yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

 昭和七年(1932)十一月七日は実母の祥月命日である。母は明治四十年(1907)二月二十日に生まれている。私を産んで九ヶ月後に亡くなった。二十五歳の若さだった。母が亡くなる前に、「孝夫をよろしく頼みます」と、父の妹である私の叔母に云った、と叔母から聞いた。母の心中は察するに余りあるものがある。

 

私は生まれたとき虚弱で百日咳の手術をしている。母も実母が早く亡くなり養母に育てられたのである。私にとってその養母つまり義理の祖母が、私の母が亡くなると私を実家に連れて帰り、生まれたばかりの私を養育して私をまるまると元気にさせたので、父が「加来の祖母様の恩を忘れるな」とよく言っていた。「加来」とは母が嫁に来る前の姓である。

 

幼い頃の私には記憶のないその手術の痕が喉に残っている。又脱腸の手術もしていてこの傷跡もある。

 

明倫小学校へ入学したときは叔母が付き添ってくれていることは、その時のクラス写真で分かる。昭和十三年の事で、その後間もなく叔母は結婚して当時の朝鮮へ渡った。その後父は再婚して私にとって継母が来た。私は父の結婚式には出ていないが、母が来た事は覚えている。私は感受性の強い児ではなかった。ただそれまで一人子として育てられた事と、これは父に似て遺伝的なものがあると思うが、生来非常に恥ずかしがり屋で、電話に出ることさえ苦手だった。従って、新しい母に対して甘えるようなことはなく、「お母さん」と呼んだことはない。此の事を考えると新しい母はあまりいい気がしなかったと思う。

 

父はよく可愛がってくれたが、健康第一と考えて勉強せよとは一度も言わなかった。しかし畑仕事は中学校に入ったときから強制させられた。萩市の郊外にある一町歩ほどの橙畑の草取りが主な仕事だった。春夏の長期休暇中は毎朝暁に起き、自転車を漕いで約五キロの道を行き、着いたら小屋で着替えをし、昼まで鎌を両手に持っての除草は、今から考えると可なりの労働だった。正午まで働き、作業が終わったら真っ裸になって深い井戸の水を頭からかけた時の爽快さは今も忘れられない。またその時食べた橙の味も格別だった。私は父が喜ベばと思って仕事には精出した。こうして父との間には何ら隔たりを感じなかったが、母に対しては普通の親子の間にある情は結局生まれなかった。しかし母には感謝して居る。また母が在世中は実母の事を意識することはなかった。

 

私が結婚してから妻に、「実母のことは何とも思わない。全く知らないのだから」と言ったことを妻は良く覚えていて、不思議がって時々口にした。これは考えて見ると、継母が生きていた間は、無意識の中にも実母のことを忘れようとしていたのかも知れない。実母のことを意識することは、継母に対して悪いのではないかという気持ちが内々に手伝っていたのかとも思う。そういう意味では繊細な面がある。私はそれなりに継母にも孝養を尽くした。八十八歳に亡くなったが、最後の数年間認知症的な面も出たが妻もよく介護してくれた。

 

継母が亡くなって私は実母のことを時々思うようになった。実母についての思い出となるような事は全く記憶にない。ただ数枚の写真でその面影を想像するだけである。父は母が「女優の山田五十鈴に似ていた。」と言ったのを覚えている。それにしても今考えてみるに、嬰児を残して死ななければならなかった母の心情を察すると、言葉に云えないほどの悲痛なことだったと思うのである。父もその点悲しかったに違いない。母が亡くなったとき「観音様の絵」を画いて、表装して掛け軸に仕立てている。私は今その軸を、妻が亡くなって床の間に掛けている。

 

人の運命は判らない。私の父と祖父は二人とも彼らが成人した後までも、それぞれの母親は生きて居た。しかし私の曾祖父は私と同様に彼が一歳の時に母が亡くなり、さらに十歳の時父親も亡くなっている。非常に哀しい運命に幼くして直面している。曾祖父の写真を見た人が、「貴方と横顔がよく似ています。そっくりですね。」と言うのを聞くが、そうかなと思わぬ事はない。まあ何らかの遺伝子が伝わっているのだろう。曾祖父は幕末に命を賭して上海まで行き、イギリスの商人から鉄砲を購入するといった商才と胆力があったが、私はどう考えてもその様なものを受け継いでいない。

繰り返して言うが、母親の死は残された子供にとっては悲しい事だが、幼い児を残し

て死ななければならい母親にとってはそれよりもはるかに哀しい事だと思う。

 

親思ふ 心にまさる親心 今日のおとずれ 何と聞くらむ

 

これは江戸へ送られると決まったとき、松陰の有名な永訣の歌である。わたしは妻が亡くなった後、「死と生」について考え、こういったことを書いた本がとかく目にとまるようになり、つとめて読むようになった。例えば西田幾多郎鈴木大拙、あるいは井筒俊彦加賀乙彦若松英輔の本など。ところが彼らは殆ど皆母や妻といった最も大切な身内を亡くし、その後独りでの生活を余儀なくされている。そして彼らは皆死者の霊魂と言ったことを信じており、その事を書いている。

 

生者は現象界つまりこの世において可視的な存在であるが、死者は実存の世界に於いて不可視的である。しかしそれが真の存在である。つまり霊は永遠に存在すると言っている。

 

私は彼らの考えというか確信的な言葉を読んで確かにそうだと思うようになった。だから妻の死をそれほど淋しいとは思わない。知性とか感性で死者を考えるのではなく、霊的な見地で死者を見たとき、本当の死者の存在が確認できるのである。このように皆異口同音に言っている。しかし誰もがこういった心境に入るわけでもないとも言っている。

 

私は妻が急死したとき直ぐ緊急病院に駆けつけて、ベッドに横たわっている妻の美しい死に顔を見たとき、悲しいけれども涙は出なかった。数時間前まで元気だったからどう考えても信じられなかった。その内目覚めて蘇る様な気さえした。しかし葬儀も終わり、今日でもう十ヶ月の時が経つと、妻はもう絶対に生き返らない事が厳然たる事実だと分かり、日増しに寂しく悲しい気になる。しかし死者こそ本来の実存だと教えられると、気持ちは落ち着く。妻は結婚から五十七年間私と共にあった。よくしてくれた。

 

私はふと思った。私を生んでその年に亡くなった母が今生きておれば百十二歳になる。私は母の三倍以上の年月を生きてきた。この母が私の妻を選び私に結びつけて呉れたのではないかと。私は妻と結婚する前、教師の立場にあったが、妻に対して良い印象を少しも与えていない。それどころか意地悪な印象をさえ抱かせたような事が度々あった。それでも私のところに来てくれたのは、実母の愛とも言える「他力」によるものだと私はよく思うのである。私の実母の名前は寿子という。ところが妻の父の名前は寿である。此処にも私は不思議な因縁を感じる。親子の繋がりは当然だが、男女の結びつきも、考えてみたら自力よりは他力による方がはるかに大きいのではないか。私は亡き母と妻に心から感謝している。

去る二月二十六日に従兄と防府天満宮へお参りして、祈願のお神楽をあげて貰った。お宮の境内に曾祖父が建てた句碑がある。 

 

天満る 薫を此処に 梅の華    佳兆

 

二月二十五日は私の誕生日で、満年齢で八十八歳になった。二月二十五日は菅原道真が、太宰府で亡くなった日である。従って私はこの日を良く覚えている。

米寿を迎えるまで生き長らえ、しかも何とか元気でおれるのも、神仏、先祖並びに多く方々のお蔭であると思うと、私は心から感謝の誠を捧げるのである。

 

                   2020・2・28  記す