yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

恩を受ける

                   一

 

私が大学を出て最初に赴任したのは県立小野田高校である。昭和三十年のその当時は、教員採用試験というものはなかった。私の場合、主任教授の岡崎虎雄先生が、かって旧制山口高校時代の同僚だった小川五郎校長に話をしてくださったので就職できたのである。今なら英会話も録に出来ない者が英語の教員に採用されるなんてあり得ない事だ。お蔭で大過なく何とか三十七年間の教員生活を無事に終えることが出来た。だから私は朝夕仏前で両先生に感謝の誠を捧げている。

考えてみると人間はこうして多くの人の御世話になって生涯を送るのだ。はっきり世話になったと分かる人だけではない。行きずりの人の親切などを加えたらそれこそ数え切れないほど多くの人々のお蔭で今の自分があると言えよう。

 

私がまだ小学生になる前、我が家に一人の老婆がよく来ていた。当時彼女は五十歳くらいだったろうが随分老けて見えた。後になって聞くところによると此の婆さんは小さいとき両親に死に別れて孤児だった。私の祖父が不憫(ふびん)に思って我が家に引き取って面倒を見て、最後は萩市香川津の漁師と結婚させてやったとのことである。その恩を知ってであろう彼女はしょっちゅう我が家に来て、使い走りや子守その他家事の手伝いをしていたようである。

私の父の妹は父と九歳の年の隔たりがある。私にとってこの叔母をこの婆さんが守をしてくれたようで、その後婆さんが結婚して男の子が生まれたとき、叔母がその子の名前を「義雄」と名づけたと云っていた。姓は岩崎である。私が中学生になった頃は此の婆さんはそれでなくても小柄だったが、腰が曲がって小さくなって居たが、時々我が家に見えていた。来ると決して玄関から上がらないで、勝手口とも違う廊下脇の上がり口から入って、先ず脇目も振らずに仏間へ行き、線香を立て、木魚を叩いて仏前でしばらく経文を唱えていた。拝み終えた後はじめて家族の者に挨拶するのであった。今から考えると謝恩の気持ちの表れだと思う。

我が家の者は皆此の婆さんを「めーや」と呼んでいた。彼女の主人は小舟を持っていて漁をして居た、一方「めーや」は渡し船の船頭だった。

 

萩市の主要部分は阿武川日本海に注ぐ所で橋本川と松本川に分かれ、そこに出来た三角州の上に存在する。昔から大雨が降る度に洪水に見舞われていた。したがって安政二年(1855)に姥倉(うばくら)運河が開削され、それまで陸続きだった鶴江台は陸から離された。そのため、鶴江と香川津へ渡るには上・中・下の三箇所の渡し船を利用することになった。昭和三十年(1955)に中の渡し場のところに水平式旋回橋が出来て、下(しも)の渡し舟だけ残された。それまで「ねーや」は上(かみ)の渡し守として舟を漕いでいた。

 

私は昭和七年生まれだから此の三ヵ所の渡し場は良く覚えている。とくに小学校へ入ってからは、下(しも)の渡し舟に乗ってよく川向こうの鶴江台へ遊びに行っていた。渡った直ぐ近くに長い石段があってそれを登った所が神明様という神社の境内である。その周囲には橙や薩摩芋等の野菜が栽培されていた広々とした台地である。神社の位置から萩市街が眼下に眺望できた。我が家のこんもりと繁った大きなタブの木も見ることができた。

昭和十九年に県立萩中学校へ入った時、鶴江地区から通学していた同級生が四人居た。その内今生きているのは一人だけである。彼は銀行マンだったが、定年退職して故郷に帰っている。数年前に奥さんを亡くして私同様の一人暮らしである。

 

私は何回か「ねーや」の家へ行ったことがある。彼女が舟を漕いで向こう岸に着くと舟を係留して、渡し場のすぐその側にある家へ私を連れて行った。今から考えたら掘っ立て小屋に近いような粗末な家が彼女の住まいであった。「こんなものでも食べるかね」と云って出されたものは、冷えた薩摩芋で、それも見た目にも貧弱な芋がゴロゴロと笊(ざる)に入れてあったであった。彼女の子供たちはこういった粗末なものだけを食べて、空き腹を凌(しの)いで育ったのかも知れない。狭い畳敷きの部屋が一間と板張りの部屋だけといったような狭い家であった。小さな仏壇があったように覚えている。それでも子供は育つものである。彼女には息子が三人、娘が二人いた。彼女達は小学校を出た後、さらに女学校に入ったように聞いている。結局は親の生き方を見て立派に成人したのだと言える。

 

                  二   

 

