yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

冬日偶感

 

二月も半ばになるというのに、荊妻は先月末からの風邪が完治しないので、代わりに行って呉れないかという。何処へ行くかといえば鍼灸院である。毎月第二火曜日に予約してあるから突然休むのは悪いと云う。私は以前両腕が突然上がらなくなったので鍼を打って貰ったことがある。結果が良かったので、あの時を思い出し、お安い御用だと云って早速出かけた。

 

事情を話すと何のわだかまりもなく、ベッドに仰向けの姿勢を取るように言われた。初めて会って一年以上になるが、先生はあの時の感じそのままであった。まさしく童顔そのもの、とてもこの鍼灸の技を長く施して来たようには見えないが、十年以上になると云う。この道にも毎年学会が開かれるので努めて参加し、新知識を習得すると云う研究熱心で、その為に結婚しても子供は作らないと奥さんに云ったと云うから半端ではない。したがって信頼に足る鍼灸士で評判がいい。

 

仰向けになって首筋から足先まで鍼と灸を、同じように今度はうつ伏になって施術してもらった。先生は何時もにこやかな笑顔を絶やさず、それに加えて実によくしゃべる人でもある。別に気にはならないし、聞いて居て役立つ事もある。たとえば、「わたしは開業以来一度も風邪を引いた事がありません。寒気(さむけ)がして身体がぞくぞくすると感じたら、肩甲骨と肩甲骨の間にカイロを貼ります。それから毎日「明治のR-1」を飲みます。市販のヤクルト、あれは殆ど効果がありません。直接家庭に配達される方ならまだ良いです。しかしこれはガンに効くと言われていて風邪の予防にはなりません。風邪の菌は熱に弱いので身体を暖かく保つのが肝心です。お医者で注射してもらってもそれは対処療法に過ぎなく根本的治療とは言えません」と、いささか我田引水的な話もする。

 

治療を終え、帰りに早速「明治R-1」をコープで買って帰った。

久しぶりに鍼灸を施行してもらって何だか気分が良い。私はこんな時、何気なくパソコンを開いて、何年前の今日はどうだったかと思って画面を見る事がある。パソコンにはその時その時撮った写真が何千枚と収録されてある。デジカメのお陰で、膨大な量の写真のみならず文書が収蔵出来て便利な世の中になったものだとつくづく思う。被写体としてはやはり孫が一番多い。生まれて後、我が家に来るたびにその成長の姿をカメラに撮ったからである。

 

さて、今日と同じ二月十三日に撮ったものはなかろうかとパソコンを見てみると、六年前の丁度同じ日のハワイの風景が出て来た。

 

時の経つのは早い。あれは家内の弟の長男が結婚式をハワイの教会ですると云うので、ハワイ観光も兼ねて出掛けたのである。たった六年前であるが、もう海外旅行はとても出来ないと家内は云うし、私も同様な気持ちである。

 

年を取ると歳月の流れは確かに早く感じられる。そして身体の老化、気力の減退を痛感する。僅か六年前であるが、あのときは未だ元気だった。収録してある写真を繰っていると、巨木の下で男女の児童が遊びに興じているのが目に入った。樹齢数百年、樹幹が三抱えも四抱えもある大きな樹、それに太くて長い枝が四方八方に伸び、鬱蒼と緑葉が茂り、それはさながら巨大な濃緑の傘の様である。それも柄が太くて短い巨大な笠で、燦々さんたる陽光を浴びて広々とした平地に点在しているから見事である。テレビで「この木何の木」と言って放映されたものに違いない。

 

自然の雄大な風景は眼を楽しませてくれる。この一本の巨木の木陰で、先に述べたように、可愛い兄妹の遊び戯れる情景を思い出した。この楽しい風景写真を二人の女性に転送してみた。早速返事が来た。それは対照的な返信だったので、一つの物事に対して人様ざまに心は動くものだと思い面白く感じた。

一人は次の様に書いている。

 

ハワイにこの様な広々とした、緑豊かな散策の場所があるのですね。感動いたしました。可愛い子供の姿もあり、何か映画のシーンを見ている様な素敵な映像でございますね。

最近先生からお送り頂きましたお写真を携帯電話の待受画面にも入れさせて頂き、毎日とても楽しみが増えました。(後略)

