yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

オクラと蛙

 

「オクラ」と聞いたら先ず何を連想するだろうか。万葉集歌人山上憶良(やまのうえのおくら)を頭に描く人は、ある程度の教養を身につけた御仁(ごじん)かも知れない。彼の「子等を思う歌」は昔教科書に出ていた。その一部をあげてみよう。

 

 瓜食(は)めば子ども思ほゆ、栗食(は)めばまして偲(しぬ)はゆ、何処(いづく)より来たりしものそ、目交(まなかひ)にもとなかかりて、安眠(やすみ)しなさぬ (巻五、八〇二)

「子供の面影が目のさきに、わけもなくしきりに掛かって、安い眠りも寝られない」

                         (土屋文明著『(萬葉集私注)』)

反歌

銀(しろがね)も金(こがね)も玉も何せむに優(まさ)れる宝子に如(し)かめやも(同、八〇三)

 

次ぎもまた有名な歌である。

 

憶良らは今は罷(まか)らむ子哭(な)くらむそれその母も吾を待つらむぞ  (巻三、三三七)

 

宴席のなかばに退席する際の即興の戯れ歌だが、この一首で憶良は喝采を博したとある。

 

何だか物知り顔に書いたが、私がここに言う「オクラ」は、野菜のそれである。昨日の朝リビングルームの南向きのロールカーテンを開くと、その合間から目に入ったのは緑一色だった。いやその緑の中にたった一つ、純白ではないが、やや薄黄色の「オクラ」の花が目に入った。僅か二坪ばかりの菜園には今は殆どの野菜がなくなり、我が家ではこのオクラだけが辛うじて実を付けて呉れている。オクラは花が咲いたらもう翌日は花が落ちて、緑色の小さな角錐状(かくすいじょう)のものが出来る。それが次第に伸びて細長い紡錘状(ぼうすいじょう)の実に変わり、三四日したら収穫できる。

この花が硝子窓越しに大きく開いているのが真正面に見えた。そこで私はカメラを手にしてもっと近づいて写そうと思って外に出た。そうしたら破れ団扇(うちわ)の様な葉っぱの上にちょこんと一匹の雨蛙が畏(かしこ)まって居るのに気が付いた。猫の額ほどの狭い畑であるが今は緑一色だから、全く同じ色の蛙をもう少しで見逃すところだった。私はこの蛙にもカメラを向けた。それから朝食を終えてしばらくして行ってみたら、違う葉っぱに位置を変えていた。しかし依然として目だけは開けてじっと蹲(うずくま)っていた。

夕方になって出て見たらまだ彼はそこにいた。そして中秋の名月の晩にはどうして居るかと思って夕方暗くなってまた出てみると姿を消していた。

一晩明けて朝行ってみたら、また同じオクラの葉の上にいた。今日もまた来てくれたかと可愛く思った。日中は陽光が照りつけて流石の蛙も何処かに行ったのだろう姿が見えなかった。所が夕方また如何しているかなと思って行ってみたら、驚いたことに同じ蛙のすぐ側に、まるで頭をくっつけるような恰好で、大きさが半分くらいの子蛙がちょこんと座って居るではないか。彼らは兄弟のようにも見えるが、私は親子だと思った。それにしても最初の蛙が子蛙に「俺が座っているオクラの葉っぱは風が吹けば静かに揺れて気持ちが良いから来てみんか」とでも誘ったのではないかと私は思った。人間にはこうした小動物の意思の疎通が如何して行われるか分からないが、彼らの間ではきっと伝達方法があるに違いない。獣、昆虫、鳥、魚といった生物が集団移住などをする。それどころかたった一匹の蟻が甘いものや何かの死体をみつけると、瞬く内に多くの蟻が群がる。人間には分からないが意思の伝達方法があると思う。

夕方六時になって外はもうかなり薄暗くなっていた。行ってみると子蛙は別の葉柄(ようへい)の上にいた。箸の様に細くて丸いこの葉柄の上にバランス良く止まっている。一方親蛙は朝と同じ葉の上にそのまま居た。今日は中秋の満月である。ひょっとして親子で月を愛でるのかと思って再び七時過ぎに行ってみるとどちらも姿が見えなかった。親蛙も子蛙が可愛いのだろう。夜が迫ったから連れ去ったのに違いない。明日もオクラの葉の上に来るように、出来たら二匹が来てくれと願いながら、私は雲一つない空に輝く中秋の名月を後にして室内に入った。

