yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

徳佐の禅寺

台風14号が山口県を直撃するというので心配していたが、四国方面へ逸れたのでその点杞憂に終わった。したがって18日の土曜から秋晴れの好天気となった。もし台風が直撃したら心配することがあった。それは長男の嫁の父親の納骨が19日の日曜日に予定されていたからである。

 

 当日長男は下関から車で9時過ぎに帰った。9時半前に家を出て宮野にある嫁の家に10時前に着いた。思ったより早く着いた。家に着いてまず仏を拝んだ。その後直ぐに、嫁と母親と弟の3人は遺骨や供花などを抱えて、弟の運転で目的地の徳佐のお寺に向かった。私は長男と二人で彼らの車の後を追っていった。日曜日であったが時間がまだ早かったのか車の往来は少なくて順調に走ることができた。秋晴れの青空に白い雲が浮かんでおり、周囲の山々は濃淡の緑色の木々が鬱蒼と繁り、それに道の左右の田圃では、稔った稲穂が黄金色に輝き、彼岸花が真っ赤に点在している。これら五つの原色に彩られた美しい田園風景の中を我々は車を走らせることができた。行事がすべて済んで帰途についたときだが、山口から益田方面に向かう車が延々と続いているのに驚いた。これを見たとき2時間ばかりだが、我々は朝早く出発してよかったと思った。

 

 徳佐は山口市に町村合併で編入されるまでは阿武郡の中にあった。今は山口市の中でも最も北に位置している関係で、市街地に比べると普通でも2度くらい気温が低い。また山口市内よりかなり標高が高いので、特に冬季には零下5度以下になることもしばしば報じられている。そういった温度差があるためか、徳佐の米は美味しいと言われている。またリンゴやナシも特産で、多くの観光客がその季節には訪れているようである。

 

 山口から徳佐へ行くには途中長いトンネルがある。トンネルを右に見てそのまま行けば萩市に達する。我々はトンネルを通過し、行く手の右側に山口線の線路が走っている車道を進んだ。この道は比較的真っ直ぐな道である。左右には田畑があるが山が割と近くに迫り人家は非常に少ない。途中長門峡北入り口の道の駅には、駐車の車が多く見えた。コロナ感染がやや収まったのと、日曜日だからだろう、こうして多くの人出となったと思われる。しばらく行くと線路の近くに多くの車が止めてある。線路のそばに大きなカメラを据え付けたり、カメラを持った人がこれまたたくさんいた。彼らはこの日に限って走るSL蒸気機関車を撮影しようと待ち構えているのだと分かった。鉄道マニアにはこの機関車の姿とは別に、走るときの蒸気の音に異常な興味を抱く人も居ると聞く。人間は何事によらず興味や関心を持つもので、そのために時間やお金を使っても無駄だとは思わないのだろう。私の教え子にも停年退職後、全国に鳥を求めて大きなカメラを抱えて探鳥の旅を続けている者がいる。私は彼がメールで送ってくれたおかげで今まで知らない鳥の多くを知ることができた。 

 

 我々は近くに山と狭い田の見える道をしばらく走り徳佐の部落に入った。車道に沿って人家や商店などの街並みがあり、公共の建物らしきものも見えてきた。ここには「しだれ桜」の並木で有名な八幡宮がある。県指定の天然記念物で、私は家内と数回来たことがある。その時は参拝人が非常に多くて、遠くの臨時の駐車場に車を止めたことを思い出した。我々はこの参道のすぐ手前を左の折れて、徳佐の町の一番の繁華通りともいうべき道筋に入った。そうは言っても僅か100メートルばかりの長さである。突き当りに徳佐駅があった。駅の手前で右に折れさらに少し行って左に折れるなどして車を走らせた。少し行くと青々とした田圃の中の一本道に出た。山口線がこの田圃の中を通ていた。此処にも数人の鉄道マニアの姿があった。ここから見た風景は、左前方の山麓まで青々とした田圃が広がっていて、徳佐が思ったより広々とした盆地であることが分かった。久しぶりに、人家も人気も全くない場所に身を置いて私は晴れ晴れとした気分になった。

