yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

転居始末記

 

昭和三十九年四月、私は県立宇部高校に三カ年勤めただけで母校の萩高校に転勤した。それより少し前に父が脳卒中で突然倒れたので、一人息子の私としては帰らざるを得なかった。その後父は家で静かに臥ていたが、左半身麻痺に罹り手足が動かず、ものも言えなくなった。しかし一カ月ばかり安静していたので幸いにも回復した。その後元気になった昭和五十七年まで生きて満八十四歳で亡くなった。今、私は父の年齢を超えて八十五歳になった。

 

此の事より数年前、今から数えたらかれこれ四十年くらい前になるが、ある日突然我が住まいが騒音の襲撃を受け、それからは一日としてそれから免れる事が出来ず、従ってその事が終始念頭を離れなかった。

 

私の住む区域は萩市内でも、浜崎と云って海に近く、特に私の町内には水産物加工などを生業(なりわい)とし、またそこで働く人が多く、純粋の民家は比較的少なかった。水産加工といえば、蒲鉾や竹輪などの加工をはじめ、いりこ干しなどを行う。昔は砂浜に筵(むしろ)を敷いて天日干しをしていたが、その後室内で大型の扇風機による乾燥に代わった。そうなると雨天であろうと夜中であろうと問題ない。一年中扇風機を稼働さすことが可能となる。それに伴う騒音は経験したものではないと分からない。市当局に訴えても規制内の音量だと云って、私の言い分をどうしても取り上げてくれない。業者も死活問題なので結局我々は、一方的不利な状況下で、泣き寝入りの状態を続けざるを得なかった。

 

私の家は道路に面して門があり、その門を潜って細い路地を十メートルばかり行った所に中間の門扉があった。普通は閉めたままで、その左手にある小さなもう一つの潜り戸を入ると、目の前がパット大きく開けたように芝生のある庭が広がった。先ず目に入るのはタブの大樹である。樹齢二百年を超すと思われるタブの木が、四方八方に太い枝葉を伸ばし庭の一部を覆っていた。しかし今はその大枝八本が無残にも切断され、拡げた傘をすぼめた様な格好になっている。

 

門がまえの中に木を書くと「閑」という字になる。私はこの字が好きである。「閑静」「閑居」「閑人」という成句があり、悠々自適の境地を彷彿させるからである。曽祖父、祖父,父と三代に亘ってここに住み、お茶を嗜んできたのも、喧騒で活動的な街中にあっても門を一歩入れば、大きな木のある閑静な環境に身を置く事が出来たからだと思う。

 

先に述べた中間の潜り戸を通って庭を左手に見ながらさらに十メートルばかり進むと玄関に達する。家は明治の初期に建てられた平屋で、今は「梅屋七兵衛旧宅」として保存されるようになった。茶室が二部屋あった。私はこの茶室で生まれたと聞かされてきた。騒音に悩まされるまでは「車馬の喧(かまびす)しきなし」の清閑な場所であった。ついでに書くと、祖父が建てた茶室の庵号は「閑楽庵」という。

 

「人の身に止むことを得ずして営む所、第一に食ふ物、第二に着る物、第三に居る所なり。人間の大事、この三つには過ぎず。餓ゑず、寒からず、風雨に侵されずして、閑かに過ごすを楽しびとす。」と兼好法師は言っている。私の祖父が『徒然草』を愛読していたとは思はないが、閑を楽しむ精神は持っていたと思う。

 

私の妻は、結婚前に来た時のことが忘れられないのか、「東萩駅から松本橋を渡り市街地の寺町まで来たら、その先に指月山が見えて、城下町萩の雰囲気を感じられる処へ連れて行ってもらえると思っていたのに、寺町を過ぎた途端に浜崎の魚臭い町内に入ったので、一体何処へ連れて行かれるのかと不安でたまらなかった」、と当時を思い出してはときどき口にする。私はそこで生まれ育ったので別にどうとも思わないが、彼女はそれまで周囲が田圃の家で暮らしてきたので、非常に心配したのだろう。萩市と云えば古都とまでは云わないが、白壁の土塀に囲まれた武家屋敷、そこに栽培された夏ミカンのある静かな佇まいの城下町を誰しも連想する。しかし活動的な商業地も市中には当然ある。私の家はそういった活動的な街中にあったが、「一歩門を潜ると閑静な別世界に入った様だ」と、初めて訪れる人は異口同音に、このような感想を漏らしていた。家内もそれでホッとしたようだ。