最初に蛙の姿を見て今日は三日目である。五時前に目が醒めたので洗顔の後机に向かってこれも読み始めて三日目になるが漱石の『道草』を開いた。まだ外は暗かった。六時になってひょっとして蛙がまた来ているかなと思って行ってみたら、これまでと違うもう一本のオクラの葉の上にちょこんと座っていた。私は「お前また来てくれたか」と声を掛けてやった。蛙には私を慰めようという意志はなかろうが、こうして毎日姿を見せてくれて、何だかほのぼのとした気持ちになった。たかが一匹の小さな生き物でも、日本人には自然を愛し、自然物と共に生きる、つまり「共生」という思想というか感情が脈々と伝わっているのではなかろうか。此の點諸外国の人たちとは違う様な気がする。

 

やれ打つな蠅が手をする脚をする   一茶

 

 朝顔に釣瓶取られてもらい水     加賀千代

 

こういった詩歌を彼らは理解できないだろう。私も下手な句を作ってみた。

 

明日も来い、親子揃ってオクラまで

 

明月を見捨てて何処へ雨蛙

 

雨蛙一人暮らしの慰みに

私はこの拙文をここで一端止めようと思った。しかしまた一晩寝て今朝は四日目である。蛙は如何(どう)かなと思いながら畑へ行ってみると、親子は別々のオクラの木の漏斗(ろうと)のようになった葉の底に尻を据えて、やや斜め上に身体を向け、目だけは開けて坐っていた。近づいて見ると喉のあたりが絶えずぴくぴくと微動して居た。恐らく呼吸をして居るのだと思った。オクラ以外にも色々な草花の葉や茎があるのに何故オクラの葉を好んで、その上に鎮座しているのかと不思議に思った。ここなら第一身の安全だと言うことを本能的に感知しているのだろうか。私はこんなことを考えていたとき、ふとオクラについてあることを思い出した。今でこそ「オクラ、オクラ」と言ってネットを開いたら「オクラのレシピ」とか言って料理の仕方を色々教えて呉れているが、私がオクラの存在を知ったのは、高校に通っていた七十年も前の事である。 

 

私には中学・高校・大学を通して一人の友人がいた。竹馬の友と云ってもいい男で、萩に居るときはよく彼の家へ遊びに行った。彼には姉が二人いて、長女はすでに東京女子大学を卒業し、次女は日本女子大学に籍を置いていた。当時女性が小学校を出て県立の女学校へ入るのは今と比べたら格段に少なかった。ましてや更に上級の進学となると稀な存在だった。従って彼は長男だと言いながら姉には聊か頭が上がらない様に見えた。彼には下に弟が二人、妹が二人いて、兄弟姉妹皆大学を卒業している。この事から分かるように彼の家は相当の資産家であった。彼の家には一人の年輩の男性がいた。家の者は皆この男性を「爺(じ)い爺(じ)い」と呼んでいた。この男性は子供の時から彼の家で掃除から風呂焚き、畑作りなど一切の下働きをして居たようである。

私の家から彼の家に行くとき、私はいつも住吉神社の境内を通って、本町通りに出て行くことにしていた。魚市場に向かって本町通りの左一郭に彼の家屋敷があり、その一郭の中に自転車屋、印刷所、八百屋、信用金庫などといったものが通りに面して軒を連ねていた。それらは敷地の一部を借りて商売をして居たと思われる。通りの右側の一部に板壁があり、その出入り口の戸を開けたら、其処にも彼の家に付属する廣い土地があって、畑とその先に茶室とそれに付属した立派な庭が広がっていた。我々はよくその庭で遊んだ。

ある時彼は畑に育っていた細い茎にヤツデの葉に似ていて、それより小さい葉が幾つもついていた植物を指さして、「これは爺じ爺いが植えたオクラというものだ。」と言って私に教えて呉れた。「このオクラの実は粘っこいものだ。栄養があるそうだ」

彼はこう云ってその紡錘状の実を一本もぎ取って、持っていた小刀でそれを切って見せて呉れた。中に小さな丸くて白い種が沢山あって、ねばねばとした粘液が垂れ下がった。私は初めて見る野菜に何かしら異種類のものを感じた。

