yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

冬季雑感

令和4年は西暦2022年である。しかも今日は2月22日と、数字の2が並ぶ珍しい日である。もう一度書いてみると、2022.2.22となる。朝5時に目が覚めたので起きて洗顔の後、この正月から読み始めた大佛次郎著『天皇の世紀』を開いた。その第2巻の中の一項目「地熱」を読んでいたら、梅田雲濱の事が書いてあった。彼の事を知る人はそんなに多くはいないだろう。近代日本史を学んだ人なら、彼が安政の大獄で最初に逮捕され獄死したことを知っていると思う。

 

 私は彼が萩に来て、私の曽祖父のいた東田町の家に一泊したという記事を何処かで読んだ覚えがある。『天皇の世紀』を読んでいたら次のような記述があった。

 

  志士の一人、梅田雲濱は「妻は病床に臥し、子は飢えに泣く」の詩で有名だが、これはずっと古く貧しい時代か、安政の大獄で獄中に入ってからの述懐らしく、以前には雲濱は商才があったので、若狭藩の浪士だが、安政三年には長州萩の城下にいて、学問修行に来ていた筈の者が、長州物産御用掛となった。産物を藩の権力でおさえ、上方と交易する仕事で、その時分から雲濱は大阪あたりの豪農や商家と連絡があって、物産方役人と相談して、大阪に長州藩の物産販売所を設けるようにした。

  かくして、長州よりは米、塩、半紙、干魚を京畿一帯の諸国へ、上方からは呉服類、小間物、薬種、材木を長州へ送るという、長州、上方交易の取極めができたのである。

 

  私は平成10年に萩から山口に移り、定年後の生き方を模索していて、たまたま同人誌『風響樹』のメンバーになるように誘われ、そのために我が家に関連した事を『杏林の坂道』(私家版)に少し書いた。その中に曽祖父・梅屋七兵衛が毛利藩の為にイギリス人の商人から鉄砲を千挺購入したことを書いた。一介の商人であった彼が、こうした重大な要件を木戸孝允を通じて藩がどうして彼に頼んだか疑問に思っていた。この度上記の文章を読んで私なりに想像してみた。

 

 我が家は代々勤王の志が篤かったと聞いている。毛利藩がそうであるからだろうが、関ヶ原の戦いで毛利は防長二州に減封された。その時私の祖先は毛利と一緒に広島から移ってきた。過去帳を見ると、我が家の5代か6代までは武士であるが、それから曽祖父の代頃まで回船問屋をしていた。彼は幼くして両親に死に別れていて若い時から苦労をしている。時代の趨勢を見たのか彼は酒造業と藩の武具の取り扱いを始めている。

 

 雲濱が萩に来たのが安政3年で、曽祖父はその時33歳の働き盛りである。お互い尊王の志を抱いていたから意気投合したのではないかと思う。恐らく我が家で2人は熱のこもった話をしただろう。こうしたことから、恐らく雲濱の示唆もあって、萩の物産を上方へ送ったりして、聊か財をなしたのかもしれない。またそのために木戸孝允を通じて、先に述べたような鉄砲購入のことに繋がったのではないかと思う。雲濱が処刑されたのが安政5年(1859)だから鉄砲購入はそれから丁度10年後の慶応2年の事である。ついでに雲濱の事を見てみると次のように書いてある。

 

  梅田雲濱(1815~1859)

   若狭(福井県」 小浜の範士。京都で梁川星巌頼三樹三郎ら志士と交際を深め。嘉永5年(1852)ペリー来航には吉田松陰らと対策を論ず。安政3年(1856)長州藩に遊説して、同藩と京都、奈良、十津川間の物産交易の仲介をした。つねに尊王攘夷運動の中心に位置し、このために安政の大獄(1859)で、最初に捕らわれ、橋本左内頼三樹三郎吉田松陰らと刑死された。                      (『大日本百科全書』より)

 

                   

