yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

恩を知る

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「忘恩の徒」という言葉を昔はよく耳にしていた。日本人は子供の時から「恩を忘れるな」とか「嘘をつくな」と言い聞かされていたように思う。封建時代の名残だとも思われるが、やはり人間としてこのことは大事ではなかろうか。名利のためなら以前受けた恩義に背いて行動してもよい、人を胡麻化しても構わない、こう言った気運が最近暗々裏にあるような気がする。自由主義をはき違えたものだろうが、人の世にあって寂しいことである。犬猫でも恩を忘れない。有名な忠犬ハチ公の事を80歳以上の人は知っているだろう。

 日本人の国民性でこうした謝恩、報恩、正直ということは遺伝子に組み込まれているような気がするから、容易には廃れないだろうが、一方怨恨、つまり恨みをいつまでも忘れないという国民性もある。隣国の韓国はこの恨みの感情がとびぬけて強いように思われる。この度佐渡金山の世界遺産登録の申請にあたり、韓国政府のみならず民間人も一斉に、我が国のこの動きを察知して、ロビー活動を猛烈に展開して反対運動をしているようである。金山での朝鮮人の労働者の虐待があったとでたらめの宣伝をしている。しかも江戸時代と関係のないことなのに。なぜ彼らはそうして迄わが国に抵抗するのだろうか。

 

 日韓併合のお陰で朝鮮はそれまでの惨めな生活から格段に進歩した。わが国は国家予算の多くを朝鮮のインフラ、教育、その他近代国家にふさわしい状態へと注いだのに、そのことを真逆にとって恨みの感情を発揮して事ごとに我が国を貶めようとしている。

 隣人や隣国が考えの異なる場合実に困る。私自身萩にいたとき隣人が或る日突然豹変して家の境の事で悶着を付けてきた。その為に私はやむを得ず先方の言い分を黙認して遂に萩を去った。このような事はよく耳にする。先方は自分の意志が通ったのは当然だと思っているだろうが、勝手な自分の意思を通しただけである。これが国と国との間となると、避けて逃げる訳にもいかない。いざというときは戦争して国土を死守しなければならない。

 

 今ロシアとウクライナとの関係はそうだと言える。ロシアのプーチン大統領の一方的な思い込みに基づく侵攻で、ウクライナの民間人が子供を含め数百人も死んでいる。このような暴挙は決して許されるべきものではない。しかし世界史を見ればこうした悲劇は枚挙にいとまがないほど頻発していると言える。紀元前218年ローマとカルタゴ間のポエニ戦争で、ローマに迫ってあともう少しという処で補給が續かずハンニバルは破れ、その後カルタゴが完膚なきまでに殲滅され、国土に草木が生えないように塩迄まかれたと聞いているが、これもカルタゴがローマとの停戦協定で示された戦争放棄、平和主義を鵜吞みにして経済発展だけに終始したので、ローマが突如その協定を一方的に破棄して攻め込んだ結果だと言われている。

 問題はこういったことが人類の歴史上多くあるということである。わが国は戦後 「憲法九条」を守って戦争放棄・武力を持たないと言って来たが、実際は自衛隊の発足で軍隊を持つに至った。しかし依然として平和憲法の維持である。だが世界情勢は刻一刻と変わる。どうしてもわが身をしっかり守ることが必要である。防備がしっかりしていれば相手も容易には攻めてこない。人間は闘争本能や支配本能がある。それが独裁者に特に強い。絶対的な権力を持ったものがこうした本能に動かされたら事は一大事である。この先ロシアとウクライナの情勢がどのように展開し終結するか予断を許さないが一日でも速く円満に解決することを望む。

 

            

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 今日3月2日は私にとっては決して忘れることのできない日である。昭和55年3月3日の新聞に次の死亡記事が載っている。

 

  池本喬氏(いけもと・たかし=山口大名誉教授、追手門学院大元教授)二日午前零時二十五分、肝硬変のため京都府向日市洛西病院で死去、七十三歳。告別式は四日午前十一時から、京都府八幡市大谷二四の常昌院で。喪主は妻勝子(かつこ)さん。

  英文学専攻の禅研究家で、禅の古典を英訳、欧米に紹介した著書が多い。五十二年、勲三等瑞宝章を受けた。

 

 私は昭和25年に県立萩高等学校を卒業した。卒業前までは大学進学を別に考えていなくて、父の考え通り銀行にでも勤めようかと思っていた。しかし父の姉つまり伯母が父を説得してくれたおかげで翌年山口大学へ入学した。教養課程を終えて2学年になるとき、父が萩商業で英語を教えていた関係で私も英米文学部を選んだ。何しろ高校時代までは全く勉強などしなかったので、突然シエィクスピアなどといった原書を読まされてはたまったものではない。更に中世英語とか古代英語などときたら珍紛漢紛である。それでも何とか単位だけは取って卒業できた。今から考えたら僅か3年間の出来事であるが、私の人生は大きく変わった。 

