yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

佐々木雄爾著『老年文学の系譜』を読んで                       

 

 

 平成10年に私は生まれ故郷の萩市を去って山口市に居を移した。多くの人は当初このことを異常だとして私に真意を訊ねた。最大の理由は先祖代々住んでいた環境が変わったためである。

 

 過去帳ならびに年表を見てみると、山本家の初代は永禄5年9月19日に亡くなっている。西暦でいえば1562年である。桶狭間の戦いがあったのが1560年の5月で、川中島の戦いが1561年の9月に行われた。国外に目を移すと、シエイクスピアが生まれたのが1564年である。関ヶ原の戦いは1600年9月だから、それまでは我が国は群雄割拠といった時代だった。この間に織田信長豊臣秀吉、そして最後に覇者となった徳川家康の3人の英雄が鎬を削った時に、我が家の初期の先祖たちが生活していたと思われる。ついでに言うと、家康とシエイクスピアは共に1616年に死んでいる。

 関ヶ原の戦いで、西軍の将に担ぎ挙げられた毛利輝元は、それまで中国地区5か国の領地をはく奪され、防長2州に閉じ込められた。その時山本家の先祖も一緒に広島から萩に移住している。山本家3代が亡くなったのが1626年だから、彼の時萩に移ったと思われる。それまで何をしていたか。初代から5代まで子孫代々船を所有して武家として毛利藩に仕えていたようである。1637年の島原の乱には我が家の船が動員されていると、郷土史家の田中助一氏が言われた。6代の時藩籍を離れて北国問屋となっている。6代が亡くなったのが享保9年(1724)である。それまでは戒名に「院号」がついていた。士族でなければ院号はつけられないと萩市のある坊さんが話された。

 それから13代の時北国問屋を辞めて、酒造業と毛利家の武具扱いを始めたのが、私の曽祖父である。彼についてはこれまで数回書いた。『萩市史』やその他にも記述がある。

 

 曽祖父梅屋七兵衛は若い時からなかなか活動している。しかし明治初年に大阪に移り住んでいたが米相場で資産を失い、故郷萩に戻り、明治16年(1883)に62歳で亡くなった。大阪にいた時その地の文人墨客と交わり、中でも小堀遠州流の茶道を学んでいる。帰郷後は我が家は細々と浜崎で詫び住まいをしてきた。その時から今年で140年経ったことになる。祖父と父の生き方を見てみた時、『方丈記』に書かれてある鴨長明の生き方にどことなく似たところがあると思った。それはこの拙文の表題に掲げた『老人文学の系譜』を今回改めて読んだためである。

 

 この本の著者佐々木雄爾氏を知ったのは、県立山口図書館で、彼の名著『森鷗外 永遠の希求』を手にしたときである。私は県立萩高校を昭和25年に卒業した。当時は大学進学は今に比べたら少なくて、半数以上は進学していない。「同窓会員名簿」を見ると同期の卒業は215名で、進学したのは80名に過ぎない。私は父の考えに従って進学するつもりはなかったが、伯母が父を説得してくれて山口大学に入った。従ってそれまで図書館で本を借りたり、本屋で本を買うようなことはなく、勉強した覚えはない。ただ橙畑の仕事だけは真面目にした。

 

 大学に入り、初めて文学の世界を知り、『日本現代文学全集』(講談社)や『世界文学全集』(筑摩書房)などを求め、漱石を面白く読みだした。英文科に入ってから池本喬先生のお宅を夕食後1人でよく訪ね、大変お世話になった。お陰で禅について教えられ、また鷗外の本なども努めて読んだ。あれから茫々70年の時が経ち、私は今や91歳になった。

 4年3か月前に家内が急逝した。私はそれより前に上記の本『老人文学の系譜』をすでに3回読んでいる。今回改めて読む気になった。その理由は先日室内で転び脊椎を傷め、痛むと同時に不自由な生活を余儀なくされたからである。家内が亡くなって独り暮らしになった時も讀んだが、今回は一段と生活が苦しくなったのでまた読む気になった。と同時に祖父と父の生き方を考えてみたのである。

 

 さてそろそろ本題に入ることにする。佐々木氏の本は正式には『長明・兼好・芭蕉・鷗外 老年文学の系譜』(河出書房新社)で、2004年10月に発刊されている。私は先に挙げた『森鴎外 永遠の希求』で佐々木氏と不思議な縁が出来、知人と長崎県に行ったとき、佐世保市でご夫妻に九十九島を案内してもらい、心からのもてなしを受けた。佐々木氏は九州大学国語国文科を卒業後、鹿児島ラサール高校、長崎総合科学大学佐世保工業高等専門学校の教授を経て平成7年に定年退職され、平成21年に亡くなられた。九州大学の国文科を出られた未亡人とは今も親交を保っている。

