yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

如何に生きるか

今月二日の朝六時頃、長男から電話がかかり、彼の妻の父親が病院で急死されたとのことだった。父親は半月前から心臓疾患で入院治療中だったが、そろそろ自宅療養に切り換えるくらいに快方に向かって居られたそうである。それが突然亡くなられたとのことで、今コロナの感染で家族は病院へ見舞いに行けない状態だから、本人も家族も、特にご夫人はさぞかし心残りであったと思われる。

 

故人は長い間教職に就いていて、最後は山口市内の小学校の校長を歴任されていた。元来山口市から島根県の津和野町へ向かう途中にある徳佐という町の出身で、そこに彼の生家もあり田畑もあって、毎週老夫婦が車を運転して農作業に行っておられ、時々薩摩芋や山芋が出来たと言いってわざわざ持参されていた。

 

実に誠実な人物で、どちらかというと寡黙であった。葬儀の時故人の長男の挨拶で知ったのだが、県内の小学校を転々として、その為に八回も転居したとか。囲碁が趣味で日本棋院の五段か六段の腕前だったようである。退職後蛍の繁殖などにも係わられたことがあり、また写真の趣味もあったが、自分を撮した写真がないので、葬儀場に飾ってあったのは随分若い校長時代のものを持ってきたとのことであった。

 

故人は昭和十二年三月生まれだから私より五歳年下である。しかし満年齢が八十四歳だから、男性の平均年齢を過ぎている。先日もテレビで報じていたが、女性は八十七歳で世界一、男性は八十一歳で世界第二位だとか。長寿国が果たしてそのまま喜ばしきことかどうかは考えものである。病院で寝た切りでほとんど自意識もない老人も多くその中に含まれているだろうから。

 

それにしても近年急に身内の者の死が重なった。特に妻が亡くなってまだ二年を少し過ぎただけのこの短い間に、彼女の弟や叔父をはじめとして私の親戚や友人など七人にも達する。哀しくも淋しい事である。人生の無常迅速なることを痛感する。

 

葬儀に参列して思うのだが、今では完全に葬儀関係の業者が萬事行ってくれるのは良いが、かなりの出費を要する。今回の葬儀への参列者はコロナの関係で、家族の者と我々親族の僅か七人であったが、スタッフは確か八人もいた。昔は近所の者が集まって世話をしていた。故人をよく知っている人々による感謝を込めた奉仕だったが、今は故人とは何の関係もない業者による完全なビジネスである。

 

昭和二十年と言えばもう七十五年の昔になる。この終戦の年九月に、田舎の医者であった私の伯父が、その時流行っていた伝染病の病人を隔離していた病舎へ往診に行った時、その場で急逝した。私はその葬儀には参列しなかったが、隣の町にある火葬場へと遺体を大八車に載せて去り行くのを、ほとんど全ての村人が村境まで見送っていた。その時私も葬送の人たちの中にいた。この後父が私に向かって、「緒方の義兄(にい)様(さま)が如何に村人に慕われていたかと言うことが良く分かった。義兄様は本当に立派な人だった、俺は本当に感銘を受けた。」と述懐したのを覚えている。

 

こうした心のこもった状景こそ、本当に死者を弔う態度のような気がする。私の父が亡くなったのは昭和五十七年であったが、その時も知人や近所の人が多く来て色々と手助けして下さった。確かに今は何もかもが便利で一見スムーズに行われているが、そこに果たして人間の情というものが入っているだろうか。その内介護も看護もさらに死体の処置までロボットがするようになるのではなかろうか。ロボット工学の進展には目覚ましいものがある。近いうちにマイカーは完全に自動運転になって、乗っているだけで目的地に安全に連れて行って呉れるようになるとか。物資の配達などもドローンによって為されるかも知れない。戦後新幹線のお蔭で旅行は非常に便利になった。その昔の「東海道膝栗毛」などといった旅の道中での旅情の楽しみは消え失せた。

 

芭蕉の『奥の細道』といった旅の良さを味わう人はほとんどいなくなった。便利さに慣れれば最早昔の人情味のある良き面は取り戻せない。人間には理智と情感の二つの面がある。それがバランス良く保たれたのが生きる上で一番良いように私は思う。

 

