yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

雷電と天神

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 令和4年1月23日(日) 朝からしとしとと氷雨が降る。『風響樹』の合評会を我が家で行うので、7時に起きて居間を片付けた。昼過ぎ1時前、3人の同人が雨の中に見えた。早速冊子の出版費を各自執筆したページ数に応じて支払う。今回は私が一番多く書いたので多額の支払いとなった。まあ病気になったりパチンコや競輪・競馬などの投機的なことで散財することに比すれば良いだろう。

 

 各自の作品について当たり障りのない批評を行い、次期原稿の締め切りを6月末として散会となる。私の作品『梅薫る』に小見出しを付けたほうがよいとの意見に賛成する。丁度3時になり、彼らはまだ小雨の降り続く中を帰っていった。この間有難いことにヘルペスの痛みは感じなかった。

 

 締切日のことを萩の小松氏に電話し、次号にもぜひ執筆されるようにと頼む。私が昭和19年に県立萩中学校に入った時、彼は2年上級だったことを後で知ったが、小松氏も先年奥さんにに先立たれて独居生活。自転車で毎日買い物に出かける事が健康維持に繋がると話していた。私にとって見習うべき良き先輩である。

 

 そうこうするうちに5時前になった。今日は大相撲千秋楽。最後の取り組みで御嶽海が照ノ富士を破れば3回目の優勝ということだが、勝負は割と簡単についた。照ノ富士の体調が良くないのが幸してか御嶽海は賜杯を手にし、同時に大関昇進も決まった。御嶽海は長野県出身で、長野県出身の力士と云えば、古今を通じての名力士・雷電為右衛門がいる。10数年前、長野を訪ねたとき、高原の一本道に面した一軒の売店で、大きな餡と野菜の入った餅を食べたのを覚えている。店の傍らに雷電の等身大の銅像が立っていて、その筋骨隆々としたまわしを付けた姿に、思わず見入ったのを思い出した。ネットを見ると実に詳しく彼の事が載っていた。

 

 雷電為右衛門は明和4年(1767)に生まれ、文政8年(1825)に亡くなっている。信濃国小県郡大石村(現・長野県東御市大石)出身で、現役生活21年、江戸本場所在籍36場所(大関在位27場所)で通算黒星が僅か10個、勝率962の大相撲史上未曽有の最強力士とあった。横綱制度確立以前だから、彼が横綱の免許がないとのことである。御嶽海の大関昇進で同郷の大力士雷電の事を人は思い出すだろう。長野県の人にとっては歓びに耐えないことと思う。

 

 テレビ観戦を終え夕食をすませて、まだあまり力の入らない右下半身を温めようと、入浴して9時前に床に入った。その前に長男とその嫁から安否を気遣う電話が入ったが、今の所徐々に快方に向かっているし、またコロナ感染が増加の一途をたどっているので、心配無用、当分来なくてもいいと電話した。こうして気にかけてくれるのは有難い。

 

 早く床についたためか、夜中の2時に眼が覚めた。その後はなかなか寝付けない。何かしら歌でも詠んでみようかと思い、明かりをつけて雑記帳に鉛筆で数首、ミミズの這うたような字で書きつけた。

 

 翌朝7時に目が覚めたので、夜中に詠んだ歌を思い出そうとしたがどうも正確には思い出せない。書きつけた雑記帳を見てこんな歌だったかと思い出すことができた。次の10首余りの歌である。

 

 

  夜空には姿はなくもその光なお輝ける星あまたあり

 

  願わくば死したる後も消え失せで光り輝く星のごとくに

 

  歴史上清き光と輝ける偉人はこれぞ星と讃えん

 

  ひさかたの夜空の星を仰ぎ見て心の清く覚えたるかな

 

  澄み渡る夜空の星の輝きの失せし原因科学にぞあり

 

  人類に幸せもたらす道のみぞ科学の道と我思うなり

 

  金権や独裁政治に加担する科学の歩み邪道なり

 

  唐突に死は来るものと覚悟せよ人の命の儚きものぞ

 

  長々と病の床の臥すよりは苦痛少なく死にたきものぞ

 

  我が家にて眠るがごとく死せるなら我が一生は幸いなりき

 