 

 佐々木氏の論考は「古典に老いの光芒を見る」といった「日本の代表的な古典に、新しい、強い光を当てた異色の評論で、長い間誤解されてきた芭蕉の辞世の句も、鷗外の遺言も、本書で甦った。」と言われているが、私はこの本を読んで蒙を啓かれた。そこで私はもっぱら佐々木氏の格調の高い文章をそのまま引用して、鴨長明の生き方をここに紹介し、最後に祖父と父の晩年の生き方について考えてみようと思ったのである。

 

 

 

  無常感は方丈記方丈記たらしめている重要な要素の一つであり、次に引く方丈記冒頭の無常和讃は、平家物語冒頭のそれと並んで日本人に愛誦されてきた。

 

   ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。 

 

  さらにまた、序文で説かれている「人とすみか」の無常の実証として描かれている五つの災厄の部分は、当時の大事件とそれに対応した人々の姿を、卓越したルポライターの手腕によって活写し、精彩を放っている。

 

 佐々木氏はこれに続いて次のように言っている。

 

  仮に長明がこの部分だけを書き遺したとしても、それは秀れた記録文学として人々に記憶されたに違いない。しかしながら、方丈記全体の結構から推せば、無常感は主題ではない。主題の前奏あるいは作品の基調低音である。主題である後半の山中独居の悦楽の説得力を高めるために、前半において、都の人のすみかの無常に加えて都での生活の心労をあのように詳述したのである。

 

 此の後佐々木氏はこうも言っている。

 

  閑居の描写よりも無常の叙述のほうに惹かれる現代人が多い理由は、現代人には閑居の意味や魅力が分からなくなっていることにあると思われる。平均寿命が飛躍的に延びたため、現代日本人の無常感も飛躍的に鈍化しているにしても、山中独居の意味の分かりにくさに比べれば無常感の方がまだしも分かりやすいということであろう。

 

 以下私がこの本を読んで感銘を受けた数か所を書き出してみよう。

 

  方丈記の世界は決して陰湿ではなく、むしろ明澄であるということである。そしてそれは、老や死を忌むことなく、逆に、老や死と手をたずさえて生きようとする長明の健康な精神を反映しているのであろう。老年期においては、死に好意を持つことが即ち生に好意を持つことである。長明は俗世は忌避したけれども人生を忌避したのではないことは、方丈記の全体が保証している。生を厭う心があのように張りのあるリズムやテンポを持った文体を創造するということは考えにくい。

 

  人の生涯において最も束縛が少なく、自由な時間に恵まれるのは幼年期であり、それに次ぐのは老年期である。この人生の初めと終わりのひとときに似つかわしい仕事は遊ぶことであろう。老人が遊ぶのは閑暇に恵まれているという物理的理由だけによるのではなく、幼年期に回帰したいという心理的理由もかかわっているのではないかということは、「この里に手まりつきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし」(良寛)「わが孫とひところしげく通ひたるプラモデル店けふは閉じけり」(関根賢人)。方丈記にも五十八歳の長明と十歳の幼童との交遊を描いた次の文がある。

 

   またふもとに一つの柴の庵あり。すなわちこの山守が居る所なり。かしこに小童あり、時々来たりてあひとぶらふ。もしつれづれなる時はこれを友として遊行す。彼は十歳、これは六十。その齢ことのほかなれど、心をなぐさむることこれ同じ。

 

 私も同じ経験をした。孫娘がまだ小学校に入る前から「イエロー・ハウス」と言う英語塾に通っていた。それは我が家から片道5・6キロばかりの距離にある山口市宮野の椹野川の河畔にあった。次男と彼の妻は高校に勤務していて、休日でも仕事がよくあるので、朝早くやって来て「今日もお願い」と言って孫を置いて行った。車に乗って私はもっぱら運転し、家内が後部座席で絶えず孫に話かけていた。

 車道を横切ってすぐに踏切がある。線路は先の川に沿って津和野から益田に迄通じている山口線である。橋を渡りそのまま真っ直ぐに80メートルほど行った所にある駐車場に車を止めると、孫は直ぐ車の外に出て塾のある方へと走っていくのである。「待って、自動車が来るから危ないよ」と言って、家内は孫の後を追っていくのがいつもの慣わしだった。

