yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

故人無からん

 目が覚めたのは四時半だった。思い切って起きた。顔を洗いすぐ食卓について、今月初めから読んでいる唐木順三の『鷗外の精神』を広げた。その中に「他郷で故人に逢う」という言葉があった。「故人を偲ぶ」という言葉はよく耳にする。先日も長男の嫁の父親の納骨があり、遺族を含めて出席者は僅か五人であったが、在りし日の故人を偲ぶことができた。この場合の故人とは誰にもわかる亡くなった人のことである。私は試みに「故人」を『広辞苑』で調べてみた。次のように解説してあった。

  ①死んだ人。「故人を偲ぶ」

  ②ふるくからの友人。旧友。「西の方陽関を出ずれば故人無からん」

  ③古老。特に昔のことをよく知っている老人。

 

 これで先の言葉「他郷で故人に逢う」が旧友の意味だと分かる。私はここに例として挙げてある詩の一節を、どこかで見聞きしたことがあるので、ネットでまた調べてみたら、中国の詩人王維の詩の中の有名な言葉であるのを思い出した。

 

 最近の中国は共産党の一党支配で反日政策を掲げているので、どうも気に入らない。我が国と中国(昔のシナ)は長年にわたり結構友好関係を保っていた。近年になり毛沢東が政権を掌握し、天安門事件を起こしてからというもの、中国は完全に変わった。それでも今の習近平が政権を握る前はまだ中国への観光旅行は可能だったように思う。

 

 萩から山口に移ったのは平成十年だった。山口で大学時代の友人の紹介で、私より八歳年上のご主人夫妻と親しく付き合うようになった。彼らが五年ばかり前に、息子さんのおられる鎌倉へ移住されるまでは、毎年国内外の旅を一緒に楽しんだ。

 

 日記を見ると平成十二年の十月九日に友人夫妻と、この新たに知り合ったご夫妻の三家族で、中国へ行っている。福岡空港から中国の武漢まで飛行機で行き、その日は武漢のホテルに一泊し、翌日武漢の空港から西域地区、今問題になっているウイグルウルムチ迄また飛んだ。武漢といえば、今や世界的大問題になっているコロナ・ウイルス発祥地として疑われている研究所がある。「武漢は並木多く雨も多いので青青としている」と日記に書いていた。

 

 ここまで書いたら六時半になった。暑くならないうちにと思って散歩に出かけた。今日は一番長い距離を歩くことにした。毎日の散歩は、我が家から直線距離にして約五百メートルの処にある六地蔵まで行って、それを拝んで帰るのである。六地蔵が二か所にあり、八十メートルばかり離れて建っている。一方の地蔵様を拝みそこから山道をほんの少し歩いて高台に上り、はるか東方に見える市街を囲んで連なっている山々や、日によって運がよかったら美しい朝焼けの空を写真に撮って、もう一つの六地蔵を拝んで帰るのである。

 

 今朝は土師八幡宮の方迄歩いて、大回りして六地蔵に向かった。途中でふと見ると、道端に柿の葉が一枚落ちていた。スマホで写して帰宅してよく見たら、実に美しかった。日頃見過ごしている自然のこうした取るにも足らないようなものでも、このように美しい。大自然なる神はこうしたものにも造化の妙を示している。この柿の落ち葉はそのうち完全に朽ち果てて土になってしまうのだろうが、まだ生き生きとした感じである。完全には枯死していないのだ。人間も老いて死を目前にしても実に美しい人、いやむしろ崇高に見える人がいる。しかし老いてやせ衰えて醜い形骸のようになっても生きている人がどちらかというと多い。医療が発達したために、山口県でも百歳以上の人が多く居られるようだが、ただ息をしているだけの老人ではなかろうか。だとすると考えものである。先日も「敬老の日」といってお祝いの品をもらったが、死ぬまで何とか元気で健康を保ちたいと、柿の葉の美しさを見て思った。

 

 朝食を終えて続きを書こうとしていたら、電話が鳴った。受話器をとると、萩市に住んでいる高校の同級生だった。

「パソコンの具合が悪かったがやっと直ったので、貴方(あんた)が送ってくれた文章を読んでいる。同じ年齢でしかも同級生が書いたものだから、親しみが持ってて、内容に同感出来るものが多くあって非常に嬉しい。これまで送ってもらったのも繰り返し読んで楽しんでいる」と言ってくれた。

 

 友人は長年寝たきりだった奥さんの面倒をよく見たが、三年ばかり前に奥さんに先立たれ今は一人で生活している。すぐ近くに娘さんがいる様だが、彼女は仕事で多忙だから食事などは自分で作っている。「昨日病院へ行って膀胱ガンの検査をしてもらったが、数値はあまりくよくないようだ。腎臓が悪いから塩分を徹底的に控えて、散歩などをするように言われた。一本八千円もする注射を打たれた。保険でもこれだけの高い注射だから、実費なら八万円もするらしい」とも話してくれた。

 

 私としても同じ年に妻が亡くなり、独り暮らしになって他に何もすることがないので、こうして時々駄文を書いて友人に送っている。萩市にはもう一人同じような境遇の高校時代の同級生がいる。彼もこの駄文を読んでくれているから、お互い励ましあって生きている。

 さて王維の詩について書いてみよう。読み下し文で書く。

 

   元二(げんじ)の安西(あんせい)に使(つかい)するを送る

 

  渭城の朝雨 軽塵を浥し

  客舎 青青 柳色新たなり

  君に勧む更に尽くせ一杯の酒

  西のかた陽関を出ずれ故人無からん

 

