yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

地所の処分

                   一

 

今年は萩から移植したモミジが例年より赤く染まり、吹く風に「裏を見せ表を見せて」しきりに散り、茶席の庭は一面緋の毛氈を敷いたようになった。パソコンを開いて偶然にも丁度一年前に書いた文章が出てきた。「落ち葉」(注:この文章を『風響樹』次号に載せます)と題した小文である。ああもう一年経ったのかと思う。この間何があったか? 最も記憶に残るのは従兄が昨年のこの頃、「萩の菊が浜にあるおよそ400坪の地所を萩市に寄付したいと思うから、相談に乗ってくれないか」と云った事だ。そこでわたしが市と折衝してみようと云って早速新しく市長になった藤道健二氏に次のような手紙を書いた。

 

平成三十年一月七日

萩市市長  藤道健二 様

 

拝啓 清々しき新年を迎え心よりお喜び申し上げます。明治維新150年の記念すべき年にあたり、市長をはじめ職員の皆様には、地域社会の充実・発展のために、気持ちを大いに高めておられるものと拝察いたします。

 

さて、突然お手紙を差し上げます失礼の段、まずもってお許し下さい。この手紙の内容に関しては、最初に係の方に連絡するのが適切かとも思いましたが、貴方が昨年新しく市長になられ、幾分の親しみを感じていましたので、お手紙を差し上げようと思った次第です。

 

用件に先立ちまして簡単に自己紹介させて頂きますと、私は現在山口市に住んでいますが、生まれ育ったのは萩市浜崎新町上ノ町です。住吉神社や浜の鳥居を降りたところの砂浜や海は子供時代の遊び場でした。昭和19年に県立萩中学校に入学し、藤道昭和氏(注:市長の父の弟)と一緒に通学したものです。そのとき貴方の祖母様が笑顔を持って我々を送り出された事を鮮明に覚えています。 

 

 昭和39年からちょうど20年間私は母校にお世話になりました。その間理数科が最初に出来た時、貴方のお兄さんの秀次氏を1年だけ教えました。さらに申しますと、貴方の父君が萩商業に通学されていたことなども覚えています。

 

こうしたささやかなご縁がありますので、この度あえてお手紙を差し上げる気になりました。それでは用件を申し上げます。

 

 実は先日私の従兄(緒方正道・萩中第45回卒)に会った時、菊が浜の海水浴場に入る道の左側の地所を萩市に寄付したいから、その折衝に当たってくれないかと相談を受けました。今その地には数十本の松が生えているだけの空き地で、その隣に「千春楽ホテル」が建っています。

 

 従兄が申しますには、昭和の初期に、ここには「避病院」があったが、その後病院は現在「郷土博物館」がある場所へ移築され、さらに病院は「市立病院」として現在の地に再建されたそうです。話は戻って、昭和の初めに「避病院」が移築された後、誰も気味が悪いといって跡地を入手しようとしないので、時の萩町長であった土井市之進氏に頼まれて、従兄の父(緒方惟(ただ)芳(よし))と門田医院の2人で分割購入したとのことです。

 

 緒方惟芳について簡単に申しますと、彼は私の父の姉の夫、つまり私の伯父にあたります。彼は明治16年に堀内の菊が浜のこの地所に隣接する地に生まれ、明治34年に県立に昇格したばかりの萩中学校を5年生の時家庭の事情で中退し、三菱長崎造船所に勤務しました。20歳になったとき日露戦争に従軍し、看護兵として戦いました。戦いに勝って無事帰還後、戦場での体験が心を強く打ったのでしょう、これからの人生、人助けに尽くしたいと決意し、三菱長崎造船所を退所して、広島陸軍病院に勤務の傍ら猛勉強して医師の資格を取得しました。ちょうどそのとき、現在の阿武町、当時の宇田郷村の中山村長に懇望されて宇田郷村の医師になりました。それから終戦の年まで伯父は村の医療のために昼夜を分かたず尽瘁し、患者を診ながら急逝しました。享年62歳でした。又その年に長男(緒方芳一・萩中第32回卒)も、陸軍軍医でしたが硫黄島で玉砕しました。

 

 伯父は菊が浜で青春時代を送りましたので、この風光明媚な日本海に面した地をこよなく愛していたと思います。私は以前、青春時代の伯父の思いを忖度して、拙い文章にしたことがあります。

 

「指月山の美しい樹木は絶対に伐ったり枯らしたりしてはいけない。又この白砂青松の菊が濱も子々孫々に伝えるべきである。城はなくなったが、萩の住民だけでなく、この地を訪れる人たちにとっても、将来掛け替えのない憩いの場所となるだろう。美しい自然は人の心を和らげまた浄めてくれる。だから人は自然の美しさを保たなければいけない。このような良い環境に恵まれ、俺はその意味で本当に幸せだ。」  

