yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

私の散歩道

 大橋良介著『西田幾多郎』(ミネルヴァ書房)を読んでいたらこんな文章があった。

 「散歩」は誰でもする平凡な行動である。いちおう、そう言えるであろう。しかし、そう自明的にいつでもできる行動ではない。たとえば生まれて、呼吸して、死ぬことは、生を享けた者なら誰もがくぐる共通の生命現象であるが、立って「歩く」となると、すぐに誰もが享受できるものとは言えなくなる。病や怪我や老齢で歩けない人は、世の中には沢山いる。まして、単に歩くだけでなく「散歩」するとなると、すでに希少価値すらある。たとえば、健康であっても生活に追われている人には、散歩の暇は無い。そしてまた、そもそも散歩するのに適した道があることも、不可欠の条件だ。社会や国家の情勢の安定という、平和時にはあまり意識しない基本条件もある。治安が悪くて外に出られないという地域は、日本では珍しいだろうが、世界各地ではむしろそのほうが当たり前という地域が、いくらでもある。 

 わたしはこれを読んで「目から鱗」といった感じを受けた。わたしはこれまで萩においても山口に来ても、至極当たり前のように散歩を楽しんでいたからである。たしかに散歩の出来る条件としてここにあげてあるものが一つでも欠けたら散歩は不可能である。これを思うとわたしはこれまで自由に散歩が出来てつくづく有難いと思った。妻が亡くなった後、我々が結婚したことについて考えてみた。男女二人が結婚できるには、これまた多くの条件をクリアーしなければならない。散歩に限らず、世の中の各種多様なことは、多かれ少なかれ幾つかの条件が調って初めて成立するものと思う。例えば大学進学にしても、本人の学力はもとより、健康状態、さらに家庭の経済状態。こういったことは考慮すべき必須の条件だろう。結婚となると当事者たちに関する多くの条件だけでなく、両家が関係するから一段と複雑になる。
以上の事を考えると、残り少ないわたしの平凡な人生も、恵まれていたと言えるだろう。「無事是貴人」という言葉がある。こうして一人暮らしにはなったが、老後になって散歩が出来るとは有難い。そう思い、あらためて感謝の気持ちで、わたしの散歩について少し書いてみようと思った。

 大橋氏は西田の「散歩」について、最後にこう書いている。

 西田において昭和六年(一九三一)の秋から一八年(一九四三)の秋まで、散歩ができるような安寧がいちおうあった、ということである。琴(注:西田が昭和六年に再婚した人)と一緒の生活が、その安らぎの基盤だった。西田の散歩道のひとつは。いま「哲学の道」として、京都の銀閣寺から岡崎までつづいている。「散歩のある日々」は、いま、どれほどの我々の生活に残っているだろうか。これは現在の我々が自分に尋ねてもよい問いである。

 昭和五十七年五月一日に父が亡くなった後、わたしは日曜日になると、萩の浜崎にある我が家の近くの住吉神社の境内を抜けて、日本海に向かって立っている鳥居の所の石段を降りて波打ち際まで行き、そこから女台場の松原までの砂浜をよく散歩した。そこの砂浜は子供時代の遊び場だった。  
夏の太陽がぎらぎらと照りつける真昼時、素足で熱い砂浜を駆けながら、途中広い砂浜に筵を敷き、その上に拡げて陽に乾かしてある煎り子を一寸摘まんで食べたりしたこともある。泳ぐことが出来ない季節にはその砂浜で、草野球ならぬ砂浜野球を楽しんだ。
さて、初夏の朝の散歩は、爽やかな空気と清新な気が漂う中を、打ち寄せる波の音を聞きながらゆっくり歩いた。名も知らぬ小鳥が小さな蟹の穴をつついているのを見かけた。盆を過ぎた頃になると、夕陽が西の海に沈む前、指月山が暗いシルエットとなり、空が真っ赤に染まってくる。そうなると海上に金波銀波の輝く筋が幾つも生じ、それらが金粉を撒いたように美しくきらきらと燦めいて見える。これを見るだけでも気分が好かった。人影はほとんどないので、まるでこの素晴らしい光景を独り占めにしたように感じることが出来た。
 このようにわたしは小さな子供の時から、この日本海を見て過ごし、その海岸の砂浜で遊ぶのを常としていた。高校に入り学校帰りにもよく海辺の道を歩いた。大学へ入るまで、海はわたしにとって不可分のものだと言っても過言ではない。だから山口に移って海がすぐ見られないのは残念に思っている。 
 波打ち際を三百メートルばかり歩いて、女台場の碑のある松林の所から街中に入り、先祖の眠る菩提寺に詣って帰るのがいつもの散歩コースだった。しかし父がまだ生きているうちから、わたしたちは隣家からの騒音に非常に悩まされた。父が亡くなったので、わたしと妻は浜崎に我が家があるのに家を出て、市内の城下街にある「史跡 青木周弼旧宅」に管理人として住むようになった。そこに八年間居たが、この間はあまり散歩をしなかった。八年目になって、観光客が家の中まで自由に入るようになったので、ここを出てまた我が家に帰ることになった。それから山口市に移るまでの二年ばかりの間、わたしはまた上記の散歩道をほとんど毎日歩いた。

