日随感
今日も朝早く三時に目が覚める。トイレに行き安楽椅子に腰をおろして昨夜から読み続きの『パスカルのパンセ抄』(飛鳥新書)を手にとってみる。肯綮に中る寸鉄人を殺すような文句が幾らでも出てくる。一例をあげると、
人から、あの人は数学者であるとか説教家であるとか雄弁家であるとか言われるようではいけない。むしろ、あの人はオネットム(まっとうな人間)と言われるようでなければならない。わたしが欲しいと思うには、この普遍的な美質だけだ。もし、ある人を見て、その人の著作を思いだすようでは、それは悪い徴候である。(断章35)
まっとうな人間になるのは難しい。こんなのを「素心の人」とでも云うのだろうか。あるいは、「無位の真人」とでもいうのだろうか。もう一例あげて見よう。
好奇心とは、じつは虚栄心にほかならない。たいていの場合、人が何かを知りたいと思うのは、あとでそのことを誰かに話したいと感じているからなのだ。さもなければ、人は航海などしないだろう。もし、それについて何も話さず、ただ見るという楽しみだけで満足し、そのことを人に伝えるという希望がまったくないのだったとしたら。(断章151)
痛い処を突かれた感じだ。
一時間ばかり読み、すこし眠気が生じたので消灯してベッドに臥す。再度目覚めて時計をみると丁度六時。洗顔の後机について何時ものように『北條霞亭』を七時まで読む。「楠公墓は摂津國武庫郡坂本村(今神戸市)」とあった。霞亭が神邊(今福山市)から故郷の伊勢に帰省したのは安政四年二月のことである。途中楠公の墓に詣でたのであろう。試みに年表を見ると、私の曽祖父は安政五年(1822)に生まれている。
今日は讀書が捗らない。階下して神仏を拝む。仏前の香炉に線香の残滓がたまったので灰をきれいにしようと思う。先ず灰を金網の器に移して線香の残滓だけ捨て、今度は普通の容器に入れ替えて少量の水を注ぐ。水を注ぎ過ぎるとベトベトになり、灰を足さなければならなくなる。少なすぎてもいけない。丁度適量の僅かの水を入れて混ぜ、再び金網の器でよく濾して香炉に入れるのである。たったこれだけの事でも神経を使う。
もう三十年以上前になるが、父が正月の初釜の茶事に際し、炉の灰を取り出して霧吹きで適当に湿らしていたのを思い出す。今から思うとかなり気を使って行っていたのだろう。
またいつものように、玄関を出て軽く体操をし、庭の地蔵様を拝む。胡瓜の成育が早い。今日もまた大きいのが三本ぶら下がっていた。これをもぎ取り隣の奥さんにあげることにした。「この前頂いたのは美味しかったです」と言われたので、貰って頂き嬉しかった。この隣人の家と我が家の間にちょっとした広場がある。子供たちの遊び場になっていて、ボールがよく我が家の庭に入る。そのたびに玄関のベルを鳴らして「ボールが中に入ったので取っていいでしょうか」と言う。
近所の子供の躾は実に良い。中にはまたベルを鳴らして「有りました。有難うございました」と云うのもいる。近頃中国籍の艦船がわが国の排他的水域内に侵入し、傍若無人の振る舞いを恣にしていることを思い出す。
ところで、ふと見るとこの遊び場に青草が一面に繁っている。これまでは見てもそのままにしていたが、今日は子供たちのためにもと思い、除草をする気になった。家内は今日四時に帰ると電話したので、どうせ朝食は一人。食事は一仕事した後にしようと思い、手袋をはめて草取りに取りかかった。思ったより草の根が地面にしっかりと張っているので、容易に抜けないいので、引き返して鍬を持って来て除草を再開した。こうしてもなかなか「やねこい」雑草である。三十分ばかり汗を流した後、一まず止めることにした。全体の五分の一程度の除草だ。また、明朝でもやることにする。ふと見る数匹の蚊が両脛にとまっている。叩いたら血がにじんだ。痩せた脛から血を吸うのに苦労しただろうと苦笑い。私は若い時夏ミカン畑で蚊や蚋と戦ったので免疫が出来ているのか殆ど影響を受けない。全く痒くも痛くもない。
家に入り直ぐシャワーで汗を流した。其の後食事にしたが、当分の間じわじわと汗がふき出た。食後新聞を見ると日野原重明氏が105歳で亡くなられた記事が載っていた。氏の講演を一度山口で聴いた事があるが、其時は100歳前だったと思う。非常に元気で数年後のスケジュールまで詰まって居る。来年はジョン万次郎の記念祭とかでアメリカへ行くとか何とか云って居られた。新聞には山口市出身とあったが、たしか萩市出身だったと思う。女優の田中絹代も下関市出身と言われているが、聞くところによると幼い時に萩から下関に連れて行かれたそうだ。当時の事を知っているという老人がそう話したと、また聞きした覚えがある。こんなことは別に大したことではないが事実は案外伝わらないものだ。
平成二十九年七月十九日 記