yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

人生での出会い  

 私が山口大学を卒業したのは、昭和30年であり、終戦後10年しか経っておらず、教師と生徒との関係、また父兄との関係も、今とは随分違う雰囲気だったと思う。最初に赴任したのは県立小野田高校で、かって旧制山口高校で教鞭を取っておられた小川五郎校長が、旧制高校時代の同僚であり、当時山口大学の英文科の主任教授だった岡崎虎雄先生の口利きで、私を採用して下さった。私はこの2人の先生の御恩を忘れない。有難い最初の出会いである。

 小川校長は私が就職したその年に県立豊浦高校に転任され、その後宇部工業高等専門学校へと栄転された。初めて校長に面接した時、「授業に間に合うように学校に来ればいい。それまではしっかり勉強しなさい。若い時はしっかり勉強しなければいけない」こう言われたのをよく覚えてゐる。

 私が就職した時は小野田高校は、県内の高校では、週休2日の制度を行っている数少ない学校だったと記憶する。今思うに小川校長は旧制高校の自由な雰囲気を、出来るだけ保とうとしておられたのであろう。

 

 代わって新しく着任された校長は広島高等師範学校出身で、いわゆる教員育成の専門家なので、学校の雰囲気はがらりと変わったのではないかと思う。それでもこれまでの名残もあって、割と自由な面はあり、かなり奔放な先生が数人いた。私の場合、最初の2年間は担任がなかったので、授業のない時間に私はよく2階の図書館で1人で本を読んでいた。その時初めてトルストイの存在を知った。卒業生の誰かの寄贈だったのと思うが、『トルストイ全集』を読み耽った。私は恥ずかしいことに大学に入るまでは本を読むといった習慣は無かった。

 私は授業の時、シュバイツアー博士の話しをした事を、今日集まった教え子たちはよく覚えてゐた。当時博士はアフリカの森の聖者として黒人の病の救済にあたっておられ、世界的に知られており、ノーベル平和賞を受賞されていた。私のこの話しを聞いた生徒の1人が博士に手紙を書いたら、日本人で博士のもとで手助けされていた高橋という医師が、博士に代わって返事を下さったようである。このことを今回の集まりの責任者が自分の事だと言って語ってくれた。

 

 放課後にはグランドへ出て、生徒たちと一緒にクラブ活動の指導に当たった。指導というよりむしろ共に汗を流したといえよう。私は最初の年は女子のソフトボール部、翌年から4年間は陸上競技部、最後の年は硬式野球部に関係した。これらについては忘れがたい思い出深いものがあるが、今は割愛する。

 

 こうして3年目に初めてクラス担任になった。昭和32年に入学した女生徒ばかりのクラスだった。そのクラスを2年になっても担当した。教員になって最初のクラスだし、かなりよく覚えておる。その時のメンバーが今回集まり私を招待してくれたのである。実は12年前私が80歳になった時も、

私が初めて出版した『杏林の坂道』の記念と合せて彼女達は集まって私を招いてくれた。その時は20人集まった。今回は7人ほどであったが、お陰で楽しい時を過ごすことができた。

 最初の会も今回の集まりも、メンバーの1人が積極的に声をかけて何かと世話をしたことで、こうした同級生の集まりが可能になったのは明らかで、何をするに中心となってパイプ役をする人の存在が大事だと思う。その意味において私は彼女に感謝している。人間だれしも何かすればいいと思っても実行に移すとなると躊躇する。それと言うのも、やはり何かと面倒で時間を潰したりと大変だから。

 

 私も高校卒業の同期の最期の集まりの責任者として、山口市で2007年に会合を持ったが、会の前後の雑用には可なり時間と気を使ったのを覚えてゐるので、今回の集まりに対しての先の女性の気配りには改めて感謝する。私は今回折角だから何か記念にと思い、色紙に名言を選んで書いて、それぞれに渡そうと思い、ネットで名言集を見てみた。古今東西の非常に多くの名言があるのを知った。その中からこれならよかろうと思うのを8つ選んで筆ペンで書いた。次の言葉である。

 

 

 人生は長い旅路である 困難はただ一時の雨である

 明日の太陽は今日の雲の後ろに輝いている

 

 感謝の心が高まれば高まるほど

 それに比例して幸福感が高まっていく

 