 

もう一人の所感は、

 

 ワイの巨木、素晴らしいですね。木の下で手を取り合って遊んでいる子供達の穏やかな雰囲気と相まって、手を拡げた様な枝と緑の葉との調和が見事です。地面に描く影が一層形態を引き締めていると思います。芸術的作品だと感心しています。

 

 さすがにこの女性は絵心があるのでこう言った表現だが、ここまでは両者ほぼ似たような感想だと思う。後者の言葉はさらに続く。

 

 我々も17年前、ハワイ旅行をした時の写真を取り出し、懐かしみました。夕陽の沈む海、船からのホエールウヲチング、フラの鑑賞、コナコーヒ農園での買い物、ホテルでの数々等、思い出に浸りました。二人共若かったです。写真を見ると海外旅行に20数回出掛けています。楽しい人生でした。有難い事です。これからも、楽しい毎日を送りたいと思います。

 

 送った写真から、却って自分たち夫婦の楽しかった思い出を聞かされた感じで、折角のこちらの気持ちが何だか薄らいだように思えた。こうした反応は特に女性にはよくあることで、「私もそれを見たよ。そこへは行ったこともあるわよ」と口にする人によく出会う。男性にしても同じかもしれない。これは別に悪気ではないが多くの人にありがちな、自分でも気が付かない「見せびらかし」とでもいう、一種の自己顕示欲、あるいは負けず嫌いの現れの様な気がしないでもない。

 

十七年前と云っても、彼女は当時すでにかなりの年齢。今なお健在だから驚くが、この気持ちの若さが元気、健康の基かも知れないとも思った。

 

世の中には生まれた地で育ち、結婚しそしてその地で死を迎える人もいる。彼是十年ばかり前のことであるが、医者であった伯父の事を調べるために、日本海岸の宇田郷村(現在の山口県阿武郡宇田)へ行った時、二人の老婆に出会った。彼女たちは野良仕事を終えて帰る途中だった。一人がこう云った。

 

「私はのんた、小学校のとき、草刈り鎌で薬指を切って、緒方先生に指を縫うてもらいましたいの。痛くて涙がでましたが、先生が痛くても泣くなよ、治ったら金魚を買ってやるから、と言われましたいの。先生は大柄の人で優しい立派な御方でした。私はそれから小学校だけは出ましたが、ここの村の者と結婚しまして今八十を過ぎました。主人は戦争で死にましたが、私はこれまで一度も村の外へ出たことがございません。」

 

こうした生涯を送る者もおる。海外旅行を二十数回したという女性とは何と運命の違いかと思わずにはおれない。

 

先に感想文を紹介した方の女性は、私より丁度二十歳若い。彼女の母親は若くして離婚、彼女と姉娘を女手一人で育て、姉の方は結婚して別居、妹の彼女の方が結婚後も母親の面倒を見ていた。彼女の主人が定年前に亡くなったので母と幼い娘を連れて広島から山口に移って暮らし始めた。そのうち母親が病気になり、病院を転々と変わりながら入院を続け、その間彼女は毎日介護に当たっていた。入院生活は数年に及んだが、一日として介護を欠かしたことがないという。実に親孝行な人だと感心している。そうして数年前に母は八十四歳で息を引き取った。彼女は恐らく海外旅行の機会はあったにしても乏しかったであろう。

 何故こうしたことを詳述したかというと、人生には不思議な縁があると感じるからである。

 実はこの母親は私が故郷の萩にいたとき、小学校へ上がる前、よく遊んでくれていた。我が家のまん前に彼女の家があって、私たちはしばしば往ったり来たりして遊んでいたのである。小学校に入ると「男女七歳にして席を同じうせず」の訓を守り、殆ど見かけることもなく、言葉を交わさなくなった。もっとも彼女は私より四歳ばかり上だった点もある。

 

