検査して診て貰ったら頭に腫瘍が出来ていました。すでに手遅れの感があると言われました。本人はもとより私共にとっても本当にショックでした。その後放射能治療を8ヶ月もの間施されました。お医者の言われるままにしましたが、かなりきつかったようで、結局今年の2月27日に亡くなりました。今から思えばこうした治療はするべきではなかった様に思います。主人は息子と娘をよく可愛がっていました。又近所の子供たちに相撲を教えたりもしていまして、萩地区で優勝した事もあります。本人に取りましては残念であったと思いますが、悔いのない人生だったと私は思います。」
 こういったことを長々と話された。彼は実に好い生徒だったので心から悔やみを述べて電話を切った。そしてあと彼の思い出を少し書き、僅かばかりの香奠を包んで奥さんに手紙を出した。
昨年も私のクラスにいて萩高校の教員になった教え子と、外にもう一人これもよく知っていた教え子が亡くなった。人は必ず死ぬ、これは必然的な事である。しかし何時、何処でどのようにして死ぬかは全く偶然である。私は妻の死に直面してこういったことを考える。それにしても定年退職したと言え、まだ家族のため或いは世の中のために活躍できる若い彼らがこうして早く旅立ったのが悲しくも残念でならない。
 
 今朝は先の述べたように花を買った。赤いダリヤの花一把100円なので二把買った。その時、店主に彼と同学年の生徒の消息を尋ねたが、「名前は覚えていますが良くは知りません。あの頃は生徒数が500人を越えていましたから」と笑って答えた。そういえばあの当時の生徒は団塊の世代で一教室に55人いて、すし詰め状態だったのを思い出す。今は1学年4クラスで生徒数も激減して居る。
萩高等学校校歌に「共に進まむ一千余名」とあるが、最早この数になることは絶対になかろう。地方創生と言うが地方衰退の兆しのみ見られる昨今である。


                          2019・7・27 記す