yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

『方丈記』を読む

 久しぶりに『方丈記』を再読した。このような古典は年齢に応じて読後感が異なるというか、理解が深まるように思う。とくに身の回りの変化、つまり環境の変化に伴い心境も変わって来ているので、古典を読むことで、自分の事や世の中の事をより深く考えるようになる。そうなると古典の言わんとすることが、さらに身に染みて実感できるような気がする。この意味で古典は時を隔てて幾度も読むと良いとは識者の言である。家内が亡くなってあと2か月余りで3年になる。この間家内の弟をはじめとして、友人・知人が次々に亡くなった。人生無常を感ずる。『方丈記』を読むと、最初に人口に膾炙した書き出しのあの名文がある。少し長いが引用してみよう。

 

  ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。たましきの都のうちに棟(むね)を並べ、甍(いらか)を争へる高き賤(いや)しき人の住ひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或は去年(こぞ)焼けて、今年作れり。或は大家ほろびて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中にわづかにひとりふたりなり。朝に死に夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人いづかたより来りて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主(あるじ)と栖(すみか)と無常を争ふさま、いはばあさがほの露に異ならず。或は 露落ちて、花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。

 

 私はこの文章を読んだとき、ペルシャの詩人ウマル・ハイヤーム(1048~1131)の4行詩『ルバイヤート』にある詩を思い出した。この詩人は鴨長明とほぼ同時代の人である。

 

 いづちよりまた何故(なにゆえ)と知らでこの世に生まれ来て 

   荒野を過ぐる風のごと行方も知らでゆくわれか

 

 長明はこの後安元3年(1177)の京都での大火、続いて治承4年(1180)の辻風の描写する。辻風とは今で言う旋風、竜巻の事で、「冬の木の葉の風に乱るるがごとし。塵を煙のごとく吹き立てたれば、全て目も見えず。おびただしく鳴りとよむほどに、もの言ふ聲も聞こえず。かの地獄の業の風なりとも、かばかりこそはとおぼゆる。」と続く。

 

 アメリカ南部諸州をしばしば襲うハリケーンをテレビなどで見て、我々はその恐ろしさを知っているが、直接こういった被害に遭った長明は、京都の惨状を実につぶさに描写している。この辻風が起きた治承4年には、平清盛の身勝手な福原遷都が行われている。独裁者による独断的な行動は、大多数の国民が多大の迷惑を被り、場合によれば命を絶たれることになる。ロシアのウクライナへの侵攻は、ウクライナの国民はもとより、ロシア国民にとっても迷惑至極のことと思われる。

 

 福原への遷都は天災ではなくて人災だが、この後「飢渇」の凄惨な情景が描かれている。「歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。築地のつら、道のほとりに、飢え死ぬる者のたぐひ、數も知らず、取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ちて、変わりゆくかたちありさま、目もあてられぬ事多かり。」この様な中にあって、人間としての愛情の哀切さを描いた場面がある。

 

  いとあはれなる事も侍りき、さりがたき妻をとこ持ちたる者は、その思ひまさりて深き者、必ず、先立ちて死ぬ。(現代語訳:別れられない妻や夫をもった者は、愛情のより深い者のほうがきっと先に死ぬ)その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあいだに、稀稀得たる食ひ物をも、かれに譲るによりてなり。されば、親子ある者は、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。また、母の命尽きたるを知らずして、いとけなき子のなほ乳を吸ひつつ臥せるなどありけり。

 

 昔から「地震・雷・火事・親父」と言っていたが、今は「親父」の権威は失墜したが、「地震」だけは依然として猛威を振るっている。政府は膨大な予算を計上して、地震の予知や防災に対策を講じても、一旦生じたらお手上げの体である。『方丈記』にはこの大地震の事が最後に書かれてある。

 

 結局天災に対しては「仕方がない」と言って、それの為すがままにしておかなければならないということである。しかし現在の人間社会は「仕方がない」とは言わずに「仕方がある」と言って自然に挑戦しているが、見方によれば自然破壊に通じ、より大きな災害をもたらすのではないかと思うことがある。電力不足を懸念して太陽光発電の為に山林を切り倒して、器具を設置したために斜面が崩壊して多数の人が亡くなるといった事があった。自然破壊が如何に大事故をもたらすか、よくよく考えるべきことである。自然破壊ではなく自然を尊重して、いざというとき安全な場所に避難するかを真剣に考えるより他には「仕方がない」ように思われる。次のような描写がある。

 

  おびただしく大地震ふること侍りき。そのさま世の常ならず、山は崩れて河を埋め、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌割れて谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波にただよひ、道行く馬は足の立ち処を惑わす。都のほとりには、在々所々堂舎塔廟ひつとして全からず。

