yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

梅雨明けの朝の一時

テレビは東北地方の梅雨明けを報じていた。西日本はそれより二日くらい早かった。一昨日第二回目のワクチン接種を受けたが、熱も出ず痛みも感じなかった。ただ昨日は前夜早く寝たためか二時過ぎに目が醒めたので、頭がどうもすっきりしなかった。今朝は日頃と変わらなかった。目覚めて時計を見ると四時十分だったので直ぐ起きた。

 

昨日、全く思いも掛けないことがあった。重い紙箱の荷物が届いた。開けて見たら見事なメロンが二個入って居た。送り主は萩の郊外で萩焼を作っている人物である。このようなものを貰う訳がどう考えても見当たらない。

 

一昨年の秋だったか、彼が母親と二人一緒に、妻が亡くなったので悔やみに来た。その際彼の父が亡くなる前に作ったと言って、紅色を帯びた抹茶茶碗を呉れた。

「父が長年工夫を重ねてやっと出来た茶碗です。生前に差し上げるところ突然亡くなりましたので、この度もって参りました。使ってみて下さい。」こういって立派な桐箱に入った茶碗を差し出した。そのような事があったので、私は後に萩へ行ったついでに、彼の家へ行き礼を言い、伯母が作った茶杓と楊枝を差し上げた。

 

昨日早速電話したら母親が茶杓のことを話された。私としては自分が削った茶杓でもないのに、このようなものを貰い済まないと思ったので、礼状に添えて粗菓と私が書いた文庫本の『硫黄島の奇跡』をお返しとして送っておいた。

 

彼は今萩焼の陶工として家業を継いでいる。広島大学、それも大学院まで卒業しているが、一念発起して萩焼作家になったようである。私は彼の父親とは話したことがある。こんな話しをして居た。

「私の親父は大きな太い手をしていまして、萩焼を一日で三百個も作ったことがあります。私なんか其の半分どころか十分の一作ったら良い方です。」

 

この親爺さんという方は、小学校を出ただけで、小さいときから手先が器用で、小学を卒業すると直ぐに萩焼の弟子入りをし、その道一筋で、後に「県の人間国宝」になった人である。もう少し長く生きたら「国の人間国宝」になったと私は思う。

 

数代前の萩市長だった菊屋さんと小学校が同期で、「彼は勉強は出来なかったが手先が器用で、いつも粘土をこねくり回して遊んでいた」といった事も聞いている。

 

私の父は定年退職し小堀遠州流のお茶を教えていた。「来る人は拒まず」の考えに基づいて、誰とでも接し歓迎していたので、色々な人がお茶を習いに来ていた。この陶芸家親子もそうした関係で日曜日毎に来ていたのを私は知っている。

 

このような関係で、父の亡くなった後も付き合いが細々と続いている。実は私は毎日朝早く起きて暫く本を読み、一休みするとき抹茶を点てて飲む。その時はいつも決まって、あの人間国宝の試作品として父が貰った茶碗を使用する。我が家に数多くある茶碗の中で私はこれが一番気に入っている。可なり大きいものであるが、それほど重く感じない。何とも言えない薄い飴色で「貫入(かんにゅう)」が無数に入って実に貫禄のある茶碗である。これを両手の掌に乗せてゆっくり飲むと実に気分が良い。一服点てて気持ちが落ち着き爽やかな気分になる。その時使う茶は「又(ゆう)玄(げん)」という抹茶である。それほど高価ではない。私はなくなったら電話で頼んで手に入れる。「又玄」という言葉が気に入っている。「玄之(げんの)又(また)玄(げん)」とうのだろう。「玄」には「奥深い、静か、非常にすぐれている。更に、老子の説いた道の性質。時間・空間を超越して存在し、天地万物の根源である絶対的な道の性質を玄という。このように『広辞苑』に載っていた。「又玄」とはそういう「玄」の更なる「玄」と言うことだろう。

 

話しを元に戻してメロンのことだが、箱の表面に印刷されていた紹介文というか宣伝の文句が気に入ったのでここに書き写してみよう。

 

