yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

夢枕に立つ

私は一昨年から毎朝晩、法然上人の『一枚(いちまい)起請文(きしょうもん)』を仏前で誦することにしている。それまでは『般若心経』を唱えていたが、今は専ら『一枚起請文』を読誦(どくじゅ)する。大した理由はないが、阿弥陀仏の慈悲の教えの方が私の今の気持ちにそうからだ。

 

 梅原猛氏の『法然の哀しみ』を読んでいたら面白い事が書いてあった。

流罪から京に帰って瀕死の床にあった法然を韋提(いだい)希(け)夫人(ぶにん)と称せられる貴婦人が訪ねてきて、法然とひとときを過ごしたと云う話である。」

梅原氏は、「これは『一枚起請文』の作成に係わるたいへん大事なこと」として、上人のことを書いた『九巻伝』の文章を長々と引用して、概略次のように解説している。

 

この法然の伝記によれば、韋提希夫人は法然に「『選択集(せんじゃくしゅう)』に上人様の思想のすべてが述べられています、と仰有いましたが、『選択集』は私のような俗務に追われた女人には浩瀚(こうかん)で読みづらいので、お教えの要旨を一枚の紙に書いてください」と頼み、法然がその要請に応えて書いたのが『一枚起請文』である。そして、この話を蔭で聞いていた源智(筆者注:平重盛の孫で法然に助けられ弟子となる)が、自分にも書いてほしいと頼み、貰ったものが、今、金(こん)戒(かい)光明寺(こうみょうじ)に残る『一枚起請文』である。

 

私は平成二十三年の「法然上人八百年大遠忌」の行事に京都へ行ったとき、金(こん)戒(かい)光明寺(こうみょうじ)へ案内されて、そこで源智が法然に書いて貰ったという『一枚起請文』の写しを見た。これは法然が亡くなる二日前に書いたもので、平仮名、片仮名、漢字の混ざった文章で、最後に「建暦二年正月二十三日 源空 」とある。法然はこの二日後の一月二十五日に亡くなった。満年齢で八十歳だった。実は上記の『法然の哀しみ』を今月四日から読み始めて昨日の朝読み終えた。奇しくも一月二十五日である。

 

 梅原氏は先の文章の後『一枚起請文』の全文を載せて、「これは法然のつくった法然自身のみごとな教説の要約である。それは、法然の教説ばかりか法然の一生の要約であるといえる。」と書いて、「問題は、この韋提希夫人というのがだれかということである。」といって、何人かの学者の説を紹介した後、自分の考えを述べている。先にも書いたようにこれは中々面白い推察だと私は思った。

 

まず「韋提希夫人」というこの名前である。彼女は釈迦の伝記に出てくる実在の人物である。ネットを開いたら沢山載っていた。『世界大百科事典』の説明が簡潔だったのでこれを引用しよう。

 

釈迦と同時代の中インド、マガタ国ビンサーラ王の妃。生没年不詳。王子のアジャータシャトルが王を幽閉し、餓死させようとしたとき、ひそかに肌に粉をぬり、装身具に飲み物を満たして牢を訪れ王を養ったが、発覚し、自らも幽閉された。牢内からの彼女の祈りにこたえて釈迦が現れ、此の世に絶望して阿弥陀の浄土を願う妃に、阿弥陀仏や浄土を観想する方法を教える。このときの教えが『観無量寿經』であるとされる。

 

この話は『王舎城の悲劇』として有名である。王舎城はマガタ国の首都(現在のビハール州南部のラージギルはこの旧跡)で、釈迦に非常に関係のある都城で、王舎城の東北に

ある霊(りょう)鷲山(じゅせん)や、王舎城の郊外にあった竹林精舎には釈迦が長く住んで、ビンサーラ国王の供養を受け、民衆の教化を行ったことで知られて居る。太子は提婆(だいば)達(だっ)多(た)(筆者注:釈迦の従兄で始め釈迦の弟子になったが、後に背く)にそそのかされて国王を幽閉し、太子が王位についた。 

 

 釈迦が実在していた年代はいろいろ云われているが、紀元前五百年頃である。一方法然の亡くなったのは千二百十二年だから、あの韋提希夫人が実際に現れたはずはない。そうすると誰が「韋提希」と名乗って法然のもとを訪れたかと言うことになる。

 

