yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

独居漫談

                  

 

私は入浴を隔日に決めている。昨晩入浴したお蔭だろう、ぐっすり寝ることができた。目が醒めたので時計を見たら5時10分前、すぐ起きて洗顔し、机に向かって昨日読みかけたが、どうしても理解ができずに止めていた『文学論』をまた開いた。實は数日前に町内会の広報係の方が突然来られて、「『硫黄島の奇跡』を読みました。これを書かれた方がこの町内に住んで居られるとお聞きし、是非お会いしたくて参りました。毎月『よしき』という広報誌に「吉敷人」として何人かの方を紹介していますが、いい方が見付かりましたので大変嬉しく思います。後日貴方に宛てて質問事項をメールで送りますから、メールアドレスを教えて下さい」との挨拶だった。

 

彼は湯田という名前で、この人を紹介方々一緒に来られた年輩の女性曰く、「湯田さんは数年前の『きらら博覧会』の最高責任者でしたが、今は定年退職されてこの地区の役員として活躍されています」と言われた。見た目に若いので年齢を訊いたら、「82歳です。旧満州奉天から引き揚げました」と言われたので驚いた。私はまだ70歳を一寸過ぎた位だと思ったからである。黒いジャンバーを着てとても80歳を過ぎているようには見えなかった。やはり活動している人は年によらず元気だと思った。

 

その湯田氏から昨日約束の質問事項がパソコンに入っていた。忘れないうちにと思ってこれへの回答をしなければということが頭から抜けず、『文学論』を読むのを中断したのがもう一つの理由である。しかし実を言えば、漱石の文章になかなかついて行けないのが本音である。

 

質問事項は「生年月日」から始まって、最後の「座右の銘」、「夢」そして「若者への提言」の12項目もあった。私はこれまでこのような質問を一度も受けたことはないので、一寸躊躇したが、まあ自分の年齢を考えて敢えて最後の3つの質問に次のように回答した。

 

座右の銘」というほどのものはありません。『無事是貴人』。もう少し具体的に申しますと、『閑(しずけさ)を楽しむ』(『徒然草』にある言葉)と『則天去私』(漱石の目指したもの)。何事にも感謝。自然を楽しむ。まあこういったことです。

 

「夢」というほどのものはありません。急に一人暮らしになりましたが、人に迷惑をかけないようにしたく思います。その為には心身の健康が大切ですから、日々の生活を律するようにしています。

 

別に目標はありません。先人の文章、古典に親しみ、気が向いたら雑文を書き、できたら友人と旅がしたいです。しかしコロナ騒動で当分できないでしょう。そして安らかに死を迎える事が出来たら、最高の人生だったと言えるでしょう。私は何事も運命だと思っています。しかし「棚からぼた餅」だけとは思いません。

 

そして最後の「若者への提言」は聊か口幅ったいと思ったが次のように書いた。

「今IT産業の急速な発達で、物質文化、特に金が支配的になりました。確かに経済は大切ですが、精神的な潤いや高まりが顧みられない傾向があります。これには家庭教育が大切だと思います。結婚して子供ができたら、わが子を愛情をもって厳しく躾けることです。また、漱石は「馬よりは牛になれ」と云っています。この言葉をかみしめて、時にはじっくり我が身を省みることが大事だと思います。しかし、言うは易く行いは難しですね。

拙著『硫黄島の奇跡』には、こういった家庭教育の様子を書いて見ました。

 

こういった思わぬ雑事が入ったので、今朝改めて「第八章 間隔論」を読み始めた。しかし悲しい事に漱石の言わんとしていることが十全には理解できない。第一の理由は漱石の格調高い文語調の文体、その上辞書を引いて初めて分かるような漢字が頻繁に出てくる。もう一つの理由は漱石にとっては理路整然たる趣意であろうが、ぼんくら頭の私にとっては容易には呑み込めない。しかし実例として挙げてある英文は非常に面白く読めた。

『間隔論』の冒頭の数行を抜き書きしてみると次の文章で始まる。

 

形式の幻惑

 文学の大目的の那辺に存するかはしばらく措く。その大目的を生ずるに必要なる第二の目的は幻惑の二字に帰着す。浪漫派の材を天外に取って、筆を妖嬌に駆るは鏡裏に怪異の影を宿して、その怪異なるがために吾人をして目を他に転ずること能わざらしむ。写実派のことを卑俗に藉(か)りて文を坦(たん)途(と)に馳するは鏡裏に親交の姿を現じて、その親交なるがために吾人をして目を外に転ずるを欲せざらしむ。能わざらしむと、欲せざらしむと興致(きょうち)において一ならずといえどもこの効果の幻惑に存するは争うべからず。

 

 じっくり読めば何とか理解できるが、このような文章を初めから終わりまで、延々500頁以上にわたって書き連ねてある『文学論』である。当時の東大在籍といえども、学生たちは顎を出したようである。しかし漱石が引用した英文は流石だと思う。

 

 ゴールドスミスとロバート・バーンズの2作家の小詩をあげて「兩詩ともに少女の身を過って、節を汚し、噬(ぜい)臍(せい)の悔を残喘(ざんぜん)に託して天地に跼蹐(きょくせき)するの窮状を歌えるあり。」といって詩を引用している。先ずゴールドスミスの詩を和訳で読むと、

 

美しい娘が身を過まち

男とは誠のないものと後になって気づくとき

その嘆きをどんな魔法が慰めてくれ

その罪をどんな手だてが洗い流してくれよう?