「こねえなものが食べられるか」

「俺もそう思うが、爺い爺いが何処で聞いて来たのか知らんが、なんでも栄養があるからと言って植えたようだ。」

我々は千切(ちぎ)ったオクラをその場に捨てて省みなかった。そういった在りし日のことを私は今ふと思い出したのである。

大学時代、彼は親戚の土蔵の二階で寝起きして居た。今思うに其処に『漱石全集』の初版本が並べてあった。家主は大柄の老人で、慶應大学出身でその息子さんはセメント会社の社長だと云うことだった。私は情けない事に、当時その漱石の作品を手にとって読む気は無かった。大学を卒業後、その友人は長男ではあるが親の意に添わぬ女性と一緒になったために、家督を次男が継ぐことになった。彼は大阪に出て会社勤めをして居た。二人の子供にも恵まれ、平凡だが平和な暮らしをして居たと思う。しかし或る日通勤電車の中で突然吐血し、直ちに入院手術をした。そして手術後私は彼を見舞ったが、それから間もなくして胃潰瘍がもとで亡くなった。まだ定年を迎える二三年前の事だった。そして家督を継いだ次男も数年前に鬼籍に入った。彼の家は今は昔栄えていた面影がなくなってしまった。彼の家系は皆長生きである。彼がこのように早く死んだのはやはり精神的プレッシャーがあったものと思う。彼が死ぬ僅か数ヶ月前に、私は京都の東寺を彼と一緒に訪れた時、

「定年退職したら、二人でゆっくり古都を巡ろうじゃないか」

そう言って別れたばかりなのに彼はもはや戻らぬ客となった。良き話し相手が亡くなり私は寂しい思いをしたが、あれからもう四十年近く経った。茫茫たる昔の事である。「栄枯盛衰世の習い」と言うが、人の一生は本当に分からないものだとつくづく思う。

 

その当時まだオクラを店頭に見かけることは全く無かった。もっとも戦時中でわれわれが一番目にしたのは、大して美味(うま)くもない薩摩芋や南京(なんきん)即ちカボチャだった。ただ腹の足しになれば良いと言うことで、空き地はもより学校の運動場まで耕して薩摩芋を栽培する時節だったから。そして戦後数十年経って、このオクラが今や栄養価の高い野菜として注目されるようになった。私は『原色牧野植物大圖鑑』を書架から取りだして、「オクラ」についての記述を見てみた。索引で「オクラ」を調べたら次のように書いてあった。

 

トロロアオイ 

中国原産の栽培される1年草。全体に毛がある。茎は単一で直立し高さ1~2m。葉は長い柄があり大形。花は夏から秋、朝開花し夕方にはしぼむ1日花。花の下には包葉があり、上部のもの小形。根は粘液を含み、それを製紙用ののりとして用いる。和名はその粘液を食用にするトロロに見立てたもの。漢名黄蜀葵。若い果実を食用とするオクラに似た花。

 

この図鑑は昭和五十七年に初版が出ている。私はもう少し知ろうと思ってネットを開けてみたら東京農大の先生の説明があった。

 

オクラの原産地はエチオピアやエジプトなどアフリカ東北部で、エジプトでは紀元前から栽培していた。日本へは幕末にアメリカから伝わり、一般家庭へは1970年頃からで、それまでは花の観賞用に栽培されていた。

 

一九七〇年と言えば昭和四十五年である。とすると友人の畑で見たオクラはそれより随分前になる。道理であの時見たオクラを珍しく異常なものと感じたのであろう。

話は変わるが、数日前に萩市の郊外に住んでいる友人から数冊の本が送って来た。彼は最近目が悪くなって活字が殆ど読めなくなったので、私が関心を持ちそうなのを選んでくれたのだ。その中に小笠原泰著『なんとなく、日本人』(PHP新書)があった。私はこれをなんとなく手に取ってみた。副題として「世界に通用する強さの秘密」とあって、私は思わずひきつけられて読み始めた。

 

日本人は、死者との間にも関係性をもっている。(中略)多くの日本人にとっては、家族や血縁者による遺骸の処理を通した死者儀礼によって、「生者」は「死者」へと時間をかけて移行していく(死ぬという「コト」)のであって、医者の死亡診断を通して「死者」へと即座に移行する(死という「モノ」)ものではない。

