yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

太田道潅

豆が好きな者は「小忠実(こまめ)に元気よく動き回る」と言う言葉を耳にしたことがある。そう言えば父は豆が大好きで、八十四歳で死ぬ前の日まで元気にして居た。私も父に似て豆が好きで、今のところ年の割には元気に行動している。豆を食べれば元気になれるというわけでもあるまいが、私は昨年十一月にスナック豆やエンドウ豆、さらに莢(さや)豆の三種類の種を買ってきて、我が家のささやかな菜園に蒔いた。年が明け三月に入って急に成育し始めたのでビニール竹を立ててネットを張った。お蔭ですくすくと延びて白い花がまるで小さな蝶のように一面に咲いた。

 

これにやや遅れて豆の傍にある山吹の花が、豆の白い花と競うが如く咲き乱れ、まるで泡雪が降り注いだように白一色になった。従って豆と山吹の葉の緑と花の白の二色に菜園全体は染まっている。

 

しかし豆の花が中々実にならない。花は咲いても実にならないのでは困った事である。私は心配していたら、知人の奥さんが訪ねて来て、「大丈夫、花が咲けば必ず実になります」と保証されたので一寸安心した。何故このような心配をしたかというと、先日我が家から歩いて片道五百メートルばかりのところで、毎日朝の七時から野菜や花などを、山陰側の山地からトラックで運んできて、店を開いている人物が、「今年は豆の花が早く付いてどうも実がなりにくいようです」と言ったからである。果たしてどちらが本当かもう少し見守る事にしよう。

 

私は山口に来る前詩吟を習ったことがある。貴船という先生が岩国からだったと思うが来て指導された。私は生来音楽が苦手で声もよくないから、少しも上達しなかったが、詩吟の文句には気に入ったのが幾つかあった。その中でも特に良い詩だと思ったものの一つは、太田道潅の「山吹伝説」の漢詩である。

 

弧鞍衝雨叩茅茨    弧(こ)鞍(あん)雨を衝(つ)いて 茅(ぼう)茨(し)を叩く

少女為遺花一枝    少女為に遺る 花一枝(いっし)

少女不言花不語    少女は言わず 花語らず

英雄心緒亂如絲    英雄の心緒(しんちょ)乱れて 糸の如し

 

詩の意味は、太田道潅が武蔵野に狩りに出た折り、にわか雨にあい、家来達とはぐれてしまった。おりよく茅(かや)葺(ぶ)きの家があり、蓑を借りたいと頼んだが、出て来た少女が無言のまま、山吹の一枝を差し出した。 

 

少女は何も言わず、花も語らない。道潅は意味が分からず、怪訝(けげん)に思ったまま立ち去った。城に帰った後、「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき」という古歌があるということを教えられ、己の無学を恥じ、その後彼は大いに学んだ、という有名な話しがある。

 

私が以前習って吟じたときは、「少女為に捧ぐ」で、また「将軍の心緒」であった。また「少女為に捧ぐ 花一枝」の後に先の和歌を挿入して吟ずるように習った。だからこの詩の意味がよく分かった。「みのひとつだになきぞ悲しき」の中には、山吹には「実がない」と言うことを踏まえて、我が家は貧しくて貸すことのできる「蓑がない」という意味で、山吹の一枝を黙って差し出した少女の、何とも云えない切なくも悲しい気持ちを私はその時知って、この少女が今はうらぶれた生活をしているが、教養豊かな清楚な感じの若い女性だろうと想像して、この詩が気に入り、今でも時々口ずさむことがある。

 

我が家の狭い菜園の片隅に咲いている山吹の花は、七重八重ではなくて、四枚の花瓣があるだけである。それでも咲き乱れている。また豆の花もよく付いたが、果たして豆の花が実になるかと心配して、ふとこの太田道潅の漢詩を思い浮かべたのである。