 ところが私が就職して宇部にいた時偶然出会った。それからまた何年かたって広島で再会した。その時、先に述べたような事、つまり娘さんの主人の亡くなる前だったと思う。そのため娘さんの主人が勤務していた銀行の社宅を立ち退かなければならず、彼女一家は山口に居を移したので、我々はまた昔の交際を再会した様な次第である。彼女にはすでに結婚して子供もいる長男夫婦がいるが、随分と年が離れて出来た娘さんがいて、この女の子は大学受験を目の前にして頑張っている。塾に通うゆとりもないが国立大学を目指している様だから、私としては陰ながら健闘を祈っている。

 以上の様ようないきさつで、同じ一枚の写真を見ても、この二人の女性の場合、それまでの環境や体験から、受け取り方は対蹠的だと言える。

 

 最後にもう少し別の面から一つの事に対しての人間の対処の仕方を見てみよう。

 私は正月以来森鴎外に関する本を読むことにして居る。これは高橋義孝氏の論評である。

 題名は『ヴィタとプシヒェ、或は鴎外と漱石』である。

 

 森鴎外夏目漱石とに共通であったものがたった一つある、クサンチッペである。それ以外の点では、両家は全く対蹠的であった。

 

 書き出しが人の意表を突いて面白い。クサンチッペとは悪妻で有名なソクラテスの妻である。私が取りあげて見ようと思うのは、鴎外と漱石の博士問題に関する態度である。高橋氏はこう書いている。少し長いが引用してみる。

 

 執中興が深いのは、博士號授受の問題である。明治四十一年七月五日、鷗外は日記にこう誌してゐる。「新聞紙予文學博士たるべしと傳ふ。井上通泰賀状を寄す。」翌六日にはかうある。「博士會の書記瀬戸虎記といふもの族籍位階勲等功級を問ひおこす。直ちに答へ遣る。」さて我々はこの「直ちに」に注意しなければならぬ。なぜなら戸籍抄本めいた鷗外の日記文章の中では、一箇の「直ちに」は決してありふれた「直ちに」ではないからである。そこには殆ど「待ってゐた」といわぬばかりの気配が感ぜられる。鴎外はこの三文字に「平素実力を養って置いて、折もあったら立身出世をしようといふ志」の傳ってゐた森家の子であることをはっきりと証拠立ててゐる。漱石の博士號拒絶にも、一種の「待ってゐた」の気配がある。

 

 なぜなら漱石は、まだ博士になるともならぬとも解らぬうちから、英国留学中の一書簡にかういふことを書いている。「先達御梅さんの手紙には博士になって早く御帰りなさいとあった博士になるとはだれが申した博士なんかは馬鹿々々敷博士なんかを難有る様ではだめだ御前はおれの女房だから其位な見識は持って居らなくてはいけないよ。」(中略)

「先達晩翠が年始状をよこしてまだ教授にならんか云ふから『人間も教授や博士を名誉と思ふ様では駄目だね。(中略)漱石は乞食になっても漱石だ・・・』(明治三十九年)、「百年の後の博士は土と化し千の教授も泥と変ずべし。余は吾文を以って百代の後に傳へんと欲する野心家なり。」(明治三十九年)又、『虞美人艸』には、「―人の娘は玩具ぢやないぜ。博士の称號と小夜と引替にされて堪るものか。考えてみるがいい。如何なる貧乏人の娘でも活物だよ。私から云ヘば大事な娘だ。人一人殺して博士になる気かと小野に聞いてくれ。」とある。いづれ漱石に博士問題の起こった明治四十四年以前の言葉であるから、漱石がどれほど博士號授与を待ち構ヘてゐたか―鴎外とは正反対の意味で待ち焦れてゐたかが解る。文部省の學位記を受けた彼は、心中に「待ってゐた」と叫んだに相違ない。これは鴎外と同断であったであらう。ただその後表裏相反するのである。公人と私人と、それぞれ面目躍如たるものがある。

 

 長々と引用したが、一つの事実を表面的に見るだけではなく、その深層にまで探求の眼光を照らす事はなかなか容易ではない。高橋氏の見解も一つの見方として面白い。

 今、アメリカでは新大統領トランプが登場し、政治評論家がさまざまな予想を立て、臆惻を恣(ほしいまま)にしている感がある。視聴者としてはいずれを選ぶか難しい時代になった。

 

                       2017年2月16日