yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

転居の記

昭和三十九年四月、私は前任校に三カ年勤めただけで母校の萩高校に転勤した。その少し前、父が脳卒中で倒れたからである。左半身が麻痺し、ものもはっきりとは言えなくなった。一カ月ほど安静にしていたら幸いにも回復できた。発症した時たまたま家で寝ていて良かったのかもしれない。

我が家に帰って十数年経ったある日のこと、突然隣家から騒音が襲って来た。青天の霹靂の思いだった。私の住宅区域は萩市内でも海岸に近く、当時は魚市場も盛況で、町内には水産物加工などを生業(なりわい)とする家がいくつもあり、子沢山の家が多かった。純粋の民家は比較的少なかった。水産加工といえば、蒲鉾や竹輪などの加工をはじめ、いりこ干しなどを行う。昔は砂浜に莚(むしろ)を敷いて天日干しをしていたが、その後室内で大型の扇風機による乾燥に代わった。そうなると雨天であろうと夜間であろうと差し支えない。一年中扇風機を回すことができる。それに伴う騒音は経験したものではないと分からない。まさに騒音で耳をふさがれるといった感じである。風量が落とされる夜間には音こそ幾分押さえられるものの微かな振動は伝わってくる。そのため気にし出すと、容易に寝つかれなくて睡眠を妨げられた。心身ともに極度に疲れ果て、市当局に訴えても、規制内の音量なので問題なしとのこと。業者にとっては死活問題なので、結局我々は一方的不利な状況下で、泣き寝入りの状態を続けざるを得なかった。

 

私の家への門は道路に面していた。「いた」と過去形で書くのは、今は私の所有ではないからである。その門を潜って細い路地を十メートルばかり入った所に中間の門扉があった。それは普通閉めたままで、その左手にある小さなもう一つの潜り戸があった。そこから一歩中に入ると、パッと大きく開けたように芝生のある庭が眼前に広がって見えた。庭にはタブの大樹があり、四方八方に太い枝葉を伸ばし庭の一部を覆っていた。しかし今はすべての大枝が切断され、拡げた傘をしぼめた様な情けない格好になっている。

漢字の「門構」の中に「木」を書くと「閑」という字になる。私はこの字を何となく好む。「閑雅」「閑居」「静閑」という成句があり、悠々自適の境地を彷彿させるからである。曽祖父、祖父、父と三代にわたってここに住み、お茶を嗜んできたのも、この大きなタブの木の繁った閑静な環境に身を置く事が出来たからだと思う。

先に述べた中間の潜り戸を通って庭を左手に見ながらさらに十メートルばかり進むと玄関に辿りつく。こう書くと如何にも広い家屋敷のように思われるが、実際は二百坪の「うなぎの寝床」のような所である。家は明治の初期に建てられた平屋で、室内に茶室が二つあった。私はこの茶室で生まれたと聞かされている。騒音に悩まされるまでは、陶淵明の言を借りれば、「人境に在り、而も車馬の喧(かまびす)しきなし」の静かな場所であった。ついでに書くと、祖父が建てた茶室の庵号は「閑楽庵」である。

 

「人の身に止むことを得ずして営む所、第一に食ふ物、第二に着る物、第三に居る所なり。人間の大事、この三つには過ぎず。餓ゑず、寒からず、風雨に侵されずして、閑かに過ごすを楽しびとす。」

 

兼好法師はこのように言っている。私の祖父が『徒然草』を愛読していたとは思はないが、閑を楽しむ精神は持っていたと思う。

 

東萩駅から松本橋を渡り市街地の寺町まで来たら、その先に指月山が見えて、城下町萩の雰囲気を感じられる処へ連れて行ってもらえると思っていたのに、寺町を過ぎた途端に魚の臭いのする町内に入ったので、一体何処へ連れて行かれるのかと不安でたまらなかった」、と荊妻は当時を思い出してはときどき口にする。周囲が田圃の家で暮らしてきたので非常に心配したのだろう。萩といえば古都とまではいわないが、白壁に夏ミカンのある静かな佇まいの城下町を誰もが連想する。しかしこうした商業地も市中には当然ある。私の家はそういった活動的な街中にあったが、「一歩門を潜ると閑静で別世界に入った様だ」と、初めて訪れる人は異口同音に感想を漏らしていた。家内もそれでホッとしたようだ。