 

私はこの言葉に強く打たれた。昨年五月に妻が旅先で急逝し、一抹の淋しさを感じている。しかしここにも書いてあるように、ただ死んだ「モノ」としては絶対に思わない。この本の中にこんな文章があった

 

あの小林秀雄が、母親を亡くしたときに、「家の前の道に添うて小川が流れてゐた。もう夕暮れであった。門を出ると、行手には蛍が一匹飛んでゐるのを見た。この辺りには、毎年蛍を良く見かけるのだが、その年は、初めて見る蛍だった。今まで見たこともない様な大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考へから逃れる事が出来なかった」と目の前を行く大きな蛍を母親の生まれ変わりと得心してしまうわけである。

 

数日前から姿を見せる小さな蛙を見て、こうした小動物でも毎日オクラの葉の上に黙って坐っているだけでも、「なんとなく」私の心を慰めてくれるのである。

今日夕方になったので外に出て見たら、これまた偶然に一匹の小さな蛙を目にした。オクラと離れた所にある野バラの小さな葉の上に、同じ色をしたさらに小さな蛙が、ちょこんと坐っていた。これで三匹の蛙に出くわしたことになる。

蛙がじっとして居るのはエネルギーを使わないことになるらしい。ヒキガエルの中に三十年以上も長生きしたものが居るそうだ。そうだとすれば今現れた蛙は去年姿を見せた同じ蛙かも知れない。そう思うと益々愛(いと)おしくなる。私は良く来て呉れたと思いながらいつもの散歩に出かけた。 

 

以上の文章を書いて五日経つた。私は毎日外に出たら蛙が居るかどうか確かめる気になった。そうしたら一番大きな蛙だけは殆ど位置を変えないで同じ葉の上に夜昼を通して坐っている。一方それより小さい蛙は違った葉の上に移動したり、夜の間姿を見せないこともあった。ところで野バラの葉の上にじっとして居た一番小さい蛙が何処を探しても見つからなかった。丸一日姿を眩ましていた。今朝七時過ぎに小松菜に水をやろうと思ってオクラに近づいたら、一枚の葉の上に大きい蛙とその一番小さい蛙が反対向きにじっと坐っており、さらにもう一匹の蛙が別のオクラの木に止まっているではないか。

私はこれら三匹は親子だと思うが、オクラと薔薇は五メートルばかり離れて居て、その間に踏み段と赤煉瓦を敷いたテラスがあるから、子蛙はその距離を歩くか跳びはねて行ったことになる。それにしても彼らに意思の疎通がなければ、同じ葉の上に行ってじっとしているはずがないと思った。私はこうして小動物が毎日姿を見せて呉れることは、無言の中にも慰めになるので、これから次第に寒くなるが出来るだけ姿を見せてくれ、と心の中で願うのであった。 

もう少し続きを書こう。上記の文章を書いて丁度一週間経った。この間に彦根から妻の姪夫婦が墓参りをしたいと言って来た。その為に萩と長門方面へ連れて行ったりして、姪だけは十六日まで残ってくれたが彼女も帰ってまた一人暮らしになった。昨日は我が家の菜園へ何度も出てみたが蛙の姿は見えなかった。寒くなったので遂に冬眠に入ったのかなと思って今朝出てみたら、小さな破れ傘を拡げたようになったオクラの葉の上に、親蛙だけ一匹じっと止まって、日差しに背を向けて甲羅を干しているような恰好でいる。その艶々した背中は陽が当たって光って見えた。ただ喉元だけぴくぴく動いていた。

「よく来てくれた。寒くないか」と声をかけて私はしばらく立ち止まって見つめた。

この蛙が初めて出現したのが今月の始めだから今日で十七日過ぎたことになる。この間二日ほど姿を見せないことがあった。また恐らく子蛙だろう外に二匹現れた事もあったが、この親蛙だけは殆ど毎日やって来て、オクラのこの葉、あの葉へと転々としながら、終日いや時には一晩中留まってくれていた。私は「止まった」とは思わず「止まってくれた」と言いたい。物言わぬこうした小動物でさえ、私には慰みになったからである。

