yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

無私と無心

父が残してくれた本が我が家に『茶道全集』以外に20冊ばかりある。蔵書と言える數では決してない。その中に『大日本讀本』という国語の教科書がある。厚紙で出来た帙に収めてある。私が愛読しているもので、これは昭和6年6月に冨山房から発行されている。今私が読んでいるのは「昭和十年十月十六日新制第二刷訂正発行」とある。全部で10巻あり、巻1から巻4までが60銭、巻5から巻10までが55銭の価格となっている。今から約90年昔の物価がこれでほぼ見当がつく。和綴じの手に持って感じのいい装丁である。

 

 この教科書をざっと読むと、戦前の教育がどの様なものであったかが推察できる。昭和7年に生れた私にはやはり懐かしいものに思われる。というのも戦いに負けたわが国は、戦後GHQの施策により、ちゃぶ台をひっくり返したように、戦前の我が国の思想を全部抹殺して、左翼的な思想が主流を占め、伝統のある日本精神をすべて悪しきものとして打ち消した。そして自由平等という名のもとに、礼節とか謙譲の美徳、親兄弟の和合といったものまで否定して、家族制度の崩壊さえ憚らぬといったことにまでになった。これは人間として決していいこととは思われない。GHQはそれほどまでに日本の長き良き伝統を恐れたのである。

 

 『教育勅語』に書かれている全てが良いとは言わないが、あの中には人間としていかに生きるべきかを教える内容が多く盛られている。このような事を言ったり書いたりすると、右翼だというレッテルを貼られるが、凡ての人類が平等で平和な生活をという共産主義が、実際は独裁的権力者による弾圧的な政治と言っても過言ではない現状を見ると、そのように思わずにはおれない。考えてみると、人類と雖も知力だけ異常に発達した動物だから、相手をやっつけ、権力を手に入れたいというのは、人間も動物と同じく、本能のどうしようもない悪しき性かと思う。

 

 前置きが長くなったが、『大日本讀本』に話を戻そう。私は普通夜9時前後になると眠気を催して床に就く、昨夜も風呂から上がってまだ9時前だったが床に入った。亡くなった家内は寝つきが悪くて、夜中の1時過ぎてもなかなか寝れないと言っていたが、私は枕元の本を手に取ってみてもそれに読みふけるということは全くない。ものの5分もすると電気スタンドの灯を消してそのまま寝入ってしまう。ところがこのように早く寝ると夜中にトイレに起きることがよくある。昨夜も夜中に目が覚めた。時計を見るとまだ2時半だった。こうして夜分に起きたらすぐには寝られない。仕方がないので手元の本をいつも読むことにする。そのとき読んだのが昨夜は先に挙げた読本の「巻一」である。

 

 ここまで書いて気分転換に散歩に出かけた。11時過ぎだった。麗らかな春の陽射しを受けて桜が満開なので、いつもとは違ったコースをと思い、吉敷川の川辺を歩くことにした。途中車の通れない小径に沿った幅1メートルばかりの溝川に、澄み切った水がさらさらと流れていて、そこに薄桃色の小さな桜の花びらが次から次へと浮かび流れていた。吉敷川の両岸に道があるが、私が到達したこちら側の道は車が通れるが、向こう側は人が歩けるだけの小道である。そこに桜並木があって今が一番華やかで美しい。私は車道から水の流れる方へと、川土手の石段を下りて行った。そこは川の流れに沿って6から7メートル幅の平坦な草地がある。そこからもう少し降りたところを普通は水が流れている。実際の水の流れはわずか5メートばかりの細い流れである。水深なんて言えたものではない。浅い川底は大小の角のとれた白っぽい石を敷き詰めたようである。上流には大きな岩盤が川底を形成している。対岸に行くのはちょっと脛を濡らしただけで簡単に可能である。しかし大雨が降ると草地にまで水が溢れて、20メートルばかりの川幅となる。昨年大雨の後行ってみたら轟轟と音を立てて水が激しく流れていた。流れの向こう側にも同じような平坦な草地がある。そこに親子連れだろう10数人が、花見の弁当を広げているのが目に入った。このようなのどかで家族団欒といった風景を見ると、つくづく平和の有難さを感じる。このように思うのも、今この地球上でロシアによるウクライナへの侵攻が行われ、残虐な戦闘が行われているからである。