 平成十年(一九九八)に山口市吉敷に転居してからは、それほど決まって散歩するようなことはなかった。気が向くと夕飯前、吉敷川に沿った小道を時々散歩した。ここは蛍の名所だそうだが、夜分歩かないから一度見ただけである。しかし川沿いの桜吹雪の下や、各種草花の咲き乱れている人通り極めて少ない小道を歩くのは気持ちがよかった。

 令和元年五月二十七日に妻が旅先で急逝し、葬儀も済ませたので近くを少し歩いてみる気になった。平成十年九月に山口市吉敷の今居る所に萩を出て家を建てた時には、周辺には田圃がかなり残っていて、田園地帯と言った感じがしていた。
それか数年後に我が家の前に立派な自動車道路ができ、引き続いてスーパーが誕生した。これはわれわれにとっては有難かった。そのスーパーの横の道路を隔てて四階建ての「県職員住宅」が三棟並行してあったが、次第に古くなり住居希望が減ったのであろう、その内の二棟が解体撤去された。その後整地され、今度は個人住宅用として売りに出された。それが令和元年九月である。まだ四ヶ月しか経たないのに十数軒の家が目下新築中である。坪単価が十五万八千円と標示されていた。我が家を建てた時よりは十万円も安くなっている。
 こうした新築家屋を見るに、樹木を植えている家は今のところ一軒もない。家屋と車庫だけが確保された狭いスペースである。こうした家を建てる年代は皆三十代から四十代の共稼ぎが多いのだろう。小学生が一人か二人居るかも知れないが、これから二十数年経てば子供は独立して皆家を離れる。その頃になると家の外壁を塗り替えなければならない。だんだんと年を取り、夫婦だけが残り終には老人となる。これが現代の日本の姿である。我が家の周辺ではここだけでなく、スーパーの反対側にもあった田圃を潰して、今や二十数軒の新しい家ができているし、建築中の家もある。その意味に於いては活気があるが、数十年後はどうなるだろうか。これが日本各地の田舎では深刻な状態で、廃屋ばかりになった地域もある。
 もう一つ私が感じた事は前にもちょっと言及したが、どの家にも自然の緑がない。都会のマンション暮らしもそうであろう。以前は多くの家にはささやかながら庭と菜園があった。「家庭」とは文字通り「家と庭」から成り立つ。日本人は本来自然に囲まれ、自然に育まれ、そして自然を愛でて一生を過ごしてきたのだが、今や金・金・金のもうけ主義と、便利とスピードのみを競いそして追う生き方に代わってしまったような気がする。「家庭」は「家車」となった。こうした生活を維持するために若い夫婦は共に働き、またそれができない者は独身生活を余儀なくされ、そして停年を迎えるのではなかろうか。人の世は一生である。この二度とない人生をせめて退職後は、多少不便で生活のテンポは遅くとも、大自然を味わうべくゆったりとした気持ちになりたいものだと切に思うのである。
 現代社会は科学とテクノロジーによって突き動かされ、人間性が失われようとしている。山川草木の「自然」と一体になるという言葉があるが、庭に咲く一本の花に目を留める余裕がないのかも知れない。だから西洋の若者が禅に関心を抱いている、といった趣旨のことを大橋良介氏は書いていた。 (『日本的なもの、ヨーロッパ的なもの』)(新潮撰書)