 今ここで私は一つの面白い試みを行ってみよう。実は戦後、韓国では漢字を排して「ハングル」だけにした。そのために国民特に若い人の読解力が甚だしく衰えたといわれている。我が国においても当用漢字の採用でやはり若い人たちは難しい漢字で書かれた文章を読めなくなっている。例えばここに挙げた詩を全部ひらがなで書いたら、果たしてその意味が正しく分かるだろうか。

 

  いじょうのちょううけいじんをうるおし

  きゃくしゃせいせいしんりょくあらたなり

  きみにすすむさらにつくせいっぱいのさけ

  にしのかたようかんをいずればこじんなからん

 

 今このひらがなだけの文章から元の漢字で書かれた詩を再現できるだろうか。

 吉川幸次郎氏はこの詩の解説で次のように言っている。実に行き届いた優れた解説だから書き写してみよう。

 

 王維が一方また、やさしい、こまかな神経のもちぬしでもあったことは、この有名な感傷の詩が 示している。題に元二というのは、人名。元という苗字で、兄弟の順は次郎である友人。それが当時の前線地帯である安西都護府、すなわちいまの新疆省のトルファンへ、官命で主張するのを、見おくった詩である。

 

 「渭城の朝雨は軽塵を浥し」。渭城は、長安の北の郊外、渭水をむこうへ渡ったところにある。西方へ旅立つ旅人は、そこまで親戚故旧に見おくられ、別れの酒をくむ。いま元二の旅立つ朝は、雨であった。しずかにふる春雨に、街道すじの砂ほこり、それももともと「軽塵」であって、かあいらしく舞い上がっていた砂ほこりも、雨にしめって、おさまった。そうして、旅館の前の柳のなみ木の、雨に洗われて、ふしぎに新鮮な、青青とした色。「客舎青青柳色新」。

 

 ここで柳が持ち出されたのは、特別な意味がある。柳は別離につきものの植物。旅立つ人には、柳の一枝をたおって、はなむけとする。それが当時のならわしであった。もうすぐその枝をたおるであろうところの柳が、雨にぬれつつ青青とけむっている。何か人の心を沈静に新鮮にする風景。元来この別離は非常に悲しいものではない。安西はいかにも東トルキスタンの遠いところである。しかし天下は太平であり、唐の国威は、そのへんまでも充分にのびている。官命を奉じての出張といえば、名誉でさへあったであろう。ヨーロッパにゆく人を見送る朝の波止場が、雨に濡れているとすれば、情景はある程度似かよっているかも知れない。

 

 やがて、今ならば、出帆の銅鑼が鳴る。千年まえの旅行は、今のようにきびしく、出発の時刻を規定していなかったであろうが、しかし時刻はだんだん出発へと近づいて行く。テープが投げられるのも、もうすぐ。いや柳の枝が折られるのも、もうすぐ。どうです、いいじゃありませんか、もう一杯おほしなさい。「君に勧む更に尽くせ一杯の酒」。

 

 「西のかた陽関を出づれば故人無からん」。故人とは親しい友人の意。陽関というのは中国本部の西のはて甘粛省から、新疆省へはいるところにある関所。陽関から向こう、今でたとえればホンコンからむこうには、こんなに気やすく酒ののめる人間は、いないんですよ。さあもう一杯のみましょう。

 別離の哀愁は、やはり詩の最後にいたって高まる。この詩は、唐の時代、ひろく送別の歌として、一般の人人に愛唱されたが、その際、「西のかた陽関を出づれば故人無からん」という結びの句は、三度くりかえして歌われるのがならわしであり、そのために「陽関三畳」と名づけられたという。一度歌うだけでは、別離の感情がもりつくせないのであろう。

           (吉川幸次郎三好達治著『新唐詩選』岩波新書)           

 我々がウルムチから今度は列車やバスでトルファン、さらに敦煌西安へと東に向かって帰国の途に就いたのであるが、何と言っても中国は広い。行けども行けども広漠たる砂漠の中の一本道。しかし今から思えば懐かしい旅路であった。ウルムチの市場で羊の串焼き肉を食べたが、今は現地の人たちの生活はどうなっているだろうか。旅を続けて更に東に向かったところに陽関の関所の跡があった。玉門関という有名なもう一つの関所がある。此処から七十キロ隔たって南にあるから陽関と呼ばれているとの事だった。この陽関の高台からアルタイ山脈を越えて次のオアシス迄の距離は四百キロもあるとか。ここで中国人の通訳が原語で王維の先に挙げた詩を吟じた。中国語はさっぱり分からない。しかしなんだか感傷の思いを込めた詩の意味する雰囲気が感じられたように思う。日記にこの詩を書き写していた。

 

 中国は幾多の王朝が起こったり亡びたりの興亡の歴史を繰り返している。共産思想で統一を図ろうとしている今の政府が、果たして安定的なものとなるかは疑わしい。ウイグル人を束縛し彼らの言語を禁じているようだが、「国語は国家」という言葉がある。その民族の言葉を抹殺するのは大きな犯罪行為のように思われる。各国民・各民族が先祖伝来のそれまで使って来た固有の言語を尊重することが、真の平和につながると私は思う。その意味において我が国の小・中学校でも、もっと日本語である国語をしっかりと教えなければいけない。韓国のようになっては国が亡びる。中国も新しい簡易文字の普及の為に、若い世代は長く受け継がれた文化を理解できなくなるだろう。口語が廃ればその国の精神・伝統も亡くなる。

                  2021・9・23 記す