 

父は昭和五十七年に八十四歳で亡くなった。その前日の昼過ぎまで元気だったが、その年高校に入ったばかりの次男が学校から帰った時、縁側に倒れていたのを発見した。翌日のお茶の稽古の準備をしていたのであるが、急に具合が悪くなったのである。父はその日の夜中に急死した。長年体内に抱えていた動脈瘤が破裂したためだと思われる。

私は父が生きている間は我慢して騒音に堪えていたのであるが、とうとう腰を上げざるを得なくなった。父の死後しばらくして、ある日のこと、突然妻がほんの一時的に軽度の記憶喪失の症状を見せたのである。それまでにも急に耳が痛むという前兆はあった。一日中振動と騒音に悩まされて神経に異常をきたしたと思われる。

何時も思うのであるが、沖縄や岩国など、米軍空軍基地周辺に住む住民の悩みが如何に深刻なものかは、気持ちの上だけでは真の共感にはならない。わが身に同じような災難が降りかかって人は初めて他人の苦しみを実感するものではなかろうか。福島の原発被害が如何に深刻なものか。金銭だけでは本当の解決にはならないだろう。

しばらくの間妻は自分の姉が住んでいる滋賀県に移って養生することにした。こうなると事は深刻である。住み慣れた我が家があるのに、騒音の無い家を別に探し求めねばならない。偶々城下町の一偶にある青木周弼旧宅が見つかった。それまで住んで居られた郷土史家の田中助一先生御夫妻が、高齢のためにこの広い屋敷を出て行かれ、代わりの管理人を探しておられたので、運よく我々が入居することになったのである。父の死後、母の妹が母と一緒に住んでくれることになり、私と妻は安心して我が家を一時出ていくことが出来た。ここに転居して、我々は久しぶりに再び閑静な環境に身を置くことが出来た。

そういえば、この青木周弼の旧居へ移る二年前、従兄が、アメリカのミシガン大学で世話になったと言って、マッセイという生化学の学者夫妻を、萩見物のついでに我が家に案内したことがあった。その時ご婦人が色紙に、萩の町の面影を「土」に託した詩に書いて下さった。 

  

Little town of clay

The source of a new Japan

Quiet in its dream

 

「試訳」 土塀の小さな町       注:「clay」は元来粘土の意味だから

      新日本胎動の地         「土塀と焼物」と訳すべきかとも思う

      静かなり夢の中

 

土塀に囲まれた武家屋敷が静かに立ち並ぶ城下町。この小さな町が、維新胎動の地、新日本発祥の原点となったとは。しかし今は、過ぎ去った時代を夢見るがごとくひっそりと佇んでいる。遠くアメリカから萩を訪ねられた女史は、ふとこの様に不思議に思われたのではなかろうか。勝手な解釈を試みたが、これは韻を踏んだ良い詩だと私は思う。

 

市内には観光の名所がいくつもある。この城下町筋もその一つで、青木周弼の旧居と、先隣の木戸孝允の生家が並んでいる。私たちが管理人として入居した当時は、観光客は家の門を入った地点までで、室内へ入ることは出来なかった。

 

『図説 日本の町並み』(第一法規)に次のような記述がある。

呉服町・南古萩地区は、「萩城下町」としてその一部の約四・五ヘクタールが国の史跡に指定された。これは全国で最初の町並みとしての保存策がとられたものとして注目される。

地区全体として藩政時代の建物は三四棟あり、道路総長との比率ももっとも高い地区となっている。藩政末期に活躍した著名な人たちの家としては、青木周弼旧宅・木戸孝允旧居(江戸屋横丁)、高杉晋作旧宅(菊屋横丁)があげられる。(中略) 