先に述べた義雄さんがこれまた彼の母親と全く同じような人だった。彼も我が家に時々来て家事の手伝いなど積極的にしてくれていた。その時何時も自分のことを「義雄が、義雄が」と云っていた。小さい頃から母親がしょっちゅう我が家に連れてきていた為だろう。私が義雄さんを知ったのは太平洋戦争が終わってからで、さらに一層良く彼と接するようになったのは、私が母校に勤めるようになった時からである。

 

義雄さんは小学校を出ると陸軍に志願してシナ事変に参加、さらに大東亜戦争へも従軍し、二等兵から最後は陸軍少尉まで進級されたようである。我が家に彼が送ってくれたのであろう一枚の小さな写真がある。それには軍服を着て戦闘帽を被り、長い刀を持って立っている義雄さんの姿が写っている。彼は中肉中背というより、どちらかというと平均以下の体格だったが、がっちりとした体で、芯は丈夫だったのだろう。小さいときから親の仕事を手伝い、弟妹の面倒を見てきたので頑丈な体になったのだろう。彼は何事も自ら進んで行うといった性格だった。だから誰からも好かれていた。

 

「私はシナ事変のとき、現地で斥候を自ら申出て任務に就きました。一人で出かけて行きましたが別に恐れる事はありゃあしません。敵情を偵察して上官に報告しますと上官は大変喜んでくれました」と話してくれた。

又こんな話も聞いたことがある。

玄界灘を輸送船に乗船して航行していましたら、アメリカの潜水艦やられて船が沈没しました。十人ばかりの者が大きな木片に捉まって居ましたが、次第に暗くなってお互いの顔が見えなくなって来ました。その時声を掛け合って、しっかりせんにゃいけないぞ、夜が明けたら味方の船が助けに来てくれるから、と云ってお互い元気づけました。こうして真っ暗な闇の中、なるべく声を掛け合い、気持ちを確りと保つようにしていましたが、夜が明けてみると何人かの姿が見えませんでした。人間は何をおいても気力が大事です。弱気を起こしてはいざという時助かりません」

 

義雄さんが気力を持って幾度もの難関を勝ち抜いたのは、小さいときから人生の荒波にもまれて鍛えられたおかげだろう。ぬくぬくとした環境で、勉強だけしかしなかった青白きインテリは、いざという時はこういった力を発揮できない。「可愛い子には旅をさせよ」とか「艱難汝を玉にする」は当(まさ)に至言である。

 

先に述べたように私が昭和三十九年に母校の萩高校に帰ってから義雄さんをよく知るようになった。長男がまだ三歳くらいであったが、正月元旦には何時も午前中に義雄さんが年始に来られて、その時必ず息子にお年玉をくださった。

義雄さんは当時萩市役所に勤めておられた。彼の奥さんの家元が長崎で、戦後一寸長崎に居られたが、母親が年を取ったと言うことで萩に帰られた。その時市役所の臨時採用で、「屎尿処理」の仕事をしておられた。バキュームカーに乗っての臭い作業だったが、「人の為になり、人が喜んでくれるから、何ともありません」と云って嬉々として働いて居られた。この働き振りが上司の目に留まり、正規の市の職員に抜擢されたようである。私が接した頃は市の水道課に勤めておられた。

私の長男が高校を卒業して大学に入るまで、義雄さんから毎年お年玉を貰っていた。前々から貰った金額を合わせたらかなりのものに達したと思う。息子も「岩崎の小父さん」と云って感謝して居た。今や義雄さんも彼の母親も亡き人となった。私の妻も義雄さんに感謝して居たが、妻も昨年五月に帰らぬ人となってしまった。

ここでもう一人の人物についての思い出を語ろう。

 

                   三

 

私が生まれたのは先にも書いたように昭和七年である。同じ年に私の母が亡くなり、父は昭和十五年に再婚した。その直前まで父の妹が家に居た。私にとってこの叔母は、朝鮮で役人をして居た人のもとへ後妻として嫁いでいった。そこにはまだ成人に達していない子供がいた。戦後叔母夫婦は朝鮮から引き揚げて萩に住むようになった。此れはまた別の話だが、こうした事でほんの僅かな期間だけ我が家には父と祖母と私、それに一人の「姉(ねえ)や」つまり女中、今で言う「お手伝いさん」の四人暮らしだった。継母が来てからはこの「姉や」は居なくなった。

 

我が家のアルバムに一枚の写真がある。一人の和服姿の若い女性が白い足袋を履き、両手を重ねて膝に載せて椅子に腰掛けて居る。彼女の座った位置から云えば右横に、洋服を着て白い帽子を被った男の子があどけない稚い顔をして立っている。これが幼きときの我が姿である。私はこの写真を何時どうして撮ったかは全く知らない。

 