 令和4年2月23日。朝6時に眼が覚めた。昨夜9時半頃寝入ったと思うから、8時間半の睡眠時間になる。充分寝足りたのですぐ起きて、また昨日に続いて『天皇の世紀』を開いた。アメリカとの日米修好通商条約締結を促すハリスの意向を受けて、幕府としては締結に賛成で、朝廷の承諾を簡単に貰えるものと思って、遠路やってきた老中堀田正睦遠国奉行川路聖謨等の一行は、思いもかけない抵抗反対に直面し、ついに彼らはすごすごと江戸へ帰る。このことが実に綿密に数多くの手紙など例に引いて書かれていた。この本は各巻400ページ以上あり全部で10巻ある。毎日2.30ページづつ読むから今年中に読み終えたらと思っている。それにしても著者はよくこれだけのことを書いたと感心する。数ページおきに一流の日本画家と洋画家の挿絵も載っているので楽しみである。

 

 挿絵と言えば、一昨日知人の女性から手紙が来た。彼女は米寿に近い高齢だと思うが、その年齢で絵本を書こうと言われるのには感心する。手紙には次のように書かれていた。

 

  「硫黄島の奇跡」、文章をどう簡潔にまとめるか、私の力ではなかなかむづかしいのは、はじめからわかっていたことですが、とりあえず絵のイメージを作るための土台として、書いてみました。

  気の向くまま、いつ出来上がるとも知れない仕事ですが、おかげ様で、生甲斐を与えていただき感謝するばかりです。自己満足かも知れませんが、ごく身近な範囲に見ていただければという気持ちです。「命を賭ける」覚悟ももたないディレッタントの仕事におつき合い下さいというのも失礼かと存じますが。この「奇跡」のお話は、子供たちをはじめ、たくさんの方々に知ってもらいたいから  

 立ち向かうにいたったのです。なんとか納得のゆくまで追及したいと思っておりますので、どうかご助言なども厳しく承りますようお願い申し上げます。

  

 私はこの手紙をもらって感銘を受けた。先にも書いたように彼女は米寿に近いと思う。それなのにこれほどに気迫を持っておられるとは。彼女は先に『郷土平川のおはなし みんしゅうの神様 隊中様』という立派な絵本を、2015年に山口市の平川コミュニティ推進協議会から出版されている。「隊中様 」とは藤山佐熊とう青年で明治維新を成し遂げるうえで、大きな力となった奇兵隊・諸隊のひとつである振武隊の隊士の物語である。

 

 数年前、私は萩から来た友人2人と一緒に、彼女の案内を受けてこの藤山佐熊の記念の祭りに参加したことがある。彼の墓は平川地区から大道に山越えで行く途中の山腹にあった。その日は神主が来て地区の多くの人が参列して厳粛に行事が執り行われ、私にも榊をお墓に捧げるように言われた。平川地区の人は今でもこの青年を崇めていることがよく分かった。この老婦人はこのことを知って絵筆を執られたのである。人生意気に感ずというが、今回『硫黄島の奇跡』を読まれて、又ここに生甲斐を感じたと言っておられるが、90歳の老境に達した私としても、二度とない人生、如何に最期を生きるべきかと考えさせられた次第である。

 

 ここまで書いた時、小郡に住んでいる息子が、今日は天皇誕生日で休みなので来てくれて、先のご婦人が手紙と一緒に送ってくれていた機器(チップ)で、パソコンで文章が読めるようにしてくれた。A5の用紙7枚に、『硫黄島の奇跡』を熟読され、16の場面を選んで実に要領よく纏めた文章にされていた。彼女は絵が上手で、この文章に基づいて絵を描こうとしておられるのである。私としては完成が楽しみである。早速彼女にお礼の電話をして、近いうちに会って相談することにした。

 

 そういえば、昨日『硫黄島の奇跡』を出版してくれた文芸社から、もう一年契約の延長をお願いしたいと言って来たので承諾の返事をしておいた。まだ在庫本が相当数あるようだが、少しでも多くの人が読んでくれたらと思う。

 

 ついでに今日面白い事があったので書いてみよう。実は萩市に私と同姓同名の人物がいることを知ったのはもう20年ばかり前になる。彼は私より高校が1年上で、在学中は相撲部で活躍していた。私の同級生で同じ相撲部で活躍していたのがいたので、私は相撲部の練習を放課後よく見ていた。 この一年上の人物は大学を卒業後養子になって、山本家の姓を受け継いだと思う。いつぞや庭を開放して一般市民にそこに咲いている花々を見てもらっているといった新聞記事が載っていた。