 

父が昭和五十七年に亡くなった事は前に述べた。その前日の晝過ぎまで元気だったが、その年高校に入ったばかりの次男が学校から帰った時、縁側に倒れていた父を見つけた。父は翌日のお茶の稽古の準備をしていたのである。急に具合が悪くなって縁側から座敷に身を移してもらい、そこで寝ていたが夜中に急死した。「ピンピン・コロリ」は、誰もが願う死に方だが、家族のものにとっては少しあっけなく思えた。父の死因は長年体内に抱えていた動脈瘤が破裂したためだと思われる。

 

私と妻は父が生きている間はなるべく側に居る覚悟で騒音に堪えていたのであるが、父の死後しばらくして、ある日のこと、突然妻が軽い記憶喪失の症状を見せたので、直ぐ診断を仰いだ。それまでにも急に耳に激痛が走るという前兆はあった。一日中騒音に悩まされて神経に異常をきたしたと思われる。

 

何時も思うのであるが、沖縄や岩国など、米軍空軍基地に住む住民の悩みが如何に深刻なものかは、こうしたささやかな体験からしても察する事が出来る。しばらくの間妻は自分の姉が住んでいる滋賀県に移って養生することにした。こうなると事は深刻である。住み慣れた我が家があるのに、市内に適当な場所、つまり騒音の無い家を探し求めねばならない。偶々城下町の一偶にある青木周(しゅう)弼(すけ)旧宅が見つかった。それまで住んで居られた郷土史家の田中助一先生御夫妻が、高齢のためにこの広い屋敷を出て行かれ、それに際して代わりになる適当な管理人を探して居られると云う事を聞き、話がうまくまとまったという訳だ。父の死後、母屋の方に住んでいた母はそのままいて、母の妹が一緒に住んでくれることになり、私と妻は安心して我が家を一時出ていくことが出来た。

 

私は母校に丁度二十年間世話になり、昭和五十九年から県立萩商業に転勤していた。従って青木周弼の家からは学校まで歩いても五分とかからないので、この事は非常に助かった。しかし何と言っても有難かったのは閑静な環境である。

市内には観光の名所がいくつもある。ここ青木周弼の旧宅もその中の一つで、先隣の木戸孝允の生家と並んで、多くの観光客が訪れる。私と妻がこの家の管理人として入居した当時は、観光客は家の門を入った地点までしか入ることは出来なかった。

 

『図説 日本の町並み』(第一法規)に次のような記述がある。

 

呉服町・南古萩地区は、「萩城下町」としてその一部の約四・五ヘクタールが国の史跡に指定された。これは全国で最初の町並みとしての保存策がとられたものとして注目される。

地区全体として藩政時代の建物は三四棟あり、道路総長との比率ももっとも高い地区となっている。藩政末期に活躍した著名な人たちの家としては、青木周弼旧宅・木戸孝允旧居(江戸屋横丁)、高杉晋作旧宅(菊屋横丁)があげられる。(中略) 

武家地の特色は、比較的ゆったりとした敷地を持ち、主屋が奥まったところに建つことにある。道路からみえるのは、門と塀、そしてまれには主屋の屋根であるために,町並み景観としては、散漫で物足りない印象を与える。しかし、ともすれば住環境の悪化しがちな現代都市の中で、萩の旧武家地はまことに魅力的である。

 

「まことに魅力的な旧武家地」に移住できたのは、その静かなことにおいては申し分のない有難い処であった。しかし観光客として外部から覗き見るのと、実際に住むのとではかなりの隔たりがある。萩市文化財となっているこの旧宅は、安政四年に建てられているので、そこで生活してみて色々と不便な点があった。

 

最近建てられる住宅では、便利さを最優先していると考えられる。昔の武家住宅は格式ばって居ると云うか、玄関や座敷(客間)、またそこから見える庭などに外見には十分な配慮がなされているが、家人が生活する場所はかなり不便であるように見受けられた。私たちは先ず昔のトイレ、つまり雪隠(せっちん)や厠(かわや)と呼ぶにふさわしい便所の臭気、さらに糞尿の汲み取りに悩まされた。西日の射しこむこの昔ながらの便所に入ると、私は、誰が詠ったか忘れたが、「敷島の大和心を人問はば西日に臭う雪隠の中」の狂歌を思わずにはおれなかった。