 家内はやっと追いつくと孫の手を引いて塾迄連れて行った。私はその後をついて行った。塾は川に添った道路に面しており、道路の反対側の河岸の急な斜面を少し下りたらやや平地があり、さらに下ると水が流れている川原であった。河岸には桜などの木が数本あった。花の時期になるとなかなか風情のある長閑な場所であった。我々は約一時間の間授業が終わるまでこの川辺を歩いたり、近くの神社で時を過ごしたりした。授業が終わると子供たちは一斉に出てくるのだが孫はいつも一番最後に姿を見せた。そして我々を見ると安心したのか、先に述べた急な河岸を駆け降りて平たい所へ行き、それからやっと我々のところに来るのだった。

 我が家を出て塾へ行き帰宅するまでのおよそ2時間は、我々にとっては無駄な時間を過ごしたなんて全く思はなかった。10年ばかり経った今あの時のことを思い出すと、私にとっても家内にとっても至福の時だったと言える。当時小さな子供を連れて来ていたのは殆ど若い母親か父親で、我々の様な老人は1人もいなかった。長明が孫の様な子を連れて山道を楽しく歩いたことが実感できたと言える。

 

 佐々木氏は又次のようなことを書いている。

 

  二十歳という地点に立った時は、前途に俗世が見えているのに対して、六十歳の地点では、行く手に来世が見えている。二十歳では俗世の方に向いて立つのがいわゆる前向きならば、六十歳において来世の方に向いて立つのが前向きだろう。青年期において積極的な姿勢を取るということは、幼児的なものと決別し、いかに生くべきかを模索するという事であり、老年期において積極的な姿勢をとるということは、世俗的なものと決別し、如何に死すべきかを模索するということである。老齢になって、長年なじんできた生活様式と決別し、自然や死と向き合う山中独居の生活を選択するという決断を下すことは消極的人間のよくするところではあるまい。長明が持っていた強靭な気力・生命力が形をとったのが、長期にわたる孤独な山中生活の維持であり、方丈記の簡勁な文体である。

 

 佐々木氏は又こうも言っている。

 

  方丈記は、老年期をいかに生くべきかというテーマを体験的に、抒情的に描いた作品である。この作品の主題は、得喪利害・毀誉栄辱のちまたから遠ざかり、山地清澄の地の草庵に独居して、自然や死や芸術や宗教に親しむことによってのどかに心を養うような生き方こそが、老年の真実の幸福に導くという思想を語ることである。  

 

  ところで長明の自然観に限らず、広く日本人の自然観について考察する場合、老年や死との関連を度外視すれば、微妙なものを見落とすことになる。日本人には、老いが進むにつれて自然をなつかしみ、植物をいとおしむ心が強くなる傾きがある。

 

   願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月の頃        西行

   旅ごろも木の根かやの根いづくにか身の捨てられぬところあるべき  一遍

   旅に病んで夢は枯野をかけめぐる                 芭蕉

 

 佐々木氏はこのようにも言っている。

 

  日本人の場合、老いて死とのなじみが深まるにつれて、自然が「美しい」だけではなく、「深い」もの、なつかしいものに見えてき、死ぬことは「もとのすみか」である「自然へ帰る」ことであり、そのことによって「永世に入る」ことができるという意識が芽生え、育つのではあるまいか。  

 (中略) 

  兼好の遁世の目的も、仏道を修めることよりも隠閑の生活を楽しむことの方に比重がかかっていたことは「いまだまことの道を知らずとも、縁を離れて身を閑かにし、事にあずからずして心を安くせんこそ暫く楽しむとも言ひつべけれ」(『徒然草』七五段)というような文によって推知できる。

 

 最後に佐々木氏は次のように言っている。

 

  方丈記の主題を一言以て蔽えば「のどかさ」である。そして古今を問わず老境に入った者の多くがほんとうに渇望しているのは、長寿や富裕や家族などではなく、容易に入手しやすいように見えてそうではない、そして退屈さと似て非なる充実したのどかさであろう。そうだとするならば、のどかさの讃歌とも言うべき方丈記が、老齢者が激増する現代、せわしさが加速する現代において有する存在価値は極めて高いと言わなければならない。

                  

 

 