 

 私は昭和39年から20年間母校に世話になり、相撲部の部長にもなっていたし、彼の事を思い出した。彼の実家と養子先についても我が家と多少関係があるので、健在かどうか一度安否を尋ねてみたいと思っていたので、今朝思い切って電話してみた。そうすると本人が出てきて、いかにも楽し気に応対してくれた。92歳になるというが声もしっかりしていて、今のところ元気だから、萩に来たらぜひ寄ってくれとのことだった。先に述べた女性といい、この先輩といい、老いてもまだ元気な人の存在を私は頼もしく、また嬉しく思うのである。

 

 ここで川路聖謨(かわじとしあきら)についてだが、彼は先に述べた幕府から派遣され、京都へ行った堀田正睦の側近の一人である。この人物の事を私が初めて知ったのは、中野好夫の文章を讀んだからだったように記憶する。話が逸れるが、この中野氏の事は今はほとんど忘れられているように思う。今から60年昔、私が大学生の頃からその後数十年間、彼の名前が新聞紙上に出ていない日はなかったと言っても過言ではない。彼は非常に優れた英文学者で東大教授だった。然し定年前に突然辞職した。その理由が尋常ではない。「東大でもらう給料では生活できない。私は給料の全部を本の購買費に当てている。それでも足りないくらいだ。だからこれからはもっぱら執筆で生活するつもりである」と、こう言った話であった。

 

 彼の娘さんが父の事を書いていたが、「父の部屋は1か月で足の踏み場もないほど本が乱雑してしまう」と。

 私はこれを聞いて夏目漱石を思い出した。漱石も当時としては日本で唯一の大学であった東大で教鞭をとり、英文学を教えていたが、突然やめて朝日新聞社に入っている。この点中野教授もまったく同様だが、彼の場合、新聞社や出版社にも入らずに筆一本で暮らすというから世間の人は驚いた。選ばれて東大に入った学生たちに教えるより、もっと多くの一般読者を対象にしたいというのだろう。彼の文章、特に多くの翻訳は実に上手いと思った。また彼は反骨精神の持ち主として政治の面でも活躍していた。

 

 中野氏は確かに翻訳、エッセイ、全集の編集などその後縦横無尽の活躍していた。そして最後はイギリスの歴史家ギボンの『ローマ帝国衰亡史』の翻訳に取り組み、途中で亡くなったが、彼の息子が後を受け継いで完成している。前にも云ったが一時彼は非常に有名だったが今は知る人は少ないだろう。歴史に名を残すということは実に希少な事である。人生は毀誉褒貶、歴史上の人物について少しでもその良き点を学べば良いのではなかろうか。前にも書いたが、私は戦前に出版されている『大日本読本』をよく読む。是には我が国の歴史上有名な人が取り上げられている。青少年に我が国の歴史に現れた人物の良き点を教えることは大事だと思う。戦後から現在にかけて、文科省はこの点どうもそういった意図に欠けているような気がしてならない。日本精神の良い面を青少年に教えることが大事である。国の骨幹は教育にあるという。文科省に気骨のある立派な人がいて、もっと青少年の教育に専念してもらいたいものである。少なくとも文科省の連中は数年は現場において教員としての経験を積んで欲しい。

 

 この拙文を書き始めて今日で3日目である。今朝も6時前に目が覚めたので『天皇の世紀』を開いた。30ページばかり読んだので昨日のつづきを書いてみよう。

 川路聖謨という人物は相当優秀な人物だったようである。維新直前、諸外国が我が国に交易を求めて来たとき、それまで鎖国だった日本を如何に導くか、これは幕府にとって大問題である。朝廷を取り巻く公家は概して因循姑息。そこに大穴を開けたのが彦根藩主で大老になった井伊直弼の決断である。彼が大老になったのが44歳。その2年後に桜田門外で水戸の浪士らによって殺害された。直弼は確かに開国の必要を感じていて決断した。この点では川路と意見を同じくしていたが、彼の祖先が徳川家康の重鎮四天王のトップである。その誇りと主家への忠節の念が強く徳川幕府の持続こそ最優先と考えていたようである。我が国の将来を思う点で、川路ら開明派の主張とあまり変わらないようであるが、朝廷を無視しての通商の締結や、その後の余りにも過激で独断的な行動が保守派特に水戸藩に恨まれ、無惨な最期を遂げた。しかし直弼という人物は歴史に残る偉大な人物だったと思える。

