yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

「雜」について

「雑」と「雅」は一見したところ似ている漢字だが、その意味するところは真反対である。雅は「みやびやかなことと。趣味の高尚なこと。相手を尊敬してその人の言行や詩文につけることば」で、「俗」や「鄙」(ひなびた)に対するものとして使われる」と、辞書にある。私は「雅」に対する語として「雜」という字を考えて見た。

 

何故この「雜」という字を思いついたかと言うと、妻が亡くなる数年前から私は彼女に代わって室内の掃除をしていた。脊椎間狭窄症で痛みがひどいことが屢々あったので、階段の上り下りはもとより、直ぐ近くのスーパーへ買い物に行っても、店内ではカートを利用し、車まではカートで運べるが、我が家に帰ったら、車から荷物を下ろして家の中に運ぶのに私を呼ぶような状態だったからだ。しかし妻はそうした様子をなるべく他人には見せないようにしていた。これは一種の矜持かも知れない。弱みを見せて人の同情を借る様な真似はしたくなかったからであろう。

それは兎も角として、今朝も私は室内の掃除をした。私は10日に1度だけ室内の掃除をすることにしている。一人暮らしであまり汚れないし、掃除となると掃除機で上下階のすべての部屋をまず綺麗にし、続いて板敷きの階段や居間と台所、さらに廊下などをモップで拭き掃除する。少なくとも45分はかかるので時間が勿体ないからでもある。

今日モップの雑巾を絞っていたとき「雑巾(ぞうきん)」と「布巾(ふきん)」は同じ「拭くもの」だのにと思って、掃除を済ませて「雜」を辞書で見てみた。

【雜】(呉音はゾウ)

  • 種々のものが入りまじること。主要でないこと。
  • あらくて念入りでないこと。

 ここまで書いて歯医者への予約の時間が来たから出かけた。簡単な治療の後、歯の汚れを取ると言って歯の上下裏表を「ブーン」と雑音のする器械で擦り取る作業が始まる。私はこれが苦手である。歯茎の直近までしてくれるのは良いが、ちょっとでも歯茎に当と「痛い!」と声には出さないが、身体が「ピックッ」と思わず動く。一段階終わったとき、「ちょっと痛かった」と看護婦に言ったら「済みません、痛かったですか」と言って、つぎには慎重にしたのだろう痛みを感じなかった。

ここでも「雜」にするか丁寧に慎重にするかということで患者の反応は大違いだと思った。

治療を終えて帰るとき田圃道を歩いていたら、黄金色に輝いた稲穂を垂れて刈り入れを待っている良く実った一面の稲田がある傍らに、萎(しお)れて茎も穂も垂れ曲がり、見るも憐れな惨状が一面に広がっているのが目に入った。この名状しがたい枯渇した有様を見て、私は戦場の焼き討ち作戦の結果死屍(しし)累々(るいるい)たる状態を頭に描いた。

私がこちらに移り住んだ20年ばかり前には、我が家を取り囲むように田圃があった。年々田圃が埋め立てられて住宅地として造成され家が建てられ、今では田圃は僅かに残るだけとなった。そう言ったわけで、私は春の田植から収穫の秋までの稲作の状況をいやでも毎日見て来たが、今日の惨状は初めてである。私は萩市で稲作を行っている友人に電話して訊いてみた。

「それはウンカの為ですよ。今年はウンカの発生が多いと、注意を呼び掛けています」との返事だった。

「台風が原因だと思ったがそうではないですね」

「今年はウンカの発生が多いので私はすこし大目に薬をやりました。粉の薬を散布するのが中々できませんから。」

「百姓は大変ですね」

「そうです。百姓は儲けにはなりはしませんよ。労賃を計算に入れたらマイナスですよ。丹精込めて作ってこうなったら、焼き捨てるだけですから。」

このような会話をして電話を切った。我々日本人は米を食べて生きている。この主食が害虫によってこのようにひどい目にあうことは由々しき問題である。それこそ米作も、自然任せで雑には出来ないものだとつくづく思った。昔からバッタの被害は『聖書』にも載っているが、ウンカの被害がこれほどとは知らなかった。

「浮塵子」と書いて「うんか」とは誰にも読めないだろう。『広辞苑』にはつぎのように載っていた。

カメムシ目ウンカ科の昆虫の総称、形はセミに似るが、はるかに小形。口吻で植物の汁を吸い、またウイルスを媒介する種類もある」

稲の大害虫で、体長は5ミリである事も初めて知った。海を渡って中国方面から飛来する。コロナと言い碌なものはやってこない。

 