罪をおおい隠し

恥をみんなの目にさらさぬようにし

相手の男に悔い改めさせ

その胸をしめつける手だては一つ ただ死ぬのみ。  ゴールドスミス『女の歌』

 

今度はバーンズの詩を読んでみよう。

 

  お前たち美しいドゥンの堤よ、土手よ、

なんでそんなに綺麗な花を咲かせられるのか。

お前たち小さな鳥よ、なんで歌うことができるのか

私の心は悲しみでいっぱいだというのに。

お前は私の心を引き裂く、枝にとまって

鳴いている美しい鳥よ

お前は私の幸せだった頃を思い出させる、

あの裏切った人が誠であった頃を。

お前は私の心を引き裂く、連れ合いと寄りそって

鳴く美しい鳥よ、

私もそのように坐り、そのように歌って、

自分の運命を知らなかったのだから。

私は美しいドゥンの岸辺を何度もさまよい

すいかずらがからみ合うのを見た

どの鳥も恋の歌を歌い 

私も私の恋の歌を歌った。

軽い気持ちで私は薔薇の花を一つ摘んだ、                        

その棘のある木から。

そして、私の不実な恋人も薔薇の花を盗み

棘のみを私に残した。        バーンズ『美しいドゥンの花咲く堤』

 

 私は大学の卒業論文にロバート・バーンズを選んだ。お恥ずかしいことに選んだ理由は、彼の肖像画が気に入ったからに過ぎない。バイロンにしようかと思ったがバイロンはあまりに有名だから止めた。もう一つの理由は漱石が東大の英文科に籍を置いていたとき、「英国詩人の天地山川に対する観念」という優れた論文を読んで、その中にワーズワスとバーンズを高く評価していたからである。私は東大の学生であった漱石がこんなに立派な論文を発表したことに驚いた。しかし『文学論』にこの詩についての漱石の批評があるのを知らなかった。知っていたら大いに参考になったと今にして思う。さらに加えて云うと、バーンズ詩集をゲーテもナポレオンも愛唱したそうだ。

 

ついでにこのバーンズの詩について漱石がどの様に批評しているかを見てみることにする。長い引用になるが漱石の詩に対する考えが窺えて面白い。

 

この兩詩を一時に唱しおわって、いずれが読者の心を動かすこと最も多きやと問う時、読者もし同じといわばそれにて議論の余地なし。もしゴールドスミスのほう詩情に訴うること切なりといわば、しかるかというて已まん。されども読者もしその批評を逆さまにしてバーンズの痛切なる、前者の及ぶところにあらずと主張せば、余は再びなにがゆえにバーンズは痛切なりやと問わん。読者もし囁き逡巡し、自己の感得を言語の平面世界に羅列すること能(あた)わずといわば、われ読者のために無用の弁を費やして、両者の長短を剔抉(てっけつ)するの愚を憚(はば)からざるべし。G.の詩は冷静なり、端然として窮愁を説くこと木人の舞い石女の泣くがごとし。B.に至っては満腔すべてこれ悲哀なり。日月を傾け山河を貫いてただ悔恨の二字を余すにすぎず。これ兩詩の吾人に訴うる感受の差なり。吾人はこの差より出立せざるべからず。この差より出立してその対象を二作の上に求めざるべからず。

 

長々と引用した。10数年前、私は一人の知人と「イギリスの田園巡り」のバスツアーに参加した。当初外の友人と一緒に行く予定だったが、都合が悪くなったと言って、彼の友人を紹介してくれた。それがその時初めて知り合った知人である。不思議な縁で知り合ったが、天の恵みか實に良い人物だった。彼は終戦北朝鮮から命からがら引き揚げたと言っていた。残念なことに彼はガンで亡くなった。

 

その時スコットランドのバーンズの故郷近くを訪れるかと思ったが行かなかった。しかし今こうしてコロナウイルスが世界中に蔓延している事を思うと、あの時イギリス訪問ができて良かったとつくづく思う。これからこの感染病は一体どうなることだろうか。漱石はイギリスでの留学を口を極めて不愉快だったと言っている事は『文学論』の「序」に縷々書いている。しかし帰国寸前に訪れたスコットランドでの良き思い出を『永日小品』の中の「昔」という小品に書いている。

 

漱石が訪れたピトロクリと言う処はバーンズの生まれたアロウエイとは同じスコットランドでも、かなり離れて居ることが詳しい世界地図を見て分かった。ピトロクリはエジンバラネス湖の中間に位置し、アロウエイはグラスゴーから40キロばかり下方の西海岸に面している。その時の旅ではネス湖まで行ったが其所が旅の最北地であった。それにしても神経症に悩まされていた漱石が、このスコットランドへの旅で多少なりとも癒やされたことは確かである。漱石にとって良き骨休みになったと思う。

 

                    2020・4・17 記す。