 

こうした思いを私の従兄は受け継いで、今日まで彼は父から譲り受けた地所を守ってきました。この間「千春楽ホテル」をはじめ、多くの業者から是非譲ってくれと言われましたが頑として拒絶してきたと申します。自然を破壊すれば元に戻すことはほとんど不可能です。この指月山を左に見、海上はるかに浮かぶ島々、さらに右手の笠山の遠望は何と云っても萩市では最高の風景です。ここに商売目的の不似合いな建物が建ったら折角の風景が台無しになります。このような意味において、彼はこの白砂青松の景勝の地を、一部だけですが守ってきたと思います。

 

ところで、従兄は現在92歳になり山口市の病院付属の老人病棟にいます。長男が同じ山口市耳鼻咽喉科医として開業していますが、息子と相談の上先に述べましたように、市に寄付することに決めました。そのとき一つの条件として、この地所をそのまま保存して頂きたい。400余坪の地所ですが、海水浴場への入り口にありますので、お役に立つのではないかと申します。

 

以上のようなわけですので、何かとご多用な事とは思いますが、ご配慮下さいますよう何とぞよろしくお願い致します。なお今後の折衝は私の方にご連絡頂ければ結構です。

最後に貴殿のご健勝と萩市のますますの発展を心より祈念いたします。  敬具 

 

                二

 

 

この手紙を出して丁度一ヶ月経って下記の返事が来た。

 

                     萩 総 第 223 号

                     平成30年 2月 7日

 

 山本 孝夫 様

                     萩市長 藤道 健二 印

 

 時下、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。平素は萩市政の発展にご

協力を賜り大変感謝しております。

 

 さて、平成30年1月7日付けでお申し出がありました菊が浜の土地の寄付

の件につきまして、現地を確認させていただきました。

 

 貴重な土地であるということは認識していますが、「このまま保存する」とい

う条件では、寄付受納後の草刈り、剪定等の年間の維持管理経費の負担から考え

ますと、残念ながら貴殿のお申し出に沿うことが難しいと思われます。しかしな

がら、現在の景観を維持しつつ、駐車場等何らかの形で利活用させていただける

のであれば、少しお時間をいただき活用について勉強させていただきたいと考え

ております。

 何卒、ご理解を賜りますよう宜しく御願いたします。

 

このような返事があったので従兄に話し、市当局も検討してくれると分かって一先ずホッとした。ところがそれからなかなか事は運ばない。催促するのも憚れるので萩にあったわが家を市が購入してくれたとき、その折衝に当たって今は退職している知人に電話してみたら、「その様な事は市役所に出向いて頼まなければ、おいそれとは腰を上げません」との返事だった。わたしはこちらから出向いてまでお願する気がないので5月になったので電話してみた。そうしたら担当が代わったので少し時間が掛かるからもう少し待ってくれとの返事だった。失礼だなと思いながら、それでは待ってみようと思っていたらそれから程なくして電話がかかってきた。「5月24日に山口にお伺いしたい」とのことであった。

 

10時過ぎに萩市観光政策課の職員が二人来た。初対面で二人とも若くて感じは良かった。わたしはこの菊が浜の地所については格別の思いがあるので、それについて拙著『杏林の坂道』にも言及して居るので、出来たら読んでみてくれと言って本を貸し与えた。

 

やれやれという思いである。これで何とか事は運ぶだろうと安堵の胸をなで下ろした。

ところがそれからまた事は容易には進まない。6月29日になって電話があり、「盆まで待ってくれ」とのことである。ところが8月9日にまた「盆過ぎまで待ってくれ」と再度の電話があった。

 

8月31日になったので市の観光政策課に電話したら、「もう少し待ってくれ」とのことであった。なるほど市の行政はおいそれとは動いてくれないのだなと思うに至った。

 

10月10日に前に来た同じ人物が二人揃ってわが家に来た。そして「土地の寄付契約書」を持ってきた。「藤道市長が了承し、その後検討して書類を作成し、幾つかの部署の印を貰わなければならなかったので遅れました」と云っていた。たかが地所一つの寄付に関しても面倒なことだと思った。

 

わたしは思うに、藤道市長は野村前市長の政策に反対して市長選に出馬して運よく当選したのである。その時彼が訴えていた「旧明倫学舎」の校舎存続の問題や、この度新に浮上した「イージス・アショア」の設置などで頭を悩ましていたときだから、こちらが持ち込んだ事案についてはおいそれとは回答出来なかったのではなかろうかと。

11月5日に萩市役所から、「地所の登記簿に載っている所有者の現住所と今の現住所が違っているので、変更する必要がある」という電話がかかってきた。

実は92歳になる従兄と彼の妻は両人とも身体が不自由になったので、長年住んでいた宇部市の家を今後処分することにして、山口市の老人ホームに居を移し、そこを現住所として住民登録していたからである。