 

 たまたまこの文章を書いていた時テレビが、東日本大災害を教訓として、富士山の噴火と、南海トラフとによる大津波の発生は、明日起こっても不思議ではないと言っていた。もしこうした事が起きたら、東京・名古屋・大阪などの大都会は壊滅的な被害が生じ、数十万人の死者が出る。今のウクライナ情勢は1人の狂信的独裁者による人災だが、地震による噴火や津波は天災である。安閑としては居れないのだが、政治家をはじめとしてほとんどの国民は安穏な生活がいつまでも続くと思っているようだ。結局起こった時に何とかしよう、いや何とかなるだろうと思っているのだろう。昔からこうした天然の災害に遭遇し、いわば慣れてきた国民性かもしれない。しかし外敵の侵攻は「仕方がない」では済まされない。中国共産党チベットウイグルへの暴威、今起こったロシアのウクライナへの侵攻っといった事件は肝に銘じなければいけない。

 

 「四大種のなかに、水火風は常に害をなせど、大地にいたりては、異なる変をなさず」と誰しも安心しきっていたのに、と長明は一般国民の気持ちを代弁して言っている。ここから『方丈記』は一変して長明自身の生い立ちから今の状況、心境を述べている。私自身物心ついてからこの方、約80年を振り返って見ると、この先いかに生きるかということを教えられる。

 

 長明は30歳過ぎてから、それまで住んでいた父方の祖母の家を出ざるを得なくなり、自ら求めて一つの草庵を結んだ。これはそれまでの家の10分の1の小さな家であった。しかし雪が降ったり風が吹いたりするたびにひやひやものだった。おまけに河原近くだったので加茂川の氾濫という水の心配があり、さらに盗賊のおそれもある。そういう不安の中で無事を祈りつつ、30年ばかり過ごしてた。長明は『方丈記』に歴史的事件については何も書いていない。これはちょっと不思議に思える。彼が生まれたのが恐らく1153年で、亡くなったのは1216年である。当時としては長生きである。平均年齢80歳以上の現在から考えて、長明の63年の生涯は80歳以上と考えられる。この間の歴史的事件を見てみと、次のようなものがある。

 

 1156年7月 保元の乱

 1160年3月 源頼朝、伊豆へ配流

 1167年2月 平清盛太政大臣となり、5月に退位

 1173年12月 清盛兵庫島を築く(神戸への遷都)

 1180年8月 頼朝挙兵

 1192年7月 頼朝、征夷大将軍に任ぜられる

 1199年1月 頼朝没す

 1203年9月 将軍源実朝 執権北条時政

 1207年2月 源空法然上人)、親鸞の配流 

 1212年3月 『方丈記』成る

 1216年   此の年に長明没す

 

 この後の事として一つ付け加えておくと、1223年に道元は入宋し、天童山の如浄に会って悟りを開き、1227年に帰国。その後道元は曹洞禅の弘布につとめた。また政治の面では、北条、足利と、最後の徳川幕府まで、貴族の政治に代わって武家政治が続くのであるが、長明は激動の時代に生きていた。源平の葛藤を描いた『平家物語』とは全く趣を異にして、長明は前にも述べた如く世の有様を述べるに、災害だけにしているのは何とも不思議である。

 

 そういえば長明とほぼ同時代に生きた西行の生き方とどことなく似ている。しかし西行は23歳の時、北面武士としての地位を捨て、出家して諸国を行脚、「自然歌人といわれている中にも人間臭さの強い歌風で後世に影響を与えた」と言われている。しかし最後は「願はくば花のもとにて春死なんそのきさらぎの望月の頃」の願い通り、建久元年2月16日に入滅したから立派である。長明もこのような最期を願ったのかも知れない。『方丈記』に有名なくだりがある。

 

  ここに六十の露消えがたに及びて、さらに末葉の宿りを結べる事あり。いはば旅人の一夜の宿を作り、老いたる蚕の繭を営むがごとし。これをなかごろの栖にならぶれば、また、百分が一に及ばず。

 とかくいふほどに齢は歳々にたかく、栖は折折に狭し。その家のありさま、世の常にも似ず。広さはわずかに方丈、高さは七尺が内なり。

 

 ここに「方丈」とう言葉が出てきた。『日本古典文学全集』(小学館)の注を見ると、「一丈平方。約九平方メートル。ただし一間半(約二・七メートル)四方の四畳半と考えてよかろう」とある。

 長明はこの今で言うプレハブの小さな庵を、京の都の東南の方角約70キロの日野の山中に結び、そこで起居して悠々自適の最期の数年を送った。

 