武家地の特色は、比較的ゆったりとした敷地を持ち、主屋が奥まったところに建つことにある。道路からみえるのは、門と塀、そしてまれには主屋の屋根であるために,町並み景観としては、散漫で物足りない印象を与える。しかし、ともすれば住環境の悪化しがちな現代都市の中で、萩の旧武家地はまことに魅力的である。

 

「まことに魅力的な旧武家地」に移住でき、その静かなことにおいては申分のない処であった。しかし観光客として外部から覗き見るのと、実際に住むのとではかなりの隔たりがある。萩市文化財となっているこの旧宅は、安政四年に建てられているので、そこで生活を始めると色々と不便な点が出てきた。

最近建てられる文化住宅は、利便性が第一に考えられる。これに対して、昔の武家住宅は格式ばっているというか、玄関や座敷(客間)、またそこから見える庭などには十分な配慮がなされているが、家人が生活する場所としてはかなり不便であるように見受けられた。私たちは先ず昔のトイレ、つまり雪隠(せっちん)や厠(かわや)の呼称にふさわしい粗末な便所に漂う臭気に曝され、さらに糞尿の汲み取りを自分でしなければならなかった。これには相当に悩まされた。

敷島の大和心を人とはば西陽(にしび)に臭ふ雪隠の中

 

これは本居宣長の「敷島の大和心を人とはば朝日に匂ふ山桜花」のパロディである。誰が詠ったかは忘れた。今日私たちは数多くの文明の利器の恩恵に浴している。このうち一つだけを利用させてやると言われたら、私は躊躇なく水洗便所を選ぶであろう。

次は風呂である。浴場には五右衛門風呂が据えてあり、湯は電気で沸かすようにはなっていた。しかし真冬日など隙間風に曝されて随分寒い思いをした。この事も今から思えば我慢すべきものであった。さらに台所は、現代風のキッチンとはとても言えない天井の低い狭い場所であった。こうした不便をかこつことはあっても、騒音被害を免れたことを感謝して住むことにした。

道路から一段高く石段を上った処に厳めしい門があり、その両側に塀が続いている。間口四十二メートル、奥行きもほぼ同じ四十メートルもある五百坪の広い敷地内に、建物としては、門を入って右側に仲間部屋、門の正面に主屋、その主屋の北側に堂々たる土蔵が接するようにあった。室内の間取りや敷地内の様子を詳述する事は止めて、私にとってこの転居が思いがけない出会いをもたらし、有意義であったことを少し書いてみよう。

幕末、緒方洪庵と並び称された蘭学者で医師であった青木周(しゅう)弼(すけ)と彼の弟の研蔵、さらに研蔵の養子となり、名を周弼の「周」と研蔵の「蔵」を取って「周蔵」と改め、後に外交官として活躍した青木周蔵の三人が、この家屋敷に一時住んでいたことを、私はここに来て初めて知った。私たちが入る前に住んでおられた田中助一氏の本業は耳鼻咽喉科ならびに眼科の医師である。しかし先生はむしろ篤学の郷土史家として有名である。先生が書かれた『青木周弼』と『防長醫學史(全)』を拾い読みして、周弼が医者としてだけではなく、優れた人格者である事を教えられた。『醫學史』の中の「萩藩の先覚者青木周弼」という項目の「緒言」の一部を転記してみよう。

 

幕末勤皇運動の揺籃時代、萩藩には多数の人材が輩出したが、そのなかよりとくに先覚者としての大人物を指摘することになると、第一番に村田清風をあげることについては、誰も異論ないこととおもふ。それではそのつぎには何人をあげるべきであろうか、余は本邦医界の麒麟児として、藩政方面にもあまたの功績をのこした青木周弼をおしたいとおもふのである。さうして清風をかたる時には、周弼の存在を無視することが出来ず、周弼の事蹟について考へる時には、清風の絶大な後援を見のがすことが出来ない程、二人の関係は密接であったのである。

