yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

乃木大将と夢

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    令和4年2月18日(金)の朝、寒い中を起きて外へ出てみたら、屋根や地面に、また庭木にも真白な雪が降り積もっていた。玄関の傍にある梅の古木の枝に積もっている白い雪と、ちらほらと咲き始めた薄桃色の花が調和していて、なかなか風情のある景色だと思って、カメラを取ってきていろいろな角度から撮った。

 

 私は何時も起きて直ぐ洗顔をすまし神仏を拝んだ後、玄関の土間の片隅に置いてある木剣を持って戸を開けて外に出る。そしてまず我流の体操をし、そのあと木剣の素振りを33回行う。この回数は大体決めている。それから庭へ下りて敷地内の北側に据えてある石の地蔵様を拝む。今朝、拝み終えて立ち上がり北西の方角を見ると、標高742メートルの西鳳翩山の山頂はもとより、山腹も真っ白で寒々とした感じであった。今朝はこの後最初に書いたようなことをしたのである。

 

 最近は寒いためか夜9時ごろ床についたら、必ずと言っていいほど夜中の1時か2時ごろ目が覚める。トイレに行きまた床の入るがなかなか寝付かれない。その為に寝る前に枕許に数冊の本を置いていて、電気スタンドを点けて読むことにしている。小1時間ばかり読むと流石に眠気を催して再び寝込んでします。そして再び目が覚めるのは6時から7時の間である。

 

 今朝は夜中の3時に眼が覚め、少し読書して寝込んだと思ってまた目が覚めたのは5時半だった。再びトイレに行き、今度は大学時代の恩師から頂いていた数十枚のハガキを讀んだ。昭和33年に頂いていたものには、現代のハガキ同様に表面の左上に印刷がしてある。薄緑色でやや丸い楕円形で国会議事堂が描かれていて「5」とあるから、当時ハガキが5円だったことがわかる。現在64円だからハガキの値段が約13倍になっている。

 

 数日前に続いて今朝も不思議な夢を見た。全く思いもかけない人物が夢に出て、私はその人物と話をした。彼は私とは血は繋がってはいないが従兄である。10歳以上年長で、すでに20年以上前に亡くなっている。常日頃全く考えていない人物である。なぜ彼が夢に出てきたか分からない。

 

 夢を見るのは熟睡した時ではなくて、眠りが浅い時だとネットに説明してあった。先にも書いたように、今朝5時半にちょっと目を覚まし、それからまた寝入って7時過ぎに起きるまでの間に見たのである。私はこの年になって「レム睡眠」という言葉を初めて知った。「レム」とは英語のRapid Eye  Movement、即ち「敏速な眼球の動き」を表す英語の頭文字の「REM」をローマ字読みしたものである。夢を見るとき眼球が速く動いているようで、その時の眠りは浅いのである。だから私は起きる前に夢を見たのだと分かった。

 

 問題はその夢の内容だが、三日前に見たのは、驚くことに乃木大将と面と向かって話をした夢だった。話したと言っても、広い部屋で私ともう一人私の友人2人だけが乃木さんと向かいあって座っていた。乃木さんは浴衣がけで、白い口髭を蓄えていて、これもよく覚えているが、白い歯を見せながら目を細めて笑顔で応対されていた。そのうち立ち上がって何か飲み物を取ってくると言って栄養ドリンクを持ってこられた。次第に人が集まって来た。その日は乃木さんを囲んでの何か歓迎会がある予定で、乃木さんは今日は酒を飲まされるから、あらかじめ栄養ドリンクを飲んであまり酔わないようにしなければと言っておられた。私は何を話したかは覚えていないが、乃木さんが始終ニコニコと笑顔で居られたことだけは鮮明に覚えている。

 

 何故このような夢を見たのだろうかと起きて考えてみると、その日の明け方私は父が買っていた戦前の国語教科書『大日本読本』を読み、その中に乃木大将の事が書いてあったからだと思うのである。印象に残る文章だから一部写し取ってみよう。

 