 

 黄色い菜の花が所々に咲いていたので、対岸の桜並木を背景にスマホを取り出して写真を数枚撮った。夕方近くになるとここから見える風景は、まさに「山紫水明」と言える素晴らしい場所である。少し上流に向かって歩き、また斜面を登って車道に出てもう少し歩を進めた。小さな橋が架かっている。この橋は蛍橋と言ってその季節には蛍の乱舞が見られるのだろう。橋の上からさらに上流を見ると、両岸に桜並木が目に入ったので、中々美しいのでこれもカメラに撮った。この橋を渡って今度は対岸の小径を下流へと歩くことにした。道の左右に名も知らない草花が咲いていて目を楽しませてくれた。そのうち先ほど川向うに見えた桜並木に差し掛かった。ふと川面を見たら、2羽の鴨が仲良く遊んでいる。これも良き景色になると思ってカメラを向けた。

 

 こうして昼前の散歩を楽しんで帰途に就いた。我が家の直ぐそばに小公園がある。まだあどけない幼い子が若い母親に手を引かれて公園内をよちよちと歩いていた。これより少し年長のまだ小学に入らない子供たちも無心に遊んでいた。春ののどかな風景だった。こうして我が家に着いたのは12時15分過ぎだった。約1時間、散策を楽しんだことになる。

 

 萩商業高校に勤めていた時、入学式が終わって、同僚と一緒に指月神社の境内で、桜の花を見ながら盃を傾けたことを思い出す。もうあれから40年近くなる。その後花見をした覚えはない。山口に来ても桜の花の下を歩いたことは何度もあるが、弁当を広げて「花より団子」といったことはしていない。先ほどの親子の楽しそうな様子を見て、彼等の幸せを私自身の幸せと感じた。

 

 話をもとに戻そう。夜中に寝床で見た中に「御勉学時代の今上陛下」という文章があった。散歩から帰って、これをあらためて読んでみた。著者は二荒(ふたら)芳徳(よしのり)という人物である。この人は伯爵、貴族院議員、少年団日本連盟理事長、東京市の人、明治16年生まれである。人物的にはしっかりした人だと思われる。今上天皇と言えば昭和天皇の事だが、天皇学習院時代と初等科卒業後、東宮御所での日常の事や勉学の様子が書かれてあった。その一部を書き写してみよう。

 

  當時の御日常を拝しますれば、午前六時に御起床になりまして、直ちに御洗面の上、更に浄水をもって御手洗を遊ばされ、御拝の間に入らせられましてまず伊勢神宮をはじめ奉り、宮城なる明治天皇昭憲皇太后に御遥拝を遊ばされ、更に御両親陛下に御拝の後、御朝餐をおとりになりまして、規則通りの御日課をお修めになるのでありました。夜分は午後八時頃には御寝になったのであります。

 

  御学業に就いては、すべての科目に御熱心であらせられましたが、わけて博物には御興味をおもち遊ばしまして、魚介・鳥獣・草木・鉱物などを御採集になり、これを一々御みづから御分類・御整理遊ばされました。

 

  学校で御習得の漢字なども字画正しく御記憶になり、そしてまたよくこれを御使用になりました。

 

  御日記は御幼少の頃から御始めになって、興味ある出来事は常にお書きとめになっていらせられましたが、大正三年頃からは、日々規則正しく御記入遊ばされ、今なお御継続になっていらせられるやに拝聴いたします。

 

  学習院時代には乃木大将に、御学問所時代には東郷元帥に御傅育をお受け遊ばしたのであります。明治時代  の日本が、国を賭して戦った日露戦役に、幾萬の忠烈な同胞を率ゐて決戦の衝に當り、国家興廃の一大事を己が双肩に擔って、全日本国民の信頼を一身に集めたこの両大将が、身命をささげて夢寐の間も兢兢として皇儲の教育に盡された苦心は、我々国民の一員として最も深い感銘を覚えるのであります。