 

 今から30年ばかり前、私がまだ萩市にいたときの或る日、卒業以来それこそ20年ぶりくらいに東京から帰省した1人の同級生に出会った。その時彼が、「これを見てくれこれ」と言って新聞紙に無造作に包んだ萩焼抹茶茶碗を見せてくれた。

 私は手に取って「なかなか良く出来ているね。誰が作ったのかね」と問うと、

 「弟が作ったのだ。弟は萩高校を中退して今では焼き物をしている」と答えた。

 このように話したことがきっかけで、私はその後この同級生の弟さんと付き合うようになった。

 平成10年に私は萩から山口に移ったが、この弟さんも萩市の最南端に位置する木間という山間部に、前から窯を作っていたが、そこに住居を建てて住むようになった。彼は奥さんと2人暮らしで、山口の我が家から車で40分ばかりで着くことのできる閑静な山間部だから、私は年に2・3回は家内と出かけ行っては楽しく話して帰っていた。

 

 その弟さんは兄に似てなかなか文才もあり、萩焼きに関する本を2冊出版しているし、しばしば陶芸関係の雑誌にも投稿していた。ところが数年前から目が次第に見えなくなった。私は気の毒に思って手術を勧めて些少の見舞いをした。しかし手術の甲斐もなく結局ほとんど失明になった。それでも私たちは話はできるので訪ねて行っていた。

 

 或る日彼はお礼だと言って数冊の彼の愛読書を送ってくれた。私がまだ手にした事のない本ばかりだった。その中に私にとって非常に面白い本があった。私は今でもそれを時々開いてみる。これは山田風太郎著『人間臨終図鑑』上下の立派な箱入り2冊である。此の中に井伊直弼川路聖謨が載っているのではと開けてみたら、意外なことに井伊直弼が載っていなかった。この二人の事はまた書くことにするとして、私はここで強く思ったことを記しておこう。

 

    人間は偶然に生を受け、そして数々の偶然に遭遇し、最後は誰もが必然で終わる。つまり死ぬとうことである。実はここに挙げた本を贈ってくれた友人の事だが、私の妻が亡くなってからは私自身車の運転を止めたので、彼を訪ねる機会がなくなった。従って時々電話して安否を問うていたが、どうも留守電話ばかりでどうしたかと心配していた。昨年秋吉台の近くの芸術会場で音楽附き食事会があったので、一泊して翌朝一緒に参加した妻の従弟の車で彼の家へ行ってみたら、室内はカーテンで見えなくなっていて鍵もかかっていて中に入ることもできない。

 

 帰宅していろいろ当たってみたがどうしても分からない。たまたま彼の奥さんが老人施設に入っていることが分かって連絡を取ったら、奥さんはどうも痴呆の気があって要領を得ない。いよいよ困ったが手の打ちようがない。実は彼が5人兄弟で一番下の弟さんが萩高校卒業で、東京にいる事を知って電話したら本人が出てきて、「兄は今萩市にある病院に入っています。重篤で眼が見えないうえに意識も定かではない状態です」との思いもかけない返事だった。まさに植物人間の状態で生かされているのだ。私は気の毒でいたたまれなかった。

 

 彼は私より1つ若いから今89歳だと思う。また奥さんも85歳くらいだ。先にも書いたように私はこれまで何度も妻と一緒に出かけては、楽しくおしゃべりをして時を過ごしたものである。それが今はどうか。老夫婦別れて生活というよりむしろ生かされているような状態で、その上お互いがどこにいるかも恐らく知らないのではなかろうか。ただ最後の死という必然を意識もしないで待っている状態である。人間として実に気の毒な有様である。

 

 彼は鎌倉や京都で作品を展示販売した事もある。又萩焼のルーツについて研究し、自説を本にして出版もしている。そういった華やかな時もあった事を思うと、人の運命のどうしようもないことを痛感して淋しい限りである。コロナ感染の収束しない現在、私としても手の打ちようがない。ただただこの上は安らかに最期を全うしてくれと祈るだけである。          

    合掌