 

 この山中にこれほどの平地があるのに驚きの眼を向けているうちに、車は左側の山の麓にある小さな禅寺の前に来た。そこは駐車もできれば車を回転すこともできるほどの道幅だった。我々は車を降りて寺の前の石段を登って行った。寺の近くには一軒の人家もない静かなところだった。石段を上った処が平地になっていて、そこにあるのが遠路山口から乗りつけた曹洞宗の広福寺である。

 

 私はこの高みに立って今来た道を振り返った時、黄色の稲穂と青い草の広がる彼方に、人家が点在しているのが見え、さらにはるか向こうにかなり高い山々が連なっていて、徳佐盆地が本当に広いな、とつくづく思った。そしてここが実に静かで良い処だと思った。お寺の本堂に入りしばらくして和尚さんが出てこられ挨拶されたが、その声が小さいからというより、私が年を取って耳が遠くなったので話の内容は全く聞き取れなかった。しかし和尚さんは柔和な顔でやや猫背で、動作は緩慢だったが実に感じのいい人だった。奥さんと思われる方が出てこられて読経が終わった後お茶を提供された。そこには息子さんと思われる背のすらっとした若い坊さんの姿もあった。50日ばかり前に行われた葬儀の時には、やはりこの親子がここから山口市内の斎場に見えたのである。

 

 禅宗は浄土宗や真宗と違って本堂に仏像を安置していない。その為になんだか簡素で淋しい感じがした。本堂を出て右側に弘法大師の石像が立っていた。禅宗の寺にも弘法大師の像があるのかと思った。供養のお勤めが終わったので、寺に所属する墓地でいよいよ納骨かと思ったら、納骨は街中にある共同墓地で行うというので、また車に乗って来た道を引き返した。先に言及した八幡宮の近くにある狭い横道を入った先に、かなり広い共同墓地があった。そこにはかなりの数の墓が目に入った。駐車して少し歩いたところに嫁の家の墓地があった。かなり立派で新しいものだった。磨かれた御影石で墓一式が作られていた。その墓地を囲む低い玉垣も磨いた石で出来ていた。

 

 この度の納骨する嫁の父が停年退職して、先祖の為にこのような立派な墓を建てられたのだろう。遺族3人の後我々も焼香拝礼して、無事に本日の納骨の行事は終わった。納骨だと聞いて、息子は当然参列すべきだと考えていたが、私はコロナで親族の参列者が少ないだろうと思い、参列させてもらうことにした。また故人がたびたび山口からこの徳佐の地迄奥さんと一緒にきて畑仕事をされていたようだが、畑で取れたと言ってサツマイモや山芋など、わざわざ持ってこられた事が度々ある。私はその親切な恵み心に対して、感謝しなければという思いもあって、この度の納骨に参加させてもらった。私としては来て本当によかったと思った。

 

 行事が済んで和尚さんとちょっと言葉を交わしたが、徳佐には禅宗の寺が殆どで、真宗の寺は一つだけだと言われた。禅宗の寺は大抵街中にはなくて山麓に位置しているようである。つまり俗界を離れて修行の場としての趣がある。したがって清浄で閑静な雰囲気を保っている。このかなり年配に見える和尚さんもそうした感じを受けた。ところが歩かれるのに、杖に頼ってよぼよぼとした足取りなのに、軽トラを運転して帰って行かれたのにはいささか驚いた。足が悪くなっても運転だけは出来るということだが、やはり身体の他の機能も衰えるから、高齢者の運転は自ら気を付けなければいけない。

 