 

わたしは山口市の地方法務局へ出向いて訊いてみたら、「素人では手数がかかるから、司法書士に頼んだら良い」と教えて呉れたので、名前だけ一寸知っている司法書士にお願いしたら、「時間が掛かるから、一週間ばかり待ってくれ」との返事だった。そして約束の書類を調えて5日後に持ってきた。作成費用が1万5千円だった。

 

ところがまた一寸したミスがあった。それは従兄が書いた現住所の部屋番号と市役所から書いてきた其の番号が違っていたのに気がついたので、また書類を書き換えるように電話した。翌日訂正した書類がきたので従兄のところへ行って捺印をして萩市役所へ送ったのが11月27日である。こうしてやっと何とか目処(めど)が付いた感じである。

そして終に12月14日、その日は雨交じりで寒かったが、先に来訪した時と同じ市の職員二人が来たので彼等を山口市内の老人施設にいる従兄のところへ案内した。その時市長からの礼状を渡された。一片の紙に印刷されたものに過ぎなかった。これで一件落着と云うことになったが、父祖伝来の土地がこのような形で譲渡されて一寸空しく淋しく感じた。ところがその翌朝の事である。『道元禅師のことば「修証義」入門』と云う本を読んでいたら、次の言葉が目にとまった。

 

衆生(しゅじょう)を利(り)益(やく)すというは四枚の般若あり、一者(ひとつには)布施(ふせ)、二者(ふたつには)愛語、三者(みつには)利(り)行(ぎょう)、四者(よつには)同事(どうじ)、

是れ則(すなわ)ち薩埵(さった)の行(ぎょう)願(がん)なり(以下略)」

 

この文の説明で著者の有福孝岳師(注:高校一年のとき教えました。今は偉い学者になっています。ネットでみて下さい)は「真実の布施行為は、施しをする者(施主)と、施しを受ける者(受)者)と施物(法財)が清浄無垢な境地になければ、成立不可能です。是を仏教では三輪(さんりん)空(くう)寂(じゃく)と呼ぶのです」と言っている。

従兄は是まで長年にわたり母が茶杓を削り奈良の薬師寺に差し上げてきたのを手助けし、母の死後はそれを継承して、その数は五千本に達する。是は患者を診ながら亡くなった父と硫黄島で玉砕した兄の鎮魂のための布施の行為と云える。今回の松林の寄付はその意味では良い布施だったのかと私はひそかに思った。

 

                 三

 

高校時代の一人の友人がいる。彼は高校卒業以来萩を離れて関西に住んでいる。萩には500坪にも及ぶ広い家屋敷がある。年に一二度帰ってその管理をしていて、そのような時、数回わたしは山口から出かけて彼の家で会ったことがある。狭い道路を通って裏口から何時も訪れる。鉄の門扉を開けると広々とした空間があり、その先に彼の家がある。表通りも幅の狭い道路だから不法駐車になるので裏口から入ることにしている。玄関の間を入るとすぐ居間や台所などがあり、細長い廊下伝いで書斎というか客間に通ずる横に長い家屋である。どの部屋も庭に面している。庭には手が入っておらず侘しい感があるが、新築当時は庭の眺めも良く恐らく素敵な佇まいであったろうと想像される。

 

縁側にはガラス障子があるが、客間の紙の障子を開けると、いつも正面の床に幅広の掛物が懸けてあった。やや古びたもので、薄くて細い字で和歌のようなものが書かれていたと記憶する。とても判読できそうにもないので、別に目を留めて見たわけではない。彼が言うには「小松内府の署名があってこれは平重盛が書いたものだと伝え聞いている」と。

 

もしこれが本物なら家宝として珍重する価値があろうがまさかと思う。位人臣を極め横暴の限りを尽くした父の清盛を、息子の重盛が諫めつつも父に先立って死んだという話を聞いたことがあるが、その優しさがこの字に表れて居るのかとも思った。しかし一寸考えられない。彼の祖先には明倫館の先生だった人がいるし、祖父と父は共に陸軍の将官だったから家柄としては立派である。

 

彼は此の家を友人に貸していてしばらくは家賃が入っていたが、また税金と管理費だけを要するマイナス状態になっていた。最近片目が見えなくなり、補聴器も壊れて不自由していると言っていたが、趣味のハーモニカだけは今も同好者と楽しんでいるようだ。しかしもう萩には帰れないし後を継ぐ者も居ないので、生まれ育った先祖から受け継いだ此の家屋敷を何とかして処分したいと決心したのだろう。なかなか買い手がつかない様子だったが、終に謂わば「捨て値」で業者と話がついたと先日手紙を呉れた。坪1万円でも業者は買おうとせず、一方坪15万円の算定で地所の所有税がかかるようだ。交渉は彼の奥さんがされたようだが、女だからと云って足下を見られたのではなかろうか。

