今年に入って何気なくシエイクスピアの『ハムレット』を読み返そうと思って、原書を拡げたがどうもよく分からない。話しの筋だけ知ったのでは読んだことにはならない。言うまでもないことだが、同じ古典でも『平家物語』や『徒然草』なら何とか原文を理解できるが、『源氏物語』となると、日本語で書いてあるのに容易には理解しかねる。ましてや『ハムレット』は400年以上も前の今とはかなり違う英語で書かれているので、凡庸な頭にとっては無理な話である。従って訳本を傍らに置き、参考にしながらなんとか読み終えた。
実は今上記のような題をつけたが、本題に入る前に何かしら関連があるように思ったので、世界的に有名な『ハムレット』を引き合いに出したのである。この古典の最初に出てくるハムレットの亡父の亡霊、これにハムレットが会うことが、この悲劇の発端であり、又この劇全体の重要な鍵となるものである。亡霊はハムレットに次のように話しかける。以下、三神勲訳『ハムレット』(世界文学大系)「筑摩書房」からの引用である。亡霊の言葉は長いから肝心のところ、そのまた一部だけ紹介しよう。
亡霊 余はお前の亡き父の亡霊だ。
もしお前が父を少しでも愛したことがあるならば・・・
ハムレット おお!
亡霊 極悪非道な父の殺害者に復讐しろ。
ハムレット 殺害者!
亡霊 よく聴け、伝わるところによれば、余は庭園にて午睡の最中
毒蛇に噛まれたという。
まことは、お前の父の生命を奪ったその毒蛇は
現在その頭に王冠を頂いているのだ。
ハムレット え、虫の知らせだったのか!
では、あの叔父が?
亡霊 手短に話してきかそう。いつものごとく、
余が昼過ぎ
庭園で午睡をとっていると、お前の叔父が
余の油断を見すまして秘かに忍びよって来たのだ。
怖ろしきヘボナ(注:架空の有毒植物)の毒液の入った壜を携え、
癩のように人の身体を腐爛せしめるその毒液を
眠っている余の耳に注ぎ入れたのだ。
・・
こうして余は睡っているあいだに、
実の弟の手にかかり、
生命をも、王冠をも、王妃までも、一時に奪 われてしまった。
この亡霊の言葉を聴いたハムレットは復讐を誓うが、容易には実行しない。悲劇『ハムレット』はシエイクスピアの全作品37の中で一番長いと言われているが、この亡霊の言葉は第一幕第五場にあるもので、このあと第五幕になってやっと復讐劇は結末を迎える。この劇中有名な台詞がいくつもあるが、それはともかくとして、私がこの父親の亡霊を知って、ある似た話しを思い出したのである。同じ父の亡霊と言っても内実は大きく異なるが、我が子に対する父には似た強い思いがあると私は思った。
私は平成24年に『杏林の坂道』という私家版を上梓した。この伝記の主人公緒方惟芳は、日露戦争に看護兵として従軍し、無事に帰還した後、医師を目指して広島の陸軍病院に勤務しながら猛勉強の末医師の資格を得た人物で、その後彼は日本海側に位置する寒村である宇田郷村の村長に懇情をもって頼まれ、結局一介の村医者として一生を終えることとなる。
彼は太平洋戦争が終わった年の9月に、患者の手を取りながらと言ってもいいような状態で62年の生涯を終えた。ところがその当時としてはかなりの老齢であった父が、それこそ昼夜兼行で田舎の山坂を越えて往診している様を知り、長男で同じく医師として東京で勤務していた息子の芳一は帰郷して結婚する。しかし結婚後間もなく彼は召集に応じ、軍医として遠く絶海の硫黄島へ渡る。そして昭和20年7月アメリカ軍の猛攻撃を受け、遂に洞穴の中で自爆戦死する。令和6年の今から79年前のことである。父親はその実情を正式には知らされていないが、薄々は知り、息子の葬儀を行おうと幾度も考えるが、その内に自分が死ぬこととなった。
私は拙著『杏林の坂道』を書き終えた後、この硫黄島で戦死した息子を中心とした経緯を、少しでも多くの人に知ってもらいたいと思い秘かに筆を執った。家内は世間に恥をさらすといって、『杏林の坂道』の出版に賛意を示さなかったが、今回は協力してくれた。何とか書き上げた時、一通の手紙を手にすることができた。私は「親思う心にまさる親心」というあの松陰先生の有名な歌を思い起こし、『硫黄島の奇跡』の「あとがき」にこのことを書き加えた。これが『ハムレット』を読み、父の亡霊という関連性に思い及んだのである。「あとがき」に書いたことを此処に再録してみよう。