 こういった状態ですぐ高等学校の教壇に立つのだから教わる生徒にとってはいい迷惑だったと思う。私は英文科の主任教授の岡崎先生のお陰で県立小野田高校へ赴任することができた。そして当時「小野田高校の校長だった小川先生が私を採ってくださった。この2人の先生のお陰で教員生活の第一歩を踏み出すことができた。私はいつもこの両先生には感謝している。私にはこの他に大変恩を受けた先生がおられる。それが先に挙げた池本喬先生である。

 

 当時英文科には8人の先生が居られて、助教授または講師で教授はおられなかった。授業では先生方は自分の研究分野に関する講義をされていたように思われる。従って大學で発行する紀要に研究論文を発表されていたと思う。岡崎先生は英国の詩人の研究をされていて、授業では『英国詩文選』という分厚い教科書を買わされた。先生はこの研究で後に教授になられたように聞く。池本先生は英語学と英文法を、さらに古代英語や中世英語を教えておられた。中世の詩人チョーサーの詩を習ったが到底原書が読めるものではなく、一方的に先生の講義を聞いていた。これもオックスフォード大学出版の分厚い教科書での講義であった。

 然し私は池本先生の 人柄というか人間性に何かしら惹かれ、2年生の時1人の友人と一緒に先生のお宅を訪ねた。その頃は学生が先生の家を訪問することは良くあることで、大学に入ったら良き師や良き友の見つけることが一番大事なことだと聞いていたので実行したのだ。小西という先生が居られた。私は何人かの友人と先生宅を訪ねた際、これだけの本を讀めと言って20数冊の本と著者を記した紙をもらった。その中にロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』があった。私は最初にこの本の英訳を手に入れて曲がりなりにも読んだ事を覚えている。これは若き日のベートーベンをモデルにした名作だと言われている。この本は池本先生も推奨されていた。私は岡崎先生宅も一度訪ねたが、この小西・岡崎両先生ともう一人田中先生宅を訪問した以外何処へも行っていない。ただ池本先生のところへは頻繁に行った。

 

 玄関に入った途端、目の前に書架が立ちはだかるように立っていて、洋書がすべての段に並んでいるのを見てまず圧倒された。先生の書斎に通されたらそこにも部屋の周囲は殆ど蔵書ばかりで、私が学者というものはこうした書物に囲まれて研究を続けられるのかとの印象を強く受けた。我が家にはこれといった蔵書は数えるほどしかなく、あると言えば茶道に関する本が少しばかりあるだけだったからである。その後最初に一緒に行った友人はほとんど行かなかったようであるが、私は1人で夕飯を済ました後、片道2キロくらいある道を歩いては先生のお宅へお邪魔した。

 先生はそれまで書斎で勉強されていた様子であったが、快く私を迎え入れて応対して下さった。恐らくその頃は先生は宗教というか信仰の面で悩んでおられたと思う。

 

 先生は鳥取市の出身で県立鳥取第一中学校を卒業されて大阪外国語大学に入られた。先生は語学が堪能で、英語・独逸語・フランス語・アラビア語・インド語など7か国語も読むことができたようである。大學卒業後一時貿易関係の会社に入られたが数年後退職され、あらためて九州大学の英文学科に入ってさらに研鑽を積まれた。先生の厳父は小学校の校長で、長兄は鳥取中学校で絵画と柔道を教えておらた。先生はこの長兄を尊敬されていた。中々立派な方で、短歌を嗜み、宮中の歌会始めの会に選ばれて参列されている。鳥取名誉市民第1号にもなって居られる。次兄は軍人で将官だと聞いている。

 この次兄の奥さんの妹と先生は結婚されている。兄弟同志の結婚だが先生の奥様は繊細な神経の方、子供さんができたが幼児期に亡くなられそれから奥様は一時ノイローゼになられ、対人恐怖症になられたようである。

 「山本君、家内が会うのは君だけだよ」と言われたことがある。私がしばしば訪ねていたのでそのうち奥様も気を許されて夕飯のご馳走に与かったこともある。

 

 その後先生は山口大学を定年退職されて、大阪にある私立の追手門大学に再就職された。そして京都市の近くの長岡京市に居住されるようになった。私はその頃は萩高校に勤務していた。然し私の妻の姉が滋賀県に住んでいたので長期の休みに姉のところへ行ったついでに先生を3度訪ねた。

