yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

海行かば 水漬く屍

今朝目が醒めたのは六時十五分前だった。最近は夜中の一時頃よくトイレに行くから、朝起き上がるのがどうも遅くなる。洗顔の後昨日から読み始めた瀬沼茂樹の『夏目漱石』を続けて読んだ。漱石の誕生から英国へ留学して帰国した頃迄だが、実に的確に良く書かれていた。私は唐木順三の『現代史の試みを』併せて読んでいるが、その書評を瀬沼氏が書いているので改めて瀬沼氏の存在を知った。ひょっとして彼の本を買っているのではないかと思い書架を探したらやはり買っていた。彼等二人とも一九〇四年生まれだから、私より二十八歳年上である。

 

私はこの本を一九八四年に手に入れている。著者が八十歳で亡くなった年である。今考えると買っただけで全部は読んでいない。本は一度や二度読んでも忘れる。良い本はくり返し読む必要がある。この本は一九七〇年に出版されて、私が入手した時既に「第12刷」とあるから余程よく売れたのだろう。確かにこの度読み始めて、実に良い評伝だと思った。

 

それにしても漱石の頭の良さには驚く。頭脳明晰であるが故に、凡人には及びも付かないことを考えて、自ら頭を悩まし、本人の苦悩はもとより家族の者も巻き込んでいる。

しかし漱石は人間として実に誠実で暖かさも持っていた。そして人間としての生き方を真剣に追求したから、あれほどの優秀な弟子が漱石の下に集まり、いわゆる「漱石山脈」を形成したのだ。

 

私は大学の卒論で、スコットランドの国民的詩人「ロバート・バーンズ」について書いた。それというのも漱石東京大学・大学院生の時書いた、『英国詩人の天地山川に対する観念』という論文を読んで、バーンズの事を知り、曲がりなりにも論文を提出して卒業できた。それから今日まで漱石の作品や研究論文などを読むのを楽しみにしてきたが、いつ読んでも面白くまた教えられる。山口市に移ってすぐ、弓道の稽古を少しした事で、『漱石と弓』という文章を書いたが、それからは何も書いていない。しかし彼について読むのは楽しみである。敢えて言えば、私の好きな作家は漱石と鷗外である。我が国の作家としてこの両人だけは読むべきだと識者の多くが言っているので、それに従っただけだが、私としては良かったと思う。

 

七時になったので今日は朝の内に散歩に出かけようと思った。昨日は夕方の六時半に出かけたが、まだ西陽が照っていて汗ばむほどであった。実際に夕陽が山陰(やまかげ)に沈んだのは七時前だった。と言うことでこれからの散歩を早朝に切り換えようと思い立ったのである。夏季になったら七時でももう遅い。六時頃家を出るべきだった。七時だともう朝日は上って氣温も上昇している。多くの小学生が学校へ行くのに出合った。小学一年生くらいの小さな子が大きなランドセルを背負っているのを見ると、まるでランドセルが歩いているようだ。しかし六年生ともなればずいぶん背が高くなって、中には大人の背丈に匹敵するようなのも見かけることがある。我が家の周辺には新興住宅が多く建っていているので、こうして朝の登校時刻になると、どこからともなく出てくる多くの小学生の姿を見かけて活気があって良い。

「お早う」と声をかけると、マスクをしたままで「お早うございます」と丁寧に返事をする子もいる。

 

自動車道路から斜めにそれた小道に入ると、その細い径に沿って一メートルくらいの幅の溝があり、山からの清流がさらさらと流れている。笹の枯れ葉が浮いており、水面に光が当たって美しい波の紋様ができている。溝の反対側は畑で、大きな栗の木が二本と柿の木が一本あって、その枝が部分的に溝を覆っている。今は栗の白い花が房状になって木全体を覆うようにこんもりと繁っている。

 

私はこのススキの穂のような、棒状の十五センチくらいの細長いふわふわした花の房が皆栗になるのかと思って調べてみた。これは皆雄花で、これらの無数とも云える雄花の根元に所々にひっそりと五ミリくらいの雌花があって、その先に雌しべがある事を初めて知った。何だか匂いがするので、鼻を近づけたら雄花の放つ何だか腐ったような異臭であった。この雌花が秋になると淡い緑色の棘で覆われた栗の毬(いが)となって、時々路上や溝の中に落ち、また浮いて流れるのを見かける。

 