あとがき
一纏めにして保管されていた「硫黄島からの手紙」とは別に、一通の封書があるのをわたしが知ったのは、この原稿をほぼ書き終えた平成三十年の十月中旬だった。開けて見ると『緒方芳一君の英霊に捧ぐ』という弔辞で、巻紙に全文が几帳面な字で墨書されていた。
この文章は芳一の実母の妹と結婚して小田家の婿養子となった小田忠生氏が、芳一の遺骨が見つかった直後、昭和四十五年三月二十日に、緒方家へ書き送ったものだと分かった。
これまでに残っている数葉の写真によって芳一の風貌は見た目にわかるものの、文章に書かれたものは私の知る限り、この弔辞の中の冒頭に書かれたものだけである。
色白く柔和なあの顔 糸切り歯を見せて笑みを浮かべる面ざし 堂々とした大きな體 その芳一君の姿が髣髴として 瞼の中を去来しております。
なお、弔辞の中で小田氏は次のようなことを書いている。
九月十四日の晩と云えば確か御父様の祥月命日と思いますが、髯ボーボーと瘦せ衰えられた御父様が軍服姿で「戦地から今帰って来た」と宇田の玄関に辿り着かれたまま倒れられた夢を見ました。夢は五臓の疲れと聞いておりますので唯私の心の中に秘めておりましたが、芳一君の遺骨が漸く帰られる様になったお知らせでありましよう。そして御父様も屹度御安心せられたことと、本日七日の読売新聞を見て、其のナゾが判った様に思います。
惟芳は硫黄島玉砕の後、芳一の葬儀を立派に行ってやりたいと、小田氏のところへ三度も相談に行っており、その都度「硫黄島の玉砕部隊の中にも若干の生存者があるとのことで、一縷の望みに懸けて、生存者の発表があるので 待つようにと慰めて帰した」と小田氏は書いている。
惟芳は心の中で慟哭しながらも、高潔さと品位を保ち、戦後の混乱情況の中で老骨に鞭打ちながら村民の医療に尽くしたのである。そして終に帰らぬ人となった。しかし親として芳一の生死については自ら死に至るまで念頭を決して離れなかったと思う。わたしは小田氏の見られた夢について次のように判断した。
「髯ボーボーで痩せ衰えた軍服姿」で「戦地から今帰って来た」と言うなり「宇田の玄関に辿り着いて」そのままばったり倒れた父は、まさしく我が子芳一の身代わりとなって夢に現れたのである。
これは芳一の遺骨が発見され無事に我が家に帰ったことを意味する。
松陰先生が死を前にして書かれた『永訣書』の中に「親思ふこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん」とある。芳一が硫黄島からの手紙でいつも「自分に代わって親孝行を頼む」と書いているが、惟芳はあの世にあっても我が子のことを思っていたに違いない。わたしは惟芳の我が子を思う心の如何に大きく深いものであったかと考えずにはおれなかった。
さて、ハムレットの父の亡霊に戻るが、甲冑を身に着け、生前そのままの武装姿の父の亡霊を彼が見たのは、夜明け前と、もう一度は彼が母親の不貞を詰る場面で、この時は白昼で彼以外の者の目には亡霊の姿は見えない。何れの場面も亡き父が自分の仇を討ってくれ、そうしないと浮かばれないと息子のハムレットに強く要求するのである。
この悲劇『ハムレット』では、息子の方が亡き父の事を思い遂に叔父を殺し、自らも死ぬのである。だから『ハムレット』では「親思う心」で一貫した筋で、その「心にまさる親心」の劇ではない。一方夢に現れた父惟芳は、ひとえに我が子芳一を思う親心の表れだと思う。シエイクスピアの「四大悲劇」のなかでも最高の作だと言われている『ハムレット』には、この名作の各所に散りばめられた名台詞があり、読むものをして圧倒させられる。色々の見方があろうが、私は父の亡霊の言葉を真摯に受け取った息子ハムレットの、親思う気持ちが一貫していると思う。何だか亡霊なる父と、夢に出てた父とを無理に組み合わせたようになったが、戦後80年になろうとしている今だが、同じような不思議な体験をされた遺族の方は居られたのではなかろうか。
2024・2・9 記す