yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

転而不動

2年前の夏のことである。2坪ばかりの我が家の狭い菜園の1か所に私はオクラを3本植えていた。朝起きて野菜に水をやろうと思って出てみたら、漏斗型にややくぼみのある大きな1枚の葉の上に、親子と思われる小さな雨蛙が3匹、炎天下にもかかわらずじっと蹲っていた。彼等はどこから来たのだろうか、お互い示し合わせて来たのだろうか、彼らは意思の疎通が可能なのだろうかと不思議に思った。というのはその日だけではなく、およそ一週間もの間、夜になると何処かへ姿を消したが、また朝になって出てみると彼らは同じ葉の上に居たり、違う葉の上にそれぞれ別れて坐って居た。

 

 この年の前年、すなわち令和元年の5月27日に家内が旅先で急逝したので、爾来私は独り暮らしを余儀なくされていた。従ってやや広い我が家の敷地内には、話し相手はもちろん猫一匹いないので、たとえ小さな生き物であるこの雨蛙でも、私には親しみを覚える存在に感じられた。私がすぐそばまで近づいてカメラを向けても、全く動かず正座したままであった。私は手で触るようなことはしなかったが、眼を近づけて彼らの様子をじっと見たりした。喉元をぴくぴく動かしているのは、呼吸しているからだろうと思った。そして目玉をこちらに向けたりしていたから、私の動きは察していたと判断した。それにしても坐った位置から微動だに姿勢を崩さない。

 

 我が家には蝶や蜂などはよく飛んで来る。雀や鳩も玄米をレンガ造りのベランダに撒いておくとやって来てついばむ。これらの生き物は一時もじっとしていない。たえずそわそわと身を動かし、私が近づいたら怖れて飛び去って行く。私としては何一つ危害を加える気はないのに、彼らは私の好意をどうも受け入れてくれないようだ。彼等は私を聖フランシスの様に思ってくれないのだ。その点この小さな雨蛙は私を信じてくれているのか、そう思うと可愛く思われる。

 

 ところが昨年は全く姿を見せなかった。オクラをそのつもりで植えたのだが駄目だった。どうしたのかと思っていたのだが、あることが原因かなと思うことがあった。実は昨年の或る日の昼前、晩春も過ぎて夏に差し掛かる時だったが、先のレンガ造りのベランダの上に50センチばかりの長さの蛇が横たわっていた。蛇は一見して毒蛇ではない。私を見たとたんにするすると這って、高さ30センチのベランダから降りて、椿と藪バラの植え込みの中へ姿を消した。私は近づいて行方を探したが土の中へ潜っていったのだろう見つからなかった。ところが夕方その蛇がまた以前と同じ場所に出ていた。前と同じように私を見るやいなや姿を消した。

 

 私としてはたとえ蛇でも、こうした小さな生き物を、快く迎え入れてやろうと言う気持ちだったから一寸残念に思った。その時ふと思った。雨蛙たちはこの蛇の存在を恐れて今年は出てこないのかなと。人間には不審の感じを抱かない蛙にとっても蛇は天敵なのだろう。お互い仲良くできないのかと思った。ということで昨年は蛙にお目にかかることなく1年が過ぎた。私としては少し寂しい気がした。

 

 年が明けて今年6月になってのことだが、今年もオクラを植えた。しかしそれまで蛙の姿はみられなかった。ところが全く思いもかけないことに、勝手口の取っ手の上に小さな雨蛙が1匹ちょこんと坐っているではないか。私は「お前はどこから来たか。よく来てくれたが、ここに居ってくれては困る」と言って逃がしてやろうと思ってそっと体にさわったら、ぴょんと跳んで私の腕に移った。私はベランダの傍の藪バラの葉の上に置いてやった。蛙はなされる儘に身を任せていた。

 

 私はその日は外に出るたびにこの蛙の存在を確めたが、その翌日は同じ場所に居たが三日目になって姿が見えなくなった。私はやや寂しい気持ちになった。

 

 「あの子蛙は一体何処へ行ったのだろうか」とあたりを探したが見つからなかった。ところがそれから1週間ばかりした朝の事である。あの子蛙が居るではないか。それも勝手口を出たところにある簡単な「流し」の片隅にピタリとひっつくようにしていた。私はカメラを取ってきてその姿を撮った。夕方になって今度は「流し」の水道の蛇口のすぐ傍に移動していた。その日はそのままその位置を変えずにいた。翌朝も同じところに居るかなと思って出てみたら姿が見えない。