 

これ以上に臭気に悩まされたのは、便所の汲み取りであった。月に一度くらいの割合で,衛生車がやって来るが、早朝のことが多くて朝食時に重なると、いくら戸障子を閉(た)て切っても、隙間の多い障子や襖の間から臭気は遠慮なく家中に充満する。汲み取りが終われば今度は反対に戸障子を開け拡げて室内の臭気を放出させなければいけない。臭いついでに言えば、衛生車に頼むのを待たずに汲み取りをしなければならなくなった時は、畑の一部を掘り起こして、用意してあった肥担(こえ)桶(たご)と柄杓で作業をしなければならなかった。私が子供のころは何処の家でもこうした作業は普通であったから、作業自体はそれほど苦にはならないが、やはり臭気の問題である。水洗便所が普及した時に、このような作業は時代遅れも甚だしいと感じながらいつも行っていた。二番目は風呂である。隙間風が通る浴室には五右衛門風呂が据えてあり、お湯は電気で沸かすようにはなっていたが、これも今から思えば我慢すべきものであった。さらにもう一つ。モダンなキッチンとはとても言えない狭くて不便な昔ながらの台所であった。しかしこうした不便をかこつことはあっても、騒音被害を免れたことは何よりも有難く、我々は感謝して住むことにした。

 

旧宅は、道路から一段高く石段を上った処に厳めしい門が建っていて、その両側に塀が続いている。間口四〇メートル、奥行きも同じく四〇メートルもある五百坪の広い敷地で、主屋の南側に庭があり、北側には主屋に接するように堂々たる土蔵が建っていた。

門に接して向かって右側に昔の仲間部屋がある。一度その中に入ったことがあるが、入った途端に、十数匹の蚤が足にとりついてきたのには驚いた。このような事も今となっては懐かしい出である。

 

室内の詳しい間取りを詳述する事は止めるが、私にとって感慨深く思えたのは、幕末、緒方洪庵と並び称される蘭学者で医師であった青木周弼と研蔵の兄弟、さらに研蔵の養子となり、後に外交官として活躍した青木周蔵たちが、勉学に勤しんだと思われる玄関の隣室である書斎で、私はこれらの英傑たちを思いながら八年もの歳月を送ったことになる。学校から帰ると私はこの書斎に入り、ガラス窓越しに庭を見ながら机に向かうのを常とした。冬から春にかけて紅白の梅が咲き、椿も大きな花を開いて目を楽しませてくれた。また梅の季節になると、毎日何処からともなく鶯が飛んできて耳を楽しませてくれた。周弼は梅をこよなく愛していたようで,屋敷内に十数本の梅の木が植えてあった。このような恵まれた環境は、多少の不便を相殺するのに十分であった。

 

私はこの家に住むことにより、青木周弼、研蔵、周蔵の三人の存在を初めて知った。森鴎外がドイツのベルリンに着いたのは明治十七年十月十一日である。彼は到着早々の十三日に青木公使を訪ねている。『獨逸日記』に次の記述がある。

 

この日又青木公使にも逢ひぬ。容貌魁偉にして、鬚多き人なり。(中略)公使のいわく衛生学を修むるは善し。されど歸りて直ちにこれを實施せむこと、恐らく難かるべし。足の指の間に、下駄の緒挟みて行く民に、衛生論はいらぬ事ぞ。學問とは書を讀むのみをいふにあらず。欧州人の思想はいかに、その生活はいかにか、これだに善く観ば、洋行の手柄は充分ならむといわれぬ。

 

この日記の一部を、私は拙著『杏林の坂道』にも引用したが、鷗外が青木公使に出会い、そのときの印象が強かったのか、彼はそれから四半世紀後の明治四十二年に、『大発見』という短編の中で、次の様に書いている。

 

「君は何をしに来た。」

「衛生學を修めて来いといふことでござります。」

「なに衛生學だ。馬鹿な事をいひ付けたものだ。足の親指と二番目の指との間に縄を挟

 んで歩いてゐて、人の前で鼻糞をほじる國民に衛生も何もあるものか。まあ、學問は大概にして、ちっと欧羅巴人がどんな生活をしてゐるか、見て行くが宜しい。」

「はい。」

 僕は一汗かいて引き下った。

  

