yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

防府天満宮参詣

 十一月七日は私の実母の祥月命日である。亡くなって八十七年になる。年月が経ったものである。この日に防府天満宮へお参りしようと思っていたが、事情があって翌日の八日になった。息子からは遠距離のドライブはしないようにと言われていたが、これだけはと思って実行した。
 私は妻が亡くなって彼女の書き残した六冊の日記を時々見る。我々が山口市に転居したのは平成十年(1998)だった。妻は2004年からいつも同じ『高橋の3年日記』を用いている。彼女の日記を見ることで、「あの日に何があり、誰が来たか」といったことを確かめることができるからである。
 私も3年連続日記を用いているが、出版社はまちまちである。この点を考えただけでも、妻はすることなすことがきちんと徹底していた。性格が字に現れるとも言われるが、妻の書いた文章は日々のスペース一杯に、しかも一字一字はっきりと黒のボールペンで明瞭に記載している。私はその点でも出鱈目で、紙面一杯に書くこともあれば、半分くらいで余白を残すこともある。おまけに書体はかなり崩れているので他の者には容易に読めないかも知れない。これは思うに、私は九時頃床に就くので、その日のことを思い出すがままにメモ的に記載するのに反して、妻は夜遅くまで起きているのでじっくり考えを纏めて書いたのだろう。まあ一事が万事、几帳面な妻に対して私はルーズというか、物事を大体で済ます傾向がある。言うなれば妻はやや神経質で、私はいささか大雑把といわれても仕方あるまい。
 日記への記載一つをとってもこのような違いがあるが、こういったことも結婚してみて初めて分かる事である。だから世の中では折角一緒になっても、性格の不一致で破綻をきたす事もあるのはやむを得ない事だと思う。そこを破鏡に至らずに済むには、人のよく言う結婚には「忍耐と妥協」が必要なのかも知れない。何百何千という人の中から縁あって結ばれたのだから、やはりこのご縁を大事にすべきだろう。我々も、とくに妻の場合そう思ったのかも知れない。時々妻は冗談交じりに「勘違い結婚だった」と言っていた。
 話が逸れたが、昨年の妻の日記を見たらこんなことを書いていた。

「朝食の時夫が今日天神さまにお詣りしようかと言う。ちょうどいい頃合いなので私も
 乗り気になる。梅は峠を越しているとは言えまだ充分きれいだった。年と共にだんだんお詣りの時期がずれて遅くなったが、なぜか天神さまへお詣りできたらほっとする。帰りは佐波川添いの宇佐八幡宮にも寄ろうというのでそこもお詣りをし、徳地の南大門や仁保の道の駅にも寄る。ふと角のそば屋が営業していたので、月曜会を懐かしみながらそばを食べて帰る。」

 防府天満宮には私の曾祖父が寄進したというか、建てているかなり大きな長方形の御影石に俳句が刻まれてある。それが大きな自然石の上に据え付けてある。そしてその両側に紅白の梅が植えてある。
 曾祖父は若いときに夢に天神さまが現れたとかで、それ以後天神さまを信じて、酒造業を萩で始めた時屋号を「梅屋」とし、酒銘を「箙」としたと聞いている。天神さまと梅は密接な繋がりがある。太宰府天満宮には有名な「飛び梅」の樹があるし、境内では「梅が枝餅」を売っている。酒の銘を「箙」としたのは『広辞苑』にも載っているように「箙の梅」という故事を知って命名したのだろう。故事とは、生田の森の源平の戦いで、梶原源太景季が箙に梅の枝を挿して奮戦した事である。
句碑には「夢想」という字が横書きに刻まれ、その下に縦書きに彫られた俳句が読み取れる。
   天満る 薫を此処に の梅の華      佳兆

「佳兆」は俳号である。

 妻は結婚した当初、私が曾祖父の事を話したら、「鉄砲を買うとか何とか云っても、単なる商売人じゃないの」と馬鹿にしていたが、この鉄砲購入のことが『萩市史』に載っている事を知って、天神さまと曾祖父の事を多少見なおしたのか、上記の日記に書いていているような気持ちになって、我々は天神さまへ毎年必ずお詣りしていた。
 このような訳で、今回は最後だと思い、昨年と全く同じコースを独りでドライブした。「そば」は徳地から山口への峠の途中にある店で食べた。爽やかな天気で紅葉がきれいだったが、傍らに話しかける妻のいない行程80キロの運転は、やはりこれを最期にしようとつくづく思った。そば屋の女将さんが「御元気ですね。お年にはとても見えません」と言って呉れたが、やはり運転には気を遣う。
 妻の日記に「月曜会を懐かしみながら」と書いているのは、我々が山口市に移り程なくして二組の御夫婦と知り合うようになり、毎年一度我々三組、その後萩の知人ご夫妻も加わって合計八人の老夫婦が国内を方々旅行した。また毎週月曜日には市内の数カ所の食堂で昼食会を楽しんでいたからである。それも一組のご主人が亡くなられ、残りの老夫妻も鎌倉に行かれた。或る日「角のそば屋」でそばを食したことが思い浮かんだのであろう。
 人生に於ける邂逅と離別は避けることのできないことである。最後は残った者がこの現世を後にして、次はあの世で又相まみえることになるかも知れない。その時は姿は見えないが、霊として実存しているのであろう。

                          (2019・11・11)