 「はてな、何処へ行ったんだろう」と思いながら、キュウリとトマトでも採ろうかと思って、その「流し」のところに置いてある小さな籠を持ち上げたら、そこに蛙は隠れるようにして坐っていた。

「お前はこんなところに居たのか」と言って私は野菜を採った後、前と同じところに籠を置いた。

 

 また1日経った。蛙はおそらく同じ籠の傍に身を隠しているのだろうと思って外に出て見たら、また姿が見えない。

はてな、今度はどこへ行ったのだらうか」と思いながら、朝の散歩に出かけようと思い。靴箱から革靴を取り出してすぐ傍の柱に掛けていた長い靴ベラを手にしたところ、この靴ベラの背後に身を隠すようににして、木の柱にぺたりと雨蛙は上向きの状態でくっついているではないか。私はこれにはいささか驚いた。というには柱は垂直に立っている。その柱に蛙はピタッとくっついているからだ。この不自然な状態で蛙はその日1日中同じ姿勢を保っていた。私は靴ベラを違う場所に掛けて蛙を刺激しないようにした。

 

 そして今日である。今日は令和4年7月25日。一寸雨模様で朝起きると読書をしたので、朝食を終えた後、気分転換に一寸勝手口から外に出た。蛙が柱のところにまだいるかと思って見たところ見当たはらない。またどこかに行ったのだろうと思い、もうあまり気にしないでいた。しかしやはりどこかにいてくれたらと思いながら何気なしに見ると、靴箱の傍に置いてある黄色い如雨露の中に何かが入っているのが目についた。如雨露は深さが20センチばかりあって、私はよくこれで野菜に水をやる。何が入っているかと覗いてみたら、綺麗な模様の蝶が1羽横たわっていた。ところがよく見たらあの子蛙が蝶に向き合うようにちょこんと 坐っているではないか。

「お前はこんなところに隠れていたのか。それにしてもどうして這入って来たか」と問いかけるようにして、私はまたカメラを持ってきて写した。

 

 数年前にこんなことがあった。家内が死んだ年だったと思うが、家の後の小屋の傍にゴム手袋を置いていた。殆ど使わないで暫くそこに置いていたのだが、ある日それを手に取って指を入れたとたんに何か冷やりと感じた。よく見たら1つの指の中に蛙が冬眠していたのだ。これには驚いた。こんなところに隠れて冬を越したかと思うと、蛙の生態というか逞しさに感心した。私は蛙をそのままにして違うゴム手袋を使用した。

 このことを思い、今目の前にいる子蛙も遂に如雨露の中という安住の場所を発見してやれやれと思っているのではないかと。と同時に私は次のようなことを思った。

 

 この子蛙は体長僅か4センチ足らずである。薄緑色の肌に黒くて細短い線が不規則についている。見かけはこうした小さな生き物だが、その行動は先にもちょっと書いたように小さいながら泰然自若としている。時々居場所を移すが、新たな場所に身を移すと暫くの間、時には一昼夜以上、そこに身を置きじっと坐って動かない。私は以前市内の禅寺へ行って坐禅をした事がある。10年間毎週の日曜日の早朝に出かけて行き、本堂において40分ばかり坐禅の真似事をしたが、僅か40分でも心を静めることは出来なかった。これに比べたらこの取るにも足らない子蛙の静止した姿は見上げたものである。蛙と言葉を交わすことができら、彼は何と云うだろうか。

 「貴方は落ち着きがありませんね。もう少しじっとしていてはどうですか。私が折角ここは良いと思って坐っていると、貴方は私の邪魔をしますね。今度こそこの如雨露は私にとって最適の場所と思いますので、もう邪魔をしないでください。お願いします」とでも云うように思ったので、出来たらこのままにしておこう、それにしても蝶はこの中に飛んで入ってよう出なかったのだろう。

 

 私は先ほど夕方の散歩をしてきた。見ると蛙は如雨露の底にじっとしてた。梅雨はもう上がったが、座敷にはこの季節になったら毎年掛けることにしている掛け軸をまだそのままにしている。以前にも紹介したことのある三浦梧楼(号は観樹)の軸である。「五言絶句」の漢詩である。次の様に2行に書いてある。私はこの枯淡とも言うべき筆跡が気に入っている。

 

 鬱々黄梅雨 鳴蛙呼友頻 素門人雖遠

 松竹自為隣        観樹 印

 

 三浦梧楼は萩の人で、高杉晋作奇兵隊の一員となり、後に出世して学習院院長にもなった。しかし朝鮮の公使だった時、韓国王妃の殺害の容疑で結局陸軍中将で退役した。これは明治28年のことである。現在とは違い、当時の国民感情を知る上で面白く思うので一寸このことに言及しよう。