  東郷元帥と乃木大将と雙方の性格がよくあらはれてゐる話がある。明治四十四年、イギリス皇帝ジョージ五世陛下の戴冠式に際し、両将軍がイギリスを訪問して帰国のをり、東郷元帥は北米合衆国を訪問し、乃木大将は獨・佛・墺・バルカンの諸国を巡遊することになったのだが、乃木大将はこのついでにロシアに入り、かって半年の久しきにわたって砲火の間に相見えた敵将ステッセルを慰めようと思った。乃木大将からその話を聞いた東郷元帥は、暫く考えてから、その訪問を思ひとまるやうに勧めた。「ロシアは戦敗国の屈辱を被り、就中旅順開城はステッセルにとって致命の傷手である。乃木大将の武士道的同情による慰問も、むしろステッセルにとっては新しい恥辱を感じさせはしないか」というのである。両将軍のステッセルに対する深い同情は同じであるが、いかにも乃木大将らしいところ、東郷元帥らしいところが窺われる話である。

 

 この文章は「巻三」に載っていた「偉人東郷元帥」という文章から抜粋したのである。その為であろう、乃木大将の事は副次的に添えて書かれていて、主として元帥を持ち上げたものであった。実は私は三日前に「乃木大将と馬」という文章をやはり同じ『大日本読本』の「巻三」で読んでいたのである。これからも印象に残った箇所を書き写してみよう。

 

 或日、鳥取県東伯郡以西(いさい)村、佐伯友文氏の家に乃木さん夫妻の姿が現れた。乃木さんは茶をすすりながら、佐伯氏に、馬のその後の様子を聞いた。佐伯氏は、馬は至って達者で、沢山の子もできたことを話した。乃木さんはそれを聞いて非常に喜んだ。 

 

  暫くして乃木さんは佐伯さんに案内されて厩へ行った。そこには白い馬が長い睫をしばたたきながら、四本の脚を行儀よく揃へて立ってゐた。

  それは乃木さんが旅順でステッセルから贈られた馬で、ステッセルの名に因み、「壽(す)号」と命名したものであった。壽命を全うするやうにといふ意味であった。

  乃木さんは壽号の鼻面を撫でながら、「お前も無事でいいのう」といひながら、懐かしさうに見入った。

 馬は乃木さんの顔を優しい目で見詰めた。旧主のことも思ひ出されたらう。

 乃木さん夫妻は草などを与へて、別れがたなに立ち去った。

 

  この壽号を乃木さんは佐伯氏の手で育ててもらう際に、「この馬はアラビア産の牡馬である。前脚に傷がある。ス氏が戦線巡視中、日本軍の砲弾の破片が岩に中り、その砕片を受けたものである。

 

 ス氏から贈られた時は跛行してゐたが、数箇月後に癒った。性質は極めて順良、爆弾の音にも驚かなかった。ス氏は常に戦場でこれを使っていた」という意味をしたためている。

  壽号は六十余頭からの子の親となった。その一頭が乃木号と命名され、乃木さんに飼われてゐた。乃木さんは自刃する朝、カステラを盆に山のやうに載せて厩へ行った。

 馬はちゃうど秣を食ってゐて、カステラに見向きもしなかった。乃木さんは盆を持って部屋へ帰って行ったが、暫くしてまた厩へ行った。

  馬は乃木さんの手に持つカステラを見ると、前掻をしてほしがった。乃木さんはカステラを馬へ与へながら、鼻面を撫でて別れを惜しんだ。

  それが「壽号」の子と乃木さんとの最後の別れであった。

 

『偉人東郷元帥』に、「東郷元帥は古来の英雄や豪傑についてしばしば感ぜられるところのあの芝居気といふもののない人である。(中略)常に科学者の冷静な考察によって裏づけられてゐた。対馬沖に於けるかの敵前転回の前には、精根を傾けた細心極まりない研究があったのだ。かくして東郷元帥は、一面膽斗の如き事務家であったともいへるだろう。」とある.

 

「膽斗の如し」とは肚が坐っていることだが、両将軍それぞれに人間味のある武人だったと思われる。以上のような訳で、特に乃木大将に関する文章を二つ読んだことが原因で、私は夢に乃木さんに会えたのだろう。それにしても夢とは不思議である。誰か特定の人に夢で逢いたいと思ってもできる相談ではない。又夢見たことは直ぐに忘れる。夜中にでも起きて書き留めておけばいいのだが、そうまでするような夢はない。漱石に『夢十夜』という作品がある。これは漱石の創作か実際に見た夢かは知らないが、面白い作品だと思う。これからも多くの夢を見るだろうが、これはと思った夢を見たら、その時すぐ書き留めて置いたら案外面白いかもしれない。

 