柿の枝にも大きな葉に隠れるように二センチ位の小さな真っ青な実がついていた。成熟しても誰も取って食べる者はいない。熟して路上や水の中に落ちている。時々カラスが柿を食べていることがある。

 

しかし枯れた柿の葉は実に美しい。一六四〇年代、初代の柿右衛門がこの赤い柿の葉を見て、彼独特の赤絵を創始して、白磁の美しさとの調和性を究極まで高めたと言われている。

 

さらに歩を進めて小さい石橋を渡ると、溝は行く手の左側に変じ、田圃が右手に広がっている。今は田植も終り、束にして植え付けられた二十センチばかりの早苗が、青々と育って水の張ってある田圃一面にすくすくと成育し、爽やかな青一色に染まった景色は見た目に実に気持ちが良い。

 

ふと見ると、黒豆くらいの体に、不似合いの大きくて長い尻尾をゆらせながら泳いでいるオタマジャクシがいた。近づくと水中に潜り、呼吸をするのだろう又水面に出てきたので、しゃがんでスマホで実態を撮そうとしたが果たして上手くいったかどうか分からない。

 

よく見ると数え切れないほど多くのオタマジャクシが、水中の泥の上に身を沈めていた。そして彼等は絶えず尻尾を動かしている。これらが皆蛙に成育したら田圃は蛙で埋まるのではないかと思うほどいた。

 

何故「オタマジャクシ」と言うのかと調べて見たら、調理用具の「玉杓子」に姿形が似ているからだと書いてあった。「玉杓子」に「御」をつけて「お玉杓子」と尊称されているのかと勝手に想像した。これから彼等が蛙になっていわゆる蛙の合唱も聞かれることであろう。

 

おたまじゃくしはかえるの子

なまずのまごではありません

それがなによりしょうこには

やがて手がでる足がでる

 

私が平成十年に萩から山口に移ってきて、すでに二十三年の歳月があっという間に過ぎた。当時は我が家の周辺が皆田圃で、時季になると蛙の鳴き声が絶えず聞かれたが、今は周辺に家が建ち並び、自然の風景が乏しくなってその点つまらなく感じる。

そういった意味で私は散歩には、よく上記の道筋を選ぶのである。今朝もこの田圃に沿った小道でも何人かの小学生に出合った。

 

何時ものように田圃の側を暫く歩き、今度は自動車の通れる道に出た。ここはアスファルトの舗装はされていない。その道を西に向かって歩み、突き当たりが小高い丘になっている。丘の麓に「六地蔵」が建てられているので、私はいつも賽銭を上げて拝んだ後、その前を通り、数歩行ったところからセメントで出来た段を上って墓地のある平たい処まで行く。まだまだ上の方の丘の斜面には多くの墓地があって沢山の墓がある。私はここでちょっと一休みして眼下に広がる山口市街を俯瞰する。何とも言えない良い気持ちになる。爽やかな風でも吹いてくれると良いが、今朝は吹いていなかった。太陽は東方に連なる山際を離れて随分高く上っていた。

 

そこから帰り途へと歩を移し、不揃いな石段を下りると、又麓にもう一つの「六地蔵」がある。ここでも手を合わせて拝んだ後、歩道に下り立つのである。前の六地蔵との間隔は七十メートルくらいあるだろう。

 

帰りはこの丘に沿った舗装されていない狭い道を北に向かって暫く歩き、それから東に向きを変えて我が家に帰り着くのである。普通散歩の途中、小学生以外に出合うことは殆どない。ただ通勤と思われる自動車には何台も出合ったので狭い道路だから、なるべく右側に身をよけて立ち止まるようにした。

 

しかし今日は途中、一人だけ自分の自宅の前の道路の落葉を清掃している婦人に出合った。この女性には散歩の途中何回か出会った。家の側の道の傍らに菜園を作っていて、今はトマトや茄子がすくすくと良く育っている。三ヶ月以上前になるが、「良く出来ていますね」と声をかけたのがきっかけで、彼女に会ったらよく立ち話をする。

 

実はもう一ヶ月位前になるが、何となくこの婦人に差し上げたら読んでもらえるかと思い、『硫黄島の奇跡』の再版本を差し上げた。

そうしたら今朝のこと、たまたま会ったので挨拶すると、箒の手を休めて、「この前は有難うございました。まだ全部は読んでいませんが、戦死なさってお気の毒ですね。実は私のお祖父さんも、子供がないから男の子を貰ったのに、それは陸軍に取られて戦死しました。ところが十一年振りに男の子が生まれたのですが、この人も今度は海軍にとられて潜水艦で戦死しました。当然ながら遺骨が見つかりません」と言われたのには驚いた。