 歴史的事件やそれに関係した人物について正しく評価することは難しい。何事にも毀誉褒貶はつきものである。現に安倍元総理に関して国民の多くが感ずることではなかろうか。

 明治28年11月14日、漱石が子規に与えた手紙がある。漱石は次のように書いている。

 

 小生近頃の出来事で尤もありがたきは王妃の殺害と濱茂の拘引に御座候。

 

十川信介著『夏目漱石』(岩波新書)に以下のような記述がある。

 

  彼は政治的事件には表だった関心を示していないが、この書簡では日清戦争のきっかけになった韓国王妃で、日本勢力よりもロシア・清国を頼った閔妃の暗殺事件と、東京市水道鉄管納入で不正を働いた浜茂らの拘引に快哉を唱えている。

 

 私はこのことを我が家で随分昔に聞いたことを覚えている。三浦梧楼は捕らえられたが刑務所での待遇はよかったと。それというのも韓国がロシアと手を結びロシアが朝鮮半島へ出てきたら、日本としては死活問題になるからだ。三浦はこの事件後軍籍を離れたようだが、それまでも山縣有朋と意見が合わなかったようである。その後政界で隠然たる力を持っていたとある。

 

 彼の『観樹将軍回顧録』に、彼がまだ晋作の下に居た時、戦闘や訓練がない時は『資治通鑑』を静かに読んでいた。そこへ1人の粗暴な隊員が来て読書の邪魔をした。この隊員は何度も邪魔をするので、三浦は堪忍袋の緒が切れて、その隊員を切り殺し、自分も責任を取って切腹しようとしたら、高杉晋作が三浦の行為を是として許してくれたとある。三  浦をこのことがあって晋作に非常に恩を感じていたようである。 

 

 私は三浦がこのように学問にも目を向けていたことを知って、やはり名を成す人物は違うなと思った。彼が乃木大将より前に、若くして学習院の院長になったのも、明治天皇が三浦を認められて任命されたのだと思う。これも以前に書いたことだが、大山巌が団長、三浦梧楼が副団長となって、明治の初年にわが国の陸軍上層部が欧州の軍事視察に行ったとき、森鷗外が独逸に留学していた。鷗外は早速数人の上官に挨拶に行った。その時の印象を『獨逸日記』に次のように記している。

 

  明治十七年十月十九日。三浦中将の旅宿を訪ふ。色白く鬚少く、これと語るに、その口吻儒林中の人の如くなりき。われ橋本氏(筆者注:鷗外の直接の上司で軍医総監 橋本左内の弟)の語を告げて、制度上の事を知る機会或は少なからむといひしに、眼だにあらば、いかなる地位にありても、みらるるものとぞいはれぬ。

 

 三浦梧楼が「儒林中の人の如くなりき」と書き記されていることからも、彼は単なる軍人ではなくかなりの人物だったと思われる。私はこの言葉を知って中国の「竹林の七賢」と漱石の『草枕』に書かれてある王維の『竹里館』の詩を思い出した。ひょっとしたら漱石もこういった心境を夢見ていたのではないかと思う。

 

  独坐幽篁裏 弾琴復長嘯 深林人不知 明月来相照

 

 独り坐す幽篁の裏、弾琴また長嘯す。 深林人知らず。明月来たりて相照らす

 

  奥深い竹林の中の館にひとり坐って、琴を弾き、また声を長く引いて、心ゆくままに歌うたう。

 この深林の楽しみを人は知らず、名月が来て私を照らしているばかり。

               (目加田誠著『唐詩選』新釈漢文大系 明治書院より)

 

 実は三浦梧楼は私の曾祖母の従兄である。従って私の祖父にとって三浦は叔父にあたる。祖父は三浦に何度か会っていて、或る時この掛け軸を書いてもらったのだ、と私は父から聞いている。

 ついでにこの漢詩の意味を汲んでみよう。

 

  鬱陶しい雨が降り続いている。梅の実が今では時季を過ぎて中には地面に落ちて黄色くなっているのもある。しきりに蛙が鳴いているが友を呼んでいるのだろう。我が家には粗末な門があるが人里離れての 一軒家である。訪ねて来る人は殆どない。しかし家の周辺の松林や竹林だけがせめてもの隣人と云うところだ。

 