 学ぶことの素晴らしい点は 誰もあなたから

 それを奪えないということである

 

 あらゆる人は同等である それを異なものにするのは

 生まれではなくて 徳にある

 

 学ぶ心さえあれば万物すべてこれ我が師である

 新しい事を学ぶのに遅すぎるということはない

 

 一生懸命学び続ける者だけが

 歳を重ねても若さを保てる

 

 自らも楽しみ人々にも喜びを与える

 大切な人生をこうした心構えで送りたい

 

 疲れたら休むがいい 止める必要はない

 焦らない でも諦めない

 

 こうして皆に配った後しばらくして、私の隣の席にいた女性が、手にした色紙の言葉の意味が良く分からないというので、説明してみたが、どうもうまく説明したとは思えないので、帰宅してよく考えて手紙を書いてやった。以下がその文面である。

 

 あなたに差し上げた色紙に書いた言葉について、あの時はどうもうまく説明が出来ませんでしたので、ここに改めて説明してみます。先ずあの文章ですが、

 

 「あらゆる人は同等である。それを異にするものは生まれではなくて、徳にある。」

 

 「人間は生まれながらに平等である」とはよく言われます。ところが実際世間を見たら、生まれながらに頭がいい人もおれば、金持ちに生まれた人もいる。あるいは政治家の家に生れて将来大臣に迄なるような恵まれた人もいる。だから平等でも同等ではなくて、異なるのではないかと普通に思われます。しかしそのようなものは人間が本質的に同等であると言う点からから考えたら、上辺の飾りのようなもので、その人が本当に偉いのではない。本当に人間的に偉いのはその人に徳があるかどうかで決まる。従って徳を備えて初めて本来皆同等な人とは異なった人物だと言える。まあこのような意味だと思います。中々味わい深い言葉です。

 貴女に質問されてこの名言をより深く考えることが出来ました。短い言葉でも深い意味があります。

これから人生100年の時代と言われます。好きな本を、出来たら古典を選んで、繰り返して読んでください。生きる喜びが生じます。この先元気に生きてください。

 

 こうして約2時間の楽しい集まりを終え、私は彼女たち全員に見送られ、新山口駅のバス停からバスに乗って別れた。こうして彼女たちとの最初の出会いから70年後にまた逢ったのだが、人生における出会いは不思議だと思う。

 

 実はその日の朝、この集まり行こうとして家を出て、近くにあるバス停へ行ったら、そこでバスを待っていた1人の品の良い年配の女性が、

 「今日はいいお天気ですね」と声をかけて来た。

 「そうですね昨日までは雨で、また明日も雨模様のようです。実は今日これから教え子に招かれて小郡へ行くところです」

 「それは結構なことですね」

 「私はもう92歳になります」こう言うと、彼女は驚いた様子だった。そこで私は、

 「実は、教え子たちに何か記念にと書いてやろうと思いまして」と言って、バッグから色紙を1枚出

 して見せた。そうするとその女性はつくづく見て、

 「本当にいい言葉ですね」と感想の言葉を述べた。ついでに私は皆に配ろうと用意していた色紙を全部一緒に写真に撮った1枚の紙を彼女に差し上げた。しばらくそれを熟視して彼女は、「素晴しい言葉ですね。私の友人に紹介しましょう、有難うございました」と礼を言った。

私はついでに、「どちらにお住まいですか」と聞いたら、あの団地ですと指差し、

 「私は萩市の大井から山口に来ました。濱崎の《たつち商店》へはよく参ります」との返事に、私は驚きまた何だか親近感を覚えた。

 私は山口に移住する前萩市の浜崎に住んでいて、《たつち商店》の奥さんとは亡くなった家内は仲のいい友人だったので、親しく付き合っていたからである。全く思いもかけない言葉に驚いた。

 

 その内バスが来たので我々は乗り込んだ。私は途中で先に降車したが、その時また彼女は深々と辞儀をし「有難うございました」との言葉をかけてくれた。

 こうしてみると、一寸したきっかけで不思議な出会いが生まれる。それが大きく花開くこともあれば、単なる行きずりのこととして消えてなくなることもある。人生での出会いは、つくづく不思議な縁によると思うのである。

2024・3・28 記す