 つまらん愚見を述べたが、このスーパーの横を、真っ直ぐに五百メートルばかり行った所に六地蔵がある。この六地蔵は小高い丘の麓にある。「天保六年四月吉日」と台石に彫ってあった。そのすぐ側に「所郁太郎墓」と書いて矢印のある標識が立っている。そこから左の方へ小さな道を八十メートルばかり行くと別の六地蔵がある。ここにも同じ標識がある。最初の六地蔵の存在は承知していたが、後で知ったこちらの六地蔵も、安置された年月日は同じではないかと思う。本尊ならびにこれを中心とした周辺の小さな六体の仏の像が全く同じに見えるから。
 この二箇所の六地蔵は丘の麓、道の直ぐ側にあるが、両方の六地蔵の所から、丘の斜面を登っていける石段が設置してある。しかし丘の一番高い場所には石段はなくて、非常に細い道が通じているだけである。実はこの丘の東側の斜面は墓地になっているから、こうした歩くに便利な石段があるのだ。古い自然石の墓や、かなり広い区画の墓所御影石の立派な墓などが、雑然と並んでいる。こうした新旧様々な墓が数百基もあるだろうが、その中の一つの墓への案内の標識が数カ所立っている。それは先に述べた「所郁太郎墓」と書かれた標識である。わたしはこれまで数回、「所幾太郎墓」へ行ってみたが、今回カメラで墓の後にある掲示板を写真に撮った。それには次のように書いてあった。
     
所郁太郎
  天保九年美濃国岐阜県)に生まれ、本姓矢橋氏、所伊織の養子となって所氏を嗣ぎ、後大阪に出て緖方洪庵に医学を学び、京都に出て医院を開業した。
 この時代に長州藩の青年志士と交遊して尊皇開国を唱え、文久三年七卿とともに長州に逃れ、吉敷新町に住んで医院を開き、元治元年九月井上候が袖解橋に襲われたときこれを手術したことは有名である。
 翌元治元年正月高杉晋作等の挙兵に呼応して遊撃隊参謀として大田、絵堂に俗論派と戦ってこれを破り、再び新町に駐屯していたとき腸チフスにかかり、その三月十二日没した。 行年二十八歳。 
 明治三十一年追贈従四位
 昭和四十年三月十二日   吉敷自治

 

 わたしはこの掲示の内容を読んで二箇所誤りではないかと思った。一つは「井上候」の「候」は「侯」である。もう一つは、「元治元年九月」の事件が歴史的に正しければ、「翌元治元年正月」は「慶應元年」とすべきである。このように掲示が間違っていることは往々にしてあるものだ。わたしは防府天満宮菅原道真に関する掲示にも誤りを見つけて連絡したことがある。それは兎も角として、もし所郁太郎が瀕死の重傷を負った井上馨を手術しなかったら、間違いなく彼は死に、維新の歴史も少しは変わったであろう。ところが井上を助けた所幾太郎は二十八歳の若さで病死している。これを思うと、幸・不幸、人の運命の不思議を思わざるをえない。それにしても二十八歳とは若い。
 この「所郁太郎墓」まで登ると見晴らしがよくて、市街地の大半が遠望できる。澄み切った青空の下、はるか彼方の山並みに囲まれた山口市が盆地の状態であるのがよく分かる。

 わたしはその日、六地蔵の側にある掲示も写真に撮って帰って読んでみた。こう書いてあった。

      六地蔵様縁起
  
 お釈迦様没後、第二のお釈迦様と仰がれる弥勒菩薩様が、この世に現れるまで、五十六億七千万年の間、衆生(生き物全て)の苦悩を救済して下さるのが地蔵菩薩様(お地蔵様)です。
 そして、衆生が自ら作った業(行為の結果)によって生死を繰り返す六っの世界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)に至る一切の衆生を、それぞれ救済するのがこの六地蔵様です。
お墓や辻、お寺などによく見られ、私たちに最も親しいほとけ様です。