テラスの踏み段はセメントを塗ったで灰色である。その上に何だか動くものがいると思って近づいたら一匹の蛙だった。近寄ると怖くなったのか直ぐ側の土壁に跳んでぴたりと張り付いた。蛙は灰色から瞬時に褐色に変色した。まさに保護色の妙である。

 

「保護色は動物の隠蔽色の一つ。生活環境の背景の中にとけこませることにより、他から発見されにくくする効果を持つ。被食者が捕食者からのがれるにに役立つ色彩の場合にいう。」

このように説明してあるが、このメカニズムやこう言った動物の心理は人間には分からないと思う。この蛙もそろそろ冬眠で何処かに姿を消すだろう。

昨日は肌寒い一日だった。今朝は朝から陽光が射してこの時節にしては暖かい。七時過ぎて自転車で「ログ・ハウス」へ榊を買いに行った。帰って我が家の菜園へ出てみたら、昨日の親蛙がオクラの茎に止まっていた。午後になってまた如何しているかと出てみたら、オクラの破れて僅かに残っている葉の先端にいた。蛙の目方は軽いのでオクラの葉は耐えるのだろう。驚いたことに一番小さい蛙も別の漏斗型の葉の底に上を向いて坐っていた。この子は三日間姿を見せないでいた。陽気に誘われたのか、それとも「冬眠するにはまだ早い。もう少し世の中を見ておくのだ」と親蛙が言ったのか、可愛い眼をこちらに向けてじっとして居た。

もうこの辺で駄文に鳧(けり)をつけよう。また来年も現れてくれることを願ってこの拙文を書き終わることとしよう。最後に草野心平の『秋の夜の会話』を引用し、ついでに私の駄句と稚拙な歌を添えておこう。

 

秋の夜の会話

 

さむいね。

ああさむいね。

虫がないてるね。

ああ虫がないてるね。

もうすぐ土の中だね。

痩せたね。

君もずいぶん痩せたね。

どこがこんなに切ないんだろう。

腹だろうかね。

腹とったら死ぬだろうね。

死にたかあないね。

さむいね。

ああ虫がねいてるね。

      

雨蛙 冬眠終えて また来いよ              

 

霜枯れて 破れ傘なるオクラ葉に 無念無想の雨蛙哉(かな)          

 

令和二年十月十八日 擱筆

 

擱筆」と書いた翌日の十九日には予想通り蛙の姿は見えないので、遂に蛙のことを書くのもこれで終りだという気持ちになった。夜になっても勿論来なかった。一夜明けて四時過ぎに眼が醒めたので起きて漱石の『明暗』を読んだ。主な登場人物の一人である津田という何だか男らしくない人物と、彼と結婚したばかりの妻の延子。この新妻と津田の友人で、彼女にとっては薄気味悪い社会主義者的な鈴木とういう人物とのやりとりが、実に良く書いてあると思った。しばらく読んだ後、今日は十日に一度の掃除の日と決めているので、多少薄暗い時間だったが約四十分かけて上下階の掃除をした。掃除が終わって外に出てついでに蛙は如何かなと行ってみたら思った通り姿を見せていなかった。

「彼らは遂に冬眠に入ったか。寒くなったからしょうがなかろう」と思い、室内に入って神仏を拝み朝食も終えて、今度は先日たまたま本屋で見つけた宮城谷昌光の『孔丘』を開いてしばらく読んだ。『論語』とは違って孔子を中心とした人物像が小説として生き生きと書かれている。著者の古代中国の歴史の知識は実に幅広く深いものだと感心した。

十時頃読むのを止めて外の空気を吸うためにまたオクラのところへ行ってみると、一昨日と同じ小さな葉の窪みに子蛙だけ一匹座って居るではないか。私は思わず「よう来てくれた」と言葉をかけて、今年最後の蛙の思い出となる写真を取るためにカメラを向けた。午後になってまた行ってみると影も形も見えなかった。「子蛙はどう思ったのだろうか。カメラを向けられて恐怖心を抱いたのだろうか。そんなことはなかろう。これまで幾度もカメラを向けている。それとも最後の挨拶に来たのだろうか。」私はこんな思いで、この蛙のあまりにも短時間の出現が一寸物足りないと同時に名残惜しく思った。

 