 先にも書いたように、私は大学に入って池本喬先生に非常にお世話になった。英米文学科に籍を置いたが、それまで机に向かったことがないような者に、いきなりしシエイクスピアの作品やチョウサ―の『カンタベリー物語』さらに古代英語など分かるはずがない。それでも私は何となく池本先生の人柄にひかれて先生宅をよく訪れた。先生は帰宅後はもっぱら禅文学の英訳に取り組んでおられ、そのことについて話しをよくされた。「僕は鈴木大拙の様な仕事をしたい」と言っておられたが、生前「禅の古典を英訳、欧米に紹介」されたことにより、昭和52年に勲三等瑞宝章を受章された。

 このような事があったので、私は大拙や彼の友人で、これまた世界的に有名な西田幾多郎の名を知った。そして彼らの記念館を訪れ作品を齧ってみても所詮凡骨の身、悟りなどとんでもない。しかしわが国の宗教はもとより文芸の世界で、禅が如何に関係深いものかという事だけは朧げに知ることが出来た。

 

 さて話を先ず祖父友一郎に移すと、祖父は若い時から明治維新の動乱期に身を置いていろんな体験をしているようである。例えば12歳のとき、曽祖父がイギリス人から鉄砲を購入して1年振りに上海から帰国し仙崎の港に着いたとき、父の身代わりとして人質といったことを体験している。此のことについては体験を語っていて私はすでに詳しく書いた。その後曽祖父と一緒に若くして大阪に出ていろいろな体験をしている。帰郷後は茶道と華道の師範として倹しい生活をしたようだが、人には優しく、自然を愛し、余生を閑に楽しんだように私には思われる。

 私が子供のころ、1人の背の低い老婆をよく我が家で見かけたが、彼女は玄関からは決して上がらずに、勝手口とも言えない廊下の端から上がると、そのまま真っ直ぐに仏間に入って一心に佛に向かって拝んでいた。此のことについて父が話してくれた。「めーや(我々はこの老婆をこのように 呼んでいた)は孤児だった。ごく幼い時に俺の父が不憫に思って家に連れてきて面倒を見てやり、後に一人の漁師と結婚させた。だからその恩を忘れないでよく来るのだ」

 

 私が萩高校に転任し、その後2人の息子たちが小学生、中学生となった頃、毎年正月元旦に岩崎義雄という人が年始に来られて、息子たちにお年玉を下さった。彼はあの「めーや」の長男で、小さい時に我が家によく来て遊び、軍隊に入ってから中国での数々の戦いに参戦し、無事に帰還後、萩市役所に勤務されていた。実に恩義を感じる人だった。これも祖父の憐憫の情に端を発しているといえよう。

 祖父は安政元年(1854)に生れ大正15年(1926)に亡くなっているから私は写真でしか見ることは出来ない。若い時大阪の天王寺舞楽奏者の一員として皆で写った古い写真や、その後お茶の弟子に招かれて台湾で写った写真など数枚があるだけである。

 

 ここで最後に父について書くこととしよう。父は4男であるが山本家を継いだ。明治30年に生れ、県立萩中学校を経て関西学院大学を卒業後、大阪の小林毛布株式会社に勤務していた。社長はなかなか立派な人で、与謝野晶子と親しくしていたと父は話していた。外人の客が来ると父が対応していたようである。大学を出て大阪に職を得た頃はいわゆる「大正ロマン」の時代で、父は結構青春を一時的にも謳歌したのではないかと思う。

 しかし祖父が病の床に臥したのでやむを得ず帰郷し、萩商業に勤務し30年間平凡な教諭の地位に甘んじていた。教師としては適当にお茶を濁していたように思われる。昭和30年に定年退職後は、水を得た魚のように、祖父の後を継いで茶道に打ち込み、多くの弟子とともに晩年を楽しんだように思う。

 しかし父にとって最大の不幸は、若き妻が私を産んだその年に亡くなったことだろう。当時我が家に樋口という萩商業に通学する生徒が下宿していた。私はこの人と偶然山口市に来て知るようになり、彼の口から次のようなことを聞かされた。

 「先生は奥様を亡くされてからは、学校から帰られると毎日座敷で、何枚もの大きな紙に観音様の絵を描いておられました。『樋口君、どれが一番よく描けたと思うか』と言われたことがあります。また私は幼い貴方が不憫だから菊が浜まで連れて行ってアイウエオを教えましたよ」