                             上東自治会墓地委員会
  
 わたしは妻が亡くなってからほぼ毎日、散歩かたがたこの二箇所の六地蔵を拝む事にしている。誰かがいつもきれいな花を供えている。わたしは一円玉をあげることにしている。
 それにしても「五十六億七千万年」とは途方もない時間である。その時には人類は死滅しているのではなかろうか。インド人は数に関しては異常な才能があると聞いているが、一体誰がこのようなことを考えたのかと思った。
わたしはこの年数をもっと具体的に知ろうと思った。地球一周の距離が40,075キロだとすると、メートルに換算したら、40,075,000メートルになり、さらにセンチでいえば4,007,500,000となる。これは四十億七百五十万センチである。仮にもし人間が1年に1センチだけ移動するとして、地球を一周するのに要する時間である。それよりもはるかに長い距離が五十六億七千万年である。途方もない時間を考えたものだとあらためて感心した。

 二番目の六地蔵からは、来た道と並行した道を帰るのだが、六地蔵への路はこの他にも幾つかある。我が家の直ぐ近くのスーパーの前の自動車道路を右側へ五百メートルばかり行くと信号機の付いた十字路に差し掛かる。そこからまた右に折れて真っ直ぐに国道を横切りながら二キロ以上行けば突き当たりが山口大学である。私は反対に交差点で左に進む。そうしたら緩やかな勾配の道で五百メートルばかりの所に、湯田カントリークラブのゴルフ場がある。その前をまた左に折れて進めば六地蔵の所に達する。此の迂回路が距離にしたら一番長い。
 まだ外にも道がある。我が家とこの信号機の丁度中間あたりに進行方向の左手に石の鳥居が立っている。ここは土師八幡宮への入口である。わたしは時々八幡宮を参拝する。杉や雑木に覆われた神域に囲まれた社殿まで行くには、歩数にして三百余、途中百段もの石段を登らなければならない。標高は僅か三十メートルばかりであろうか、丘の頂上に社殿があり太くて高い杉の神木が聳えている。登り口の鳥居の傍らにこの八幡宮についての説明板が立っていた。

  土師八幡宮

  祭神は天穂日命応神天皇、乃見宿禰菅原道真、息長帝姫命、田心姫命湍津姫命市杵島姫命で古くは土師宮といい天穂日命、乃見宿禰菅原道真の三神のみであったが、慶長年間に福原広俊がこの地の領主となり、元和七年(一六二一、一説には元和元年ともいう)安芸国高田郡福原村にあった内部八幡宮を移して合祀し、社号を土師八幡宮と改めて氏神とした。
 私見。土師(はじ)という社命から考えると、この八幡宮は古い時代にこの附近に住んでいた「土師部」が、その氏神として祀ったものであろう。土師部とは土器をつくる職人のことで、これがのちには性となり、地名になったものである。この附近ではごく最近まで陶業が行われていて附近の山麓には陶土があって土師部が住んでいたものであろう。                 「良城小学校百年史より抜萃」

 

 前記のように、平成十年にわれわれは萩から転居したのだが、家を建てようと選定した地所は、その時山口市が発掘調査をしていた。弥生式土器が沢山見つかったということだった。調査を終えて埋め直して宅地造成したのだが、このあたりは土器を作る人、つまり土師部が住んでいて人家も集中していたのであろう。
この掲示板にも二つの誤記があった。「社命」は「社名」であり、「性となり」は「姓となり」である。

 神社を参拝した後、今度はその裏側から降りる道があるのでその道を行くと、先に述べた交差点からゴルフ場への道と合流する。
 以上三通りの道の外にもう一つ六地蔵への道がある。これは家を出て反対側へスーパーの前を左の方へやはり五百メートルばかり進むのである。そこで道路を横断して右に折れたら細い流に沿った脇道がある。この小道を行けばすぐ田圃が見えてくる。此の田圃を見ながら行けば目的の六地蔵へ達する。田圃と言っても最近はどんどん田畑が潰されて新しい家が建っているのであるが、わたしはまだ田圃が僅かに残っているこの道を通るのが一番好きである。以上大きく分けて四つの道を適当に選びながら、健康と気分転換を兼ねて毎日歩いているのである。

