yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

夏草や

午前4時に眼が覚めた。昨夜は9時過ぎに床に入ったから睡眠は充分とれている。トイレに行き居間の暖房をつけてまた横になった。しかしもう寝むれそうにない。床の中であれこれ考えているうちに時間が過ぎた。時計を見たら5時前なので起きることにした。居間は快適な温度になっていた。いつものように大佛次郎の『天皇の世紀』を読むことにした。この全10巻に及ぶ大作を読み始めたのが今年2月の朔日で、まだ5巻の前半部に達していない。活字が小さいので拡大鏡を使って少しづつ読んでいる。

 

 最近読んだところには、維新前後のことが実に数多くの資料を引用して詳しく書かれてある。いよいよ元治元年(1864)7月の禁門の変が始まろうとしている時である。同年8月には4国連合艦隊の下関砲撃、さらに第1次長州征伐出陣と続くから、私の曽祖父が生きていた頃で、当時の長州人の心境は、ひょとしたら今のウクライナ国民の心境に似ていたかも知れないと思った。曽祖父はその翌年即ち慶応元年に毛利藩の指令で鉄砲を購入するために長崎から上海迄行っている。

 

 あの時からわずか160年ばかりしか経っていないが、この間我が国は戦争に次ぐ戦争で大変だった。ところが1945年に太平洋戦争が終わって、今日までの後半の80年近くは平和であった。だから国民の多くがいわゆる平和ボケと言われている。この度のロシアによるウクライナへの侵攻は核戦争になる恐れがあるとさえ言われる。国民はこれまでの状態とは異なり、一大事が起こる可能性があると自覚して、しっかりしなくてはいけないと思う。90歳を迎え安穏に暮らしている今の自分に比べ、ウクライナには戦火に追われた老人がいると思うと、人間の運命を考えずにはおれない。

 

 『天皇の世紀』を20ページばかり読んだ後、今度は先日送って頂いた『松田佐津子 歌集』を紐どいてみた。作者は私の大学時代の恩師の令兄の娘さんである。従って先生にとっては姪にあたる。私はこの歌集を読み終えたら礼状を出そうと思っているが、その前にこの方を紹介してくださった方である作者の妹さんに電話をかけた。

 

 「私たちは4人姉妹で、長姉は亡くなりましたが、後の3人はまだ生きています。2番目の姉は東京にいます。そして3番目の姉は数年前に主人に先立たれて今一人で暮らしています。数年前にその歌集を出しました。私は娘と一緒に暮らしていまして92歳になります。お陰で何とか元気に暮らしています。わざわざお電話有難うございます。」

 

 こういった非常に丁寧な応答であった。それにしても3人の姉妹が90歳を皆優に超えておられるが元気なのには驚く。歌集を読むと、亡くなられたご主人の思い出の事が多く詠われていて、ご夫婦の仲睦まじい様子が覗われた。またお子さんやお孫さん達にも恵まれて居られるようで、珍しく幸せな一家だと思った。人間には天命というものがある。長生きはかなり遺伝子が影響すると思う。現にこの4姉妹の父親は86歳、母親は101歳の長命である。しかし人の幸せは長命だけでは決まらない。人間の一生は糾える縄の如しと言うから、いつ何が起こるか分からない。徒に長く生きても息をしているだけの人も多い。次のような歌があった。

 

   百一の母にわが古希伝ふれば「あなたがまあ」と驚きていふ

 

   七夕の笹に結びし百一の母の願ひは「お召ください」

 

   母のみ骨納むるときに背後より奥津城に入る晩夏のひかり

 

 母子の情愛の溢れる歌だと思う。この後に私の恩師について詠まれた歌があった。

 

  子なき叔父伯母みまかりて十五年御喋鸚鵡も遂に果てしと

 

 先生は昭和55年に亡くなられた。山口にまだ居られたとき鸚鵡を手に入れられて、「英語の言葉を覚えさせようとしているがなかなか覚えてくれない」と言っておられたのを思い出した。これからこの歌集をじっくり拝読しよう。私はこんなつまらない歌を詠んでみた。

 

   天命か傘寿卒寿の坂を越え白寿真近しなおも健やか 

 

 8時になったので読書を止めて神仏を拝み、外に出て我流の体操をし、木剣の素振りを33回した。別にこの数には意味はないが、いつも33回行う。これでやっと朝食である。食パンとコーヒー、それに多くの野菜を煮込んだのを温めて食事を終えた。

 

 9時過ぎになったので、仏様へのお盛物がなくなったので、散歩がてらスーパーへ行こうと思って出かけた。我が家の直ぐ近くの道路は、7時から8時ころまでは小学生の通学と通勤車が頻繁に走るから賑わうが、9時以降は閑散としている。道路に面して小公園があって幼い子を連れた親たちが何組もいて遊ばせていた。今日は「みどりの日」で親は休みか。幼い子は嬉々として遊んでいる。全く邪気がなくて本当に可愛い。