 「いつでも来てくれたまえ。君に泊まってもらえるように蚊帳を買った」と言われたこともある。 

 この長岡京市には長岡京跡がある。桓武天皇の初めての都である。一度妻を伴ってお尋ねした時、此の長岡京跡へ案内された。その時先生が「山本君。君の奥さんはベストだよ」と言われたことを今も覚えている。

 話を元に戻すが、奥様の状態が一時非常に悪化して精神科の病院に入れられた時、先生ご自身が非常に悩まれたのである。

 「山本君。僕はこれまでカトリックの教えを真面目に学び教会へも行って神に祈った。しかしどうしても救われなかった。自分の体がもたないまでになった。家内を残して死んだら、家内はどうなるかと思った。しかし禅を学ぶことによって何とか精神的に安らぎを得ることができたと思う」

 先生の実家は禅宗で、先生の長兄がよく坐禅をされていて、この長兄を先生は大変尊敬されていたことが禅に向かわれるきっかけになったのだろう。だから先の新聞の記事にもあるように禅関係の文献を英訳して海外に紹介されたのである。

 先生が出版される度にその本を頂いたが、私にはとても満足には読めなかった。それでも先生のお陰で禅というものをほんの少しでも知ったことは、私にとって非常に有難いことである。このような点でも私にとって池本先生は恩人である。

 先生は趣味としてバイオリンを弾いておられたが、私は一度聞いただけである。何しろ私には音楽的素養が皆無だから。しかし今はよくネットで音楽を聴いている。私はどちらかというと絵画に興味があり、展覧会などによく出かけていた。一番感銘を受けた画家はフランスの巨匠ジョルジュ・ルオーである。彼の個展を昭和29年、大学卒業1年前、卒業論文に必要な本を買う目的で父に頼んで上京した時、たまたま上野公園の美術館で開催していたのを見たのである。その時初めて西洋画に触れ、このルオーの絵を見て強い印象を受けた。その時のことは以前書いたが、そういったこともあって、私は大学に入ったこと、そして英文科の先生方に教えを頂いたことは、更には家内が来てくれたことも皆、人生では偶然のことだが、本当に有難いことだと思うのである。

 

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 上記の拙文を途中まで書いたとき正午前だったので、好天に誘われて散歩に出かけた。昨日は朝から小雨が降っていて多少寒い感じだった。今日は朝から晴れ上がって散歩には申し分ない天気である。しかし向かい風がきついのでマスクをしたら多少寒さを凌ぐことができた。今日はいつものコースとは違って直線距離にして我が家から500メートルは優にある吉敷川の河岸を歩くことにした。私は水際まで下りて行って水の流れの直ぐ傍を上流に向かって歩いた。清い水が枯れた葦の群生の根元をさらさらと流れていた。ゴロゴロと川底には白くなった石がある。魚は全く見当たらない。魚どころか生物と云ったらたった一羽のカラスが目に留まっただけである。それに一匹の小さな蜘蛛が土手から上がる時石段の上にいた。

 ネットで見たのだが 元東大教授の養老孟司氏が「農薬を使っているのは、面積当たり世界で日本が第1で、韓国が第2です。そして自閉症は日本が一番多いです。私はタイやブータンへ行ったことがありますが、あそこではハエや蚊など決して殺さないで、手でこうやって追い払うだけです」と言っておられるのを見たが、そういえばここ最近カタツムリやトカゲや蟹などといった小さな生き物の姿を見かけない。このことは人間にも何らかの影響があると思われる。

 散歩の帰りにコンビニで「山口新聞」を買った。新聞を読むのは数年ぶりである。今は新聞よりネットの方が情報が早いし、こちらの方が情報が正確だと思うので新聞の購読はもう3年前に止めた。久しぶりに見てみると、「ロ、州庁舎ミサイル攻撃 首都キエフ北方部隊増強」の見出しで記事が載っていた。3面、4面もウクライナ関係であった。ウクライナの今の状況は果たしてどうなのか、本当の姿は一体どうなのだろうか。この新聞なども皆海外の報道を借用しているのではないかと思う。

 

 散歩から帰って我が家の前に来た時、塀壁越しに紅梅が丁度見ごろに咲いているのに気が付いた。恐らく我が家の前を通る近所の人の目を楽しませてくれるだろうと思った。何と言っても自然は良い。草木もそうだが、生き物も人間と皆仲良く共生ができたら一番良いのではないかと思うのである。

 わが国は今のところ有難いことに平和である。

 そういえば今日は私の曽祖父、通称、梅屋七兵衛の祥月命日でもある。私は今朝特別の気持ちを込めて仏壇で先生と曽祖父に感謝の誠をささげた。もう少し先生についての思い出を書こう。

 