鷗外にとって何が「大発見」だったのか、もう少し読んでみよう。

 

僕は三年が間に、獨逸のあらゆる階級の人に交わった。・・・併し此三年の間に鼻糞をほじるものには一度も出逢はなかった。・・・果せるかな、欧羅巴人は鼻糞をばほじらないのである。 

 

 鷗外はある日、当時有名だったヰイドという独逸人作家の作品を読んでいて「大発見」をしたのである。

 

「彼はをりをり何物かを鼻の中より取り出してゐる。さてその取り出した結果を試験する為に、鼻の穴の中に一ぱい生い茂っている白い毛を戦(そよ)がせて、彼は空気を通過させて見てゐる。」

 

この文章を紹介して、鷗外は次のように締め括っている。一種ふざけた文章だが面白い。

 

欧羅巴の白皙人種は鼻糞をほじる。此大発見は最早何人と雖、抹殺することは出来ないであらう。前(さき)の伯林駐箚(ちゅうさつ)大日本帝国特命全権公使子爵S.A.閣下よ。僕は謹んで閣下に報告する。欧羅巴人も鼻糞をほじりますよ。 

 

S.A.閣下とは言うまでもなく、青木周蔵のローマ字書きのイニシャルである。

いささか脱線したから、話を元に戻そう。

 

この青木家の後を継ぐべき周蔵は医者にならずに、外交官として枢要な地位にあり、独逸人女性と結婚したために萩へは帰っていない。従ってこの由緒ある家が廃屋になるのを見かねて、萩中学校の教師であった安藤紀一先生が購入されて住まれたのである。安藤先生は国漢の教師とし非常に実力があり、また郷土史家としても第一人者であった。岩波書店が『吉田松陰全集』を刊行するに当たり、編集者として先ず先生に白羽の矢を立てたことでも先生の学者としての実力が証明される。

 

この出版事業と安藤先生との関係について、平成十八年の『史市萩』に今井東吾氏(筆者注:今井氏の岳父の父が安藤先生)が寄稿された文章を引用させてもらう。編集者は先生の外に広瀬豊、玖村敏雄でいずれも松陰研究の権威であった。

 

祖父はその時六十八才で、京都で隠棲生活中でしたが、萩に帰った祖父から広瀬委員は、次の様な書面を受け取っています。

「私にも依頼申し来り候処、もはや老朽無能、諸君子と同列に立ちて動く事は出来兼候処と自覚候へども、残齢余喘の未だ竭きざるに及んで此の盛事を見、且つ依頼を受くる以上は,根気の有らん限り老朽相応の努力致度、・・・一生の思い出に貢献致すべく決意致候。・・・」(昭和七年七月二十日)

とその心情を伝えています。

 

以上のことは、吉田松陰全集月報七号(昭和十年九月)の「嗚呼安藤紀一翁逝く」と題する、広瀬委員の弔文中に記されています。又同じ月報に、「安藤先生の面影」と題する弔文を寄せられた玖村委員は、「全集の総ページは約六〇〇〇、その中の半数近いく原稿は先生の手になったものである。その苦労は文字通り辛酸を嘗め、心血をそそがれたもの。」と述べておられます。

 

先生は全集刊行事業の完結(昭和十一年四月)を見ることなく前年の七月に亡くなっておられる。さぞ心残りだったでしょう。このような立派な教育者・郷土史家であった安藤先生が、先にも述べたように青木周弼旧宅を購入して保存に努められたのです。

 

その後管理人となられた田中助一先生も『青木周弼伝』という浩瀚な伝記を書いておられる。このような先生方の後に、青木家とは縁もゆかりもない、私のような浅学非才な者が入るには、全くふさわしくないと自ら思っていた。敢えて何らかのつながりを探してみると、私の祖父と安藤先生との間には親交があり、父は中学時代に先生の教えを受けている。其の事についてちょっと触れて見よう。

 

本稿の冒頭に掲げた写真は山田亦介(号は公章)の書である。今私の手元にあるが、生前父が私に次の様に語った。

「先生はいつも学校の事以外で家に来られ茶室で父(友一郎)と話しておられたので、おれは同席した事はないが、ある日お帰りになるとき玄関まで送って出ると、そこに当時掛けてあった山田亦介の書いた額を読んで聞かされた。」