 

 散歩のコースはいくつかあるが私の好きなのは、田圃の見えるところ、清らかな水の流れる溝川の傍の道である。此処にはまだ田植えはされていない。いつものことだが散歩の途中で人に出会うことは殆どない。目的地まで約700メートルの距離。そこは低い台地で東側の斜面は墓地になっている。そしてその麓、道路からちょっと上がったところに六地蔵があり、そこから80メートルばかり離れて同じような六地蔵がまたある。私はまず一方の六地蔵を拝み、地上から10メートルばかり登って、そこが平坦になっているので深呼吸をして、そこから眼下に広がる山口市街を見下ろし、今度は丘を下りもう一か所の六地蔵を拝んで帰ることにしている。

 

 今朝はこの丘に近づいたら、青々と茂った草に半ば隠れたような1基の墓の傍に若い女性の姿が目に入った。彼女は私が近づくとそこから道路まで下りてきた。私はあのように半ば隠れたようになっている墓を参りに来たのかと思って、「お墓参りですか」と訊ねた。そうすると彼女は意外なことを言った。

 「私の祖先はこの近くに住んでいましたが、私は今は小野に住んでいます」

 「それではお茶で有名な小野ですか」

 「いいえ、山口市の大内にも小野という処があります。そこにいます。長い間此処へは来ていませんので、昔のお墓がどうなったかと思って探したのですが見つかりません。」

 彼女は言葉を継いで、「ご先祖様は許して下さるでしょう」と言った。

 私はおそらく大内の近くに新しく墓を建てているのだろうと思った。その時道の向こうから彼女の母親がやってきた。やはり墓の所在を尋ねていたが見つからなかったようである。

 私は「お幾つですか」と訊ねたら81歳だと答えた。私の年齢を言ったら2人は驚いた様子だった。

 別れるとき娘さんが「お声をかけてくださって有難うございます」と言って、道の傍に駐車していた車の方へと歩いて行った。

 

 私はそれから最初の六地蔵を拝み、何時ものように丘に上った。途中いつも目にするのは1基のささやかな墓である。私は以前この墓に刻まれている字句を読んだことがある。先の戦争で戦死した息子のために父親が建てた墓だと知った。次の言葉が墓の正面に刻んである。

 

   故海軍二等機関兵曹 勳七等功七級 原田久之墓

 

  墓の側面には次の文字が刻んであった。

 

    昭和十八年七月十二日 コロンバンガラ島沖海戦巡洋艦神通にて戦死

    原田金次次男 享年二十六才

 

 この墓の横に原田家のやや大きい墓が並んで建っている。私は殆ど毎日この前を歩いて過ぎる。   

 

今日は昼前で暑い陽射しが照り付けていた。私の歩く墓の前の1坪にも満たない地面に青草が一面に繁っているのを踏みつけて通ったが、ふとこれを刈り取って綺麗にしてあげようという気になって 帰って早速小さな鎌、実は昨年もこの草を刈るために買っていたのだが、それを取り出して錆びついていたので、よく切れるように砥石を出して念を入れて研いだ。

 

 私はコロンバンガラという地名が何処だろうかと思って、以前高価だが必要だと思って購入した大判の『世界全地図』を広げて探したら見つかった。非常に小さな南太平洋に浮かぶ島である。ニューギニア島の東の海にソロモン諸島がある。その中にブーゲンビル島とあの有名なガダルカナル島がある。この両島の間に浮かぶ小さな島で普通の地図には載っていない。

 

 この原田久という青年はこの海域の水底に艦船もろとも沈んだのである。水深が1000メートルに達する海域である。この報に接した父親の気持ちはいかばかりか。父は愛する我が子のために原田家の墓の傍にわざわざ小さな墓を建てたのである。私が萩から山口に来てもう25年になる。そしてこのコースを散歩道と決めて歩き始めて10年近くになるが、当時は墓に時々花が供えてあったと記憶する。しかし今は誰1人お詣りしたという形跡がない。

 

 一夜明けて今日は5月5日、「こどもの日」である。昔私が子供の頃は「端午の節句」には多くの家に鯉のぼりが立てられていて、青空に翻っているのをよくみかけたが今は殆ど目にしない。日の丸の旗が全く消えてしまった。そういえば私が今いる小さな団地にあるのは22軒で、正月に輪飾りを掲げている家が僅か3軒であった。世の中が変わった。戦後75年、あの戦争の事を肌身に感じた人は今では90歳以上になったのではないかと思う。

 