 先生は先にも書いたように昭和55年3月2日に亡くなられた。私は一度もお見舞いに行かなかった。奥様のお具合が悪くて交信ができなかった為でもある。死亡されたのを山口大学に勤めていた友人が知らせてくれた。私は授業が終わり、翌日の休暇届を出して先ず家内の姉がいる滋賀県へ行って一泊させてもらって翌日の葬儀に参列した。私は姉の家で、葬儀に際し1人の弟子として弔辞を捧げようと思い、その日の夜考えて半紙に毛筆で書いて式の終わりに読んだ。とっさの思い付きだが後から先生の親戚の方から礼を言われた。

 それから1年ばかり経って、先生の姪御さんご夫妻から連絡があって、先生の蔵書をもらって欲しいとの連絡があった。私は宝塚市まで出かけて行った。お座敷一杯に多くの書物が並べてあった。私は遠慮なくいただくことにした。然し禅関係の本は結局あまり目を通すことができなくて、先生が山口市におられたとき、そこの住職と昵懇の間柄であった洞春寺という古刹へ貰っていただくことにした。

私が今一番読んでいるのは『良寛全集』上下巻と『芭蕉事典』である。

 

 私が先生に初めてお目にかかり、それから約20年の間で、先生から頂いたハガキは139通、封書は24もある。今それは全部手元にある。非常に細かい字で書かれたのもあるし、実に奇麗な英文のハガキも5通ばかりある。岩波判の『漱石全集』には「書簡集」と「続書簡集」の2巻がある。私は試みに漱石が誰に一番多くの書簡を出したか見てみたら、小宮豊隆に121通で1番多く、次が高浜虚子に宛てて当てて109通出していた。しかし漱石の通信した相手は184人もいて、50数通貰っている人も数人いる。彼らは皆漱石からの書簡を保持していたことがわかる。これから分かることだが、如何に漱石筆まめで、友人・知人を如何に大事にしていたかということである。

 私の場合、池本先生から頂いた書簡は今読み直してみると本当にありがたい。私は先生の御恩に果たして報いたかと忸怩たる思いである。実は今日先生の姪の方が宝塚におられるので、電話してみたらご健在で話ができて嬉しかった。92歳になられるのだがよく覚えておられたので、一昨年上梓した『硫黄島の奇跡』を送りましょうと言ったら、喜んで読ましてもらう言われ、有難く思った次第である。

 考えてみたら人生において人との出会いは不思議である。数えきれないほどの人と接するだろうが、こうして縁が生じて後々までも繋がりが切れないというのは少ないのではなかろうか。親子の縁、夫婦の縁、師弟の縁、友人との縁、考えてみれば各種多様であるが、折角の縁は大事にしなければとつくづく思うのである。

 

 最後に今日ネットで面白いというか、眼から鱗が落ちるような話を聞いたので紹介しよう。

 筑波大学教授の中村逸郎氏は『ロシアを決して信じるな』(新潮新書)という本を2021年に出版している。質問者はこの本を讀んでインタビューをしている。数多くの質問をしているが、中でも一番驚いたのは、いまのプーチンは2000年から2008年まで大統領であったプーチンと、その後首相を務め、2014年から今に至るプーチンとは違う人物であるということである。ちょっと信じられないことだが、最初の奥さんはこのことを知って離婚した。又ドイツのメルケル首相も、ドイツ語が堪能なプーチンでもドイツ語のアクセントが違うので、それを見抜いてその後はプーチンとは交渉をしなくなったということである。

 もう1つ驚くべきことは、ロシア人はモンゴルやナポレオンなど、過去度々国土を侵略された。又現在共産主義とは言え、独裁政治の厳しい管理下に置かれている。おまけ冬季にはマイナス45度にまで達するような厳しい環境である。彼らはこういった政治的にも自然にも厳しい状況下であるがために、解放感を求める考えは猛烈に強い。したがって彼らはあのアルコール度の強いウオッカを愛飲し、問題はその飲んだ後だが、ガラスコップを床や壁に投げつけて木っ端みじんに割り、その時の破壊音に満足感を覚えるということである。ロシアの歴史を見れば、反逆者への虐殺、拷問、集団的破壊活動やスパイ活動など異常である。こういったことは我々日本人には考えられないことである。

 以上の事はインタビューのほんの一部である。今ロシアがウクライナに侵攻しているが、これからどうなるか全く予断を許さない。益々ロシアは一般民間人を殺戮していくのではなかろうか。

 人間の中には自己の欲望利益のためには、他人を平気で殺すものがいるということを忘れてはいけないし、そのためにはこれまでと違ってわが身を自ら守らなければいけない。決して能天気であってはいけないと思うのである。学校での成績がただ良いだけで、国家公務員試験に合格し、外務省に入ったような役人では、海千山千の外国の外交官とは太刀打ちできないと中村教授は言っていた。