 

  以上の文章を読むと、昭和天皇は若くして優れた人物の指導の下で、真面目に勉学に勤しんでおられたことがわかる。それにしても尊敬語で書かれたこのような文章は、今の若い人には違和感を覚えるのではなかろうか。最期に次の文章があったので、私の興味を引いた。

 

  杉浦重剛氏が或日、「殿下の御愛誦の章句は何でございますか。」とお尋ね申し上げましたところ、陛下は即座に「『禮記』の『日月、私照なし。』であります。」と仰せられたとの御事であります。

 

 私はこの孔子の言葉を今初めて目にした。そこで調べてみたら詳しく説明してあって実に良い言葉だと思った。流石に昭和天皇座右の銘にされたのだと感心した。ネットに以下のように書いてある。

 

 『日月無私照』(じつげつにししょうなし)とは、『天無私覆、地無私載、日月無私照 奉斯三者、以労天下 此之謂三無私』の中にある孔子の言葉で、意味は天は選り好みせずに地上の全てを覆い、大地は選り好みせずに地上の全てを載せ、太陽と月は私心に偏ることなく地上の全てに光を降り注ぐ。

 この三つを大切にし、宇宙に存在する全てのものを労り、全てを大切に思う。これを『三つの無私』というそうです。

 『日月無私照』 太陽や月が、私心に偏ることなく全てのものに光を届けるように全てのものは、この世に中において同じ恩恵を受ける定めにある。

 

 このようになかなか含蓄のある言葉だと知った。無私とは、私心つまり利己心に対する言葉である。つい最近『斎藤成也 佐々木閑 生物学者と仏教学者 七つの対論』という本を家内の従弟に勧められて讀んだ。およそ理科的な素養のない私にはなかなか理解できかねる点があったが、生物学がこれほどにまで進歩しているのかと驚くばかりだった。此処には無私をさらに徹底させた心の状態である無心の事が検討されている。無私とは私利私欲のないこと。「公平無私」といった言葉がある。一方無心は心に雑念や邪念のない妄念を離れた状態である。

 

 これも最近読んだ本だが、1924年に東北帝国大学講師として来日した哲学者オイゲン・へリゲルが、1929年に帰国するまでの間に、当時わが国で最高の弓道師範阿波研造弓道の教えを受ける。その時の師範の指導の下に彼が到達した弓道の精神をつぶさに紹介した名著『弓と禅』の新訳が、『角川ソフィア文庫』から出ていると知って買って読んでみた。これを読むと驚くことに、弓は無心で引かなくてはいけない。矢は自然に弦を離れなければいけない。的は決して狙ってはいけないとある。これは容易に到達できることではない。しかしへリゲルは真剣に稽古してその域に達している。すなわち無心に弓を引く事が出来たのである。私も停年退職して数年間弓道教室に通ったが、到底こういったことは出来なかった。

 

 今や4年に1度開かれるオリンピックの祭典は、勝ち負けの心で争われ、さらに言えば金儲けの場になっていて、健全なスポーツでは決してない。選手は相手に勝ち、記録を伸ばそうという点では有心と言えるがこれは別に悪いことではない。当然の心掛けでる。しかしこれが金銭に結び付くと邪道になる。この点を考えると、我が国の伝統的な武道では弓道と剣道がやや面目を保っているといえよう。これはいわゆるスポーツではないからである。もう少し書いてみる。以下は先に挙げた生物学者の言葉である。

 

  こころなき 身にも

  あはれは 知られけり

  しぎたつ澤の 秋の夕ぐれ

 

 この西行の歌にはいろいろな解釈があるが、人間にはこころがないのだと、素直に読んでいいのではないかと思うこのごろである。まだ解明されていないが、脳神経系の玄妙な働きによって、私たちは自分にこころがあるのだと、錯覚しているだけなのかもしれないのだから。

 

 以上のように生物学者は言っていた。科学が益々進歩したら心など人間は考えなくなるようになるだろうか。

                     2022・4・4  記す