  この世にて無数の人と結ばれし縁(えにし)の不思議またして想う

 

  世の中に不思議な事の多かりき中でも目立つは人との出会い

 

  共稼ぎお陰で我ら爺婆(じじばば)は孫子(まごこ)と遊ぶ至福の時を

 

                    

 朝起きて以上のようなつまらん歌を書きつけていたのを知る。漱石に『夢十夜』という小品がある。彼は夢に見たのを朝起きて思い出して書いたのか、それとも夢見て直ぐ夜中に概略書いていたのか。その真相は分からないが、十日も続けてこのような佳品を書くとはさすがだとつくづく思った。その中に仁王像を大木の中から彫りだす事を書いたものがある。私は雷電の筋骨たくましい裸像を思い出してその作品を読み返してみた。

 

  運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいるという評判だから行ってみると、「あの鑿と槌の使い方を見給え。大自在の妙境に達している」と見物人の一人が言う。

  運慶は今太い眉を一寸の高さに横へ彫り抜いて、鑿の歯を縦に返すや否や斜に、上から槌を打ち下した。堅い木を一と刻み削って、厚い木屑が槌の声に応じて飛んだと思ったら、小鼻のおっ開いた怒りの側面が忽ち浮き上がって来た。その刀の入れ方がいかにも無遠慮であった。そうして少しも疑念を挟んで居らんように見えた。

 

 私はここまで読んで、かってイタリアの古都フィレンツェを訪ねた時、市街地を見下ろすように、高台に立っているミケランジェロ作の偉大なる彫塑「ダビデの像」を思い出した。これは実物と同じ大きさに作ったもので、本物は美術館に保存されているというが、台座から像の先端までは優に7・8メートルに達するほどの巨大なものであった。ミケランジェロは4メートルもの大理石の石塊を山から掘り出し、仕事場に持ち運んで、それこそ鑿一本であの人類史上最高の傑作を彫り出したと言われている。私はミケランジェロに匹敵するのが木彫りの天才運慶だと思う。洋の東西を問わず、天才にはこのように彫り出すべき実態が木や石の中に見えるのであろう。

 

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 『暮らしの365日 生活歳時記』(三宝出版)という本を私は昭和55年に購入し、爾来愛読している。初版は昭和53年で、55年には19刷印刷・発行とあるからよく売れたものだと思う。定価が3500円とあるから当時としてはかなり高価である。しかし小百科事典ともいうべきもので、年間を通して、毎日次のようなことが要領よく記載してある。「今日の言葉」の項には古今東西の有名人の言葉が、「今日の歳時記」には文字通り自然・人事百般の事が、他に「今日のこよみ」、「今日のできごと」、「食べものの四季報」、「暮らしのヒント」、「物知りコーナー」、「手作り生活の知恵」、そして最後に「日本の祭り」と、実に生活の全分野にわたっての教えともいうべき事が、日繰りのカレンダー形式で、1148ページのこの分厚い本の中に満載・凝縮されている。

 

 どのページを開いても目新しい知識を与えられるので、私は先にも述べたように重宝している。今日は1月25日。ここを開けたら「今日の言葉」に「道ということ」と題して司馬遷の『史記列伝』から引用してあった。

 

  法令は人民を指導する理念である。刑罰は悪事を禁止するための強制力である。理念と力が完全にそなわなければ、良民は不安を感ずるであろう。しかし、人格をみがきあげた人ならば、官職についてけっして 乱れることはないのである。職務を守り、道理に循って行動するだけでも、民政をうまく行うことはできる。力ずくできびしくおさえることは、必ずしも必要ではないのである。

 

 また「ますぐなものの極致は、曲っているごとくに見える。「道」という第一原理はほんらいうねうねとしたものである」といった老子の言葉も載っていた。

 

 今現在、自由民主主義陣営と共産独裁政治陣営とひどく争っている、いずれの側の指導者も人格的に立派だとは言えないのではなかろうか。したがって国民は不安を感じている。両陣営に人格の優れた本当に優れた指導者が出ることを願わずにはおれない。しかし当分望みは持てそうにない。人間は本来が我欲の塊で、自分さえよければと思うものだから。この『歳時記』の1月25日の「今日のこよみ」の欄に【天神様とは】といって次のように書いてあった。

