yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

野菜のクラスター

カクテルとは「ウイスキー・ブランデー・ジン・ウオッカ・リキュールなどの洋酒をベースとして、シロップ・果汁・炭酸飲料・香料・氷片などを調合した混成酒。」と『広辞苑』に載っていた。随分手の込んだ酒だと思う。洋酒のチャンポンに過ぎないのでないようだ。

 

コロナ感染が世界中を危機に陥(おとしい)れ、「クラスタ-」になるのを避けて下さいと、この言葉を耳にしない日はない。最近は何でもかんでもカタカナを用いる。年寄りはなかなか付いていけないのではなかろうか。要するに「人混みに入るな」とか「密集を避けよ」とか「群がるな」ということである。

 

クラスター」とは元々「花や実などの房」の意味だが、「同種のものが集まってつくる一団・群れ」の意味だと、これまた同辞典に載っていた。

そうなるとカクテルは、数種の酒類クラスターである。

 

私は野菜のクラスターを毎朝食べる。そこで今日はこの事について一寸紹介しよう。

家内が亡くなり一人暮らしになったので、朝晩何を食べたら良いかと考えた。私は昼食は抜くことにしている。有り難い事に吉敷に家を建てたら数年後に、我が家の直ぐ近くに食品スーパーが出来た。従って料理の素材は簡単に手に入る。既製の食品も数多く並んでいるが、私はなるべくそれらは買わないことにしている。家内がそうしたものを極力食べないようにしていたからである。何と云っても自分の家で作ったものが新鮮で味も自分の味覚に合うからだ。そうなると自分で調理しなければならない。そこで考えたのが数種類の野菜を大きい鍋で煮て食べたら良かろうと思ったのである。そうは言っても刺身・コロッケ・ソーセージ・豆腐・キムチなどは買って来る。

 

今朝も作って冷蔵庫に入れておいたのを丁度食べ終えたので、散歩のついでに帰りにスーパーへ寄って必要な野菜を買ってきた。試みに今流にカタカナで書いて見ると、次のようなものである。

 

ダイコン・ニンジン・ダイズ・ハクサイ・ネギ・ゴボウ・カボチャ・シイタケ・

ジャガイモ・モヤシ・コンニャク

 

さて、これらの野菜類を漢字で書けと云われて、全部正確に書ける人は少ないだろう。

大根・大豆・人参・白菜なら何とか書けるが残りとなると難しい。

 

 葱・牛蒡・南瓜・椎茸・馬鈴薯・萌やし・蒟蒻

 

私はこれらの野菜を適当な大きさに切って、大きい鍋に入れ、これらと一緒に小さなネットに煎り子を入れて味付けとする。そして少し酒をふりかけ、醤油を注いで三十五分ばかり煮たら出来上がる。出来たら大きい二つ器と一つの丼鉢に移して、冷蔵庫に入れておき、毎朝それを適当な量だけ皿にすくい取って、鶏卵を一個割って一緒にしてチンして食べる。これにミルクコーヒーとパン一枚が朝の食事である。

 

こうして一週間は、あまり手がけずに朝の食事を済ますことが出来る。私は毎日九時には床に就くので、目が醒めるのは大体四時から五時の間である。起きたら洗顔の後机について好きな本を読む。今朝も四時半から七時まで梅原猛の『水底(みなそこ)の歌』を読んだ。今朝丁度上巻を読み終えた。中々面白い。それにしても学者は実に良く調べるものだと感心する。彼の次の言葉が気に入った。

 

私はソクラテスの門弟として、やはり権威より真理を重んずることを、人生に処する根本的な態度としている。

 

『水底の歌』は、柿本人麿のことを梅原氏が調べて、これまでの学説を覆した論攷である。人麿があれほど優れた歌人であるのに、歴史書にその名が載っておらないのは何故か、と云うことから彼は追求して、遂に人麿は島根県益田市の沖にある鴨島で刑死されたと結論づけている。明日から下巻を読むのが楽しみである。

ついでだから私は野菜に関する言葉を一寸辞書で見てみた。知らない事が沢山あって勉強になった。

 

大根役者(芸の下手な俳優をあざけっていう語)

大根足 (大根のように太くてぶかっこうな女の足)

葱   (葱白く洗ひたてたる寒さかな  芭蕉

人参飲んで首縊(くく)る (貧乏人が病気にかかって高価な朝鮮人参を飲み、財政に窮して首を縊るの意。転じて事は良く前後を考えてなすこと。良い事もかえって悪い結果になるたとえ。)

牛蒡抜き (牛蒡を土中から引き抜くように、一気に抜き上げること。人材を他から引き抜いて採用したり、競争などで多人数を一気に抜き去るなど)

蒟蒻問答 (旅僧のしかけた禅問答を住職に化けたこんにゃく屋の主人が受け、相互の誤解に基づいて、滑稽なやりとりをする落語から、話しのかみ合わない会話。とんちんかんな問答)

南瓜野郎 (容貌の醜い男をののしって云う語)

芋の子を洗うような混雑  私は子供の頃風呂屋へ行ったら何時もこのような状態だった。漱石の『吾輩は猫である』には「白い湯の方を見ると是はまた非常な大入りで、湯の中に人が這入ってると云はんより人の中に湯が這入ってると云ふ方が適当である」と書いている。

 

椎茸髱(たぼ) (江戸時代の御殿女中の髪の結い方で、左右の鬢(びん)を張り出して椎茸のような形にしたもの。またその髪を結った御殿女中)

瓜(うら)なり (末生り・末成り 顔色の青白い顔気のない人 『坊ちゃん』に英語の先生で青ぶくれしたのを「うらなり君」と呼んでいる)

瓜に爪あり爪に爪なし (間違いやすい「瓜」と「爪」との字画の異同を覚えさせるための句)

瓜二つ (瓜を二つに割った形がそっくりなところから、兄弟などで容貌が甚だよく似ていることを云う)

瓜実顔 (色白く中高でやや細い顔)

青菜に塩 (人が力なくしおれたさま)

大豆 (大豆(だいず)に対して小豆(あずき)と云って「しょうず」とは云わない。私は「こまめな」を「小豆な」と書かないかと思ったら、「まめ」は「忠」と書くのを知った

 

私は大学で英文科に入ったとき、高校の授業とは全く違った専門の講義を受けた。その時、Onionと云う学者の書いた英文法の教科書を使用した。難しくて歯が立たなかったが、この学者の名前は日本語で「玉葱」という意味である。この事だけは今も覚えている。当時はテレビはなくて、映画が唯一の娯楽だった。アメリカ映画ではゲーリー・クーパーが有名だった。彼は1901年に生まれて1961年亡くなっている。クーパーとは「おけ屋」とか「樽製造者」という意味だと知って、これも面白いなと思った記憶がある。随分昔のことである。『広辞苑』には彼の事が載っていた。

 

アメリカの映画俳優。アメリカ的良心の象徴のような強くて善良なヒーローを演ずる。『真昼の決闘』『誰がために鐘は鳴る』」

 

クラスターがとんでもない話しになったが、あの頃はどこの映画館も「超クラスター」だったと今にして思う。萩には「喜楽館」という映画館があった。何時も超満員でそれこそ天井桟敷まで観客で一杯だった。映画が終わって兄(あん)ちゃん連中は自分が今見た映画の主人公にでもなった様に、肩を怒らして映画館から出て来た。

 

詰まらんことを話題にしたが、要するに私が毎朝食べる料理は「野菜の雑多煮」である。現代風に云えば「煮野菜のクラスター」と云うことか。

                     2021・2・28 記す