ところで、今考えると不思議な符合とも言えることがあった。実は今年二月に入って、長野市に住む知人から立派な桐箱に入った酒が贈られてきた。中を開けると布切れに包まれ、太文字で「道潅」と書いたラベルの貼られた一升瓶が出てきた。そこには一枚の由緒書きも入って居た。これを読むと、道潅から六代目の孫が幕府の内命を受けて近江の草津に移住し、さらにその子孫が江戸末期に草津で酒造業を始めたと書いてあった。この外に次のような説明文があった。私はこれによって太田道潅が文武に非常に優れた人物だと知った。

 

江戸城 築城の祖  太田道潅

 

太田道潅は、関東管領方、扇谷(おうぎがやつ)上杉家の家老として、二十四歳の若さで江戸城を築城しました。乱世の関東を鎮撫する為の拠点として建てられた城は、地形や勢力図を考え尽くした立地に加えて、当時の常識を覆した、画期的で独創的な設計によって、後世まで守り伝えられる名城となりました。

城は皇居となり、江戸が現在の東京という大都市に発展しえたのも、道潅という偉大な開祖がいたからに他なりません。

また次のような記述もあった。

 

寛正六年(1465)道潅が上洛したとき、御土御門帝の勅使に武蔵野の風景を問われた時、道潅は次の和歌を献じた。

 

露をかぬかたもありけり夕立の 

そらよりひろきむさしのの原

 

  わが庵は松ばらつづき海ちかく

ふじの高根を軒端にぞ見る

  

としふれど我まだしらぬ都鳥

     すみだがはらに宿はあれども

 

これら三首の歌について調べて見ると、道潅が教養の持ち主だったと分かる。

一首目の「露をかぬ」とは、雨粒を置かない、つまり雨が降っていない。すなわち夕立が降っても、その降っている空より広くて雨の降っていない原が武蔵野にはあります。こう云って当時は田舎であった関東の広々とした風景を歌で説明した。

 

二首目は、文句なく関東の雄大で美しい風景を自慢げに語ったものである。この歌は確かに良い歌だと思う。先の由緒書きにも、明治神宮名誉宮司従二位甘露寺受長の書が載っている。

 

三首目は道潅も一寸遠慮して、自分が都を知らない関東の田舎武士だが、隅田川周辺も住むに適した処ですと、言っているのだろう。「都鳥」と言えば『古今和歌集』にある在原業平の有名な歌がある。

 

名にしおはばいざ言(こと)問(と)はむ都鳥

我が思ふ人はありやなしやと

 

この歌は業平がはるばると都を離れて関東の隅田川まで来て、都がたいそう恋しく思われたちょうどその時、白い鳥で嘴と脚が赤いのが河辺で遊んでいた。業平は船の船頭に尋ねたら「都鳥」と答えたので、この歌を詠んだのである。歌の意味は、「都という名を持っているのなら、都のことを知っているだろうから訊くのだが、都鳥よ、我が恋い慕う人は今都で無事に過ごしているかどうか」

 

なお、「都鳥」は「ユリカモメ」だと探鳥を趣味としている萩高時代の教え子が教えて呉れた。問題は道潅が彼の歌の中に隅田川と都鳥を詠み込んでいるから、彼は当然『古今和歌集』を読んでこの業平の歌も当然知っていたと思われる。

 

最後に私は山田風太郎の『人間臨終図鑑』を読んで道潅の最後の様子を知った。道潅はパンフレットにも書いてあるように関東管領扇谷(おうぎがやつ)の参謀として戦にも長けた名将だった。だから管領は道潅を目の上の瘤としていた。そして遂に道潅を自邸に招き浴室で刺殺した。道潅は絶命する前にこんな歌を口ずさんだと云われている。

 

「きのうまで、まくめうしうを、いれおきし、へなむしぶくろ、いまやぶれけむ」

 

まくめうしうは、「莫妄想」、へなむしぶくろは「へまむしぶくろ」、この場合、煩悩を包んだ肉体、と云う意味であろう。と山田氏は書いてある。

このように悲惨とも云える最後であったが、彼はその時五十四歳であった。死に際して口ずさんだ歌を見ると、彼は文武に秀でていて、なおかつ人生に達観した、実に立派な日本人だった思われる。このような死に方をしたが、今にいたるまで子孫が面々と続き繁栄していることは、以て瞑すべきことであろう。

                     2021・4・4 記す