 

  天神とは本来天変地異を支配する神が天神であり、雷電鳴動はその神威である。非業の死をとげた人の怨霊が天に響いて雷電を起こすと考えられ、この天神と御霊神が結びついたわけである。

 

  さて菅原道真左大臣藤原時平のねたみを受けて太宰権師に左遷され九州でわびしく没したのだが、ところがまもなく京都で雷電そのほか天変地異がしきりに起こった。人々は道真公のたたりであるといって恐れ、朝廷も慰霊に力を尽くした。以後、天神は道真に独占されて、道真が生前すぐれた学者であったところから、天神はいつしか文道の大祖として祭られるようになった。また道真の命日である二月二五日を主として、毎月二五日参詣が行われる。

 

 我が家の神棚に昔から二重箱の入った掛け軸が安置してある。それはずいぶん古いもので、桐の外箱の中に黒塗りの中箱があり、その箱の蓋に梅の枝花が金泥で見事に描かれてある。その中に掛け軸があり、「南無天満大自在天神」の文字が一行だけ書いてあって、なかなか雄渾な筆跡である。

 

 掛け軸と一緒に「極札」と書かれた小さな紙が包んであって、これには「尊圓親王天満宮神号」と書いた紙があり、その中に細い字で「大乗院宮尊圓親王」と書いた「極札」が包んであった。

 

 さて尊圓親王とは一体どのような人物であろうか。平成8年4月7日(日曜日)の『読売新聞』に梅原猛氏が『地霊鎮魂 京都もののかたり」という文を寄稿してる。それを読むと次のように書いてある。

 

 「最高の門跡寺院」関白・藤原師(もろ)実(ざね)の子・行玄(ぎょうげん)に始まり、慈円によって確立された最高の門跡寺院としての青蓮院の権威は、院政期から幕末に至るまでなお保たれていた。この代々の青蓮院の門主の中で、特に私が興味を持つ人間が二人いる。

 

 一人は伏見天皇(在位1287~1298)の第五皇子青蓮院の尊円(そんえん)入道親王(1298~1356)である。尊円親王は何よりも書道・青蓮院流の祖として有名である。父・伏見天皇も書が巧みであったが、世尊寺(せそんじ)行尹(ゆきただ)に学んだ彼は父を超える書の名人であり、父の「伝えて家の流れとせよ」という命令によって、この青蓮院流は御家流(おいえりゅう)とも称せられた。現青蓮院門主東伏見慈洽(じごう)師から聞いたところによれば、尊円親王の書体が父・伏見天皇と違うのは、彼が慈円の書体を受け継いでいるからであるという。尊円は慈円の『拾玉集』の編者でもあり、彼はこの青蓮院門跡の権威を確立した慈円という僧をよほど厚く尊敬していたのであろう。(以下略)

 

 私は思うに、曽祖父、俗名・梅屋七兵衛が天神様を尊崇していたので、ひょっとしたらこの掛け軸を大阪に出ていた時、手に入れたのではなかろうかと。それより前かもしれないが、金襴表装の二重箱入りだから、代々伝わっているこの軸を、私は尊圓親王の直筆だと思っている。

 

 なお、「南無天満大自在天神」の文字の中に、先に引用した漱石の『夢十夜』の中に書いてある「あの鑿と槌の使い方を見給え。大自在の妙境に達している。」を思い出し、「大自在」という言葉を辞書で引いてみた。

 

  【大自在天】 ヒンズー教シヴァ神の異名で、万物創造の最高神。仏教に入って護法神となる。

         自在天のこと。

 

 漱石の用いたのは「自由自在」ということで、思いのままにする意味で、「大自在」とは違うのだと知った。 

 

 ついでに『歳時記』から拾った知識。1月25日は「法然上人忌」ということである。我が家は法然の開いた浄土宗を信仰していて、私は朝晩仏前で上人の『一枚起請文』を唱えている。この起請文の最後に「建暦二年正月二十三日 大師在御判」とあるから、法然はこの起請文を書いて二日後に亡くなったのである。                              

                      2022・1・25 記す