 漱石の『心』を先日久し振りに書架から出して読んでみたら、次の文章に思わず惹かれた。

  「今度御墓参りに入らっしゃる時に御伴をしても宜(よ)ござんすか。私は先生と一所に其所いらが散歩して見たい」
  「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」
  「然し序(つい)でに散歩をなすったら丁度ど好いじゃありませんか」
 先生は何とも答えなかった。しばらくしてから、「私のは本當の墓参り丈なんだから」と云って、何處迄も墓参と散歩を切り離さうとする風に見えた。私と行きたくない口實だか何だか、私には其時の先生が、如何にも子供らしくて變に思はれた。私はなほと先へ出る氣になった。
  「ぢゃ御墓参りでも好いから一所に伴(つ)れて行って下さい。私も御墓参りをしますから」實際私には墓参と散歩との區別が殆ど無意味のやうに思はれたのである。すると先生の眉がちょっと曇った。眼のうちに異様の光が出た。それは迷惑とも嫌悪とも畏怖とも片付けられない微かな不安らしいものであった。私は忽ち雜司ヶ谷で「先生」と呼び掛けた時の記憶を強く思ひ起した。二つの表情は全く同じだったのである。
  「私は」と先生が云った。「私はあなたに話す事のできないある理由があって、他(ひと)と一所にあすこへ墓参りには行きたくないのです。自分の妻(さい)さへまだ伴れて行った事がないのです」

(昭和四十一年発行の『漱石全集 第六巻 心 道草』より)

 「墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃない」との「先生」の言葉を読んで、私の場合は、毎日六地蔵まで散歩するのは、お参りと散歩の軽重は五分五分だと思った。地蔵菩薩に「一切の衆生の救済」をお願いするのと、自分の健康保持の目的を兼ねている。しかしもし妻の墓がそこにあれば、私は「先生」と同じ気持ちで散歩して墓参をするだろう。
  
 先日久し振りに何か読むような本はなかろうかと、山口大学前の「文栄堂」という書店へ行ったら、高楠順次郎の『釈尊の生涯』(ちくま学芸文庫)が目に入ったので買って帰り読んでいたら、「経行」の説明に「散歩」という字が宛てられていた。そこで中村元著『仏教語大辞典』を見てみたら次のように説明してあった。

【經行】 きんひん」禅門では「きようぎょう」とはよまない。①仏道修行のこと。②坐禅中、足の疲れを休めるため、またときには睡眠を防ぐために、途中で立ってゆっくり堂中を歩くこと。狭い同じ場所を散歩すること。あたりを静かに歩く。そぞろ歩き。一定の場所を往き来すること。

 散歩が「仏道修行」でもあると思うと、これまた「散歩」も一段と意味があるものとなってくる。
 六地蔵からの帰り道について書くと、その途中にまた違った標識がある。以前わたしは何があるかと思い、帰りの道を逸れて緩やかな坂道を五十メートルばかり上ってみた。驚いたことに、また六地蔵があり、さらにその少し奥に立派な石の仏像が立っているのが目に入った。手前の六地蔵は先に述べたのと全く同じようだが、歩を進めて奥まった所へ行ってみたら、凡そ百基ほどの自然石からなる無縁墓が集められてあり、その前面に先ほどと同じような小さな六地蔵が並んでいた。
 わたしは不思議に思った。この地で昔何かあって多くの人が亡くなり、その後生を弔うためにこの狭い地域に、わたしの家からそれぞれ五百メートルばかりの所に、四箇所も六地蔵が安置されているとは。人の死を弔う篤い信仰の表れだろう。こうした六地蔵に守られているこの地区は有難い場所かも知れないとも思った。
ところがまだある。この一番奥の六地蔵の右横に小さな板囲いのお堂があり、そのなかに墓石が見えた。ここにも掲示板があって、小さい文字でびっしり説明してあったので、これも写真に撮って帰って読んでみた。そういえば道端のこの場所への入口に「いちじいさまの墓」の標識が立っていた。長い説明文である。