考えて見たら蛙と私との間には意思の疎通はない。しかし一人暮らしの身にとって、彼らの出現は非常に慰みになった。蝶とか蜘蛛なども身辺に見かけるが、同じ場所に、これほど長い期間、それも終日居ることはない。その点蛙はただ居て呉れるだけだが有難い。私はこれまで「蛙」とはただ水の中を泳いだり、地面を跳んだりしている小さな生き物としか考えて居なかった。折角だから「蛙」という言葉を辞書で引いてみようと思った。そうしたら知らない事が実に多くあってよい勉強になった。

 

まず私が持っている一番詳しい『広漢和辞典』(大修館書店)の【索引】で「かえる」を引いて見た。そうすると殆どが「交代」、「変更」、「帰還」、「反復」「復興」「回帰」といった動詞の意味の漢字で、「蛙」「蛤(かえる)」のみが生き物を表していた。

次ぎに「虫偏」の漢字を見てみると、驚いたことに五二三もの漢字が載っていた。私は「虫偏」だから「蛇」や「蝶」や「蚯蚓」や「蜘蛛」と言ったものばかりだろと思っていたからである。そこで「虫」を引いてみると次のように書いてあった。

【虫】①昆虫の総称

②動物の総称。羽虫は鳥、毛虫は獣、甲虫は亀の類、鱗虫は竜のようにうろこのある動物、裸虫は人類。

私はなるほどこれで、「蚫(あわび)」「蜆(しじみ)」「蛸(たこ)」等の字があると分かった。更に面白い事にどうも「虫」とは関係が無さそうな字にも、それなりに理屈がつくような説明があった。

【虹】昔は竜の一種と考え、雄を虹、雌を蜺(にじ)といった。

【蛮】南方に住む未開の種族。四夷(東夷、西戎、南蛮、北狄

 私はふと思った。とるに足りないとして人を卑しめて言う語に「虫螻(けら)同然」という言葉のあるのを。

この他虫偏で動作を意味する字「蝕」「融」「蟄」「蟠」「蠢」「蜿蜒」等もそれなりに関係づけて説明がしてある。私は今度は「圭」を伴う漢字を見てみた。

【圭】①たま 上がとがり、下が四角名玉。古代天子が諸侯を封ずる証として、

また祭祀(さいし)、朝聘(ちょうへい)等に用いた。これは割と少なかった。

②きちんと角目がととのっている様。

「桂」「佳」「畦」「珪」「鮭」「硅」「銈」「烓」「挂」「蛙」など。

私は蛙の頭部がやや尖り、後部が角張っているから、この字が出来たのかなと想像した。それから不思議な事に「蛙」だけ「ア」、そして「佳」は「カ」と訓じ、其の他は「ケイ」だと知った。辞典を見ていたら「蛙鳴(あめい)蝉噪(せんそう)」と言う熟語があった。この意味は「蛙や蝉の鳴き騒ぐこと。転じてくだらぬ議論や文章」とあった。これまで二十日間にわたり、止めようと思っては書き継いできたこの「くだらぬ」文を、今日こそ筆を擱くこととしよう。           

そしてオクラも引き抜くことにしよう。 

こう思ってまた一夜明けて今朝六時過ぎ朝の曙光が指さない前に出てみてオクラの所へ行ってみると、驚きまた嬉しいことに、親蛙だけ一匹葉の上に座っていた。これを見てまだオクラだけはそのままにしておこうと思った。                     

 

最後に蛇足ながら付け加えると、私が何故指の先にも乗るような小さな蛙に興味を抱いたかと考えて見ると、蛙以外に普通目にする生き物は蟻や蝶や雀や烏や小魚にしても、絶えずそわそわ、ばたばた、がさがさ、ひらひら、とせわしなく動き回っている。衣服を脱げば裸身で「蛮」と言われる人間は、外の生き物たちのこうした動きに加えて、くよくよと悔やんだり、かっかと怒ったり、それかと思うとめそめそと泣いたりして、彼ら以上に行動においても心中にあっても落ち着きがないのではなかろうか。それに反して、このとるにも足りないような蛙が終始、泰然自若、無念無想の態度を保持しているのに、何だか教えられるような気がしたからである。

 もう一つ付け加えて言えば、あれほどの漢字文化を創った過去の中国つまり支那は凄い。私が漱石を好むのは、彼が我が国の文学、漢文学、そして英文学に誰よりも精通して、それ等を駆使して居ると言われているからである。

    

令和二年十月二十一日 記す