法然に頼んで『一枚起請文』を書いて貰う前に源智が「あれはだれですか」と尋ねたら、「韋提希夫人」だと法然は答えている。梅原氏は続けて書いている。

「源智は、法然が加茂の大明神が韋提希夫人となってあらわれたと言われたと思い、その信を深くしたという。この源智の言葉以外に知る手掛かりがないが、学者はいろいろ推理をたくましくする。」こう云って三人の学者の説を簡単に紹介した後、「いずれも一理あるおもしろい説であるが、私は少し異なる見解をとる」と云って縷々説明しているが、最後に次のように書いている。

 

私はこの韋提希夫人は法然の母ではないかと思う。法然の臨終の夢に亡き母があらわれたのである。そして母は法然に専修(せんじゅ)念仏(筆者注:ひたすら念仏をとなえて、外の行を修めないこと)の教えを聞かせてくれと頼む。法然は何としても母を極楽往生させたいと思った。源智もまだ母の胎内にある時、父は一ノ谷で殺された。平家の遺児として源智を育てるのに、母はいかに苦労したことであろう。源智の母に対する思いも法然のそれと変わりなく、あるいはそれ以上であったかもしれない。私は、韋提希夫人は母なるものの化身ではないかと思う。そして法然は、その母なる人に、『選択集』に自分の教えが書かれているというが、おそらく漢文の読めなかった母には読めない。それで母に自分の教えをわかりやすく書いた『一枚起請文』を与えようとしたのであろう。『一枚起請文』は母あるいは女人一般に与え、写しを弟子源智に与えた、法然教のエッセンスであると私は思う。

 

「夢枕に立つ」という言葉がある。「死んだ母が夢枕に立った」といったような物語や、実際そういったことがあったことを耳にすることがある。法然が出家して叡山に入ったその年に、父が生前息子の法然に話したように、実際に殺害され、続いて母も亡くなっている。源智はそれ以上の悲しい父母との別れを体験して居る。だから法然だけでなく源智も、韋提希夫人が実際にあらわれたのを見たということは、実体験だと私は思うのである。

 

これは私が従兄から聞いた話であるが、彼が阿武郡の宇田郷村にいたとき、彼の家の直ぐ前に一人の漁師がいた。彼は寅年で「寅マー」と皆に呼ばれていた。彼は屈強な男で、力が並外れて強かった。

「坊ちゃん、私の腕に縄をしっかり結びつけてみなさい」

従兄が縄をしっかりと結びつけたら、寅マーはグッと力を入れて腕を曲げると大きな力瘤が出来て、縄がプツンと切れた。

今度は寅マーは孟宗竹の一尺ばかりの長さに切ったのを持ってきて、

「寅マーがこれを割って見せましょう」と云って大きな手でそれを横摑みにして力を入れたら、メリメリと太い孟宗竹にひびが入って割れた。

又従兄はこんなことも話した。或る日沢山の大きなマグロが水揚げされた。一匹が百キロ近くもあるので、二本の天秤棒を交差させて四人で運搬するのがやっとであった。ところが寅マーは一人で前後に一匹づつ、一人で二匹の大きなマグロを軽々と天秤棒で運んだ。

 

こういった力が強く気の優しい寅マーが、或る日仲間の漁師達と日本海の遠く沖まで漁に出かけたが、天候が急変して船が沈んで全員亡くなった。その後船が見つかった。その時漁師の全員が其の船の中で見つかった。荒波で船は破壊されたにもかかわらず、全員は仏となって帆柱などに括り付けられて居たのである。普通なら波に押し流されて最後は魚の餌食になるところを、見つかったのである。誰もが不思議に思った。

 

実は船が難破したその日の晩に、漁師の一人の母親が仏間で息子の無事を祈って居たとき、その母親が無意識に次のようにつぶやいたのである。その声は寅マーの声に似ていた。

「この時化(しけ)ではもう生きては帰れない。海に飛び込んだら死ぬだけだ。せめて我々の死体だけでも見つかればと思う。その為にはしっかりと帆柱にでも括り付けたら良かろう。若し儂(わし)の云うことに賛成なら、そうしてやるがどうか」

寅マーはそう言って皆を彼独特の結び方でしっかりと縛り、最後に自分自身を柱に縛り付けたのである。この事は当に「夢枕に立つ」た、と云える話と思われる。

もう七十年以上も前に聞いた話だが、これを話してくれた従兄は今九十五歳になる。彼もきっと覚えていることだろう。

                 2021・1・26 記す