 今朝も早く目が覚めた。4時半だが起きてまた『天皇の世紀』を読んだ。「禁門の変」のことが詳しく書かれていて、木島又兵衛の戦死、久坂玄瑞入江九一などの割腹自殺、桂小五郎の身を乞食の姿に隠しての脱出など、毛利藩の敗北の事が書かれていた。こうして歴史書に名を残した人は僅かで、多くの名もなき兵士や、そればかりではない、京都の民家が多く焼かれて民衆はひどい目にあっている。

 

 先にも書いたように我が国は戦後長い間平和が続き、国民の多くが平和に慣れてきた。しかし今こうして平和に浮かれている陰には、先の戦いで若き命を国のために捧げた人達がいることを、このささやかな墓碑を見てあらためて思い出したのである。

 

 7時になったので神仏を拝み、昨日研いでいた鎌を手にして出かけた。休日だからか自動車も人も全くと言っていいほど見かけなかった。道路を隔てたところにある大きなスーパーの広い駐車場にも、車は数台しかないので何だか異常な風景に見えた。いつもはこの駐車場には数十台のマイカーがびっしりと並んでいるからである。私は人気の全くない閑散とした道を丘の方へと歩いて行った。先ず最初の六地蔵を拝んだ後、粗末な石段を上ってちょっとした平坦な場所に来た。東の方角遥か彼方に山口市街を取り囲む山々が連なっている。ここで私はいつものように深呼吸をし、スマホを取り出して今日は墓の方をまず写した。シダやつる草などの青草が一面に繁っている。その遥か向こうにも青葉若葉で燃え立つような山が見える。方角は南である。私は手袋をはめて鎌を手にして墓の前と後ろ側の草を刈った。前とは見違えるほどきれいになった。私はホッと一安心した。

 

    夏草やつわものどもが夢のあと

 

 時間にして僅か10分足らずの作業である。私はもう一度スマホを取り出して写真に撮った。そしてまた石段を下りて2番目の六地蔵を拝んで家に帰った。丁度8時だった。やや汗ばんだのでシャワーを浴びた後、簡単な朝食を食べた。

 

 私が中学生になったとき、初めて父に連れられて我が家の橙畑の草刈りに行ったのは今から75年以上前のことである。当時は萩市の主要産業の一つに夏ミカンの生産出荷が数えられていた。したがって我が家には1ヘクタールの畑に100本以上の木が植えてあり、それが我が家でも収入源の一部だった。父は私が手伝う年頃になるのを待っていたのだろう。家から畑までの距離は片道5キロくらい。朝早く起きて前日に研いでいた鎌を数挺手にして歩いて行った。後には自転車を利用し最後はバイクで通った。私としてはそれほど苦にはならなかった。父が喜んでくれるので、私は春休みや夏休みにはほとんど毎日、時には1人で朝5時に起きて出かけた。昼までの作業もそれほど疲れを覚えなかった。今から考えるとよく働いたが、その後程なくして夏ミカンから萩焼へと萩市の主要産業は変わっていき、更に観光へと移っていった。

 

 それにしても若くて元気なのは良いことだ。今朝たった10分足らずの作業でも何だか一仕事したという感じがした。昨日と今日では見分けがつかないが、時間と共にあらゆるものが変化する。成長するのものもあれば衰弱するものもある。今私の孫娘は中学2年生で私が畑の草刈りを始めた年頃である。この孫はソフトボール部に入り、試合に出たと言って息子がその様子を撮った動画を見せてくれた。中学・高校と当分は若くて元気な日々を送るだろう。何と言っても健康であってくれさえしたらいい。欲を言えば勉強も頑張ってくれたらたらと思う。私はあの頃は全く勉強はしなかったから。

 

 繰り返して言うが世界は平和であって欲しい。ロシアによるウクライナへの突然の侵攻、それに伴う無辜の国民の殺害といった悲惨な状況が毎日報道されている。死者の中には多くの女性や子供たちが数えられる。実に気の毒である。人類は絶えず戦ってきた。それも独裁者の無謀な我欲による。一日も早く戦争が終結し平和になることを祈らずにはおれない。

 昨日は「みどりの日」で昔は昭和天皇の誕生日であった。昭和天皇は太平洋戦争が始まった時明治天皇の御製を詠まれた。

 

 よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ

 

 この御製は1904年にロシアと国交断絶した御前会議の後明治天皇が詠まれたという。それから37年後の1941年太平洋戦争が始まった。このとき昭和天皇がこの明治天皇の御製を口にして「開戦やむなし」との意思を表されたと言われているが、天皇のお気持ちはいかばかりだったかと思う。そして今又ロシアの脅威はわが国にも及ぶのではないかと怖れられている。今や平和はある程度の犠牲と充分な備えなくしては保たれない時代になったように思う。

                     2022・5・5 記す