もし不幸にして藩主毛利敬親が清風と周弼との二大人物を得なかったならば、はたして萩藩の回天事業推進の基礎は、あのように立派に出来えたであろうか、さいはひ出来たとしても、それはずっとかはった形になってゐたこととおもふ。余は防長回天史をひもどくごとに、思をここにいたし無量の感慨をおぼえるのである。

 

文久二年に幕府の西洋医学所(現在の東大医学部)の頭取大槻俊斎が死んだ時、取締の伊東玄朴は外部から適当な人物を引っ張って来て頭取にしようと考えた。かれは先ず緒方洪庵に白羽の矢をたて交渉したが断られ、今度は周弼に懇望するが、かれは老齢を最大の理由として辞退し、洪庵が最適任者だとして再交渉するようにと願い、結局洪庵が受諾したことはよく知られている。私は周弼が政治の面でも大いに活躍したという事は、この本を読むまでは知らなかった。このような優れた人物が晩年を送り、最後息を引き取った家に住むむようになったことに不思議な縁を感じた。

青木周弼の弟研蔵は、晩年東京に出て明治天皇の大典医になっていたが不慮の死を遂げている。一方彼の養子となった周蔵は当初医学を志しドイツへ留学したが、医学の研究を止めて政治を学び、結局外交官となった。帰国後、山県有朋が組閣した時、彼は外務大臣として活躍して、萩へは帰ることもなかった。青木家の東京移住後、この由緒ある家が廃屋となる事を心配して、萩中学校の教師であり、また優れた郷土史家であった安藤紀一先生が買い取られ、ほとんど旧観を変えることなく保存して住んでおられたのである。

私が敢えて縁だと言ったのは、私たちがここに住むようになったことを知った伯母が、「あんたら安藤先生のお屋敷に住んでおるのか。私は父に頼まれて、先生のお宅へ何度かお伺いしたことがある。大きなお屋敷じゃろうが。」と話してくれたからである。

昭和十九年、萩中学校に入って間もない時、私はこの青木周弼の旧居の前を通った事がある。大きな門構えの家と長い土塀、その下の側溝の淀んだ青黒い溜り水。これらを目にして、人気(ひとけ)のない陰気な場所だなと思いながらも、私は忘れ難い場所として記憶にとどめていた。現在はこの道筋を観光客がひっきりなしに往来していて、全く隔世の感がある。

大正時代、父は萩中学校で安藤先生に国・漢を習い、又先生が我が家に来られて祖父と茶席で話され、お帰りの時玄関でお見送りをした、と語ったことなども、私たちが周弼の旧居に住むようになって改めて思い出した。こじつければ人と人との間、何らかの繋がりや縁が見つかるものかもしれない。

 

周弼が弟子たちを教え、あるいは治療を終えた後、寛いだと思われる書斎に私は坐り、机に両肘を乗せ、両手で顎を抱えながら、ガラス窓越しに庭を心静かによく見たものである。周弼は梅の木をこよなく愛したいたようで、広い敷地内に多くの梅の木が植栽されていた。冬から春にかけて紅白の梅が咲き、毎日何処からともなく鶯が飛んできて、美しい鳴き声を聞かせてくれた。また田中先生の奥様が丹精込めて育成されていた各種の椿も、美しく花開いて目を楽しませてくれた。私がここに来た当時、門の側に大きな杏(あんず)の木があった。薄紅色の花が咲き、実も幾つかなっていた。「杏林」といえば医者のことだが、思えばこのような恵まれた環境は、先に述べた多少の不便を相殺(そうさい)して余りあるものであった。

その頃私は森鷗外の作品をよく読んでいた。鷗外がドイツのベルリンに着いたのは明治十七年十月十一日である。彼は到着早々の十三日に青木公使を訪ねている。『獨逸日記』に彼は次の様に記載している。

 