さて、もう少し「雜」について書いて見よう。結婚して始めて分かることは多い。相手の育った環境、受けた教育、家族の動向などはある程度分かるが、性格やものの考え方、さらに親から受け継いだ遺伝的なものは、結婚して徐々に分かって来るのではなかろうか。

我々の場合を考えて見たら、私はかなり大雑把、つまり何をするにも「雑」である。一方妻は几帳面だった。どちらかというと神経が細やかすぎる面を持っていた。だから彼女は私に対して良く文句を言ったり注意したりした。私は妻の言い分を是(ぜ)としてその都度改めようとしていたが、持って生まれた性格はおいそれとは直らない。したがって妻は半ば諦めていたかも知れない。「味噌も糞も一緒」とは言わないが「清濁併せ呑む」と言った面から考えたら、私は生活する上において、あまりやかましく言わないから彼女としては案外やりやすい点があったのではなかろうかと思う。

先に書いたように私が掃除をするようになったのも、彼女が出来なくて代わりにするようになったからである。こうして身辺を整理整頓して綺麗にすれば確かに気持ちが良い。 

洗濯物一つ畳んでも妻は実にきちんと畳んでいた。数年前からいわゆる「家庭内別居」を励行して、食事の時以外は別の部屋、私は二階の書斎、妻は階下のそれまでの二人の寝室を整理して使っていた。その為に新しく机や椅子などを購入して見違える程便利で感じの良い部屋にした。丁度その頃だったと思うが、妻は白内障の手術をしたので本がよく読めるようになってからは、好きな作家の本、それもすべて文庫本を買って読んでいた。私は妻が亡くなった後、ある事柄のあった年月日を確かめるために彼女が付けていた日記を初めて開いてみた。それまでは日記を付けているという事だけは知っていたが、今回初めて手にとってみた。妻はいつも同じ横書きの『高橋の3年日記』を使って居た事も初めて知った。2004年からつけ始めて2019年5月25日につけ終わっている。この同じ日記が6冊残っていて、最後の日記は大半が空白となったのである。私は最後の文章を読んでみた。仲良しグループの集まりに参加する前日のことで、死ぬことなど全く念頭になく、これからも生きて行く、ただ足腰の痛みに耐えて行かなければならないと言ったことだけ書いていた。私は平凡な記述を其処に見出しただけである。

 

ここで敢えて妻の日記に言及したのは、最初の2004年1月1日に書いている文字と、死ぬ前日に書いた文字、そして書いている文字数が全くと云って良いほど同じで、一画一字、明瞭に几帳面に書いていたのである。15年と5ヶ月余の筆跡に何の変化もないのには驚いた。決して上手な字ではないが、読みやすく几帳面なのには感心した。私も30年以上日記を付けている。書店で適当な日記を買ってきて、書いた字が自分でも後になったら読めないような書きぶりである。ここに「雜」とそうで無い紛れもない証拠を見せつけられた思いであった。

日記と言えば漱石と鷗外の『獨逸日記』や『小倉日記』、それに永井荷風の『断腸亭日乗』が有名である。私はこれからこうした作家の日記を読むことを楽しみにしている。また妻の書いた日記で、ありし日の事などを思い出す縁(よすが)として、時々読んで見ようかと思うのである。

最後に「雜」と云う字を含んだ言葉を少し書きだしてみよう。先に挙げた2つの意味に分類されるが、両方の意味をもったものもある。

 

雑役、雑誌、雑学、雑魚(ざこ)、雑煮(ぞうに)、雑記帳、雑木林、粗雑、乱雑、煩雑、等。

 

そういえば妻は誰とでも雑談を楽しんでいたようである。また庭に雑草が生えた。妻は黙って庭の雑草を取っていた。戦前までは家事一切の雑用を我が国では家庭の主婦が主として行ってきた。今は男女平等参画で女性が社会に進出して、彼女達は容易には結婚しない。

したがって雑用も当然ながらしない。しかし子育ては決して雑用・雑事ではない。少子化対策を如何にするか。雑然と考えないで真剣に考えなければ我が国は亡びる。まあしかし、私のような老いぼれはどうしようもない。多少なりとも雑念を払って澄み切った気持ちになりたいものである。              2020・9・10 記す