私は小さいときは体が弱くて、小学校時代の通知表を見たら、入学して五年生になるまで毎年十日近く学校を休み、とくに四年生の三学期の二月には、出校日二十二日のうち十七日も休んでいる。所が六年生になったときは皆勤で、その後高校に入ってからは殆ど休んでいない。元気になったのだと思う。しかし私は背が低く、中学校に入ったときクラスで前から三番目に位置していた。あの頃は小学校の高等科二年を終えて入ってきた者も居たので、心身共に随分の開きがあった。

 

さて、「姉や」の事に話を戻すと、私はこんな事を覚えている。私が風邪を引いたり腹痛を起こしたりすると、いつも誰かと門田という医院へ一緒に行った。年寄りの先生の診察が終わると、薬局と書いた窓口で瓶に入った水薬か粉薬を貰った。粉薬の場合はそれを看護婦が作ってくれたのでその手順を見ることが出来た。

 

まず、数種の微薬を小さな秤(はかり)で量り、それを丸い乳鉢に一緒に入れて、乳棒で磨って出来上がったものを、卓上に並べられた四角い折り紙のような薬紙に、匙で掬って等分に配分し、それを一つづつ包み、最後に紙袋にその全てを入れて手渡してくれた。それには食前とか食後とかに服用するように書いてあった。五日か一週間分入って居たが全部を服用する前には病気は治った。

 

その日私は姉やに連れられて門田医院へ行ったのだが、帰りに真っ直ぐ我が家に帰らないで東田町(当時萩で一番の繁華な通り)へと回り道をした。彼女が私に一冊のマンガの絵本を買って呉れたのである。その中に一台のトラックが暴走して、人々が慌てふためきながら逃げ惑う様子が画いてあった。その繪を私は今でも思い浮かべることが出来る。彼女は乏しい小遣いから買って呉れたのだろう。又こんなこともあった。

 

あの頃我々が乗り降りする山陰本線の駅は東萩駅であった。この駅から上り線で行ったところに大井駅があり、その次が奈古駅、さらにその向こうが木与駅である。その先多くのトンネルを通過した所にあるのが宇田郷駅である。私は小学校に入ると長い休みには何時も宇田郷村で医院を開業している伯父の所へ行った。従兄たちが居たからである。

話は小学校にまだ入学する前だったと思う。「姉や」と一緒に汽車に乗った事は全く覚えていないが、木与駅を下りたあたりの風景ははっきり瞼に焼き付いている。駅の構内を出て日本海を右手に見ながら海沿いの道を引き返したら、美しい砂浜と松原が連なっている。その浜を「宇久の濱」と云う。その松原の中に数軒の家が建ち並んでいた。その内の一軒が彼女の生まれた家である。彼女は私を自分の家に連れて行ってくれたのである。

 

我は海の子白波の

騒ぐ磯辺の松原に 

煙棚引く苫屋(とまや)こそ 

我が懐かしき住み家なれ

 

彼女の家は、まさしく小学唱歌に歌われているような佇まいであった。彼女の家から松林を抜けた所には美しい白砂の浜が延びており、その向こうは日本海の海原が広がっていた。家は平屋で板敷きの台所に澀紙が敷いてあってごわごわしていたが、艶々と光っていたのを覚えている。ハンドルの付いた機器の漏斗(ろうと)のようなところにうどん粉を捏ねたのを入れて、そのハンドルを回すと平べったい状態で出て来た。今度はそれをその機器の違った部分に差し入れて又ハンドルを回すと、細い紐状のうどんの形となって出て来た。それに出汁を掛けて大きな茶碗で食べたのだが、その時の味は兎も角として、私は初めて見たこの一連のうどん製法を、不思議に思って眺めたのを今なお覚えている。

 

この後「姉や」に連れられて直ぐ近くの小川へ行き、小魚等を捕ったりした。夕方近くだったが、丁度その時下り列車がやってきてデッキに立っていた父が手を振ったのさえ覚えている。父は宇田郷からの帰りで私が「姉や」の家に行っているのを知っていたのだろう。

 

このような断片的な事を印象深く記憶しているが、彼女が何時我が家を去ってお嫁に行ったのかは知らない。小倉、今の北北九州方面へ嫁いだということだけは聞いている。彼女の名前は知らないが姓は「小田」と云っていた。それにしても、二十歳前後だったと思うが、うら若い女性と云ってもいいような年齢で、他家に奉公に行き、そこの幼い子を可愛がってくれたと思うと、私は彼女の親切を忘れる事が出来ない。今なお生きているとは考えられないが、もし逢うことが出来たらどんな感懐を抱くだろうか。考えて見たら茫茫八十年も昔の思い出である。記憶の糸をたぐって何とか書いてみた。

 

                  2020・6・5  記す