  最後にこれは有名な話だが、乃木大将は旅順の戦いに敗れたステッセル将軍が、日露戦争が終わり、その責任を取らされてロシア皇帝より銃殺刑の宣告を受けた。これを聞いた乃木さんは、直ぐにロシア皇帝に手紙を送り、ステッセル将軍が旅順で死力を尽くして祖国ロシアの為に戦ったことを切々と訴え、処刑の取り止めを願った。この手紙により皇帝は心を動かされ処刑を止めて、シベリアへの流刑に罪を減じた。乃木さんはステッセルの家族へ亡くなるまで支援を続けた。

 

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 私が下関市長府にある乃木神社へ行ったのは、小学2・3年生の頃だったと思う。実母は私を産んだ年に亡くなったが、継母が私が小学校に入った年に来た。この母の父親が長府の助役だった関係で、母が私を連れて実家へ帰った時、乃木神社へ連れて行ってくれたのである。私はその時紙を折って作った飛行機を、神社の境内で飛ばしたことを今でもはっきり覚えている。飛ばしては落ちてくる紙飛行機を拾っては、何回も空に向かって飛ばした。考えてみたら80年以上も昔の事である。

 

 その時から60年ばかり経って、私はまた乃木神社を訪れる機会があった。参拝を終えて私は神社の近くにある商店に入った。その店は「生姜入りの煎餅」で知られていると前もって聞いていた。また、そこの女主人が、私が教師になって最初に受け持ったクラスの生徒だと聞いていたので、行ってみる気になったのである。彼女が卒業して40年ばかりになるが、私は彼女の面影をよく覚えていたので懐かしかった。小柄で色白で優しい顔の姿は変わらないように思えた。

 

 私は先に述べた乃木大将の夢を見たことに関連して、乃木神社とその鳥居の前で煎餅を売っていたかっての教え子の事を思い出した。私は彼女がどうしているかと思い電話をかけてみた。その前に若しやと思ってインターネットで「長府の煎餅」を調べたら、店や菓子の写真などいろいろと宣伝の記事などが出てきた。そこで思い切って電話をかけてみたのである。運よく彼女が出てきたが、最初すぐには分らなかったようであった。そのうち私だと分り少し話すことができた。

 「主人が数年前に亡くなりましたし、息子も後を継がないで病院のレントゲン技師になりましたので、2年前に店を畳むことにしました」

 「それでもネットにはお宅の事が載っていましたよ」

 「そうです。あれも早く除けてもらわなければと思っています」

 私は後で思ったのだが伝統のある暖簾を受け継ぐということは容易ではなかろう。私が20年ばかり前にこの店を訪ねたときは周辺にいろいろな商店が並んでいて、門前、市をなすの様相を呈していたように記憶する。今回のコロナ感染による客足の急な減少で、立ちいかなくなったのだろう。本当に気の毒に思った。彼女は今80歳を超えたばかりである。元気で暮らしていきなさいと言って電話を切った。

 

  乃木大将のことに関連してもう少し書いてみよう。彼には2人の兄と妹がいたが、兄たちは夭折している。彼は体が虚弱で泣き虫だったから妹にもいじめられたとか。少年時代ある寒い朝、「寒いなら暖かくしてやる」と言って、父親は彼を井戸端に連れて行き、井戸水を頭からかけた。この井戸水が長府の乃木神社の境内にあったように記憶している。このことがあって以後彼は逞しくなったとか。またこれは彼の情愛の深さを物語る事柄だが、やはり少年時代彼がぐずついて起きないので、母親の壽子が蚊帳を取り外して彼を叩いたとき、蚊帳の金具が彼の左目に中り彼は失明した。しかし彼はそのことを決して他言しなかったそうである。言えば母の心を悲しませると思ったから。こういった人の気持ちを思いやり優しさにまつわる逸話は、乃木さんには他にも多くある。先に書いたステッセル慰問の事や、愛馬との最後の別れなど。

 

 私はこれまで「壽」という文字を2度書いた。ステッセルから贈られた馬に「壽号」と名付けたこと。乃木さんの母親の名前が「壽子」だということ。実は私の生母も壽子という名である。さらに言えば亡き妻の父の名が壽である。私はこうしたお陰でこれまで90年もの壽命を保つことが出来たのかもしれない。まあ独り善がりの思いだが。

 