 この文章は漢文体で、水戸藩主景山公が「茶対」という題で書かれたものを松陰先生の兵学の師山田亦介が書き写したものである。今それを取りだして読んで見ると、

 

「或人問フ、子、茶法ヲ学ブカト、吾答ヘテ曰ク、未ダシト、嘗テ之ヲ聞ク、

其味ヤ苦ニシテ甘、其噐ヤ麁ニシテ清、其室ヤ撲ニシテ閑、其庭ヤ隘ニシテ

幽、其交ヤ睦ニシテ礼、屡会シテ費サズ、能ク楽ンデ奢ラズ、此ノ如キノミ、

其ノ之ニ反スル者ハ吾ノ知ラザル所ナリ。 景山」

 

さて、教育者・郷土史家として著名な安藤先生がこの青木周弼の旧宅を購入され、その後萩市がここを購入して市の文化財として保存する事になったのであるが、管理人として田中助一先生ご夫妻が入られたのである。その時は家屋が相当破損していたようで、雨漏りなどもひどくて、田中先生はかなりの自費でもって修理されたと聞いている。引き続いて私どもが住むようになった時も、畳や戸障子の修理や新たに水道を引くなど思わぬ経費を要した。しかし管理費を払う必要がなかったので助かった。広い畑と周囲の溝の除草などは当然のこととして行っていた。

 

さて、ここで意外な事件が生じたことを記してみよう。私の先祖が毛利の移封に伴って広島から萩の地に移り住んで三百五十年。その間北前船の持主として一時活躍したらしいが、祖父の代からは鳴かず飛ばずの貧乏暮らしをして来た。しかしいずれにしても先祖代々暮らしてきた故郷を去ると云う事は、私にとっては一大決心を要した。後髪を引かれる思いであったが背に腹はかえられぬ。思い切って転居しことは、今ではそれでよかったと思って居る。しかし故郷を離れてもその地で起こる事には関心がないとは言えない。

 

昨年平成二十四年三月二十九日の朝日新聞の朝刊に、「旧渡辺蒿蔵邸公開へ」という大きな見出しが出ていた。その下に小さな見出しで「松下村塾生・造船界の草分け」とあり、蒿蔵の写真と彼の邸の一部が色刷りで載っていた。新聞には次の様に紹介されていた。

 

吉田松陰に学んだ松下村塾生で、東洋一とうたわれた立神第1ドックを長崎市に完成させた渡辺蒿蔵(こうぞう)(1843~1939)の萩市江向にある旧居宅の改修が終わった。江戸時代の武家屋敷風で、大きな庭園や茶室を備えており、4月1日から一般公開される。

 

武家屋敷風、萩市が改修」と云う小見出しに次ぐ記事を少し引用してみると、

 

渡辺は15歳で松下村塾に入った。藩命で米国に留学し、さらに英国へ渡ってロンドン大学に学び、グラスゴーで造船技術を習得。帰国後工部省に入り、1883年には日本最大の木造船小菅丸を造り、官営長崎造船局(現三菱重工業長崎造船所)初代局長となった。日本造船界の草分け的存在といわれる。

 

旧居宅は渡辺が明治中期に建てた。主家や茶室、土蔵、江戸期の武家屋敷の遺構とみられる長屋門の4棟で延べ床面積は計役20平方㍍。娘の死後、空き家になっていたが、千葉県浦安市に住むひ孫が2004年、市に建物と土地の一部を寄付した。

 

この記事を見て私は是非この家を見てみたいと思っていた。それには一つの訳がある。

前述の如く、父が僅か半日の患いで亡くなったのは昭和五十七年五月一日であった。八十四歳まで生きたから長寿を保ったといえるだろうが、私にとっては父に関する事や父が考えていたことなど聞く機会がなくなり、やはり残念であった。その父が生前、渡辺蒿蔵についてこんなことを話したことがある。

 