十三日。橋本氏に導かれて、大山陸軍卿に見(まみ)えぬ。脊高く面黒くして、痘痕ある人なり。聲はいと優く、殆女子の如くなりき。この日又青木公使にも逢ひぬ。容貌魁偉にして鬚多き人なり。(中略)公使のいはく衛生学を修むるは善し。されど歸りて直ちにこれを實施せむこと、恐らくは難かるべし。足の指の間に、下駄の緒挟みて行く民に、衛生論はいらぬ事ぞ。學問とは書を讀むのみをいふにあらず。歐洲人の思想はいかに、その生活はいかに、その禮儀はいかに、これだけ善く観ば、洋行の手柄は充分ならむといはれぬ。

 

十九歳の若さで東大医学部を卒業し陸軍に入った鷗外が、抜擢されて独逸に留学し、独逸の陸軍衛生部の事を学ぼうと意気揚々とした気持ちで挨拶に行ったところが、時の独逸公使であった青木周蔵は、このようなアドバイスを鷗外にしたのである。この事があってか、鷗外は衛生学研究の傍ら、哲学書や文学書を猛烈に読んでいる。翌年の明治十八年八月十三日の日記に彼は書いている。

 

架上の洋書は已に百七十余巻の多きに至る。鎖校以来、暫時閑暇なり。手に随ひて繙(はん)閲(えつ)す。其適言ふ可からず。(中略)誰か来りて余が楽しみを分つ者ぞ。

 

鷗外はギリシャ神話をはじめとして、ダンテの神曲やフランス文学などをドイツ語訳で、またゲーテ全集などに読みふけっている。僅か一年足らずの間に、これだけの数の洋書を架上に並べた鷗外の得意満面たる様子が見てとれるようだ。これは青木公使の忠告に半ば従おうとした結果だろうか。確かに経験豊かな長者の言に重きを置き、それを実行出来た鷗外の天才ぶりを示すものではある。しかしそうした事は特別面白いとは思えない。私は、鷗外の負けん気というか、一種の皮肉を、明治四十二年の彼の作品『大発見』の中に「発見」して思わず顔を綻(ほころ)ばせた。彼はドイツ留学時代に青木公使に逢った時の会話を再現してこう書いているのである。

 

「君は何をしに来た。」

「衛生学を修めて来いといふことでござります。」

「なに衛生学だ。馬鹿なことをいひ付けたものだ。足の親指と二番目の指との間に縄を挟んで歩いてゐて、人の前で鼻糞をほじる國民に衛生も何もあるものか。學問は大概にして、ちっと歐羅巴人がどんな生活をしてゐるか、見て行くが宜しい。」

「はい。」

僕は一汗かいて引き下がった。

 

此の作品の最後のところで、鷗外は書いている。

 

僕は晝飯の辦當に、食(しょく)麺(ぱ)包(ん)砂糖を附け齧ってゐる。馬の外は電車にしか乗らないで、跡(あと)はてくてく歩いて、月給の大部分を書物にして讀んでゐる。そのお蔭で、是の如く歐洲巴人の鼻糞をほじるといふ大事實を、最も明快に、最も的確に、毫釐(ごうり)の遺憾なく、発見し得たのである。

歐洲巴の白皙人種は鼻糞をほじる。此大発見は最早何人と雖、抹殺する事は出来ないであらう。

前の伯林駐箚(ちゅうさつ)大日本帝國特命全権公使子爵S.A.閣下よ。僕は謹んで閣下に報告する。歐洲巴人も鼻糞をほじりますよ。

 

いささか脱線したので、青木周弼旧居での生活に話を戻そう。この拙文を書くに当たり、転居の正確な日時を知ろうと思って当時の日記を見ると、昭和六十二年九月九日だった。翌十日、日記に「朝、漢詩を作る」と書いている。恥さらしだが次のような詩である。

 

騒音不絶十余年       騒音絶えずして十余年

念願叶得城下町       念願叶い得たり城下町

観光雖繁唯往来       観光繁しと雖も唯往来

潜門現前別天地       門を潜れば現前す別天地

鳴禽来遊庭前枝       鳴禽来たり遊ぶ庭前の枝

今知静寂価千金       今ぞ知る静寂の価千金なるを

 