 

今や山陰ばかりではない。過疎地はもとより、都市部でも不便なところにある土地は「負の遺産」とまで言われている。このような事を考えると、今回市に寄付した菊が浜の土地が、観光に役立ててもらえるのは有り難いと思うべきかも知れない。今は亡き伯父も、またそこを今日までしっかり守って来た従兄もこれで安心したと思う。

 

                 四

 

思えば昨年の暮れから丁度1年。あっという間に時が過ぎた。まさに光陰矢の如し。一昨年の暮れからまだ2年と僅かしか経っていないが、高校時代の同級生が相次いで亡くなり、今現在分かって居るだけでも8人を数える。無常迅速・諸行無常だとつくづく思う。

 

その中の1人は小学校から高校まで同学年で良き友だったので在りし日が偲ばれる。

実は、亡くなったとは知らずに、先日久しぶりに電話したら、「主人は、今年3月になりますが、夕飯後イチゴを口にしながらそのまま倒れたかと思うと、静かに息を引き取りました。何もかも主人が書いたりしていましたので御知らせ出来ませんでした」と彼の奥さんが電話の向こうで語った。大往生である。あやかりたいものだと思った。 

 

彼は4人兄弟の末っ子で、「四男(しなん)だからお前は死なん、と親爺が言っていた」と笑いながら話した事がある。いくら「死なん」でも米寿に近い歳になれば、誰しも「死なん」わけにはいかない。彼は小学校の時わたしと同じクラスで良く出来ていた。習字も上手で教室の後ろの壁に張り出されて居て、彼の書いたのはいつも右端にあった。

 

われわれが高校を卒業したのが昭和25年で、当時の萩はまだ活気があった。今とは違って長男で家業を継いだり、広い田畑がある者は必ずしも大学へ進学しなかった。彼は恐らく高校へ入った段階では進学を夢見たであろうが、兄たちが皆戦死したか病気で早世したかで、進学を断念して家業を継がざるを得なくなったようである。

 

彼の家は「鋸製作所」であった。今は寂(さび)れた通りになっているが、当時は彼の家は松陰神社に通ずる町筋に面し、各種の店などが賑やかに建ち並んでいた中にあった。今でこそ「電気鋸」の普及で個人が鋸を製作するようなことはないが、当時は沢山の木(き)樵(こり)たちが大きな「木挽(こび)き鋸」の目立てなどで彼の店をしばしば訪れていたと思う。

 

目立ての需要も減った頃、一度通りがかりに彼の店に立ち寄ったとき、彼はたった一人の従業員と差し向かいで、黙々と幅広い大きな鋸の目立てをしていた。狭い作業場であるが神棚があり、そこはきれいに掃き清められていた。無駄話はいけないと思って早々に辞退したが、一心不乱に精魂を込めての仕事ぶりに感銘を受けた。当時は最早鋸の製作注文はなくなったが、こうした大きな鋸の目立てだけは時々頼まれるとのことであった。

 

彼は色白の温和しい口数の少ない性格で真面目な人物だった。こうした昔気質の誠実な職人が次第に減っていく。何もかもが工業化し、使い捨ての時代になった。その後彼は家業を止め、娘さんが防府市に住んでいるから呼び寄せて呉れたと云って、奥さんと転居していた。それまで住んでいた家と作業場は解体し更地にして買い手を待っているとも云っていた。「更地にすると税金が高くつく」とこぼしていたが、その後しばらくして売れたようである。

 

鋸の製作現場を見たわけではないが、恐らく鉄板を切ったり叩いたりすれば相当な喧噪だったろう。数年前防府天満宮に参詣した折に彼を訪ねた。彼の家はのどかな郊外にあり、周囲にはまだ多くの田圃が残っていた。その時は秋で刈り取られる前の稲穂がたわわに実っている静かな環境の中にあった。久しぶりに会ってみると「もうすぐひ孫が生まれる」とか云っていた。平凡ながらも安楽に過ごしていて、まさに好々爺然として居り、晩年を幸せに暮らしているなと嬉しく思った。

 

同級生が次々に鬼籍に入っていく。我が身もそう先の話ではなかろう。最近「断捨離」とか「身辺整理」と言った言葉をよく耳にする。わたし自身も早く考えなければと思いながらも、徒に時の過ぎ逝くのを感じる今日この頃である。

 

 最後に敢えて付言すれば、上記のような地所の売買や寄付においても、譲渡に当たって双方の意思の疎通が先ず必要であり、その後の手続きなども案外手間暇がかかっている。これを思うと、今我が国が抱えている竹島北方領土の問題は、彼我の国民感情が相反するから容易には解決しないのではなかろうか。兎に角難しい問題だと思う。 

    

平成三十一年 二月 立春