 話しをもとに戻そう。1週間ばかり前、雨がひどく降って青田も休耕田も水浸しになった。私は傘をさして田圃道を歩ていたら、それこそ蛙の大合唱だった。その後は日和続き。あれほどの数の蛙は一体どこへ行ったのか。1匹の姿さえ見かけない。これを思うと我が家に来てくれた蛙は有難い。何時までも如雨露の中にいてくれと思うのである。

 しかし夜になって如雨露の中を覗いてみたら、また姿をくらましていた。神出鬼没とまでは云わないが、まさに「蛙の忍者」だなと思い、私は勝手口の戸を閉めて寝室へと向かった。

 

 又一日が過ぎた。その日は終日姿を見せないなと思い、一体子蛙はどこへ行ったのかと不思議に思いながらも少し寂しく感じた。遂に彼は何処かへ行ってしまったのだろうと諦めて、勝手口の戸締りをしようと行ってみると、靴箱の上に置いてある小さな籠の縁にちょこんと座っているではないか。ああまだいてくれたのかと思い、「よう来たな。どこへ行っていたか」と話しかけ、9時になったのでもう1度勝手口の所へ行き、ちょっと外を見てみたらまた彼は姿を消していた。夜になって何処かねぐらを探して去ったのだろうと思って私は寝室へ向かった。

 

 そして一晩ぐっすり寝て今朝目が覚めたのは6時前。少し寝すぎたと思い、散歩に出かけようとして靴を履こうと思って靴箱に目をやると、驚いたことに、子蛙が2足ある靴の内の1つの靴の上にちょこんと座っていた。私はもう一方の靴を履いて出かけることにした。その時私は加賀の千代の「朝顔に釣瓶とられて」の句を思い出した。

 

 子蛙に散歩の靴を取られけり

 子蛙に靴を取られて思案かな

 出てみれば子蛙先に靴履けり

 靴の中ここで坐禅か青蛙

 子蛙よ今日の居場所か靴の中

 

 最期にこの駄文の題名について書いておこう。「転而不動」は「転じて動かず」と読める。意味は容易に分ると思うが、実は私はここに述べた蛙が、頻繁にではないが、転々と場所を変え、その新しい場所を見つけたら、しばらくは動くことなくじっと蹲っていることに感心したので、何時もそわそわしているわが身を顧みて、反省の気持ちでこの言葉を考えたのである。

 私はこの駄文を昨日の朝から書き始めた。休んでは書き足してやっと終えた。その間好きな本を数冊あれこれと少し読み、同時にネットでニュースなども見たりした。これからもわかるように私は1冊の本を最後まで読みとおして、次の本を手にするということがない。子蛙の様に終日じっと坐っておれない自分を顧みて忸怩たる思いである。

 

 もう少し蛙について書き足すと。今日は7月30日土曜日である。台風の接近で奄美地方や九州の南と四国にかけて大雨に見舞われたそうだが、一方関東から中国地域までは35度を超える猛暑日が続いている。さてこの蛙だが、夜になるとどこへ行くのか姿を見せなかったが、今朝私が散歩に出かけようとして見てみたら、ちょこんと靴箱の上にある籠の縁にこちらを向いてじっとしていた。朝の5時半だったから散歩には適した気温だった。それにしてもまたこうして来てくれたので私は嬉しかったので、「よく来てくれた」と言葉をかけて出かけたのである。この子蛙が果たしていつまでこうした行動を繰り返すか分からないが、出来るだけ長く来てくれるようにと願っている。まあしかしそろそろ「蛙談議』はこの辺で止めることにしよう。

 最期に、前述のとおり私はあれこれと好きな本を併読している。先ず毎日必ず1時間以上かけて読んでいる本は、大佛次郎著『天皇の世紀』全10巻(朝日新聞社)である。今「第7巻」の途中。

他の本はこれより短時間に少しづつ読む。

 

 トーマス・マン著『魔の山』これは電子書籍で夜寝床で読んでいる。

 上田閑照著『西田幾多郎とは誰か』(岩波書店) 

 オイゲン・へリゲル著 魚住孝至訳『弓と禅』(角川ソフィア文庫

 『陶淵明 中国詩人選集』(岩波書店)これは3回目

 中川新一著『東方的』(講談社学術文庫

 『日本人物の歴史 新政の演出』(小学館

 十川信介著『夏目漱石』(岩波新書

 長与善郎著『三絶』(講談社)等である。

 なお、『三絶』とは西田幾多郎鈴木大拙幸田露伴の三人で、いずれも長与氏が直接教えを受けて感銘を受けた偉人で、彼等は皆文化勲章を受章している。

                    2022.7・30 記す