当時の心境だけは伝えている様だが、単なる言葉の羅列、漢詩と言えるものではない。今にして思えば余程嬉しく有難かったからだろう。人は苦境に立っても、時が経てばその苦しみや悩みは薄らぎ忘れ去るものだ。書いた事をすっかり忘れていた。

住んでみると、大きな百足(むかで)、蜘蛛、守宮(やもり)、羽蟻といった虫が壁や天井をしばしば這うので、家内は気味悪がった。殺すわけにもいかないのでなるべく逃がすようにした。敷地内に蛇を見かける事は殆どなかったが、蜥蜴(とかげ)は石垣の間からちょろちょろと姿を見せた。田中先生の奥さんが餌を与えられておられたのだろう、数匹の子猫を連れた野良猫が、私たちが戸外に出るとやって来た。親猫は警戒して近付こうとはしないが、子猫はすぐ慣れた。ところが捕まえようとすると怖がって逃げようとする。だが、本気で逃げはしない。子猫は木登りが好きで、物置き小屋の上に駆けあがったり、枇杷の木に登ったりして遊びまわるのでとても可愛かった。こういったことも時が経って見ると大半は忘却の彼方にある。結局私たちはここに八年ばかり御世話になったが、どうしても忘れられないことがある。

 

昭和六十五年九月二十二日の爽やかな秋の午後二時頃だった。土曜日なので私は学校から帰り、座敷で『般若心経』を低い声で読誦(どくじゅ)していた。ガラス越しに土蔵が見え、そこで三人の大工が仕事をしていた。松陰先生の銅像を製作された長嶺武四郎氏が亡くなられ、遺族が多くの石膏像を萩市に寄贈されたので、その置き場としてこの土蔵が選ばれたのである。そのことは数日前に市の係りの人が来て伝えた。ところが長年誰も入ったことがなく、固く閉ざされていたので、開けてみて損傷がひどく、直ぐには搬入できない状態だと分かった。大工たちは重みに充分耐えるように、床板をしっかりしたものにしようと思って、それを剥がしたところ二つの箱が出て来たのである。

「先生、一寸来てみてください。何かお金の様なものが出てきました」と、一人の大工が座敷へきて興奮した口調で語りかけた。私は何事かなと思い直ぐ後ついて行った。分厚い壁土できた頑丈な土蔵に入ったら、「これを見てください」と言って指差すところを見ると、一つは木箱、もう一つはブリキの函(かん)で、大きさは共に「広辞苑」程度であった。木箱はどうもなっていないが、ブリキの函を持ち上げたら、底が腐食していたので中にあった紙包みが落ち、紙が裂けて一分銀がこぼれ出たのである。まさかといった出来事だから大工が驚いたのも無理はない。私もびっくりした。私は慎重な手つきでそのブリキの函を座敷へ運んだ。木箱は大工に持って来てもらった。ずっしりと手に応える重さだった。

早速田中助一先生と市の教育長へ電話した。一分銀が四十枚ずつ和紙に包んであり、「金拾両」と楷書で墨書してあった。全部で何両あったか記憶にないが、原価にしてかなりの金額だった。しかし田中先生がお金には目もくれないで、紙包みに書いてあった文字を真剣なまなざしで見ておられ、「やはり学者は違う」と思ったことが忘れられない。この後市当局としては、屋内から発見されたので、単なる拾得物取扱いにならないので持主を探したところ、南米のペルー大使館の人質事件の時の青木大使が血を引く人だと判明し、全ての金を渡したと聞いている。周弼・研蔵兄弟が住んでいた頃、お金を預ける様な機関がないので土蔵の床下に収蔵していて、家族の外のものが知らないままに二人が亡くなったので、長い年月床下に眠っていたのだ。私としては埋蔵金発見の現場に立ち会うという面白い体験をした。なお、多数の石膏像はそれから四日後に無事搬入された。

 

「人間万事塞翁馬」の故事を引き合いに出すほどではないが、騒音に悩み我が家を去らねばならなかった時の切ない思いも、今となっては薄らいでいる。これは偏(ひとえ)に青木周弼の旧居への転居が大きな機縁と言えよう。