       いちじいさまの墓
       ~痔を治す仏~
  
 お墓に納められているのは、嘉永四年(一八五一)十一月十六日に亡くなった芾右エ門(いちうえもん)というお坊さんのお墓です。その証拠に、石には、俗名の芾右エ門、死亡年月日とともに「釈浄真法師」(しゃくじょうしんほっし)と刻まれています。「釈」は亡くなるとお釈迦様の弟子になるということ、「浄真」は法名、「法師」はお坊さんやお寺に仕える人のことを意味します。
  昔からの言い伝えによると、芾右エ門というお坊さんが、通りすがりに、痔の痛みに苦しみながら田畑で働く人たちに出会い、念仏を唱えたところ不思議なことに痛みが治りました。みんなは大変喜んで、お坊さんの大好きなお酒をお礼として差し上げました。そして、やがて、お坊さんのことを親しみと敬愛の気持ちを込めて「いちじいさま」と呼び始め、亡くなると、お墓を建て、お酒を供えるようになったそうです。
その後、だれかれとなく、「お墓にお酒を供えてお願いしたら痔が治る。治ったら、お酒を持ってお礼に行くそ」と言い始め、この話が広まると、痔で苦しむ人たちが、花や線香とともにお酒持参でお参りに訪れるようになりました。昔は、お酒を入れた竹筒を墓石の傍らの木にぶら下げていましたが、今は、瓶入りのお酒がほとんどです。平成二十五年七月のお堂再建に当たり、周辺を整備したところ、おびただしい数の酒瓶が出てきました。単なる噂ではなく、本当に「ご利益」がある証拠でしょうか。実話もいっぱい残っています。いつごろのものか定かではありませんが、この墓地への登り口左手には、「是ヨリ二十間」「じをなおす仏」(一間は約一八二センチメートル)、また、お堂の右手近くには、「是ヨリ左上」「発起人 湯田 奥原吉太郎」と刻まれている道標が立っています。

お願い
  「いちじいさまの墓」にお参りして、痔が治った方の体験談を募集しています。実名、匿名のどちらでもかまいません。備え付けの郵便受けに入れてください。
                          上東自治会 墓地委員会

 

 長々と書き写したが、わたしはまだ「いちじいさま」にお願いする必要はない。

ついでの散歩の途中で見つけた物について書こう。この散歩道の傍らに「庚申塔」が二つあるのを知った。それぞれ一キロくらい離れて立って居るが、大体同じような恰好の自然石に「庚申塔」と彫ってあるのがはっきり読める。建てられた年月日は苔むして読めなかった。私はネットで調べてみて初めて「庚申」の意味を知った。「庚申」は干支(えと)で甲子(きのえね)、乙丑(きのとうし)など六十種の組み合わせの五十七番目に来るのだが、その日に関するものとして次のような記述があった。

 庚申塚(こうしんづか)は、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた塚で、庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多いそうです。 庚申講とは、人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)という虫が、庚申の日の夜、寝ている間に神様にその人間の悪事を報告するので、それを避けるために庚申の日の夜は夜通し眠らないで神様や猿田彦青面金剛を祀り、勧行をしたり宴会をしたりする風習があったとのことです。(以下略)

 散歩の功徳はぶらぶらと歩きながら、道ばたの草花を見たり、青田から黄金色に変わる稲穂に目を楽しましたり、鳥の声を聞いたり、雲の流れ、その変わりゆく姿を見て楽しむ以外に、漫然と色々な事を考えることでもある。時には学校帰りの小学生にも会う。
 今日も昼前に散歩道で、可愛い小学生の男の子が二人向こうからやって来たので、「もう学校が終わったの?」と訊いたら、「はい、今日で学校は終わりました」と明るく元気に一人が答えた。そういえば今日は十二月二四日、明日から冬休みに入るのだ。私が萩市立明倫小学校に入ったのは、昭和十三年であったから、もう八十年近い年月が流れたことになる。そんなことを思いながら家路についた。

 最後に一言。妻とわたしが萩からここに移った時、萩高校の教え子が、このあたりは「風水学」の見地から言うと中々良いところです、と云った。平成十年にこちらに来てから早や二十一年の年月が過ぎた。前にも書いたように、その時は周辺にまだ田圃が多く残っていて、雨期になれば蛙の鳴き声が喧しかった。しかし機械音とは全く違う。すこしも気にはならなかった。その時に比べると、今は住宅が多く建ってすっかり様変わりした。しかし静かな環境に変わりはない。町内の人も皆いい人である。
騒音問題という多大の苦痛、特に妻は一時神経に異常をきたすほどであった。しかしそれだけでは移転は出来なかったと思う。ここに神仏の御加護という絶対的な他力が働いて初めて可能になったとわたしは信じている。妻もよくそう言っていた。人生においては大きな転機を迎えるには、何らかの犠牲を伴うものだということをわれわれは経験した。妻もこちらに来て、最後の二十年を平穏に送ることができ、本当によかったと思ったのではなかろうか。これも我々にもたらされた運命だと言えよう。わたしに残された余命はもう知れている。その間この環境で少しでも長く散歩を楽しめたらと思うのである。
            
               令和元年十二月二十四日 擱筆。