「渡辺蒿蔵という人は偉い人じゃった。この人は松陰先生の最後の弟子で、イギリスやアメリカで造船の技術を学ばれて、帰国されると長崎の造船所の初代の所長になられたのじゃが、そこが官営から民営になった途端に、『俺は民間人の下で頭を下げては働かん』といって萩へ帰って来られたのじゃ。その時は未だ四十歳台じゃったというから驚く。四十歳台と云えば未だ働き盛りだ。それから渡辺さんは九十七歳まで生き、悠々自適の生涯を送られた。あんな人はめったに居らん。当時萩で渡辺さんほど英語が話せる人は誰もおらなかった。あの家の座敷の下には大きな甕がなんぼも埋められてあった。それは能の稽古をそこでされるとき足踏みをした時響が良いからだと聞いておる」

 

このような具体的な事を父が昔話したのを覚えているが、その時はなぜこのように詳しいことを知っているか、別に不審に思わず聞いていたが、父が亡くなって数日してこんなことがあった。

 

父の妹夫婦が萩市に住んでいて、父の死後毎日焼香に来ていた。葬儀が終わって二三日後父の妹、つまり叔母から電話がかかってきた。家内が受話器を取ると、

「今拝んで帰ったところじゃがの、仏壇に八百(やお)と書いてある香典があったが、八百とは誰かの?」と、叔母は訊ねた。

「あれは私の父の弟で、私の叔父に当たる人の養子先の苗字です。そこが八百という家です。叔父は戦死しましたが、叔母は叔父が亡くなった後も親しくして下さって居ります。それで先日も香典を送って下さったのです」

「ああ、それかの」

こういってその時は電話での質疑応答は簡単に終わった。

それから数日後、叔母の家を訪ねた時こんなやりとりがあったと、帰宅した家内が私に語った内容は私には初耳だった。

「あの時仏壇に八百と書いた香典があるのを見てびっくりしたいの。道々主人と話しながら帰ったのじゃが、実は、これは今初めて話すが、孝夫(筆者)のお母さんが亡くなって数年して、兄様が渡辺八百という人と結婚されたが、どういういきさつかは知らんがしばらくして別れられた。私はてっきりその八百さんが来られたとばっかり思ったもので帰って直ぐ電話したのでのじゃいの。八百さんは、兄様が亡くなったと云う事を耳にして、わざわざ拝みに来られて、渡辺と書かないで八百と書かれたと思うて、何だか女心が感じられたものじゃから、電話をかけて訊いてみたのじゃいの。まあこれで謎が解けた」

 

父には二つ年上の姉と、十一歳も年の離れた妹がいる。勿論今は三人共鬼籍に入っているが、父の結婚歴についてはその時まで私は全く知らなかった。私の実母は私を産んで九カ月後に二十五歳で亡くなった。継母が来たのは私が十歳の時である。父がその間に渡辺蒿蔵の末娘と結婚していたのである。この事を父はもとより父の姉の伯母も妹の叔母も私に秘していたのである。八十八歳まで生きた継母もこの事は知らなかったようである。灯台下暗しであるが、父の友人などは当然知っていたと思われる。

 

前述のように平成十年に私どもは山口市に転居したが、その前年に継母が亡くなった。それからしばらくして父の姉の息子、つまり私の従兄がこんな写真があったと云って一枚の結婚式の写真を送って来た。見ると父と花嫁姿の女性、この外に父の姉である伯母夫妻と父の妹である叔母、さらによく見ると私の祖母の側に四.五歳くらいの男の子が立っている。まぎれもなく私の子供時代の写真ではないか。私はびっくりすると同時に、これこそ叔母が話した父の結婚を裏付ける証拠だと思った。

 

その写真にはさらに浴衣姿のかなり老齢の翁と恐らくその妻だと思える姿も写っている。実は此の老人こそ渡辺蒿蔵に違いないと思ったもののまだ確信が持てなかったが、「旧渡辺蒿蔵邸」を訪れたとき、室内に掲載してあった晩年の写真が、私の手にした写真と全く同じ様子だったので、積年の謎が解けたと云うものである。しかし父がなぜ結婚早々に別れたかの謎は永遠に解くことは出来ない。

 

これはあくまでも想像の域を出ないが、ひょっとしたら私は蒿蔵翁の膝に抱かれたかもしれないし、頭を撫でて貰ったかもしれない。父が離婚しないでそのままでいたら、私は渡邉蒿蔵翁を義理の祖父として持った事になる。翁は昭和十四年に九十七歳で亡くなっているので、この写真は亡くなる数年前のものと思われる。若き日の精悍な容貌とは全く異なる好々爺のそれである。

  

平成29年9月14日記