  その所のさまをいはば、南に懸樋あり、岩を立てて水をためたり、林の木近ければ爪木(注;薪にする小枝)をひろふに乏しからず。

  春は藤波を見る。紫雲のごとくして西方ににほふ。夏は郭公を聞く。語らふごとに死出の山路を契る。秋はひぐらしの声耳に満てり。うつせみの世をかなしむほど聞ゆ。冬は雪をあはれぶ。積り消ゆるさま。罪障にたとへつべし。もし念仏もの憂く、読経まめならぬ時は、みづから休み、みづらおこたる。さまたぐる人もなく、また恥ずべきひともなし。

 

 長明は 実に倹(つま)しい生活をしている。また目にするもの耳に聞くものを皆、冥土へ行く援けというか繋がりのように考えている。しかし決して無理はしない。念仏読経も気のむくままに行っている。時には僅か10歳の小童を連れて山野を歩くといった心慰む遊行をしている。彼はかなりの健脚で、「もしうららかなれば、峰によじ登りて、はるかにふるさとの空をのぞみ、木幡山、伏見の里(日野から6キロ)、鳥羽(日野から7キロ)羽束師(日野から8キロ)を見る。勝地は主なければ、心をなぐさむるにさはりなし(現代語訳:山々は風光がよく、個人の所有地でもないから、心ゆくまで展望が楽しめる)。

 彼はさらに「歩み煩いなく、心遠くいたるときは」と言って、琵琶湖の畔の石山寺にまで行っているのには驚く。彼は一人住まいであるので、日々の食事はどうしていたかと思ったが、出家の身であるから乞食をしていたのだと知った。次のように書いている。

 

  それ、三界はただ心ひとつなり。心もしやすからずは象馬七珍もよしなく、宮殿楼閣も望みなし。

 今、さびしき住ひ、一間の庵、みづからこれを愛す。おのづから都に出でて身の乞食となれる事を恥づといへども、帰りてここにをる時は他の俗塵に馳せる事をあはれむ。

 

 長明は彼一人の経験から、昔はこんな楽しみがあるとは思わなかった、と言っているが。私はふと思った。現在都会にはニートなる連中がいて。広場や公園などで、段ボール箱のような中で暮らしている様だが、案外彼らは気楽に思っているのかもしれない。さらに彼らの中に、こうした状態でも将来に備えて心に期するものを持っている者がいるかとも思う。

 『方丈記』の最期に長明はこう書いている。現代語訳を引用する。

 

  思えば私の一生も、月が山の端にはいろうとしているようなもので、もう余命いくばくもない。

 まもなく三途の闇に向かおうとしている。この期に及んで、ああでもない、こうでもないと、いまさら愚痴を言ってみたところで、何になろう。仏の教えに従えば、何につけても執着は禁物なのである。自分は、この草庵の閑寂に愛着を抱いているが、愛着してみたところで、ただ、それだけのことであう。これ以上不要の楽しみを述べて、貴重な時間を空費するのも、どうかと思われるから、もう言うまい。(『 日本古典文学全集』小学館

 

 彼は『方丈記』を建暦2年(1212)3月に書き終えた。この年1月に法然上人が80歳で亡くなっている。長明はその2年後に64歳で死んだ。ネットを見ていたら、今の人間は年齢に0.8を掛けてみたらいい。したがって今20歳も青年は16歳くらいであるし、反対に明治時代より前の人間は、その年齢を0.8で割ったらいい。そうなると長明が64歳で亡くなったので丁度80歳。ついでに言えば法然は100歳の天寿を全うした事になる。ついでに計算すると、親鸞は89歳で亡くなったから今でいえば111歳。90歳の私はまだ72歳ということになる。それにしても昔の人はしっかりしていた。

 

 私はこの拙文の最初にも書いたが、この度再読して一つの生き方というか、最後をいかに送るべきか、その手本となるべきものを教えられたような気がした。長明は手足を積極的に動かすようにと言っている。これは健康を十分考えたからであろう。山中での独居生活では先ず健康でなければ生きてはいけない。次に彼は自然を楽しむことと同時に、世の中の事にも案外目を配っている。ということは心身の健康、呆けないように心掛けていた。今から800年の昔だから、生活の便利さなどは雲泥の差である。第一照明もなければ冷暖房の設備もない、冷蔵庫もなければ車もない。こうした不自由不便な中でも実悠々自適、心爽やかに生きている。そして執着心をなくせと言っている。やはり大いに見習う点があるとつくづく思った。

 

                    2022・3・16 記す