 私は小学校の時、一番苦手の教科は音楽だった。その理由は楽譜が読めないといった高度のものではなくて、教室で教壇の上に立って皆の方に向かって独唱をしなければならないからであった。私は非常に引っ込み思案の性質だった。今でもそれはあまり変わらない。そういった性格は人生ではかなり損をする。父がそうだったようだから遺伝だろう。然し世の中に出て、これではいけないと自覚して治す人はいる。世界的に有名な哲学者のバートランド・ラッセルが、初めて人前で話をしなければならなくなった時、天変地異でも起きて中止になればと思った、とどこかで書いていた。生まれながらに物怖じしない人はその点恵まれている。

 

 小学校の時音楽が嫌いだったと言ったが、当時誰もが歌っていた紀元節の歌や軍歌などは今も多少覚えている。『水師営の歌』は今でも3番までは歌うことができる。私は今回初めてこの歌の歌詞を全部読んでみた。最初の1番と2番は多くの人の知るところであるが、4番、7番、8番は読んでいて思わず涙が込み上げてきた。それらを紹介してみよう。なおこの歌の歌詞は歌人の佐々木信綱、曲をこれも有名な岡野貞一が作っていることも知った。

 

               

                水師営の歌

 

   一              二               四

 

旅順開城約成りて        庭に一木棗の木        昨日の敵は今日の友

敵の将軍ステッセル       弾丸跡も著るく       語る言葉も打ち解けて

乃木大将と会見の        崩れ残れる民屋に      我は讃えつ彼の防備 

所はいずこ水師営        今ぞ相見る二将軍      彼は讃えつ我が武勇

 

 

           

 

 

 

                                        七               八

 

         両将昼食(ひるげ)ともにして       「厚意謝するに余りあり

         なおも尽きせぬ物語り       軍の掟に従いて 

         「我に愛する良馬あり       他日我が手に受領せば

          今日の記念に献ずべし」     長く労り養わん」

 

 私は平成16年3月、二百三高地の激戦が終わって丁度百年後にこの地を訪れた。緩やかな丘陵地で、四方が見渡せる景勝の地であった。しかしそこに掲示されていた文章を読んで感じが悪かった。このように当時から中国は反日政策を取っていたことが、今にしてよく分る。

 

  日本とロシアの侵略者国家が植民地主義の利欲に駆られて良知をなくし、更には、人間性をも全く喪失して、中国の地において甚だ大きな犯罪行為をしたことを、確固として暴露している。

 

 前にも一度言及したことがあるが、いつも座右に置いて愛読している本がある。『暮らしの365日 生活歳時記』という本で、日記風に、名言や歴史上その月日にあった事件、また亡くなった有名人の事など、多種多様の事が書かれていて非常に啓発される。たまたま2月17日のページには、この本の編者である國學院教授・樋口清之氏の文章が載っていた。これは彼の著作『梅干しと日本刀』からのものである。これまで書いたことと関連した内容で、この拙文の締めく括りとして適切だと思うので、これまた引用してみよう。

 

  日本人の人間関係の特異なものとして、さらに義理人情が挙げられる。打算というものを、仮に合理とした場合、利害を越えた義理人情というものは、不合理である。「義理」は元来、道義的な言葉だった。しかし、日本人はその義理の中に、いつも感情をこめており、単なる道徳ではない。 

 

 一度、恩を受けた。だから、どういう事情があろうと、返さなければならない。返す相手がたとえ不合理なことをやっていても、返さなければならない。これは明らかに道義だけでは割り切れない。とすると、やはり、不合理を含めた感情表現が日本人の義理なのだといえる。

  さて、「人情」というのは、これは一切打算を越えた感情の事で、合理主義とはまったく関係がない。そこで日本人は義理と人情を二つ重ね、人間同士が生きていくうえでの、社会生活を支える靭帯、絆として、封建時代から定着させてきたものである。

 

 私は思うのだが、こうした義理人情といったものが戦後非常に薄れてきて、何でも金、金で、また享楽に走るようになった。今中国の北京で冬季オリンピックが開催されているが、これも今や全く商業主義に汚染され、クーベルタンが提唱した民族の友愛は二の次になった感じである。

 

 選手たちは猛練習を積んで皆純粋な気持ちを持っているだろうが、テレビを見ていて何だかピンと来ないものを感じる。世界がグローバル化した今日、義理人情だけではやっていけないのは当然だが、なんだか暖かさのない寂寞たる感なきをえないのは、私のような老人の繰り言だろうか。

 

 朝の雪は昼過ぎには完全に消えていた。先日スーパーで買って植えていたエンドウ豆の緑の葉が、蔽われた雪に耐えて姿を現し、生き生きとしているのを見て、この小さなものの逞しさを感じた。

 

                  2022・2・19 記す