 この話を聞いた時、私は人間は一生のうちに、知らず知らずの間に多くの人の世話になるのだと痛感した。私は父が描いた観音像の掛け軸を普通床の間に掛けることにしている。

 このことからも分かるように父は晩年は絵、それも水墨画を書いて楽しんで居た。そしてよく次のように言っていた。

 「人間は折角生まれて来たからには人生を楽しまなければいけない。もちろん働かなければならないときはそれなりに働くべきだが、能力もない者がトップに立とうとしてもそうはいかない。分相応に責務を果たし、仕事を辞めてからは自然を愛し、少しでも人が喜び自分にとっても楽しいことをするようにしたらいい。俺はこの年になっていつ死んでも良いと思っているが、ただこの美しい自然と別れるのが心残りだ。」

 こう言って、父は毎月一回だけ、誰でも自由に話に来られてもいい日を決めていて、初めて訪ねて来た人をも歓迎していた。又年に一度だけお茶の仲間と京都を訪ねていた。「京都は何回行っても見どころがある」こう言って亡くなる直前まで計画を立てていた。

 我が家は米相場の失敗で破産し、父は若い時から貧乏暮らしをしていたので、「日頃は倹約して無駄金は使うな。年を取ってつまらん者に顎で使われるような目に遭ってはいけない」とも言っていた。

 父は朝夕神仏を拝んでいたが、読書はあまり好まなかったようで、むしろ苦手だったかと思う。我が家に『江戸名所図会』20巻の和綴じの本があるが、これを父はよく見ていた。父がわざわざ本を買ったと言って見せたものは一冊もない。父が亡くなって粗末な書架にあった本は『新修 茶道全集』8巻を除けばほんの僅かだった。

 只亡くなる数年前に山頭火の歌を和紙に書き写して、それを和綴じの本に仕立てた。母は85歳を過ぎて認知症になったが、この読みにくい字で書かれていた山頭火の歌だけはすらすら讀んだので、見舞いに来た人は驚いていた。そういったことで私の家内が「お祖母ちゃんがあれほど毎日読んでおられたから棺桶に入れてあげましょう」と言ったので、母が亡くなった時父の手作りのこの歌集を母の棺に入れた。

 

   私たちが萩市にいた時、玄関に縦・横40×60センチで、厚さが3センチのヒノキの板が掲げてあった。父がお弟子さんにその言葉をよく説明していた。そういったことで私はこれは父が書いたものだから持ってきて、同じく我が家の玄関に掲げている。我が家を訪れる人でこれに注目する人は殆どない。しかし父がわざわざこういったものを作った真意を今考えてみると、よほどこれが気に入っていたと思う。父は書画に関しては素人にしてはかなり上手かった。次の言葉が箇条書きに縦に書かれている。

 

 一 賓客腰掛に来て、同道人相揃はヾ、板を打って案内を報ずべし

 一 手水の事、専ら心頭をすヽぐをもって、この道の肝要とす

 一 庵主出請じて、客庵に入るべし。庵主、貧にして、茶飯の諸具偶せず、美味もまたなし。露地の樹石、天然の趣、そのこころを得ざる輩は、これより速に帰去れ

 一 沸湯松風に及び、鐘聲至らば、客再び来れ。湯合・火合の差となる事、多罪々々

 一 菴内・菴外においゐて、世事の雑話、古来これを禁ず

 一 賓主歴然の会、巧言令色入るべからず

 一 一会始終、二時に過べからず。但し法語・清談に時うつるは制の外なり 

  天正十二年九月上三                        南坊 在印   

 右七ケ条は茶会の大法なり。茶を嗜む輩忽せにすべからざるものなり   宗易 在判

 

 父がこれを何で知ってわざわざこのように整えたかは知らない。ちょっと興味があったので西山松之助校注『南方録』(岩波文庫)を見たら、同じ文句が載っていて詳しく説明してあった。このワイド版岩波文庫のカバーの裏に次のように書いてあった。

 

 南方録 

  利休が集大成したわび茶の根本理論を説くとともに、利休の茶会の詳細な記録にもとづいてその実技を体系づけた書。(中略)利休の茶道精神を伝えるものとして圧巻である。数多い茶道の書の中で最も重要視されてきた古典。

 

 父が選んで書いたと思えるものはかなり浩瀚な『南方録』の中のほんの一部「露地清茶規約」と題されたものの内容である。

 ここに箇条書きにしてある文句を、宗易こと千利休は「茶会の大法」として弟子の南坊宗啓に教え、それを弟子が記述したものである。

 私はほんの一部を読んだだけであるが、ここに述べてある精神は案外長明にの生き方に似た点があると思い、敢えて冗筆を弄したのである。なおこの中にある「賓主歴然」という言葉の意味は、「招かれた客と招いた主人はお互い全く独立した存在であってそれは明白である」と知った。

2023・8・21 記す