 「メロン大使」

清らかな水、澄んだ空気が自慢の萩の山ふところに位置する緑の村。昼夜の温度差が激しく、甘いメロンが成育するのにもってこいの好環境です。しかし一本の苗から収穫するのは一個のみです。農家でひとつひとつ愛情を込めて育てあげました。こうして人と大地の愛をいっぱい呼吸して育った緑の使者があなたのもとに緑の香りをお届けいたします。ぜひご賞味ください。

箱を開けると、生産者の顔写真があって、似たような文章があった。やや具体的な文面を書き写してみる。

 

 山口県萩市福栄・むつみ地域は、萩市街から東へ15㎞程度中国山地に入った中山間地に位置し、標高200~300m。清流と緑に囲まれた昼夜の温度差が激しい気象と良質の土壌に恵まれ、甘いメロンが成育するにもってこいの所です。この好環境の中に育って呉れたメロンがメロン大使です。

太陽と大地の恵みと愛情が育てたメロン大使

 

これだけ読むと食べない先から食指が動く。食べ頃は今月十九日と書いてあった。私は早速仏前に供えた。大地にしっかりと生き、自然の恵みを受けて生活出来る人は本当の幸せを感じているのではないかと思う。都会の工場で流れ作業で自動車などの生産に日々を送る人に比べたらの話しだが。日本は戦後農業に携わる人口が激減した。若者は皆都会生活に憧れて故郷を後にした。先日も息子の車で萩へ行ったついでに、かっての阿武郡宇田郷村へ行ってみたが、全く人気がなかった。寂しいという言葉以上に死んだような有り様だった。此の點を考えると、「メロン大使」を生産している人は恵まれている。益々の発展を願わずには居れない。

 

四時過ぎに起きて暫く唐木順三の全集を読んだ。「日本人の心の歴史」という文章である。教えられる事が多々あって良い本だと思う。

一遍上人の歌が出ていた。

 

身をすつるすつる心をすてつればおもひなき世にすみ染めの袖

咲けばさき散るはおのれと散る花のことわりにこそ身はなりにけり

 

一遍は「一心の本源は自然に無念なり」といふ。称名も無念、念仏もまた自然、その無念自然の三昧が、「称名が称名する」「念仏が念仏してゐる」といふ姿であろう。

 

一遍は其の自然無念の境にゐて、ある日突然に、歓喜の余り踊り始めた。所は信州の佐久、多分うららかな日であったろう。このとき一遍は四十一歳であった。世人から踊り念仏といはれたこの踊躍歓喜を一遍は次のようにうたふ。

 

はねばはね踊らばをどれ春駒ののりの道をばしる人ぞしる

ともはねよかくてもをどれ心ごま弥陀の御法(みのり)と聞くぞうれしき

 

当に「捨(すて)聖(ひじり)」である。私としては、せめてもっと身辺整理をしなければと思った。読んでいたら五時半になったので、早朝の散歩に出かけた。その前に洗濯機に洗濯物を入れた。

 

梅雨も明け、早朝の空気は肌にやんわりと冷たさを感じられて気持ちが良い。マスクをつける必要はない。自動車が数台走っていたが人通りはない。

 

いつものコースを歩いた。自動車道路を斜めに横切ったら小道に入る。その小道の傍を山からの清らかな水がさらさらと静かに音を立てて流れていた。「潺々(せんせん)たる水の流れ」という言葉に相応しい状景だと思った。

 

まだ誰一人と言っていいほど人影を見ない。田圃の稲はすくすくと青く育っている。東の空は薄い桃色に染まっている。陽は既に昇っているが薄雲に遮られて見えない。この季節は「満目青一色」と云って良いほどだ。四囲は濃淡の青色に包まれている。道から十メートルばかりの小高い所まで上ったら、ヤマユリの花が沢山咲いていた。オレンジ色に黒い斑(ぶち)が点々とついている。この色を除けば全て山も木も草も青色である。今朝は思いきって最長の距離を歩いたので丁度一時間かかった。

 

帰って直ぐ畑に出てみた。たった一本のニガウリと二本のキュウリが良くできて青々とした大きな葉を拡げている。葉の中をよく見たら大きなニガウリが三本なっていた。独り者の自分にはとても食べきれないので、新鮮なうちにと思い隣家へ持っていって差し上げた。家に入り汗ばんだ身体にシャワーを浴びて一息ついた。

 

                    2021・7・15  記す