硫黄島で戦死した従兄は奇跡的に遺骨が見つかったのだが、幾多の戦場では遺骨の見つからないのがほとんどであろう。

 

家に帰り、神仏を拝んだ後、「今日は掃除をする日だった」と気づいて、やや疲れているが思いきって掃除に取りかかった。私は十日毎に室内の一斉清掃を行うことにしている。これも健康のためだと思って、多少大儀でも実行する。

先ず掃除機を階上階下の部屋と廊下全てにかけ、その後水分をよく絞ったモップで板敷きの廊下と階段を拭く。時間にして四十五分ばかり掛かる。

自らに課したノルマを終えて一安心した。汗ばんだのでシャワーを浴び、朝食の支度をし、食べ終わったら丁度九時半だった。

こうして七時から二時間半ばかり経ったことになる。そこでちょっとこれまでのことでも書いて見ようかと思い。書いたのが以上の文章である。

 

ここで私は先に話したご婦人に聞いた話のことを思い出した。折角来てくれた養子が陸軍軍人として戦死し、十一年振りに生まれた愛(いと)おしい我が子が今度は海軍の軍人となったが、海底の藻屑となった。親として何とも言えない悲痛を味わわれたことであろう。こうした話は時には聞くが、自ら体験することと、間接的に耳にする事とは雲泥の差である。 

 

若き命を国に捧げた二人の子の親として、その後の人生はどうだったか。他人には到底うかがい知れないものがあっただろうと想像するだけである。

ご婦人の話しでは、このお祖父さんのところに、彼女のお母さんが、これ又養女となられたとのことである。

 

海行かば水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば草むす屍

大君の辺(へ)にこそ死なめ 顧(かえり)みはせじ

 

今の若者はこの大伴家持の歌を知らないだろう。たとえ知ってもこの歌を戯れ歌と見なすのではなかろうか。戦時中この歌の下に多くの若者が国のために、「天皇陛下 万歳」と言って斃れた。今はその様な事は先ずあり得ない。しかし萬一我が国が外国から、不法な侵害を受けたとき、若者は国のために立ち上がるだろうか。戦後、徹底的に戦争の罪悪、軍国主義の非を叩き込まれた。そして、個人の自由を謳歌する事をもって、これこそ唯一の正しい生き方だと教え込まれた。しかし、いざという時、彼等は国を守る気概を見せるだろうかと、思わずには居れない気になった。

 

今朝もそうだが、散歩の途中私は毎日、雑草に半ば覆われた小さな墓を目にしながら、その前を何だか申し訳ないような気持ちで歩く。墓石の正面に「故海軍二等機関兵曹 勳七等功七級 原田久之墓」とあり、向かって左側に「昭和十八年七月十二日 コロンバンガラ島沖夜戦 巡洋艦神通にて戦死 原田金次次男 享年二十六」と彫ってあり、右側には「堅忠院孝空義久居士」とやはり彫ってあるのが読める。

この墓石の橫にこれより少し大きい墓がある。これには「原田家之墓」と大きく彫られてあった。戦死し息子の父親はわざわざ我が子のために一基の墓を建てたのだ。

 

コロンバンガラ島」と言って、一体何処にあるのかと思って世界地図を見たがどうも見つからない。そこで大判の講談社とタイムズ社共編の『世界全地図』を出して見たらやっと見つかった。この島はニューギニア島の右端とその上方にあるニューブリテン島に囲まれた「ソロモン海盆」の中にあるきわめて小さな島であることが分かった。

あの有名な「ガダルカナル島」の西方に位置していた。故国日本からはるか離れた南半球にあるちっぽけな島の沖で、彼は軍艦諸共「水漬く屍」となったのである。

 

この墓を建てた父親はもとより、その家族も今はどうなっているのかと思う。戦時中、戦死者の家の門前には「英霊の家」という札が貼られていた。父親にとってはそのような紙切れは、何の慰めにもならなかっただろう。息子の墓を建てた時の父親は、断腸の思いであったろう。萩市春日神社の境内に大きな「忠魂碑」が建っていたのを思い出した。いつの間にか撤去されている。戦争の記憶が薄らいでいく。

まあ何と云っても、戦いのない平和な時代が到来する事を、心から願わずには居れない。

 

                        2021・6・10 記す