yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

閑日随感  

                     

荷風の『断腸亭日乗』を読むと、簡潔で実に上手い文章が目につく。とてもこのような名文は書けないが、真似して筆を執ってみる、と言っても実際はパソコンのキーを叩くのである。

 

 昨日二時五十分の新幹線で家内は神戸へ向かった。家内にとっては愛娘(まなむすめ)の如き姉の長女からの招きに応じて出掛けたのである。新山口駅まで車で送った。それから大袈裟に言えば数日間の独居である。自由な一人身の生活が楽しめればと、半ば解放感。

 

 七月十六日。 昨夜九時半に床に就く。「カントの時計」の如く正確ではないが、最近は一時から三時の間によく目が覚める。今日は丁度三時であった。トイレに行ってまたベッドに横臥したが、眠れそうにないので、読みかけていた渡部昇一の『知的余生の方法』(新潮新書)を読むことにする。彼は『知的生活の方法』というよく売れた本を書いて三十四年経ったいま、丁度八十歳でこの本を書いたとある。

 

「知的余生のための肉体について」という小項目で、彼はこれまで九十五歳まで生きようと提唱してきた。その為には「肉体的基盤」が必要であると言い、一例として漢字学者白川静氏との対談で「先生は毎日規則正しく仕事をし、規則正しく散歩する事が「健康の秘訣」だとおっしゃった」と書いている。

 

 このように提唱した渡部氏であるが、昨年だったか転んで肋骨を折り、それが原因で体調を崩し、今年八十七歳で急逝した。さぞかし残念だったと思う。やはり人間は天命に任す以外にはないようだ。

 

 この文庫本を読み終えたら時計の針は四時半を指していた。今更寝るわけにはいかないのでまた階下に降りて、気持ちをすっきりさせようと思い、風呂場でシャワーを浴びた。

 二階は寝室兼書斎である。渡部氏も書いているが

「夫婦生活にとって重要になってくるのは、年を重ねれば重ねるほど、夫婦それぞれの空間が必要になってくる。そのために、なるべくなら広い家に住む。そして、顔を合わせる機会を少なくする。その方が、お互いに不平、不満が少なく、またそれを聞かずにすむ。より快適に生活できると思う。」

 

我が家も早寝早起きの自分と、全く逆の宵張りの家内とでは生活のリズムが違うので、階上と階下と、各自別の部屋を常の居場所にしてすでに数年経っている。

 

さて、身体を洗ってすっきりしたので、机に向かうことにした。私は坐り机の方が落ち着くので、いつものように座布団の上に腰を下ろした。そして森鴎外の『北條霞亭』と注釈書の二冊を机上に置き読み始めた。今現在、鴎外のこの伝記を読む人は恐らく非常に少ないと思う。私は彼の書いた名作『渋江抽斎』は数回読んだ。続いて『伊澤蘭軒』を読もうとしたが、難しい上にどうも面白くないので途中で止めていた。しかし数年後改めて意を決して何とか読み終えた。鴎外の伝記三部作で残るのは『北條霞亭』だけである。今年六月二日にこの伝記を読み始めてすでに一月半になる。まことに遅々として進まずであるが、とにかく今度こそは読み終えよう。識者の中には此の作品を最高傑作と言っているのもいるから。今日読んだ個所に華岡青洲の事が載っていた。

紀州華岡の事などくわしく申来候。春秋病人夥敷集り候節治療を見候ヘば益有之候由,當今の華陀神醫なるよし」

注釈書にこうある。

「華陀 三国の魏の名医。養生の術に暁り、方薬に精しく医術を以って著わる。曹操が頭痛に苦しみ、陀を召して針せしめたところ、手に随って快癒した。のち召せども至らぬため操の害するところとなる。(「後漢書」方術伝)

華岡青洲と言えば有吉佐和子の小説で有名で、その映画『華岡青洲の妻』を思い出す。

注釈書を参考にしながら十頁ばかり読む。六時になったので降りて洗濯ものを洗濯機に入れて作動する。それから先ず神棚の「さかき」の水を替えて拝み、次に仏壇の花の水を替える。見ると先日供えた「桔梗」の紫の花だけが少し傷んでいたので庭に出て同じ紫色の一枝を剪って挿し替える。白い花の中にあって一本だけの紫色は目立って美しい。

 

その後、今度は玄関の戸を開けて瓦敷きの「たたき」で何時ものように、我流の体操をし、庭に下りてそこに安置してある石地蔵に向かって手を合わす。こうした神仏への祈りは私の朝夕の習慣的行為である。

 

さて、実は先日来運動不足を感じていたので、今朝はそれこそ一人身、勝手な時間が有るので、また先に読んだ白川博士の事を思い出して、近くにある「土師(はじ)八幡宮」の参拝を兼ねて、すこし散歩を試みることにした。

 

六時半に家を出た。五百メートルばかり行くと、神社の入り口にさしかかる。路のすぐ側の鳥居を潜ると、そこからは坂道で石段が続いている。数えながら石段を登ったら百歩で石段は尽き、そこからはごく緩やかな勾配の道を百五十歩で神社正面に達した。神域は杉の木に囲まれた丘陵地でまことに静寂。鶯が一声啼いた。頂上にこじんまりとしたお社がある。しかしこの神社はこのあたりの氏神で、季節ごとの祭礼には参詣者は少なくない。

 

反対側にある裏の参道を降りて廻り道で帰路につくことにした。往きも帰りも殆ど人影を見ない。途中ついこの間まで田圃だったところが、宅地造成されていたのには驚いた。山口市でもまだ住宅の需要があるのだろう。聞くところによれば、数十年前に出来た住宅地は段々と空き家が増えていると言う。しかしこうした市の中心部から少し離れた所には結構新しい家が建てられている。だがこうして建てられた家もやがて子供が独立したら、同じ憂き目を見るだろう。つまり子育てを済ませ、定年退職した人たちの老後の住処となるのは目に見えている。地方創生の謳い文句は良いがわが国の前途はどうも明るくない。

 

我が家のすぐ近く、歩いて一分のところにスーパーが出来たのは有難かった。一寸立ち寄って納豆、豆腐、ヤクルトの三品を仕入れて来た。こうして我が家に着いたのは七時十分、朝の新鮮な大気の中の散歩は、久しぶりに気分爽快であった。

帰りついて、猫の額程の菜園だが、胡瓜とトマトがよく出来ているので、胡瓜三本取って路を隔てた向かいのアパートの奥さんに差し上げたら、「この前は美味しかったです」と言って喜んで受け取って貰えた。丁度洗濯ものが出来上がっていたので、座敷の縁側に乾した。こうしてひと汗かいたのでもう一度シャワーを浴び、一人食卓についた。

 

断腸亭日乗』 大正十二年に、荷風は次のように記している。

 

七月十六日 雨やまず、書窗冥々。洞窟の中に坐するが如し。紫陽花満開なり。

七月十七日 曇りて蒸暑し、終日伊澤蘭軒の伝を読む。晩食の後丸の内の劇場に往き女優と談笑す。帰宅の後再び蘭軒の伝を読み暁三時に至る。雨中早くも鶏鳴を聴く。

七月十八日 今日も終日蘭軒の伝を読む。

 

 流石に名文だと思う。

                    平成二十九年七月十六日 記