情感には自然との繋がりが多分に考えられる。維新前アメリカを初めとした欧米諸国が開国を迫り、我が国はこうした国々の実情を知って、東洋の中でも一番早く攘夷から開国へと国策を切り換えて、欧米の科学知識や制度の導入を決めた。そのために多数の学者や技術者を非常な高額で迎え入れ、彼等から教えを受けた最優秀な弟子達が欧米に出かけて現地で勉強して帰り、新しい日本の建設に貢献した。そのお蔭で我が国は遅ればせながら開化したのである。しかしこうして外見的には開化して独立国としての体裁を保ったが、漱石に言わせたら「西洋の開化は内発的であって、日本の開化は外発的である。内発的とは内から自然に出て発展するという意味で丁度花が開くようにおのずから蕾が破れて花瓣が外に向かうのを言い、外発的とは外からおっかぶさった他の力でやむを得ず一種の形式を取るのを指す」といった事を述べている。

 

漱石の云う通りかも知れないが、こうして日本は明治の初頭に東洋では最初に急に目覚めて進歩発展してきた。そして日清日露の戦いに勝利し、更に太平洋戦争へと歩んできたが、ここで戦いに負けた。だが今一度立ち直って科学立国として今日に至った。この先どうなるか予断を許さない。

 

私は全くの理系音痴だから勝手な事を思うが、人間の一生は長くても精々百年。この間を如何に過ごすか、これは大きな問題である。しかし多くの人は老齢に達すると、唯漫然と日を送り年を過ごして、気がついたときには死が目の前に迫って居る。先にも云ったように、是からは人間に代わってロボットが大いに活躍するだろう。たしかにロボットは計算はもとより、人間に代わって多くの事が出来ても、『万葉集』や『古今和歌集』などの詩をはじめとして、数多くの文学作品などの鑑賞、あるいは美しい自然を楽しむのに、ロボットの手を借りるということは到底無理だろう。

 

世の中は空しきものと知る時しいよよますますかなしかりけり

大伴旅人

春の苑(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花下(した)照(で)る道に出で立つ少女(おとめ)        大伴家持

明日知らぬ我が身と思へど暮れぬ間の今日(けふ)は人こそ悲しかりけれ

紀貫之

 

世の人、相会ふ時、暫くも黙止(もだ)する事なし。必ず、言葉あり。その事を聞くに、多くは無益の談なり。世間の浮説(ふせつ)、人の是非、自他の為に、失多く、得少し。これを語る時、互いの心に、無益の事なりといふ事を知らず。     (『徒然草』第百六十四段)

 

文章というものは、読む人の年齢や境遇、立場で心に響く度合いが異なる。次の有名な文章を今改めて読んで感慨一入である。

 

生・老・病・死の移り来る事、また、これに過ぎたり。四季は、猶、定まれる序(つい)で有り。死期(しご)は、序でを待たず。死は前よりしも来たらず、予(かね)て、後ろに迫れり。人皆、死有る事を知りて、待つ事、しかも急なざるに、覚えずして来る。沖の干潟、遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。              (『徒然草』第百五十五段)

 

こういった詩や文をロボットに代わって鑑賞して貰うわけにはいかない。やはり自分で味わう以外に方法はない。その為には常日頃からこういった歌に慣れ親しむことが大事である。理科系一辺倒ではなく情感を養うことも大事だと思う。戦後の教育はとかく理数系の科目を重んじた。勿論これは非常に大事だが、人間としての思いやりや責任感、さらに愛する者の為に身命を捧げるといったことは、やはり文学的な科目を通してのみ学ぶ事が出来る。マルクス主義的左翼思想や極端な市場第一主義が戦後喧伝されてきた。その為に金儲けが何より大事とばかり利己的に成り、他者を思うといった本当の意味での人間の美しい生き方を家庭でも学校でもじっくり教えなくなった。世界の全ての国々がもっとこうした真の人間性に目覚めたらこの世界は平和になると思う。

 

私は一人になって、歌や文章に表わされた日本人の心を、すこしでも知る事が出来たらと、最近つくづく思うようになった。その為に遅ればせながら唐木順三氏の『日本人の心の歴史』という優れた研究論攷を読むことにした。お蔭で知らない事を多く教えられた。毎朝五時前後に起きてこの本を午前中読んでいる。その間に朝の散歩に出かけるし、帰って食事をし、また掃除・洗濯などの家事をする。こうして何とか一人暮らしを無事に送れるのも、先祖や親戚や先生方、また多くの友人知人、中でも大学を中退してまで来てくれて、苦楽を共にした今は亡き妻のお蔭だと感謝している。

 

考えて見たらここまでよく生きた。自分でも不思議に思う。多くの友人知人は鬼籍に入った。たとえ百歳まで生き長らえたとしても後十年の命。そこまではとても無理だろう。せめて日々感謝しながら、残りの人生を送ることが出来たらと思う。

                     2021・8・6 記す