 私はこの和尚さんの雰囲気から、彼の日頃の生活を想像し、ふと良寛和尚の生涯を思い出した。我が家は法然の開いた浄土宗である。しかし しかし私は大学に入って大変お世話になった先生が禅の研究をされていたので、禅に関心を持つようになった。したがって道元良寛などのことも多少知ったのである。人間は一生の間に思いもかけない人や事との邂逅で、大きな影響を受けることがある。私は先生が亡くなられた時、それは昭和55年だったが、その後で先生が持っておられた数多くの本を頂いた。その中には道元の『正法眼蔵』をはじめとして禅関係の本が多くあった。その中にあった東郷豊治編著『良寛全集上下巻』を読んで良寛に興味を持つようになった。10数年前に東京で高校の同期会があり、それが終わって私は一人で良寛の誕生並びに終焉の地である新潟県の出雲埼へ行き、国上山の五合庵や彼の墓のある寺へも行った。こうしたことがあって、外にも良寛に関する数冊の本を讀んだ。そして私はますます良寛という人物に心を惹かれるようになった。先にも書いたように、徳佐の禅寺の和尚は何処となく良寛の雰囲気を漂わせていた。きっと若い時分永平寺か何処かの禅寺で雲水時代修行され、その後諸国を行脚された後、最後にこの鄙びた地に留まって、清貧の暮らしを送っておられるのではないかと勝手に想像した。出来たら一度ゆっくり話を聞いてみたいと思うのであった。

 

 嫁の父もこの徳佐に生まれ、高校と大学は山口であるが、その後教員として県内各地を転勤された。徳佐に生まれた家はあったが、やはり山口市のほうが何かにつけて便利だと思われたのだろうが、郷里に田畑があるので、そのためもあって畑仕事に行き来することを考えて、山口市内でも出来るだけ郷里に近いところに新居を構え、毎週一二度奥さんと行っておられたようである。そして今最後に祖先の墳墓の地、懐かしき故郷において永遠の眠りにつかれたのである。 

 

 先にも述べたように良寛も生まれ故郷にわざわざ帰って、晩年を懐かしい友人たちに交わりながら最後の息を引き取っている。今はこのように故郷において先祖の方々のもとに帰ることがなくなった。つまり家という考えがほとんど薄れてきた。日本古来の風習が姿を消した。これは戦後のGHQの政策が大いに関係しているように思われる。もっとも田舎にあっては職が見つからないから、若者はみな都会へ出て行った。田舎で就ける職といえば、小・中学校の教員や役場とか郵便局のような職に限られている。この度の故人も、教師の道を選ばれたのもそうしたためであろう。私の友人で今萩におるのは高校の同級だった2人と、萩高校と萩商業学校に勤務したときの同僚2人のみである。同級生の1人は郵便局員でもう1人は地方の銀行マンで、共に奥さんに先立たれている。やはり何と言ってもこうした同級生やかっての勤務先の同僚は話が合っていい。私はまたふと思った。故人は先に述べた坊さんと話が合ったのではないかと。

 

 良寛漢詩と和歌をたくさん残している。彼は出雲崎で代々続く名主の家の長男として生まれたが、その職業にどうしても馴染めず、突然若くして家を出て出家の身となり、それからものすごい修行をし、ついに師匠から印可を授けられ、それからまたしばらく行脚・乞食の修行を行っている。そして最後は先に述べたように故郷に帰っている。彼の漢詩や和歌には非常に優れたものがあると言われている。漱石が最晩年に良寛の掛け軸を手に入れて非常に喜んだことなどを知ると、良寛がいかに日本人の魂の拠り所であったかが分かる。

 

 もうすぐ自由民主党の総裁選挙が行われるが、私としては日本人の心をしっかりと保ち、実行してくれる候補者が出てくれることを切に願っている。

 先に挙げた『良寛全集』を二階の書架から持って降りて開いてみた。昔読んだ漢詩で気が向いたところに小さな紙を挟んでいた。その詩と歌を此処に載せてみよう。漢詩は読み下し文である。

 

      花を看て田面庵(たのもあん)に到る 

            乞食(こつじき)

  

  桃花 霞の如く 岸を挟んで発(ひら)き         十字街頭 乞食し了る

  春江 藍の如く 天に接して流る         八幡宮辺 方(まさ)に徘徊す 

  行くゆく桃花を看 流に随って去る        児童 相見て共に相語るらく

  故人が家は水の東頭に在り。           去年の痴僧(ちそう) 今又来ると。

 

 

  世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞわれはまされる

 

  山かげの岩間をつたふ苔水のかすかに我はすみわたるかも

 

                   2021・9・21 記す